共産主義者同盟(火花)

資本主義の変容と社会主義の実験(3)

斎藤 隆雄
368号(2012年5月)所収


 昨年から一時中断していたシリーズ(第1回 354号 第2回 355号)を再開したい。というのは、本シリーズの問題意識が直接的には一昨年に「資本主義はどのように描かれているか」で取り上げた社会学者たちの資本主義像の延長線にあった訳だが、本シリーズを書く中でリーマンショック、EUソブリン危機に対する独自の理論形成が欧州、とりわけイタリアで行われていることを最近日本においても読めるようになってきたことで、新たに分析する必要性を感じているからである。
 これらの新しい理論は、私がこれまで取り上げてきた消費社会の問題と密接に関わっている。いわゆるサービス労働の価値の問題、そしてそれに付随する人間の再生産の問題、更には知的労働の問題などが今日の金融資本のグローバル化と密接に関わっているという理論であり、これまで一連に取り上げてきた社会学者たちの論説とも直結するし、ソ連邦以降の共産主義像の再確定に資するはずである。
 読者にはややつながりが悪いかもしれないが、シリーズ第二回からの続きとしてお読みいただきたい。

5. 専門家たちの役割

 前回で取り上げたウプサラでの社会学者たちの集まりに結集した世界の社会学者たちは、あの時点で、どのような役割を果たしていたかを今回は考えていく。その過程で、これまで積み残してきた多くの疑問に答えていきたい。
 第一に、70年代が戦後世界経済の転換点であったという共通認識から始めよう。経済分析の分野からは既に70年代初頭のドル金体制の崩壊と変動相場制への移行という大きな転換点があったことは周知である。また、戦後ケインズ体制としてのフォーディズム資本主義がその矛盾を露呈してきた時代でもあった。しかし、その過程に至るまでにブルジョアジーは社会主義体制の脆弱性をいくつか把握していた。17年のソビエトロシア革命の最初の衝撃から彼等が学んだのは、資本主義経済の自生的弱点であった恐慌と戦争に対する、計画経済というシステムの優位性であり、それとの自らの比較であった。その中で、多様な論議が既に50年代後半から社会学者の間で交わされてきた。
 本稿での論議で注目しておかなくてはならないのは、それら社会学的論議の中に産業社会と近代化という捉え方があったことである。二つの経済体制(資本主義と社会主義)の比較において産業社会化と近代化がどのように発展して行くかを分析したことである。『脱産業社会』や『脱工業化社会』といった主題が語られ始めるのが60年代後半である * 1 。 先の論文で私が取り上げた階級の変容(ベックやバウマン、ギデンズなど)を思い出していただければ幸いであるが、平川が言うように、既にこの時点でサービス産業の発展が見通せていた訳である。基礎的なインフラ産業である重化学工業から都市生活者的なサービス部門での労働分野が拡大するであろうことは、体制の如何を問わず進展すると思われていた。その転換点が先進資本主義経済では60年代であり、敗戦帝国主義諸国においても70年代以降急速に展開されてきた訳である。
 第二には、計画経済の優位性を維持するためのテクノクラートおよび官僚層の役割についての、ブルジョアジーたちの分析である。資本主義経済を立て直すために費やされた様々な政策の中で国家による統制と産業組織の独占化は主要な柱であった。国家統制も独占も言葉の違いを除けば、計画化であり、穏やかな競争の排除である。それらを管理する為に、膨大な専門家層の連携が欠かせなくなってきていた。戦後の産業社会において、経営理論や経済理論が数学的要素を多用するようになり、情報処理と計算作業の高度化が進むのは産業社会や巨大企業を管理するために必然的に要求されるものだったからである。情報理論の先駆者であるノイマンが強烈な反共主義者であったことは、歴史的な皮肉でもある。
 これらテクノクラートは、社会学者たちに言わせれば、社会主義経済においては資本主義経済以上に必要な階層であるという、正しい認識に到達していた。そして、これらのテクノクラート官僚層は、資本主義社会におけるそれと少しも違わない共通性があるはずだと言うのである。
 これら二つの要因は、70年代までの資本主義経済の変容から両体制の社会学者たちを結びつけていったと考えられる。その論旨はさきに言ったようにテクノクラートの支配階級への上昇と彼等を巡る階級関係が資本主義を問わず社会主義を問わず現れるという指摘である。イギリスのサッチャー後に登場した第三の道の理論的リーダーであるギデンズの初期の著作もこれらの変容を捉えていた * 2
