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経済成長(1)―反原発運動を巡る諸問題―

斎藤 隆雄
361号(2011年10月)所収


 反原発運動に限らず、いろいろな分野で「成長」を巡る問題が取り上げられている。ブルジョアジーたち(実業界)も、東北地震と津波、原発-電力問題ばかりではなく、中東民主化運動、EU財政問題、アメリカ財政危機と矢継ぎ早に起こっている世界的な政治経済危機に対して、「経済成長」を呪文のごとくに繰り返し口にしている。しかし、危機を救済すると称した一連の論議は当該の「経済成長」という事象の根本的な意味を理解せずに、時には誤摩化し、時には転倒した意味を付与しながらご都合主義的に用いられている。また、反原発運動に関わってもこの問題の解明は充分とは言えない。否、むしろ混乱していると言っていいだろう。今問われているのは、この問題を正面から問い返すことであり、長い共産主義運動の歴史的な総括としても緊急に論議すべき課題だと考える。

1. 錯綜する論拠

 経済成長を求めることと、成長によって起こってくる事態とは違うが、今盛んに議論になっている点は、国内電力資源が不足していることによって生産活動が停滞し、資本が海外移転して国内での雇用が確保できないという「国民的問題」である。いわゆる「産業空洞化」問題。これは真実であろうか。
 更に、原発の一斉停止を求める運動論もこの空洞化問題への正面からの解答に挑んでいるようには思えない。既存の化石燃料発電で充分に賄えるという隠された事実があるにはあるが、このことと経済成長とは直接に繋がっていないばかりか、運動内部にはまだ経済成長についての合意さえ存在しないと見える。
 また一方で、リーマンショック以降の経済成長を巡る議論の中には成長を疑問視する論説も生まれてきている。07年金融恐慌の根底にある問題は金融資本の闇雲な拡大であったという視点がそれである。だが、他方では日本の90年代以降の経済停滞が格差拡大を生み出したという論説もある。一部には「90年代後半以降の自殺者の増加は明らかに成長なき経済の結果」だという者もいる有様だ。経済成長がはたして意図してできるものなのか、それとも経済的自然現象なのかさえ合意がない状況である。
 「成長」を巡る論議は今どこにあるのか、錯綜しているのは頭の中だけではない。現実の事態そのものが錯綜している。それに応じて我々が目指すべき社会・経済・政治構想が錯綜しているのだ。
 先ずは、大ブルジョアジーを代表して「経団連」の言い分を聞こう。
 『成長を通じて豊かな国民生活を実現する』というのが彼等のスローガンである。最近の声明文から拾い読みしてみる。
 「経済界は、この国難を乗り越え、民主導の経済成長を実現する。そのため、未来都市モデルプロジェクトの推進や、エネルギー・環境技術の開発・普及等の各種イノベーションの促進、観光立国の推進等を通じて、新たな市場を創造し、成長を加速し、雇用を創出する。また、産学官が連携して、企業の国際的な事業展開を担う意欲と能力を持つグローバル人材を育成する。」(アピール2011-新生日本の創造にむけて)
 市場、成長、雇用と技術革新がすべてである。「成長なくして雇用なし」というプロパガンダがここから垣間見えるが、ではどんな雇用かというと、「国際的な事業展開」によって「新たな市場」(国内ではない)を開拓して、企業が「成長」し、「グローバル人材」の「雇用」を創造するのである。ここからは格差拡大によって三流市民になったと言われている非正規労働者のことは念頭にないことが明らかだ。彼等の言う「成長」とは「空洞化」そのものである。
 上記の文面から伺えるように、大ブルジョアジーにとって国内にはもはや成長の余地がないと正直に吐露せざるを得ない状況がある訳である。では、何故彼等には国内に成長の余地がないと見えるのだろうか。このことを理解する為には幾分回り道をしなければならないが、簡潔に要領よくまとめられている文献があるので、それを参照しながら考えてみよう。
 「…グローバル・ジャングルに住む企業たちは、資源価格の上昇がもたらすコスト増に見合って、製品価格を引き上げることを許されない。地球規模での競争がそれを許さない。機械的にコスト増を製品価格に転嫁するような生産者には、グローバル・ジャングルのなかで生きていく資格がない。かくして、資源価格が上がっても、製品価格は上げられない。」(浜矩子『スラム化する日本経済』p.62)
