共産主義者同盟(火花)

支配的思想批判。少々。−プラグマティズムを中心に−

流 広志
269号(2004年1月)所収


 冷戦崩壊後の現代日本の思想状況をごくおおざっぱに大きな流れだけを見るならば、90年代に流行したポスト・モダニズムの終わりと知識人小サークル化あるいはサロン化やポスト・マルクス主義の終焉と、支配的思想としてのプラグマティズムの隆盛が指摘できる。
 プラグマティズムの持ち主には、自由主義史観の連中が持ち上げた故司馬遼太郎や田原総一郎氏などがいる。司馬氏は、その作品で、実利の追求や個人や合理的精神を高く評価している。田原氏が実利・個人・合理主義を基本的価値として重視しているのは発言で明らかである。田原氏は小泉首相を個人として支持しているが、その小泉首相は、英米流の個人主義・合理主義・実利主義を体現しているのであり、思想的に共通性がある。これらを含む現在のいくつかの流行思想を概観的に大ざっぱに批判するのが本稿の目的である。

自衛隊派兵論にも現れたプラグマティズムのいくつかの批判

 「新しい歴史教科書をつくる会」がプラグマティズムを思想的基礎にしているのは、その歴史・公民教科書を読めばすぐに分かる。それは、福沢諭吉の個人主義・合理主義・実利主義を高く評価しつつ、同時に個人や合理主義や実利主義を超えたもの、国家や郷土や家族などの共同体のための自己犠牲や奉仕を高く評価することに現れている。前者は自愛であり、後者は自愛の延長としての愛国心である。これは、自らが国家支配階級である階級の自愛の思想に他ならない。被支配階級にとって、支配階級のものである国家は自我の延長ではないし、自愛の対象やその延長ではありえない。
 自衛隊派兵をめぐる議論では、例えば、小泉総理の説明は、『日本国憲法』前文の人道主義を持ち出して、美辞麗句を並べ立てるばかりで、観念的で説得力がないのに対して、石油のために派兵するとはっきり述べた石破防衛庁長官の説明は実利を説いているのでわかりやすい。彼は、アメリカよりの政権が長期的にイラクの石油利権を支配することが確実とみられる以上、アメリカの要請にできるだけ応えて、自衛隊を派兵して犠牲を払っても、アメリカの対イラク政策に協力しなければ、日本の安定的石油供給を損なうことになり、それこそ日本の国益を損なうのだから、石油のために自衛隊派兵で人道復興支援すべきだと実利を説いたのである。米帝ブッシュが、戦争に反対した国を復興事業から排除するとしていたので、小泉の観念的説明よりも石破の説明の方が説得力があるようにきこえる。イラン革命による第二次石油ショックの時は、アメリカの対イラン政策に逆らって、イランの反米政権と友好関係を結ぶことによって、石油供給を確保した。今度は、日本にとって必要な中東の石油を確保するという国益のために、自衛隊がイラクに行かなければならないというのである。今度は、アメリカの政策に従うことが国益をはかる道となったのである。しかし、ブッシュ政権は、13日、戦争に反対したカナダを復興事業の契約に加わることを容認した。戦争への賛成・反対は、復興ビジネス参加の条件ではなくなった。
 近代合理主義が利害計算する知性主義と合理的道徳主義をあわせもっているのは、アダム・スミスに明らかである。ようするにそれは、もっとも合理的に利害を計算する知性に特別な価値を置き、実利を基準に自己の行為を律する道徳法則を顕揚することであった。
 石破の主張は、利害計算で合理的な判断をすることを、公正な立場だとしているのであり、イラク侵略戦争については、日米同盟を維持することが日本の国益だから、とにかくアメリカの言うとおりにした方がためになるというのだ。こういう話は、聞き飽きるほど保守派から聞かされてきたが、首相がかっこをつけたがるのに対して、防衛庁長官の方がより率直ではある。日米同盟のために、英米帝の侵略・占領と一体になって、日本の自衛隊という名の軍隊を派兵するのだ。そしてそれは、支配階級の利益のためであって、プロレタリア大衆の利益のためではないのである。石油については、「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるが、国家や支配階級の膨大な無駄をなくすのが先である。
 田原総一郎氏は、その政策が国民にとって損か得かを基準にしており、そういう基準を立てない政策論を、観念的と批判している。また何でも反対は観念的で野党的批判だと批判している。問題は、それがプラグマティズムという一つのイデオロギーであり思想であることを自覚していないらしいことである。プラグマティズムは、今や支配的思想であり、だからこそ現実的な力を持っているということがわかっていないようなのだ。支配的思想を批判することは、この思想によって支配されている被支配階級の力をのばし、新しい社会の登場を促進する。かれにはその気がないのかも知れないし、現社会の多少の改良がかれの望みなのかもしれない。それならプラグマティズムと折り合いがつくが、改良ではすまされない根本的変革を望むなら、プラグマティズムという支配的思想との根本的な対決をさけるわけにはいかない。彼は自衛隊派兵に反対を表明している。

