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資本主義の変容と社会主義の実験(1)

斎藤 隆雄
354号(2011年2月)所収


 今から25年ほど前、吉本隆明が埴谷雄高とファッションを巡って論争したことを覚えている人は多い。この論争を巡って、90年代中期に大塚英志が連合赤軍の総括の中で取り上げ(「『彼女たち』の連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義」1996年)、更に昨年、平川克美が経済成長はもうない、という論議の中でも取り上げている(「移行期的混乱−経済成長神話の終わり」2010年)。前者はソビエトロシアが崩壊し、グローバリズムが全世界を席巻している時代、日本では「失われた十年」と後に名付けられる時代のまっただ中にいた時代に書かれた。後者はリーマンショック以後の世界的不況下にあって、資本主義の未来が見えない今日に書かれたものである。この一連の流れの最初に位置する吉本・埴谷論争は、現在の資本主義の変容と時代認識に格好の題材を与えてくれている。

1. コム・デ・ギャルソン

 吉本と埴谷の論争は80年代初頭のいくつかの政治的な事件を巡って起きたという歴史的な経緯がある。米ソの核兵器配備を巡る諸問題とポーランド連帯の運動など当時の世界情勢を反映した論争ではある。しかし、それとは別に二人の論争は当時の日本の労働者階級の生活を巡る問題、資本主義の変容を巡る問題として立ち現れていることがここでの主題である。
 ことの次第は周知かもしれないが、簡単になぞっておく。「アンアン」というファッション雑誌に吉本がコム・デ・ギャルソンというブランドの服を着てグラビアに登場したことから始まる。それを見て、埴谷は当時の日本の資本主義企業が造るブランドファッションが、「朝鮮戦争とベトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねに重ねた」企業が造っている「ぶったくり商品」と見なし、そんなものを着てグラビアに映るとは何たることだ、「(日本は悪魔だと叫んだ)タイの青年が、この現代思想界をリードする吉本隆明のファッションのCM画像を眺めたら、どういうでしょう。」と批判した訳である。それに対し、吉本は「高度成長の日本資本制の姿を、武器生産の輸出だけで肥大化したかのように、悪魔の色に塗りつけて、東南アジアの民衆の怨恨の叫びと短絡するのは、スターリン主義が編み出した恫喝用のまやかしの倫理以外の何ものでもありません。」と反論したのである。
 この時、吉本は次のようにも言っている。
 「『アンアン』という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOLを読者対象として、その消費生活のファッション便覧の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感とは逆さまでなければなりません。」(吉本隆明『重層的な非決定へ』p66)
 ここに高度経済成長を成し遂げた日本の労働者生活の豊かさを率直に?喜んでいる吉本がいる。商品は商品だ、そこに倫理を差し挟むな、とでもいうように。
 先進資本主義国家の労働者階級が消費市場においてどのような選好をするかという問題は、70年代から始まった大量の商品群の氾濫と、その商品に付着する政治性や倫理性、後に生産者責任という形で取り上げられるある種の背景などが意識されてきた時代の到来を予感させる。自動車が生み出す排気ガスによるスモッグ問題は当時顕在化していた環境問題に特徴的な、商品に付着する倫理性が登場しつつあった時代だったと言える。埴谷がそこを意識していたか否かは定かではないが、60年代までの批判的思想と運動の背後にはこの資本主義的大量生産と氾濫する商品群に対する危機意識は共有されたものとしてあったことは確かである。ただ、問題は吉本も言うように、それが消費市場に於ける商品群の選好の問題なのか、生産現場における倫理性の問題なのか、それを区別する必要があるのかないのか、が課題だった訳である。労働者の消費行動に対してなにがしかの基準を持ち込むことは、当時既に始まっていたが、それは日本の左翼運動の延長線上ではなかったことが、ここでのすれ違いを生み出しているように思われる。
 コム・デ・ギャルソンというブランド商品がそういう商品の背後にある倫理性に抵触するか否かは、今ではあまり意味がない。埴谷が言おうとしていたことは、日本が戦争特需で戦後の経済成長を実現してきたという事実を重きに置きつつ、そのことの倫理性を問題にしているのだから、戦後の戦争責任問題とも関わる課題を意識していたことは明らかだろう。しかし、それは当時の若い労働者階級の子弟が商品市場でブランド商品を選考することとは結びつかない。ましてや、「現代思想をリードする」吉本隆明なる思想家がそのブランド商品を着こなしてグラビアに登場することが、倫理的に抵触するというのは深読みではあっても、論争上に乗る課題ではなかった。
 現代からこれをあれこれ批評するのは安易であるので、これ以上は述べないが、問題はこの時期にこの論争が生まれるという背景は、当時の社会を語る上で重要である。戦後世界経済の転換期である70年代以降の社会的変動は、既に前回までで幾人かの社会学者が語る分析を紹介しているので省略するが、この時期の日本の労働者階級を変容させた凄まじい力を直感的に受け止めていたのは吉本隆明であったことは確かである。もはや、この時期は単なる大量生産だけではなく、個別少量生産という対応を世界の資本主義生産の先端では始まっていたはずである。このことが、生産現場と労働市場、商品市場に重大な変革を生み出していたことに、日本の戦後左翼が意識化できていなかったという事態の方が重要である。

