共産主義者同盟(火花)

308号流論文への応答−なお道は長く複雑なので、力まずに行きませんか

埴生 満
310号(2007年6月)所収


 火花308号(2007年4月)の流 広志さんの論文「反戦・反改憲運動の中で、共産主義という『大きな物語』を描き、共産主義者党建設を追求しよう」(以下、「308号流論文」)を読んで、刺激・触発されると同時に、少なからぬ違和感を持った。それを提示し、討論を活性化させることで、今後の共産主義運動の発展を促進したいと思う。

 308号流論文は日本の改憲問題から、ポストモダニストの「小さな物語」論、第三世界問題としてのバイオエタノール燃料問題などを批判的に俯瞰した上、「下層を解放するプロレタリア革命を推進する前衛党を建設しよう」と呼びかけ、我々火花派が下層労働者大衆の中で活動し、かれらを組織し、あるいは、反戦運動の中で、宣伝・扇動を本格化させることを訴えている。流さんの問題意識の広さと熱意に敬意を表したい。
 ただその熱意が一方では、性急さと焦り、復古調とも言えるような硬さにつながっていると感じた。その部分を順次指摘していく。

反改憲運動に関する部分

流さんは

 などを指摘した上(この指摘は妥当なものと考える)、「反改憲運動を通じた全国の学生運動の交流活性化・学生運動の発展が望まれる。共産主義の旗の下、この運動を発展させ、自国帝国主義打倒に向けて、プロレタリアートの革命的隊列を構築することが必要である」と主張する。
 しかし私自身が学生運動に関わった経験から言えば、1980年代後半の段階ですでに、学生が自分達自身を「社会の中での層としての学生」と認識する文化は解体していた。したがって現在、「学生運動の交流活性化」という問題の立て方は有効と言えない。現在では、運動に参加する学生は、〈学生でもある個人〉として活動しているだろう(例外の存在は否定しないが)。80年代後半を経験した者としては、「学生運動の発展が望まれる」と言われること自体に、どうしても〈外部の力で枠に押し込まれるような被抑圧感〉を感じざるをえない。
 同様に「運動を発展させ、…プロレタリアートの革命的隊列を構築する」と言われると、〈やっぱり「党」の偉いさんの力で、隊列に組み込まれてしまうのね〉とネガティヴな印象を受ける。
 私は流さんの善意をいささかも疑っていないが、308号流論文のこういう表現には、いきなり〈しんどさ〉を感じてしまう。
 また現在の改憲論の中にも、現在の9条2項はやめて自衛隊の存在を合法化するかわりに、先制攻撃・侵略の禁止などより具体的な歯止めを書き込もうという、それ自体は合理的で考慮に値する意見もある(例えば小林 節)。一方反改憲勢力の中にも「国民投票法すら認めない」というふうに、現憲法をあたかも国民の上位にある権威として語り、物神化するかのような主張もある(例えば旧左翼)。これでは今後の天皇制廃止すら否定されてしまう。前者がダメで、後者が良いとは到底言えないだろう。このあたりももう少し丁寧に見ていった方が、我々を含む民衆の判断力向上につながっていくと考える。

「小さな物語」批判に関する部分

 ここでは、

 と主張されている。
 これはずいぶん「復古調」な規定であると言わざるを得ない。もちろん私も現在、先進国において階級闘争が一層顕在化しつつあることに同意する。しかし「小さな物語」の論者が言わんとしたことを一顧だにせず、なで斬りにするような論旨には同意しがたい。
 「小さな物語」論はそれまでの「大きな物語」(理想やイデオロギー)が諸個人に対して抑圧的で残虐ですらあったことへの反省・批判から生じたものである。それは今後に引き継いでいくべき「質」を提示している。今後我々が「大きな物語」の構築を目指すとしても、それは「小さな物語」を生かしつつ進めるべきである。また現に、308号流論文の例に出ているように「個人加盟のユニオン型」の労働組合が活発化していることも、個人重視の「小さな物語」の時代を経てきた現在ならではの現象といえる。