 付言するなら、資源価格が上がるのは新興国の経済成長に原因がある。更に、200兆ドルにのぼる金融資産が世界中を駆け巡り資源価格をつり上げてもいる。では、国内大ブルジョアジーはどうするのか。
 「製品価格を上げられない企業たちは、どうするか。…彼らはヒトの値段にコスト抑制のためのバッファー役を担わせる。下方柔軟化している賃金をさらに下方に追いやることで、資源高・原材料高の分を相殺しようとするのである。
 彼らが冷酷無比な搾取者たちだからではない。グローバル・ジャングルの掟が、彼らにそうさせるのである。資源価格が上がっても、製品価格は上げられない。製品価格を上げられなければ、ヒトの値段をさげるしかない。これがグローバル・ジャングルの抗いがたい論理なのである。」(同)
 本誌でこれまで何度も言及してきた経済の原則がここにある。経済の成長とは資本主義にとっては利潤の最大化である。利潤(剰余価値)は可変資本からしか生まれない。不変資本の価格上昇は利潤を圧迫する。道は二つしかない。資本の有機的構成の高度化か、賃金の下落か。前者は企業が巨大であればあるほど、より巨大な設備投資を要求され、その速度は原材料価格の上昇の速度についていけない。最も手っ取り早いのが賃金の下落なのであるが、巨大独占企業には強力な労働組合が存在し、正社員たちは自らの既得権を手放そうとはしないが故に、非正規雇用が拡大する。ここに労働者階級の決定的な分裂が生じる。
 更に、労賃の下落は国内総需要の縮小を生み出す。製品価格を上げられない事情である。上げればますます売れなくなる。そこに大ブルジョアジー資本の避け難い海外移転が生まれる。安い賃金を求めて新興国に生産拠点を移す。それだけではない。国内市場の拡大が望めない以上、新興国の「新たな市場」を求めて飛び出していく。「グローバルな人材」が必要な理由がここにある。「空洞化」はだから必然なのである、資本主義という前提の下では。
 企業にとって「成長」は必要か否か、と問う問題ではない。それは必然なのである。成長がなければ、彼らは市場から退場しなければならない。成長を止めるとは、単純再生産の世界であり、日々陳腐化していく製品の世界にあっては、それだけで製品は売れなくなる。生産性の上昇と技術革新が求められるのはそのためであり、それがまた利潤を圧迫する。より大きな不変資本とより少ない可変資本の下では、更なる搾取率の上昇が求められるからである。
 グローバル経済を前提とする限り、この法則はどこまでも貫徹される。成長を止めることはできないし、他の条件が変わらない前提では、もし成長を止めるような政策が発動されれば、更なる収奪が待ち受けていることは間違いない。なぜなら、国家財政の即時の破綻と海外資本の日本資本への簒奪、デフォルトが待ち受けているし、国際機関の管理下に日本経済が置かれることになるからである。
 こういうシナリオを杞憂という人がいるかもしれないが、そうではない。問題は、このシナリオが常に日本のブルジョア達の頭の中にあるということであり、同時に日本の政治家や国家官僚たちの頭の中にあるということである。日本のノーメンクラツーラを告発して有名となった経産省の官僚であった古賀茂明が自著で、震災後の日本経済を想定して、こう述べている。少し長いが引用してみよう。彼の考えがよく理解できる。
 「…日本がたどる最悪のシナリオは次のようなものだ。…公共事業で経済成長の芽が吹くかといえば、はなはだ疑問である。…仮設住宅をつくったり動かしたり、あるいは人が住まなくなったところに道路や橋をつくったりしても、なんの生産性も生み出さないから経済成長も期待できない。ということは、税収はどんどん落ち込んでいく。…支出がますます膨らんでいき、それをまかなうためには増税せざるをえなくなる。そうやって税金がどんどん上がっていけば、逆に消費はどんどん冷え込んでいく。…成長によって企業や個人の収益や所得が向上し、結果として税収を増やす−それが本来のやり方である。」(古賀茂明『官僚の責任』p.36-39)
 つまり、経済成長がすべての根本なのであって、これなくしては何もできないということを言いたいのである。震災に対する復興事業については彼なりの構想があるのだが、ここでは触れないでおこう。要は、経済成長が実現できるような公共投資をせよと言うだけであるから。すべてが経済成長に収斂する。
