共産主義者同盟(火花)

資本主義の終焉と歴史の危機

渋谷 一三
392号(2014年9月)所収


<はじめに>

今回は水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』を紹介する。
前回(372号 金融市場は消滅するのか 2012年10月)紹介した小幡さんがface book事件という現象を『金融市場の消滅』という観点から考察するという斬新な切り口を提示したのに対し、今回紹介する水野さんは、その名も『資本主義の終焉と歴史の危機』という新書を発刊し、資本主義が終焉の時を迎えたと断じる。その上で、資本主義以上のものを準備する過程が内包されていないのではないかと歴史の危機を説く。

1. 資本主義は利子概念とともに始まった。

中世から近代への転換を準備したのが13世紀、ローマ教会によって利子率が公認され資本家が誕生する。それまでは利子という概念がなく、後の後のシェークスピアの時代に至ってすらシャイロックという人物に描かれたように、利子をとることは恥ずべき汚らわしいことだった。
『利子とは時間に値段をつけることです。したがって、利子を取るという行為は、神の所有物である「時間」を、人間が奪い取ることにほかなりません。』(同書p.157)
利子の公認は画期的なことだったが、このままではまだ資本主義制度は誕生しない。中世型生産様式の成長が止まり、利子率が極端に低くなった『長い16世紀』によって、新しい生産様式=資本制生産様式が始まると歴史を振り返る。
『ブローデルは、フランチェスコ・グイッチャルディーニの「イタリア史」を引きながら、16世紀のイタリアは山の頂上までワインのためのブドウ畑になっていた、とも指摘しています。ワイン製造業は当時の先端産業ですから、ブドウ畑を新たにつくるところがないということは、利潤を生み出せるような投資先がもうないことを意味しています。』(同書 p.17)
封建制とも言い難い部族社会を軸としていたアラブ社会が、その社会内部に資本主義を内包する過程を経ずに欧州列強の支配に晒されたため、未だに利子を認めない文化的伝統を色濃く残していることにも、利子率の低下が社会の停滞=持続的安定と深く関わっていることが見て取れる。

2. 世界的利子率の低下

水野さんは、さらに、『日本の10年国債利回りは、400年ぶりにジェノバの記録を更新し、2.0%以下という超低金利が20年近く続いています。』(p.16)として、資本主義がもはや新たな利潤を生み出せない成熟してしまった生産様式だと論じる。
そして、この利子率の低下(0金利)が日本だけのことではなく世界的であるという事実を受容することを薦める。
その一例として米国を挙げる。『米国は近代システムに代わる新たなシステムを構築するのではなく、別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図りました。すなわち、「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、「金融帝国」化していくという道でした。』(p.26)『その後、1999年に銀行業務と証券業務の兼業を認める金融サービス近代化法を成立させたことで、金融帝国のシステムも完備されました。』(p.30)
※この措置によってBIS規制は有名無実化された。
『1999年までは商業銀行自己資本の12倍までしか投資してはいけないという制約があったのですが、金融サービス近代化法が成立したことでアメリカの商業銀行は子会社を通じて証券業務に参入できるようになり、事実上、無限大に投資出来ることになっていたのです。』(p.35)
『自己資本の40倍、60倍で投資をしていたら、金融機関がレバレッジ(てこ)の重さで自壊してしまったというのがリーマン・ショックの顛末です。』(p.35)
日本の不動産バブルへ転化させたバブル、その後のITバブル、そのまた次の住宅バブル、そして今回の金融バブルと、米国経済はバブルの生成と崩壊を繰り返すようになった。
水野さんはこの間の事情を次のように分析する。
『バブルの生成過程で富が上位1%の人に集中し、バブル崩壊の過程で国家が公的資金を注入し巨大金融機関が救済される一方で、負担は、バブル崩壊でリストラにあうなどの形で中間層に向けられ、彼らが貧困層に転落することになります。』(p.37)
『実は利潤率が極端に低下した長い16世紀にも同じことが起きています。「陸の国」スペインから「海の国」イギリスに覇権が移ったことをドイツの法哲学者カール・シュミットは「空間革命」と呼びました。』(p.38) 『空間革命が起きた16〜17世紀の資本家たちは、中世末期のスペイン・イタリアに投資しても超低金利のために富を蓄積できない状況に陥ったため、投資先をオランダ・イギリスに替えて繁栄していきました。』(p.39)
かくして、1つの生産方式の行き詰まりが、利子率の極端な低下として現れること、そして、そのことが周辺の「開拓」を通じて延命を図ろうとすること、延命が不可能になった時に、新しい生産様式が準備されていくことを歴史の教訓として導き出している。
けだし、慧眼である。