プラグマチックなロマン主義批判

 ロマン主義がプラグマティズムに対立するのは、後者が利を中心基準にすえるのに対して、それを超えた夢や理想に殉じることに高い価値をおいている点である。後者がフランス革命のドイツ的反響の一つとして生じたことは、ゲーテやベートーベンの例で明らかである。それはヨーロッパ諸国での独立革命やブルジョア革命に影響を与えた。例えば、エンゲルスが評価している詩人のバイロンはロマン主義者として知られているが、かれはイギリスの労働者運動を支持する活動をしたり、トルコからの独立を求めるギリシャ独立運動に加わったのである。
 ロマン主義には、ブルジョア革命に鼓舞された革命的で進歩的なものと反動的な没落を恐れる封建的土地貴族の反動的ロマン主義があった。
 前者は、ブルジョア革命を進歩とする近代主義賛美であり、後者はそれを反動とする反近代主義思想である。前者は現状を肯定して進歩を賛美し、後者は、没落貴族のノスタルジーを含んでいるが、現状を夢の中で超越しようとしているだけで、やはり現状に対する適応の一つとしての反動であり、現状追認と過去から現状を批判する運動なのである。
 18世紀ドイツでは後者から反動的ドイツ式社会主義が登場した。『共産党宣言』は、それが封建的土地貴族のブルジョア革命への反革命にすぎないと述べた。かれらはカントを思想的後ろ盾とした。それは失われつつある古き良き時代を想像力(構想力)によって美化して取り戻そうとする努力にカントが思想的根拠を与えるように思われたからである。
 カントはドイツ・ロマン主義を思想的に基礎づけた哲学者とされてきた。それは彼の『判断力批判』が、想像力(構想力)に理性と道徳を結びつける特殊な能力として高い価値を置いているように見えるせいもある。しかし哲学者ポール・ト゛・マンは、実はそこにはカントの唯物論があると述べている。カントの中途半端な唯物論、あるいは批判的唯物論を指摘するレーニンの主張は、あまり相手にされてこなかったが、ド・マンの論考を読めば、カントにはドイツ・ロマン主義や新カント派にはない唯物論や弁証法があることがわかる。すでに、マルクス、エンゲルス、レーニンは、カントの中に、観念論と共に批判的唯物論があることを見抜いていた。
 この中でレーニンは、新カント主義がカントを中途半端な観念論として批判し、観念論の徹底化を図ろうとしたのに対して、『唯物論と経験批判論』で、カントの唯物論を擁護した。唯物論を徹底化しなければ、中間的立場からの折衷主義に陥り、結局それは立場が動揺し、結局は観念論に転落してしまうとレーニンは言った。唯物論は運動なので、止まるわけにはいかないのである。『唯物論と経験批判論』の最後のところでレーニンは唯物論を運動として扱い、あらゆる運動がそうであるように、それが党派的であることをはっきりと示している。例えば、元第一次ブント全学連組織担当の林道義氏などのように、党派性や教条主義や原理主義を批判して、自分はどっちにも偏らない「公正な」立場で、党派性を免れていると主張するのは、中間党派の思想にすぎないのである。
 ロマン主義は、中間的立場から、観念論へ移っていくのに対して、われわれは、マルクスがヘーゲルの観念論を唯物論へとひっくり返したように、唯物論へ向かう運動を実践する必要がある。例えば、関係=本質論はヘーゲルにすでにあるが、マルクスは「資本は本質的に資本家である。同時にまた資本家とは区別された、資本家の存立の要素として、すなわち生産一般として、資本である」(『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫74頁)「資本とは明らかに関係であり、しかもひとつの生産関係でしかありえない」(同 75頁)、すなわち、本質は、同一であると同時に区別であり、関係であると述べているが、彼がヘーゲルを転倒したのは、関係を関係行為という実践としてとらえたことにある。生産や所有は、生産関係であり、所有関係であり、関係行為であり、したがって意志の問題が生じてくる。資本は資本家であり、生産一般であり、生産関係(所有関係)であることが、資本の人格化としての資本家の意志を与え、対極に賃労働の人格化としての労働者の意志を与え、階級が生み出されるのである。関係行為としての生産関係(所有関係)が、主体化・客体化の弁証法的運動としての階級闘争(階級関係)を生み出すのである。