 他方、社会主義諸国圏では60年代に東欧を中心に社会主義計画経済を巡る議論が盛んに行われていた。これらの議論の系譜はM.カレツキがマルクス経済学から有効需要理論を導いた辺りから見て行かなければならないのだろうけれど、私には少し荷が重いので(今後の課題ということにしておきたい)、50年代以降の東欧経済改革とそれに対するソ連の介入という歴史的経過にその系譜を見ていこう。
 1953年のスターリンの死から、56年のソ連共産党20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判にかけての50年代中期の社会主義諸国の路線転換とそれを契機に始まった56年6月のポーランドでのボズナン暴動と同年10月のハンガリー動乱は、一連の社会主義諸国における階級闘争の現れとして特筆すべき事象であった。これが我が国での左翼運動に及ぼした影響は計り知れないし、またそれが「新しい左翼」としての運動の始まりであり、今日の我々の政治的社会的運動の原点でもある。
 しかし、この歴史的事件の理解の仕方は我々と東欧の共産主義者達とは根本的に異なったものであったことは今でも充分に理解されていないのではないだろうか。ここでは我々の側の理解については一旦保留しつつ、所謂社会主義国家における階級闘争の中でのスターリン批判とは何だったのかという大きな問題の一端を見てみたい。つまり、これが先に問うた「消費社会対生産社会」という対立軸の歴史的な推移を理解する上できわめて重要な問題であるし、またアメリカ帝国主義が仕掛けた「消費メンタリティ宣伝」の意味が理解できるのである。
 ここで取り上げたいのは、ポーランドの共産主義者たちとその周辺に位置する知識人達である。一昨年の論説で私が取り上げたバウマンはポーランドの社会学者だったが、ポーランドが第二次世界大戦後に歩んだ歴史を振り返ってみるときわめて興味深い事例に突き当たる。その中でも、消費社会と言う課題から最も注目したいのが56年の「ボズナン暴動」を契機に展開された経済論争である。オスカー・ランゲやミハウ・カレツキなどの近代経済学系統の経済学者が社会主義計画経済へ深く関わり、官僚としても専門家としても一定の役割を果たしたという事実は我々として学ぶべき事象を多く含んでいる。そして、既に多くの論戦がこれまで存在したという事実も知っている。しかし、それらは計画経済という狭い枠組みの中での論戦であったように思われるのである。ここでは、それらの経済学上の論議ではなく(不必要であるという意味ではない)、これらの知識人達が果たした歴史的位置に注目していきたいのである。
 私が今回取り上げるのは、ウォジミエシ・ブルスである。彼は、56年以降のポーランド社会主義経済へ専門家として深く関わり、様々な発言をしてきた知識人であり、また68年の3月の学生デモ以降、イギリスへ移住したという経歴を持っている。彼は今日から見て「共産主義者」としてロンドンに「追放」されたのか否かといった判断は保留しておきたい。むしろ彼が提起した「社会主義計画経済における分権化モデル」という提案に限って見ていこうと思う。
 彼の提案は、計画経済に対する市場の導入である。
 「このモデルの基本的特徴は、集権モデルとは正反対に、意思決定レベルの多層性である。」
 「ここで重要な役割を果たすのは、企業相互間の水平的連関、したがって市場的諸関係であって、貨幣的な資源配分手段が優位を占める。」(『社会主義における政治と経済』p.14)
 彼は何故このような提案をするのであろうか。それは、実務家として彼が体験した事実から来るだろう。所謂集権化モデルの限界を知っているのである。
 「…情報を処理して決定をくだす中央計画当局の『処理能力』には、とりわけ計画技法の今日の発展段階では、限界があることを忘れてはならない。その結果は、いわゆる中央決定の全部が実際に中央決定であるとは限らない、ということになる。つまり、『中央計画当局』は『報告』を全部点検することができずに、下部段階から提出された提案や申請に盲判(ママ)を押すほかなくなるのである。さらに、中央決定の諸指標の遂行と結びつけられた刺激要因−物質的誘因と地位の問題にかかわる誘因の両方をふくむ広い意味での−の影響をうけて、経済関係に多くの非公式な組織上の連鎖が発生し、このため実像は上記の図式的な像(理想的な計画経済像のこと…引用者)からさらにずれることになる。」(p.13)