2.大塚英志と平川克美の分析

 大塚のこの論争を見る視点は次のようである。
 「日本の大衆をいかにして解放するかが左翼運動のいたって素朴な目的であったとすれば、吉本の感慨の意味は大きいのであり、この感慨を共有できなかったことに、この時期以降の左翼の問題がある。」(p189)
 吉本が戦後の日本が豊かになったことを肯定的に語ることで提起しようとしたことが何だったかはここでの課題ではない。ここで取り上げようとするのは、大塚が「左翼の問題」と語ることが、いわゆる「連合赤軍」の彼なりの総括の延長線上にある問題だからである。彼の吉本への肩入れは、この問題が、「連合赤軍」の山岳アジトでの総括死が『二つの時代精神の交錯』だとする彼の分析から来ているからである。
 70年代初頭の商品市場の変容を女性雑誌やマクドナルドなどのファーストフードの登場と重ね合わせて、古い左翼と新しい商品イデオロギーとの対立が総括死を生み出したとするのである。
 「産業の中心がモノではなく記号的差異をつくりだす第三次産業にとって替わる。モノの価値は『使用価値』ではなく『差異』に由来する記号的価値へと比重を移す。」(p29)
 一時代を風靡した、差異化という言葉がここで登場するのであるが、特に彼が強調するのは消費市場に於ける女性の行動様式がこの差異化に特徴的に反応したとする見立てである。
 「連合赤軍事件で殺された女性たちに共通なのは80年代消費社会へと通底していくサブカルチャー的感受性である。したがって12人が殺された山岳ベースで対立していたのは二種類の革命路線ではなく、意味を失う運命にあった男たちの『新左翼』のことばと、時代の変容に忠実に反応しつつあった女たちの消費社会的なことばであり、少なくとも四人の女性の『総括』はそのような『闘争』の結果生じたものだったのではないか。」(p31)
 男たちのことばと女たちのことばの対立を、70年を境にして変容しつつある資本主義社会の移行期的な闘争であったという分析である。大塚はこの分析を、「かわいい」という言葉を巡る様々な時代考証と永田洋子の獄中記に描かれた絵から浮かび上がらせているが、それが妥当なものか否かは定かではないし、ここで詮索する必要もない。ただ、この消費文化が持つイデオロギーの重要性は注目したい。なぜなら、確かに当時の新左翼諸党派の運動は武装闘争と党派闘争の必要から地下活動に入っていた時期であり、活動家たちの生活が直接市民社会と対峙し、生活の全局面が闘争課題であったはずであるからである。我々自身も、非合法活動を経験することで、街頭闘争での課題とは異なる組織問題を抱えることになった。そして、それらの経験から今学んでいることとは深く関係しているはずである。
 そこで、この大塚が指摘する「闘争」なるものを振り返ってみると、彼が執拗に拘る「消費社会的ことば」ではなく、ほとんど分析されていない「男たちのことば」にその重大な課題があることを見いだすことができる。「意味を失う運命にあった」と大塚が言うイデオロギーとは先の論争に見いだす、埴谷のイデオロギーであり、それは同時に崩壊したソビエト社会主義とも連動するイデオロギーでもあると言うのだろう。
 ということは、大塚が「二種類の路線」論争ではないと言い切ったにもかかわらず、これは社会主義対資本主義の闘争だったことになりはしないだろうか。彼は意図的にかどうかは分からないが、男たちのことばを分析していないのは何やら意味深長である。
 しかし、ここでもう一つの分析を見てみたい。平川である。彼の吉本・埴谷論争への視点は次のようである。
 「この論争を今読むと、何だか懐かしい気分になる。たかだか30年しか過ぎていないが、もはやこのときの二人の対立点が何であったかは、今の若い人たちにはよく理解できないかもしれない。しかし、わたしには、この対立は手にとるようにわかる。わたしの中に、埴谷雄高が持っていたのと同じ旧左翼的な倫理観の残滓があるからである。」(p92)