 そして、この最悪のシナリオには後半がある。成長できず、増税で消費が落ち込んだ日本に待ち受けているものは何か、である。
 「…国際マーケットが日本を見放す。国債が暴落し、いまの円高から一気に超円安になる。その結果、輸入品の価格がべらぼうに高くなり、インフレを起こす。当然、貨幣価値が一気に下がるだろう。…国内には競争力のある企業が殆ど残っていない状況になっていて、円安のメリットはほとんど期待できない。…給料は変わらず、モノの値段だけが上がっていくのだから、生活は苦しくなる一方になる。…昔ならば、たとえ輸入品が上がっても、米や魚、野菜などは国内である程度まかなえた。が、日本の食料自給率はいまやカロリーベースで40パーセント。米だけは一年間はなんとかなるだろうが、肥料が輸入できず、翌年は栽培できない事態も充分起こりうる。/となれば、餓死者が相当数出るのは必至。むろん、食料だけでなく、灯油やガソリンも高騰するから、寒冷地では凍死者もたくさん出るのではないか。そして、そのようなしわ寄せはまず、貧しい人を襲うのである。」(同p40-41)
 経済成長しなければこうなりますよ、というシナリオであり、一時の左派の危機論と同形でもある。さすがに経団連はそこまでは言わないが、考えていることはほとんど同じであると考えていいだろう。古賀は日本のことを憂いて中央官僚の腐敗を告発しているが、そしてそれ自体には間違いはないのかもしれないが、危機脱出の処方箋は経済成長のみであるとするところは、同じ穴の狢であると考えて良いのである。
 では、最初の疑問に戻ってみよう。何故、ブルジョアジーには国内に成長の余地がないように見えるのか。
 もはやはっきりしている。国内産業はこの間の震災を経験した後でさえ生産過剰なのである。需給ギャップが解消できないのは、先ほど説明したように需要の原資たる可変資本への資本投下不足であり、世界経済に組み込まれた日本資本主義が陥っている負の連鎖の結果なのである。(これはこれまでの経済論議の系列では「過小消費論」的危機ということなるが…)日本経済が世界経済と今日のように瞬時に繋がる構造になっている以上、もはや日本に成長の余地すなわち利潤の源泉は見当たらないのである。せいぜい、更なる賃金の切り下げしか方法は見当たらないというのがブルジョアジーの言い分な訳である。それは、この間の彼らの嘆きを表している「失われた20年」という言葉がそれを示しているが、「上手にやれば、失われなかったのに」というのは真っ赤な嘘で、真実は初めから何もなかったのであり、どのような方法であっても彼らには利潤の源泉は見つけようがないのである。
 産業集中(企業買収)と非正規雇用で利潤を確保してきたブルジョアジーは国内への再投資ではなく、海外への投資へと拡大していく中で、「成長が必要だ」と、思ってもいないし出来もしないことを言いつのるのは何故か。それは、古賀等が言うように何らかの方法があると幻想を振りまく事であり、それによって個別企業への政府の利益誘導と癒着を覆い隠すためなのである。国家官僚がもっと国家のことを憂えれば、いい方法が見つかるとか、無駄な規制を緩和すれば成長は実現するなどといった類いの話はすべて現実の日本経済を法則性ではなく、人為的な問題であると思わせる隠れ蓑でしかない。つまり、「国内成長が必要だ」ではなく、「我が社の成長が必要だ」ということに尽きる訳である。
 では、その結果何が起こるというのだろうか。賢明な読者であれば察しがつかれることだろう。雇用問題の解決どころか、更なる雇用問題の悪化であることは明らかである。
 しかし、おそらく彼らはこう言い返すだろう。イノベーション(技術革新)があれば解決する、と。1940年代後半の日本経済が戦争によるスクラップ化を契機に集中的な傾斜投資によって、まさに経済成長を実現したことを例として挙げるかもしれない。聞く所によれば、グリーン・イノベーションを提起して成長論を論じる者もいるらしい。更には、自由貿易を制限して現代版鎖国政策が経済を救うという論議もある。
 次回は、これらの諸論議を検討していこう。


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