共産主義者同盟(火花)

チベット独立問題は中国革命に従属しなくてよい
 〜322号齋藤論文への応答

埴生 満
323号(2008年7月)所収


本誌322号(2008年6月)所収の齋藤隆雄さんの論文「政府について(6)」(以下、「齋藤論文」)の最後の部分には、「8. チベット問題と政府」と題して、チベット問題についての言及がなされている。このことをまず歓迎したい。そして今号では、これを読んだ感想と意見を述べてみたい。
まとめて言えば、齋藤論文にはそれ自体としては重要な指摘が多いが、中国共産党政府(以下「中共政府」)のチベット支配の経過と現状を見れば、そのことを理由にチベット独立運動を否定的に見るべきではないと考えられた。なお筆者は先の文章(本誌321号所収「320号渋谷論文『チベット問題について』への疑問」)で示した通り、現在のところチベット亡命政府による独立運動を支持する立場をとっている。
以下、より詳細に述べていく。

 まずこの部分、

民族自決権は民主主義の範囲の中にあってブルジョアジーが政治的に利用してきた歴史的経緯は注目する必要がある。ユーゴスラビア解体の経緯から見て、民族自決を無条件に擁護するという原則は、その自決を表現する主体、地域、政治綱領等をよほど吟味する必要がある。そして、問題となっているチベット独立運動はどういう観点から論議すべきかを明らかにするべきだろう。

についてだが、民族自決権の無条件承認という、我々がつい公理のごとく前提としがちな原則についても再考が必要であるという提起自体には筆者も異議はない。また「よほど吟味する必要がある」とする慎重さも全否定しない。ただ中共政府がこれまでチベット人民に対して行なってきた様々な残虐行為および現に行なっている政治的・軍事的抑圧に鑑みれば、〈悠長に過ぎる〉とも感じざるを得ない。
 また、

チベット独立運動は中国革命を抜きにしては語れないのではないか、と思われる。中国共産党解体と帝国の連邦制への分離と新たな経済圏の形成という非常に困難なプログラムを提示することが求められている。

という提起もそれ自体誤ってはいない。しかし読み方によっては〈プログラムが提示されて、中共政府が打倒されて中国全体が解放されるまでは、チベット人民も今まで通り中共政府に過酷に迫害されて下さい。苦しんでいるのはあなた達だけではないのだから〉という意味をはらんでいるようにも見えてしまう。筆者は齋藤さんの善意をいささかも疑わないが、文章全体の慎重な姿勢と合わせて見ると、激しい弾圧にさらされ続けている人々にはかなり酷な記述のようにも感じられる。
 無論チベット問題のみが中国の社会問題ではない。中共政府支配下の中国社会は今や、グローバルな「新自由主義」の流れの最先端を疾走しているように見える。しかも政治的な自由が極度に制限されているため、それへの対抗運動すら中国国内では構築が容易でない。貧困なまま放置され、地域有力者(少なからず共産党組織の幹部やその関係者)から圧迫を受けている農民や、市民権を保障されていない出稼ぎ労働者(民工)、政治的な自由を求める人々、差別されたり活動を制限されているさまざまなマイノリティなど、中共政府の不当な人民支配の現れは様々な領域に多数見られる。それらとチベット問題が地続きであると見ることは十分可能であるし、我々は全ての中国国内のプロレタリアートの解放を支援していくのであるが、そのこととチベット独立運動が独自に道を模索していくことを支持するのとは別段矛盾しないのではないか。もちろん筆者もチベット独立運動が他の社会問題の解決を目指す運動と連携する形に向かうことを願ってはいるが、直ちにそれが具体的に判明していないからといって、