 彼は幾分かは埴谷の言い分を理解しながらも、この時、時代が変わったのだということを述べている。彼は自身が東京の町工場街で生まれ育った経歴を述べながら、労働者たちの「働くことと生きることが同義」であった時代を思い浮かべている。そこには消費という世界が入り込む余地がなかったのである。高度成長期の都市では、地方から集まった若者たちが狭いプレハブの二段ベットで寝起きしながら、朝から晩まで町のちいさな工場で働いていたのである。そこでは働くことが生きることであり、職人技の労働者が黙々と働いていた時代であった。そしてその結果、日本は変容したのである。そのことを数字を挙げて彼は列記する。再録してみよう。
 「1960年に3万7708円だった可処分所得は、70年には10万円の大台に乗り、更に80年に30万円、90年には44万円にまで上昇していく。……さらに顕著なのは支出の内訳だろう。この間(80?90年)の勤労者世帯のひと月あたりの支出を見てみると、食料が6万6245円から7万9993円に20.8%上昇したのに対して、教養娯楽の支出は2万135円から3万1761円へ57.7%も上昇し、……もはや、食うために働いているのではなく、遊びや教養・教育のために働いているということが数字の上でも明らかだろう。」
 平川に言わせれば、この驚異的経済成長の中で労働者階級の生活感覚は破壊的な勢いで変容してきたということなのである。つまり、
 「生産が主題だった時代が終わり、消費が主題の時代が始まったのである。」(p97)
 と。この視点は先に挙げた大塚の視点と同一であり、吉本が取り上げようとした視点とも重なる。がしかし、それは変容の姿を忠実に捉えたかもしれないが、時代の底流に流れていた主題であったのだろうか。消費イデオロギーが埴谷と連合赤軍の男たちのイデオロギーに勝利したという認識が現在の時代認識として正しいのだろうか。
 平川が埴谷に郷愁を感じると言う時、単に彼が日本の高度経済成長期を経験していた世代であったからだけだろうか。ベックやギデンズが言うような「伝統社会」という時代認識でかつての「労働者階級が生きていた時代」と規定していいものだろうか。平川は、この感覚を60年安保闘争前後の時代と、その時生きた人々の感覚として探ろうとしている。彼はそれをノンフィクション作家の小関智弘への取材から次のように語る。
 「会社のためでもなく、家族のためでもない、社会のためでもない。ただ、目の前の機械、加工を待つ鉄の塊、目の前の『仕事』がなにものかからの召命であるかのように、徹底的に取り組み、没頭する日々。」(p69)
 と当時の労働者の一側面を描いてみせる。この感覚を彼は「日本的労働エートス」と名付けて、「労働は神と直結した神聖なもの」であった時代がかつて日本にはあったと描いてみせた。この感覚から来る倫理観こそが、彼が埴谷に感じた同情でもあったということなのであろう。そして、わざわざ彼はマックス・ウェーバーやベンジャミン・フランクリンを例に出して、西欧的労働観(貨幣との等価交換というロジック)との違いを強調してみせる。
 生産を神聖なものと見なす倫理観こそが、労働者階級の倫理であり、消費は明日もまた働くことができるための最低限の行為である、という感覚は同時に日本の左翼運動の労働観でもあったし、非合法闘争下における諸党派のストイックな倫理観でもあった、と言えないか。その意味で、大塚の連赤総括の視点は大きく外れているとは言えないかもしれない。だがしかし、その感覚は資本主義の精神ではないことは確かであるものの、労働者階級の精神であると言えるのであろうか。消費社会的なことばと生産社会的なことばとの闘争がそこにあるのか、資本主義的精神と社会主義的精神との闘争がそこにあるのか、あるいは社会学者たちがいう伝統社会と近代との闘争がそこにあるのか、問題はそういう風に立てることができる。
 高度経済成長期以降の日本の革命を考察する時、資本主義の変容を無視することはできないのは当然としても、社会主義・共産主義の変容もまた無視することができないと言える。その意味で、成熟期の資本主義社会での社会主義的実験と歴史的な社会主義国家の実験をも含めて我々は考察を迫られている。

 参照文献:関川智弘『春は鉄まで匂った』(現代思想社・現代教養文庫1993年)
      M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫) P43-56


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