3. 金融仮想空間に資本主義の延命を求めリーマン・ショックを惹起した米国

『資本主義と一口に言っても、その時代時代に応じて中身は異なります。資本主義が勃興する時代には重商主義でしたが、自国の工業力が他国を圧倒するようになると自由貿易を主張し、他国が経済的に追随して自国を脅かすようになると植民地主義に代わり、IT技術と金融自由化が行き渡るとグローバリゼーションを推進したのです。』(p.161)
と歴史を概括する。植民地主義までの概括の仕方はマルクスやレーニンと同様であり、観念的に歴史を認識する者でない限り、同様の結論になる。
水野氏は、周辺論を摂取した上で、米国で主に発展した金融工学なるものに正しい歴史的位置を与えた。
『1990年代後半、国際資本の完全自由化を実現させて、ようやく過小貯蓄の国・アメリカは過剰貯蓄の国・日本をはじめとして世界の貯蓄を利用できるようになったのです。こうしてバブルの条件が整うと、ITバブル、住宅バブルとアメリカ金融帝国でも立て続けにバブルが引き起こされていくようになりました。』(p.110〜111)
そして、それが、
『利潤極大化を最大のゴールとする資本主義は、自らがよって立つ原理、すなわち、資本の自己増殖のためにバブル経済化も厭わないことによって、超低金利というさらなる利潤率の低下を招いてしまうのです。』(p.113)
と、資本主義の延命措置が資本主義の終焉を促進することを描写して見せることに成功している。

4. 永続型資本主義からバブル生産型資本主義への退化

 『永続型資本主義の始まりはオランダ東インド会社であり、それ以前の地中海世界における資本主義は一事業ごとに利益を清算する合資会社による資本主義でした。』(p.181)
『バブルは必ず弾けるので、その時点で投資はいったん清算されます。』(p.180)
『17世紀初頭に誕生した永続資本(株式会社)を原則とする資本主義は20世紀末に終焉を迎え、一度限りのバブル清算型の資本主義へと大きく退化したのです。』(p.181)

5. 資本主義の後にくるもの

水野さんは、「無限」信仰や拡大再生産が永遠に可能であるかのような資本主義が生み出した幻想から人々が解放され、「定常状態」に向けて軟着陸を目指す「長い21世紀」を提案する。
『16世紀の当時、ローマ教会が中心の「地中海世界」にあって「周辺」の出身であるコペルニクスの考えをいち早く取り入れたのが、「中心」であるイタリア生まれのジョルダーノ・ブルーノです。ブルーノは「宇宙は均質で、無限で、無数の世界が存在する」と主張し、「無限という概念を生理的に忌避する全ての人々を憤慨させ」最後は火あぶりの刑に処せられました。』(p.174)
続けて、
『16世紀のヨーロッパ人は、それまでの中世の人とは世界観がまったく異なっていて、近代人の目の前に突如「無限」の空間が現れたのです。「無限」だからこそ、「過剰」を「過剰」だとは思わないのが、近代の特徴なのです。』(p.175)
 と喝破する。
 ここでも、根本的概念や思想が生産様式と不可分に発生し蔓延するという唯物史観を正しく駆使していることに敬服する。
 かく「無限」信仰を批判した上で、「定常状態」に向けて適切な処置を取れなければ爆発的な経済破綻や貧困による戦争や飢死などのハード・ランディングの可能性もあることを指摘しながら、ポスト資本主義の脱成長社会を模索する。

<おわりに>

少なくはない「近代経済学」者が、資本主義の終わりを感じ取りはじめている。
 前稿と本稿で、この中でも突出して優れた分析をされていると筆者が判断した二人の論説を紹介した。
 何よりも「近経」の学者が資本主義の終わりを見事に描きだしているのが象徴的である。このことは、「近経」「マル経」の区分が無意味なものになっていることを示してあまりある。
 また、ポスト資本主義の経済・生産様式の模索では、榎原 均さんの、協同組合論の一連の作業が注目に値する。
 いずれにせよ、資本主義によって必然的に起こされた帝国主義戦争がもたらした災厄の数々や資本主義が激化させた貧困・飢餓などの様々な課題を解決せんとマルクス・レーニン主義者になってきた人々にとっても、資本主義の「上手な」運営法を探ってきた近代経済学者にとっても、課題は同一になり、手法も観念的経済学批判という点で全く同一になって来ている。
 こうした経済学的理論課題の深化を図り、資本主義の比較的静かな死を実現するための政治的提起をしていく取り組みが求められている。
 この作業を通じて、労働者階級の党が準備されていくことなる。
 安倍政権の空騒ぎや経済への余計な手出し、政治的・軍事的冒険主義を見るにつけ、自民党の資本主義の危機への認識の欠如を見るにつけ、労働者階級の党の必要性は高まっている。
それは、橋下維新の会などのファシズム政党との戦いの重要性が増しているという別の面からも言えることである。




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