ポスト・モダニズムの終焉と批判(少々)

 ポスト・モダニズムは、近代主義的な価値観を批判して脚光を浴びたのだが、一時的に時代情況に合致したように見えたものの、現実の変化によって破綻した。例えば、以前に取り上げたボードリヤールの消費社会論は、ブランド品消費を大衆一般の記号消費活動として一般化したものである。それは、一時の贅沢としてブランド品を消費する人々と恒常的にブランド品を消費する本物のセレブとの違いを無視している。ブランド品メーカーは、両者に対して供給する商品を区別しており、階級階層に応じた生産・販売をおこなっているのである。もともと高級ファッション企業は、前者用には既製品を販売し、後者用にはオーダーメイドで販売している。ブランドイメージや記号的側面が消費動機に強く影響しているのは事実だが、同時に材質や手作りによる高品質も影響している。
 日本の場合、前者の層が高度経済成長期とりわけバブル期に増加したことは確かだが、バブル崩壊後は、リストラや消費税増税をはじめとする公負担の増大などを通じて、分解し、その上層は減少しているのである。その傾向は、現在の国家財政の逼迫や企業リストラ、雇用構造の変化などによって、今後も続く可能性が高い。
 大衆社会化論で個人に焦点を当てているのは、ボードリヤールの他にもスペインの思想家オルテガや全体主義批判で知られるハンナ・アーレントなどがある。オルテガの大衆社会論は、まったく心理主義的である(『火花』208号所収「労働運動を考える」(4)参照)。アーレントの資本主義化にともなって階級社会から大衆社会になるという社会論は、非現実的であり、階級階層化が進んでいる現在の日本の情況にマッチしない。彼女が、大衆社会化を否定して評価しているのは、古代ギリシャの民主制であるが、それは、奴隷制の上に築かれた制度・文化であった。現代の資本主義的民主主義もまた賃金奴隷制という一つの歴史的奴隷制に基礎を置いている。賃労働関係を廃止しないで、民主主義の本当の発展(プロレタリア民主主義)はありえないのである。etc.

ブルジョアジーと支配的思想へのさらなる屈服を示した日共新綱領批判(少々)