チベットだけが分離独立するというスケジュールはブルジョア的にはあり得るかもしれないが、我々の立場からは存在しない

と言ってしまうことは、中共政府のチベット人民への支配の過酷さに鑑みて適切ではないと考える。
 周知のことではあるが、第二次大戦後までイギリスの影響下にあったとはいえ、チベットは中華民国政府とは全く独立して内政・外交を展開していた。大戦中には民国・英国を含む連合国側の意向にも抗して、中立を維持していた。そこに1949年10月、一方的に「チベットは中国の一部である」と宣言し、当時チベット内の西欧人は6人のみであったにも拘らず「帝国主義者の圧制からチベット人民を解放する」という架空の大義名分と共に軍事侵攻を行ない制圧した。イギリス・米国・インド等の大国も実質的にチベットを擁護しなかった。1951年には威圧の下に「十七条協定」をチベットに承認させ、人民解放軍を駐留させ、その食糧をチベット側に調達させたため経済は破綻し民衆は飢えることになった(穀物は10倍、バターは9倍、一般商品は2〜3倍の値上がり)。また道路建設にチベット人民を無報酬に近い労賃で強制的に動員し、数千人が死亡。チベット仏教や文化を否定し、チベット人青少年をチベット外に送り出して教育するなど十七条協定にすら反する行動をとった。チベット人のパルチザン闘争が始まるが、人民解放軍は容赦なく砲弾を僧院や町に撃ち込み、また刑死・獄死・拷問死・強制労働死・餓死などによって多数のチベット人が虐殺された。一説には120万人という(過大推計という指摘はあるが)。磔・手足の切断・打ち首・焙り殺し・撲殺・生き埋め・逆さ吊りなど残虐な方法が用いられたという事実も報告されている(1959年 国際法曹委員会)。1959年にはダライ・ラマ14世殺害を目論んでラサ市内を無差別に砲撃し、抗議行動に集まっていた数千人の民衆を殺戮。ラサを破壊しつくした上、チベット政府を解散させた。ダライ・ラマ14世はインドに亡命し十七条協定を否定し、チベット亡命政府を樹立した。以後もチベットで中共政府による弾圧は続き、1966年から10年間続いた「文化大革命」では数千人が虐殺され、1987年〜88年のチベット人僧侶らによる抗議行動では800人以上が落命した。2008年3月には僧侶ら数百人の死者が出ている(田中健之「騒乱のチベット現代史」 学習研究社『歴史群像』2008年8月号所収より)。これら以外にも、アムネスティ・インターナショナルなどによる人権侵害事例の報告は日常的に枚挙に暇がない。
 これが見過ごされて良いことならば、かつての大日本帝国による朝鮮併合や民衆弾圧、第二次大戦中の中国戦線における残虐行為など何ら問題でなくなってしまうだろう。
このような重大な問題に対して左翼が積極的に対応しないならば、〈日本国内でチベット独立運動とその支援者に共感しているのは、右翼・保守派だけ〉といういびつな構図が発生するのではないかと懸念する。かつて北朝鮮問題で左翼が見せたような優柔不断さや立ち遅れ(あるいは反動)をこれ以上繰り返すことはできない。

齋藤論文をさらに見ていきたい。

第一に、歴史的経緯からするダライラマ亡命政府の擁護は政府の性格上からして、無条件ということにはならないと、思われる。筆者は十分な知識がないが、彼が宗教上の権力と政治上の権力を同時に所有していると思われるので、彼のいう自決はチベット人民にとって脱中国共産党支配という目的以外にはあまり意味がなさそうである。

という部分も問題意識として分からないではない。ただ筆者が先の文章(本誌321号)でも述べた通り、知りえる限り、チベット亡命政府は普通選挙による議会とそれに責任を負う行政府(内閣)を持っている模様である。もう少し詳しく亡命政府の機構を挙げてみると、

(出典:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所ホームページ http://www.tibethouse.jp/home.html
などとなっている様子である。
これを見ると、確かにダライ・ラマ14世は現在、宗教上の権力と政治上の権力を同時に所有している。ただそれはチベット社会の歴史的な経緯や、中共政府の軍事侵攻によってチベット人民が自らダライ・ラマ14世以外の政治的中心軸を樹立していく機会を失ったこと、そして現在民主化に向けて努力がなされていることを考慮すれば「許容範囲」であり、その運動を不支持とする理由にはならないと現時点で筆者は考える。またこの亡命政府の計画がその通りに実現するならば、チベットのプロレタリアートは中共支配下の現在よりも大きな自由を手にすることができ、解放への条件を拡大できると見込まれる。