 計画経済が既に破綻したことが明らかな今日では、この言説はとやかく解説する必要はないだろう。どれほど小さな国民経済であっても、すべての経済活動を管理することは事実上不可能であると言うのは明らかである。ブルスにしてみれば、この困難を解決する方法は市場しかないと考えた訳である。
 彼の分権化モデルは経済的決定を三つの領域に分けるところから始まる。第一はマクロ的決定であり、部門間の配分と投資/消費の割合の決定である。この領域は計画当局の統制下に置かれる。第二は企業間の産出構造の決定であり、人員と報酬の決定である。この領域に市場機能を導入しようというのである。第三は家計部門における個人的決定領域である。
 ブルスの表現によれば、この市場機能は「規制された市場機構」であって、いわゆる資本主義的な市場を意味してない。
 「…企業は、基本的なつりあいにかんして直接的中央諸決定が設定した枠内で、しかも中央決定の市場の諸量−これらは生産物構成、投入構造などについての企業の選択にとって独立したパラメーターの役割を果たす−の影響のもとに、行動することになる。」(p.15)
 これで見る限り、彼の提案はきわめて慎ましいものであることが分かる。彼の構想は本人自身が言うように、既にユーゴスラビアにおいて試みられている実験と相似形であるということから、当時の東欧における経済改革の一つの形を表すものであるようだ。
 ブルスは計画経済の不可能性を既に理解した上で、彼らなりのケインズ主義を立案しつつあった訳である。国家主導の指令型経済に有効需要理論を接ぎ木し、それを社会主義経済として規定しようとしていたのだが、時代は既にこの苦闘を乗り越えて進展していた。つまり、先に言った「消費主導の時代」が始まっていたのである。ポーランドの改革派テクノクラートがやっとロシア革命以降の資本主義が発見した新たなステージ(ケインズ主義)に追いついた時、時代は既に次のステージへと移行しつつあった。
 皮肉なことに、このポーランドの運命は日本の資本主義発展の段階と非常に似通っていると指摘できる。戦後、ソ連とアメリカという帝国に従属して発展した二つの小国は製造業主体のフォーディズム体制を如何に取り入れていくか、国家主導で如何に計画的に生産力を発展させていくかという意味で同様の課題を背負っていた訳である。
 70年代が如何に決定的な時代であったかは、ここから理解できる。東欧の共産主義者達がスターリン式の計画経済の限界をケインズ式の計画経済へと活路を見出そうとしている時に、帝国主義諸国ではそのフォーディズム型の資本主義構造が限界に突き当たっていた訳である。この両者が交わる所に消費社会現象が現れることになる。このフォーディズム型の生産様式は所謂大量生産大量消費というシステムであるが故に、独占・寡占企業と結びついた計画的消費構造が前提とされている。つまり、ブルスの言う個人的消費の意思決定の集権化であり、それは重層的であるとは言え、あくまでも「意思決定の集権」であることには違いない。そのシステムが既に剰余価値を生まなくなっていくのが70年代である。
 1978年のウプサラでの「消費メンタリティー宣伝」の意味は、既にアメリカ資本主義内部で勃興しつつあった新自由主義派の金融資本主義の次なる社会主義諸国への攻勢でもあったと理解できる。それは同時に日本への80年代における金融規制改革というアメリカの要求とも合致する。この時期以降、米英帝国主義の東欧社会主義諸国への金融支援(とりわけユーゴスラビアへのそれは、彼らが反スターリン主義の経済的意味を誤解していたことで、決定的な悲劇を生み出した)は、勃興しつつあった社会主義諸国でのテクノクラート層や知識人階層の突き当たっていた困難に対するアヘンの役割を果たしたということになる。
 60年代から70年代にかけて展開されていたソビエト連邦周辺国家はスターリン批判を、自らの独自な経済的自立として理解し、スターリン式からケインズ式へと展開することで社会主義像を描いてきたが、世界経済は既に大量生産構造の限界から消費社会へと変貌を遂げようとしていた。それに適合した新たな構造転換を巡って、とりわけ70年代を通じて激烈に展開していたことは間違いがない。この転換を巡っては今日、その意味を探ろうと新たな理論が生み出されている。次回以降は、その理論を検討していきたい。

脚注

* 1 欧米の学者ではダニエル・ベル『脱工業化社会の到来』(1973年)アラン・トゥレーヌ『脱工業化の社会』(1969年)レイモン・アロン『変貌する産業社会』(1968年)などが有名である
* 2 A.ギデンズ『先進社会の階級構造』1973年




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