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経済成長(2)―反原発運動を巡る諸問題―

斎藤 隆雄
363号(2011年12月)所収


 前回は、国内経済成長が世界経済を前提とする限り望むべくもないという当然のありふれた現実を確認した。だが、それでもまだ国内経済成長が可能だという論議をする人々がいる。その中でも、今回の原発事象を踏まえた再生可能エネルギーへの転換をその起爆剤とするという論議はもっともらしく聞こえる。今回はこれらのいくつかの選択肢を検討してみよう。

2. 産業構造の転換

 グリーン・イノベーションとは再生可能エネルギー分野の生産が原発産業分野の生産に取って代わることである。かつて石炭から石油への産業構造転換を激しい階級闘争を経て実現した日本のブルジョアジーには、一見可能であるかのように見えるが、二つの意味でこれは大いなる勘違いであることが分かる。一つは、原発関連の産業規模はかつての石炭・石油関連産業の規模とは比べ物にならないぐらい小さいし、また原子力産業そのものが派生的に生み出す生産物は、石油と比べて比較にならないのである。原子力自動車や原子力繊維などないことを想起すればいいのだが * 1 、更に原子力が生み出す産業廃棄物は再生不可能どころか処分そのものに膨大な費用を要する厄介者であることは周知である。また、第二に戦後産業構造転換が可能であったのは戦争による壊滅的な破壊によってスクラップそのものが既に進んでいたという事実である。だから、ビルドの方向性が問題となっただけであった。しかし、現在はスクラップそのものから始めなければならない訳であり、そのスクラップが廃炉という非生産的な事業を伴い、大量の放射性廃棄物を生み出すという事実の重みがある。
 再生可能エネルギー産業は、現在のところ太陽光発電、風力、地熱などといった小規模な設備産業である。また送電網の効率化を電子機器でコントロールするというアイデアも提案されているが、どれも大規模な設備投資をする必要がない産業である。つまりかつての石油産業のように産業の裾野が広く、大規模な生産設備を必要とし、国家事業として相応しく利権が生まれ易い産業ではない。今日の独占資本と大ブルジョアジーにとっては旨味の少ない事業なのである。だからこそ、彼らはなかなかこの分野に手を出そうとはしないし、既存の原発産業の旨味から逃れられない。
 グリーン・イノベーションとは、技術革新にその革新性がある訳ではなく、産業資本主義以降の巨大化するエネルギー産業への革新なのであるから、石炭から石油への転換とは質が異なる転換となることは確かである。とういうことは、近代以降の大量生産大量消費による効率的な利潤極大化の道から外れるということでもある。つまり資本主義の原則からは外れている訳である。このことを、これを提案している人々が理解しているのかというと、かなり怪しい。
 元来、原子力利用というのはその性質上、大規模大量生産と消費に適合し、中央集中型のエネルギー体系である。そしてそのリスクも大規模で破滅的な訳である。今回の福島の事象はそのことを遺憾なく証明したことになる。ある意味で言えば、核力を利用する技術以外はすべて再生可能であるから、原子力から脱出するということの意味が問題なのであって、再生可能エネルギーが問題なのではないということである。
 既に多くの論者が語っているように、原子力利用というのは現代の人類の生産構造の最も生産的な地域でのエネルギー資源であることは確かであり、19世紀の産業資本主義の時代以降、現代に於ける最も高度な生産構造を持った社会に付属する必須の技術である。最初に米国において兵器としての原子力が生まれたのは必然であったし、蒸気機関が英国で生まれたことと同様にその時代に最も生産力の大きな地域から生まれるものが、この種の技術である。更に言うならば、これらの技術はそれを支える産業構造から生まれるものであり、原子力は20世紀の帝国主義的な資本主義生産構造から生まれた正統な嫡子なのである。
 だからこそ、グリーン・イノベーションとはその構造からの脱出という意味合いで論議しなければ、およそ本当の意味でのイノベーションではないということである。ところが、世に流布しているグリーン・イノベーションはこのことを意図的か否かは別としてほとんど視野に入れようとはしていない。
 では、グリーン・イノベーションが当面期待できないかというと、必ずしもそうとは言えない。問題は先に指摘したように、巨大設備産業である独占資本を基礎とする現行の産業構造をスクラップできるかということである。これはほとんど現在の資本主義的生産様式を破壊することだと言うに等しい。ただそれは、商品生産を廃棄することでもないし、当然貨幣を廃棄することでも、国家を死滅させることを意味する訳でもない、ように見える。問題はここにある。資源と技術を独占する巨大設備産業を動かしている世界的な企業と金融機関が分散型で小規模なエネルギー資源構造へ転換できるかというと、できるはずではあるものの、その企業と金融機関の存立基盤との矛盾によって早晩崩壊せざるをえない。しかし、この転換に要する長い中間項に多くの人が淡い期待をかけていると言って良いのではないか。