 日本共産党第二十三回大会初日(13日)に、日本共産党の不破哲三議長がおこなった「綱領改定についての報告」は、「合理的なものは現実的である」というヘーゲルのテーゼを想起させる「合理的、現実的な仕上げの特徴」の項目で、「綱領の、この部分を仕上げるにあたっては、私たちは、革命の任務―民主主義革命が達成すべき任務が資本主義の枠内での民主的改革であることを明確にすること、政府目標―民主連合政府がこの民主的改革を実行する政府であり、国民の支持のもとに民主主義革命をやりとげる政府であることを明確に規定すること、この二つを基本点として、全体の整理をおこないました」と述べ、近代合理主義的態度で、近代民主主義(ブルジョア民主主義)を革命の機軸にすえている。統一戦線政府を中間段階として民主連合政府を実現することは、国民の多数の支持を得て、議会での多数派となって政権奪取するということである。これでは、今日の資本主義的議会が、階級闘争の舞台ではないみたいだ。事実、日共は、対米従属と独占資本と国民の利益の対立を基本的な対立とし、階級闘争を基本にしていない。
 そして、不破議長は、この対立を解決するためには、革命的議会主義(レーニン)ではなく人民的議会主義によって、議会で、(1)政治暴露し、(2)改良の実現と国民の要求を反映し、(3)政権与党となって民主的政府を合法的に樹立する行動が必要だという。議会が階級闘争の一舞台であることは、マルクスのフランス三部作に明らかである。日共は、そうではなく、国民的利害からしか議会を見ていないのである。
 綱領についての考え方については、「これまでの綱領では、民主主義革命によって実行される改革については、「真の独立と政治・経済・社会の民主主義的変革」という一般的な規定しか与えていませんでした。・・・そして、そこで掲げられた「行動綱領」は、諸階層・諸階級の当面の要求、また、社会生活の各分野での当面の要求や課題などの一覧という内容のものでした。党がこれらの要求を支持してたたかうことに変わりありませんが、綱領の本来の役割は、どういう改革を達成することによってこれらの要求にこたえるか、という問題の解明にあります。改定案では、その見地から、革命(もちろんこれは、資本主義の枠内での民主連合政府の民主主義革命のことであるー引用者)によって実現すべき改革の内容を、「国の独立・安全保障・外交の分野」、「憲法と民主主義の分野」、「経済的民主主義の分野」という三つの分野に整理して提起し」たが、「・・・この改革の内容を規定する際に、私たちが注意したのは、当面的な基準ではなく、改革の基本方向を示し、十年、二十年というものさしでその有効性を保ちうるもの、という気構えで、各分野の改革を定式化することにありました。ですからここには、そのときどきの情勢の変転や政府の政策の動きによって変わらない改革の基本点が、のべられています」と述べられているように、「諸階層・諸階級の当面の要求、また、社会生活の各分野での当面の要求や課題などの一覧」の「行動綱領」を削除して、改革の内容規定を、当面的な基準ではなく、改革の基本方向を示すことに変更したのである。
 『火花』綱領はそうなっている(綱領実践部分)。例えば、6時間労働時間制のところは、当面の具体的要求のように見えるかも知れないが、不破が社会主義論のところで書いているように、「労働時間の短縮が「社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台」をつくりだす」ので、これは、プロレタリア革命の根本をなすものの一つであって、当面の具体的要求の一つではないのである。日本共産党が、「当面の要求の一覧表」を行動綱領として綱領に入れていたのがまちがいだったのである。例えば、日本共産党のかかる日常的諸要求貫徹路線は学生運動では、学生の身近な要求実現こそが学生自治の内容とする自治会サービス機関化となって、学生運動の政治性社会性を発展させることを、党派的に綱領方針として妨害してきたのである。
 新綱領は、対米従属論、帝国主義論、生産の社会化論等々、おかしなものだらけだ。また、口ではスターリニズムを批判しながら、党組織はスターリニズム的で独善のままである。また、階級闘争を否定し、ブルジョアジーをも含めた「資本主義の枠内での民主的改革」を、自衛隊容認、天皇制容認などで明らかなように、国民政党として推進する国民政党として純化することを新綱領でさらにはっきりさせたのである。
 日本共産党は、社会主義論のところに明白に現れているように、近代的合理主義とプラグマティズムに拝跪した中国共産党のケ小平主義を評価して、それを取り入れた。日共新綱領は、かれらが、共産主義、革命、階級闘争、プロレタリアートからさらに遠ざかったことを明瞭に示した。それが、今日の支配的思想であるプラグマティズムと近代合理主義への拝跪という思想的後退という形でも現れている。日本共産党新綱領は、ブルジョアジーへの屈服や支配的思想への拝跪を現実的と称して合理化したにすぎないのである。

 われわれの共産主義運動には、マルクス・エンゲルス・レーニンの唯物論と弁証法を革命的に受け継いで発展させ、支配的思想を覆す革命的な武器とし、日共的プラグマティズムや新自由主義的プラグマティズムを凌駕することが求められているのである。それには、スターリニズムなどが好き勝手に改ざんして換骨奪胎したマルクス・エンゲルス・レーニンの実践的コミュニズムとしての質を復権することが必要である。左翼のフェニックス的再生には、過去を捨て去るのではなく、自身を歴史的に止揚することも必要である。




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