第二に、独立運動の旧来の形態からいえば、ソビエト解体の歴史から学ぶことができる。中華人民共和国の解体後に各自治区が独立するというスケジュールである。現在、ソビエト支配下の各共和国は資本主義化の下で過酷な階級支配が復活している。それは、かつての官僚支配の過酷さと種類は異なるとはいえ、自由という名の下で民族問題が後景化し、階級問題が前面に浮かび上がってきている。これを歴史的な進歩と呼ぶか否かである。
 第三に、個別チベット独立運動を目指す主体がどのような階級的利害を代表しているのかが充分に明らかになっていないということである。チベット地方の地誌的な状況からいえば山岳ゲリラ的な運動が存在しているのか、あるいは都市を中心とした中国民主改革派とのつながりを有しているのかによっても、評価が分かれる所であろう。

 このあたりは筆者としても考えていきたいところであるが、現在の中国のようにチベット独立を語ることそれ自体が弾圧の対象となる状況下では、独立するのか中華人民共和国に残留するのか、残留するとしてどのような自治形態をとるのかといったことについてチベット人民が自由に意思表示することは不可能である。プロレタリアートを含むチベット人民がこの自由な意思表示を行なう条件を作るためにも、チベット独立運動を支持する必要があると考える。独立運動の促進を通じてしか当面、独立か非独立かという討議・選択・意思表示を主体的に行ないうる政治空間も創出できないからである。もちろんダライ・ラマ14世やチベット亡命政府を経由しない独立運動が起きてくれば、それにも注目すべきことは論を待たない。

中央アジア地域における地下資源を狙って虎視眈々と息を潜めている帝国主義国家のブルジョアジーたちの動きも無視できない。彼らが善意で支援している訳ではないことは言うまでもない。
グローバリズムは国境を解体することではなく、その地域の人々を管理し、工場に送りだし、消費生活を再生産させるという役割を担う政府を必要としているのである。そのためには民主主義さえ支配の道具となり得るのである。

無論過去幾多の革命や独立運動がそうであったように、亡命政府によるチベット独立運動が将来、チベットのプロレタリアートを裏切る結果にならない保障はない。こういった齋藤論文の指摘に留意すべきは当然だが、新自由主義の悪しき旗手となってしまった現在の中共政府の支配以上に悪い状態が待ち受けているかといえばそうとも言い切れない。よってチベット独立運動を否定的に見る根拠にはならないのではないか。ついでにいえば、地下資源を狙って行動しているという点では中共政府も「帝国主義国家のブルジョアジー」と同様に帝国主義的と思える(チベットのウラン、ウイグルの石油、東沙・西沙・南沙群島や尖閣諸島周辺の大陸棚資源など)。
齋藤論文のような指摘は、チベット独立運動を支援していく中で提起していくことが有効であろうし、チベットがグローバリズムの草刈場にならないよう(中共支配下で実質的に既にそうなっているかもしれないが)、独立ないし高度な自治が達成された後も継続的にチベットのプロレタリアートとの連帯を構築していくべきだと現在筆者は考えている。


以上を対比的に言えば、齋藤論文が「十分考えてプログラムを明確に作ってから動け」というスタンスなのに対して、筆者は「事態の厳しさから見て、動きつつ考えるしかない」ということになるかもしれない。齋藤論文のように、より完璧なプランを構想しようとすることは重要だが、状況への対応という点からは別の判断が必要になる場合は当然ありえるのであり、チベット独立問題において亡命政府の独立運動を支持する立場を取ることもそれに該当すると筆者は考える。
齋藤さんは実際「完璧な中国革命のプログラムを提示できない以上、何もすべきでない」とお考えなのだろうか。あるいはチベット亡命政府の独立運動を支持する以外で、チベット人プロレタリアートが置かれている苦境の打開に向けてのより良い行動のアイデアは何かお持ちでないのだろうか。このあたりも是非尋ねてみたい。

この問題に対するさらなる情報提供・意見表明を、読者投稿を含めて期待しています。




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