3.自由貿易

 原発と経済成長にまつわる構造上の仕組みを理解しない者は、様々な幻想を抱く。もう一つの構造上の幻想に「反自由貿易」という構想がある。現在、国会でTPP参加の是非について論議が行われているが、このことと現在の成長問題との関係を説明する理論はどこにも存在していない。エマニュエル・ドットは自国の経済学者が無能力だと批判して、次のように言う。
 「彼らものを考える諸階層は、自由貿易がいまや社会的害悪そのものになったことに対して、プロレタリアートよりも、はるかに知的に無防備なのである。労働者たちは、中国の競争によって賃金が下落し、内需さえも下落することを理解している。」(『デモクラシー以後』p.194)
 フランスでは経済学者は社会学者よりは能力が低いとドットは見なしているようであるが、総じて知識人階級(曰く「ものを考える諸階層」)が知的に無不防備ぐらいで済むのなら幸せである。日本では、知的に無能力であると言わざるを得ない。それはさておき、彼は続けて言う。
 「労働と資本の市場を統一(グローバリゼーションのこと、すなわち自由貿易)するなら、世界規模で猖獗を極めている不平等のレベルを、各国の内部に導入する結果に終わる、と。まさにそれゆえに、自由貿易は、先進国の内部に第三世界並みの貧困の吹き溜まりをあちこちに作り出すのであり、また第三世界の富裕者は、所得に関しては、当該国民の大部分からますます遠ざかっていくのである。」(同p.196)
 前回に述べた日本経済の状況を簡潔に再言しているドットのこの言い回しは、では保護貿易によって自国の経済を守る事ができるか、ということの説明にはなっていない。ただしかし、彼は1933年にケインズが書いた『国家的自給』という論文を引っ張りだしてきて、当時のヒットラー・ドイツが強いられた経済的孤立から目覚ましい経済成長を成し遂げ、膨大な量の失業者を産業構造に吸収したという事実を控えめに提示する。自国民を国際競争の荒波に曝し、失業の憂き目にあわせるよりは、保護貿易による国民経済の防衛の方が数段優れた政策であるという示唆である。
 確かにそれは名案である。ただし、短期的には。
 周知のように、ヒットラードイツの復興は国内資源の確保によってなされたのであり、それが不足するや、たちまちのうちに帝国主義的侵略を必然とした訳であるから、トッドの言う保護貿易は既存の産業構造を前提とする限り一時しのぎでしかないことは歴史が証明してくれている。問題はここでもグローバリゼーションを必然とする産業構造である訳である。ケインズの言う「自給的経済」が彼の不均衡経済理論と国家の役割とのバランスによって成り立っているとするなら、たとえ管理された通貨による再配分投資に成功したとしても、それは当時のポンド通貨圏を前提としたものであることをトッドは見逃している。
 保護貿易にしろ、自由貿易にしろ、今日のように企業が世界中を股にかけて生産販売網を張り巡らせている以上、このことを前提に論議する限りは選択の余地は限られたものでしかない。とりわけ、グローバリゼーションの荒波に曝されている国内の労働者階級が自らの現状を守るために保護貿易主義の選択をするなら、連合を先頭とする海外展開企業の労働者層を説得するか、追い出すかしなければならないだろう。トッドは労働者階級の利害を国家という枠組みを前提として論議するという近代特有の致命的欠陥に気付いていないのである。 * 2