「プロレタリアートの英雄を生み出そう」の部分

 同論文は次のように述べる。

 この部分には特に強い違和感を禁じえない。どうしてこんなに「英雄」にこだわるのだろう? そもそも「英雄」とはかなりうさんくさい存在ではなかっただろうか?
 続いていわく、「反前衛主義を掲げる者の中には、自分の身の安全ばかりを気にして、どうやったら健康に長生きできるかなどということを熱心に追求する者もいる」。ここでは食品の安全などをめぐる運動が否定的に語られているようだ。そしてそれに対して、死を相対化してとらえるエピクロス主義や仏教を対置する。
 これでは「死をも相対化できる人間」という理想像を押し出して、それにならえとする文字通りの「お説教」になってしまう。人間集団は多様であり、死を相対化できる人もいれば、自分や家族の安全に関心を強く持つ人もいる。生命体の本性としては、後者が多数派であろう。もちろん死を相対化できる人から、そうでない人が何かを学ぶということはあってもよい。しかし両者の間に価値の格差をつけることは、不健康であり、過去の共産主義運動の誤りを再生産する危険がある。
 現実にはなかなか存在しない、ある理想の人間像を打ち出して、それに近いものをより肯定し、遠いものをより否定するという構図は、西欧思想などに古代から(それこそプラトン以来)見られる傾向であって、その20世紀前半バージョンがスターリン主義であり、21世紀に持ち越された残骸が北朝鮮の「主体思想」であろう。これらへの批判はポストモダンの思潮の中で繰り返し行なわれてきた。しかしポストモダニズムに否定的な立場をとる308号流論文の文脈では、それらを無視して一挙に〈モダン〉の時代以前に回帰しているように見える。これはこれで1つの〈反動〉になってしまわないだろうか。
 「反前衛主義と自我主義と観念論は密接につながっており、それは『ドイツ・イデオロギー』でマルクス・エンゲルスが示した党派・実践的唯物論・共産主義の密接なつながりの正反対なのである」という一文も、論理的には理解できなくはないが、いかにも問答無用な姿勢で、308号流論文の延長線上には極めて窮屈な社会をイメージしてしまわざるをえない。

「下層を解放するプロレタリア革命を推進する前衛党を建設しよう」の部分

 私はもちろんこのスローガン自体には基本的に賛成する。ただこの部分の記述を見ると、

 と実に「ならない」という表現が11連発となっている。
 上述の様々な部分と合わせて、確かに流さんの非常な切迫感が伝わってくる。そのことは理解できる。
 しかし私達のささやかな経験によれば、様々な運動体や諸個人との関係を作り、共同作業を進めるためには、相手との双方的な交流の中でこちらも変化していくという、こちら側の「柔軟性」が不可欠である。これほどまでに前もって勢いこんでしまうことは、かえってそれを阻害するのではないか。
 「下層」と一言でいっても、その内容は極めて多様である。低賃金・非正規労働者のような、古典的な「下層」労働者の問題ももちろん引き続き重要である。一方、長時間のサービス残業などによって、時給換算した場合、大企業正社員や医師など一見「下層」らしくない人々が、実は「上層」とも言えない実態が生じている。そして「小さな物語」の時代を経ている現在、客観的・構造的には「下層」であることを強いられているようであっても、個々の労働者を見ると非常に多様なアイデンティティの持ち方をしているだろう。そこでは「下層」労働者を一つの層として扱うような運動の作り方は有効ではなく、もっと個々人の特質やそのおかれた環境の個別性を尊重するような〈丁寧さ〉が必要とされると予想される。

 308号流論文には総じて、熱意の裏返しの焦りや硬さが著しく感じられ、そのことが今後の「革命の推進」「前衛党建設」に向けて必要とされるだろう〈丁寧さ〉にそぐわないのではないかという懸念を生じさせる。道はまだ長く、過去にまして複雑と考えられるので、もう少し幅広く構えておくことが、結局は近道なのではないだろうか。
 現在の様々な運動は、例え意識して語っていなくとも、信頼に足る新たな「前衛党」を模索している。――過去の様々な革命運動が紆余曲折の中で尖鋭化・貧困化し変質していった歴史を踏まえ、そうではない道を模索していくなら、それぐらいの幅で捉えていく方が良い。
 もちろん率直に認めるのだが、そのことを流さんに説得力をもって示せるような実例を、筆者が直ちに準備できているかと言われれば、残念ながらノーである。だからこの文章も極めて限界のあるものといわざるをえない。ただ今後の社会運動に携わるにあたり、流論文とは違うニュアンスを提示して、今後の討議に付することで、私達が新しい地平を切り開くことに若干でも資することができればという思いで一旦提起させて頂いた。
 流さん、また読んでもらった皆さんの御意見を頂き、さらに考えていきたい。




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