4.技術革新

 イノベーションという魔法の杖が成長の鍵だという論者がいる。最後にこの点を論じてこの議論を終えたい。
 イノベーションという言い方には随分と幅がある。これを成長論議に絡める人たちはオーソドックスにシュンペーターから論じる者から、今流行の金融技術、規制緩和を含める者もいる。原発論議で言うと、資源開発技術の新しい方向性を問題にする者が主流だ。しかし、ブルジョアジーたちが言う革新とは新しい製品の開発であったり、生産方法の合理化であったり、要は新製品による先行者利益の獲得という点に重きを置いているのであって、相対的剰余価値の追求でしかない。
 また、資源開発の技術の革新から見ると、既に核分裂技術のレベルでは限界が明らかになってきていることは既に述べた。科学技術が人々に無限の福音をもたらすとしたかつての科学観は過去のものとなっている。1970年代に指摘されていた「成長の限界」は今や現実のものであり、リスクと背中合わせの危うい代物と化している。
 我々が生きている現代世界のイノベーションは、人々の利益と直結するものではなくなっていることを確認しなければならない。例えば、金融技術の革新がほとんど詐欺商法の革新であったりするのは一つの発見であり、それはイノベーションではあるが、金融資本に福音をもたらすだけなのだ。遺伝子操作技術の革新が製薬会社の利益とその恩恵に授かる高所得者層に直結しているように。
 科学を資本の科学と人民の科学に二分する考えもかつては存在した。一方で、最先端技術は裾野の広い応用を生み出し、いつかは広い人々の利益となるという例の「しずく理論」と同じ論理を展開する論者もいる。そのどれも一部の真実でしかない。科学が誰の利益になるかと問い、その誰かを選択肢とする分類法は科学がどのような機縁で生み出されるかを問わない論法である。科学は常にどの時代にあっても最も支配的な階層の人々が生み出したし、彼らの利益を反映していた事は疑いない。イノベーションを生活の仕方の新しい方法であると広義に捉えてみると、自ずと技術革新が価値中立ではない事が理解できる。「人民の科学」でさえ、その前提となる生活の方法が資本という狭義の経済生活に限られていたなら、結果は悲劇的なものになる可能性を排除できない。
 そして、そのことを踏まえて現実に目を移せば、イノベーションが成長の鍵となるかという問いを検証すれば二重の意味で否を応えなければならない。なぜなら、一つは成長論者のいうイノベーションが国内雇用を生み出すと言う論法は既に事実として否定されているからである。企業の生産技術の多くは既に国外に移転されているし、国内賃金のレベルが高い以上どんな技術でさえも国内雇用に結びつくことにはならない。確かに、海外での雇用を生み出すことはありえても、である。
 更に第二にイノベーションは生産性を高める限り、雇用を減らすと言うことが起こりえる。国内では生産が需要を凌駕してデフレーションを生み出している現状から見れば、ますます雇用を減少させ、賃金を下落させ、資本主義の法則性を貫徹させることは火を見るよりも明らかである。
 元々、イノベーションとは資本の論理であり、その利害の下でしか機能しないものである。かつて英国で始まった産業革命が英国労働者を豊かにしたかと言えば、歴史を紐解くまでもなく過酷な囲い込みと工場労働を生み出しただけであった。先進国と呼ばれる資本主義国家群の労働者階級が相対的に豊かになったかに見えたのは、帝国主義期の一時期だけであったという事実から目をそらしてはならないのである。

 経済の成長という資本家の論理に目を奪われる前に、我々は生活の成長を論じなければならない。原発事故から学ぶべきは足下の労働者階級の生活の現状である。大多数の労働者が地域経済の中で生活し、迂回した経済政策(雇用保障や健康保険、年金、補助金、政府融資など)の下で管理されながら暮らしている。自らの生活手段のほとんどから引き離され、自らの運命さえ他者(資本家と官僚)にゆだね、そのことをさえ意識できない現状に追いやられている。原発事故はそのことをわずかではあるが気付かせてくれた。資本家と官僚は今必死に労働者階級が目覚めないようにと様々な論理を駆使し、メディアを通じて幻想を振りまいている。彼らの論理を今ひとつひとつ検証する作業とそのことを共有し現実において批判する自身の労働と政治を作り出さなければならない。

脚注

* 1 仏では、放射性廃棄物を利用したコンクリートが生産されており、米では劣化ウラン弾という兵器生産に利用されているが、それによる健康被害は容易に想像できる。
* 2 TPP問題については、前月号の渋谷論文を参照していただきたい。農業問題については今回の成長論議と異質な論点であるので、機会を改めて論じたい。


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