共産主義者同盟(火花)

ロシア共産党史の一教訓―党についての小論―

流 広志
278号(2004年10月)所収


ロシア社会民主労働党第2回大会の党の革命

 1898年に結成されたロシア社会民主労働党の実態は、サークルの連合体にすぎなかった。その中で、経済主義者、修正主義者、改良主義者などは、労働運動の自然発生性やテロリズムに拝跪した。かれらは、反専制の政治闘争を自由主義的ブルジョアーの歴史的任務と考え、そのヘゲモニーに従っていればよいと考えた。修正主義者・改良主義者は「地味な日常闘争の漸進的な歩み」を革命闘争の中身として押し出す。ベルンシュタイン主義は、ブルジョア民主主義の一般概念から漸進的な進化を予定調和的に想定して、改良の積み重ねを革命闘争に代えようとした。
 レーニンは、これらの傾向と闘い、党の復活、党の革命を開始した。
 その手始めは、1900年12月の新聞『イスクラ』の創刊であった。『イスクラ』は、ドイツ社会民主党のクララ・ツェトキンなどの援助で、最初にドイツのライプツィヒで、後にミュンヘン、ロンドン、ジュネーヴで発行された。ロシア各地に、イスクラ委員会が組織され、通信や配布などの活動が行われた。この執行受任者網はロシア社会民主労働党の基礎として成長した。『イスクラ』は、当初から、「統合する前に分界線を画さねばならない」という声明を発し、1902年の協議会(代表者会議)を党の第2回大会にしようとするブンドと経済主義者の企てを阻止し、第2回党大会を準備する「組織委員会」を発足させた。この時点で、レーニンは、「分界線を画する仕事は終わった」と述べた。それが、サークル状態を清算する権威ある党大会が開かれることを意味するからである。
 第2回大会は、1903年7月から8月にかけて、ブリュッセル及びロンドンで開催された。レーニンの目的は、それまでの党の諸サークルの連合体としての性格を止揚し、中央集権的な戦闘組織を建設することであった。そのためには、党大会を最高権威とし、それに基づく中央機関をうち立てる必要があった。それは、最高裁定機関の評議会であり、その次に中央機関紙と中央委員会であった。後者は、外見上、中央集権の思想からはずれるが、それは専制による弾圧のために中央機関紙が国外で発行されざるをえないというロシアの特殊な政治状況によるものであると彼は説明した。レーニンは、そうした形での党の復活を目指したが、大会の途中まで、規約第一条でメンシェヴィキになったマルトフの定式を採択するなどレーニン派は少数であった。途中でブンドや『ラボーチェ・デーロ』派などの「極端な日和見主義者」の7人組が大会から脱退してから多数派になったのである。大会後、中央機関紙「イスクラ」編集局は、大会の決定を無視したプレハーノフがメンシェヴィキ派の編集委員を多く入れたことに抗議したレーニンが脱退して中央委員会に移ったため、メンシェヴィキが掌握するところとなった。この分裂をレーニンは、日和見主義的一翼と革命的一翼との区分の現れと総括した。
 彼は、組織問題における日和見主義の原則的特徴を、自治主義、貴族的またはインテリゲンツィア的無政府主義、追随主義およびジロンド主義であると述べている(『一歩前進二歩後退』国民文庫269頁)。それにたいしてレーニンは、「資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンツィアに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発展した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている」(同上26頁)と述べ、プロレタリア的組織と規律を対置した。
 レーニンは、日和見主義の特徴について書いている。
 「日和見主義との闘争を語るばあいには、ありとあらゆる分野における今日の日和見主義全体の特徴、すなわち、それが不明確で、あいまいで、とらえがたいことを、けっして忘れてはならない。日和見主義者は、その本性そのものからして、つねに問題を明確に、きっぱりと提起することを避け、合成力を探しもとめ、たがいにあいいれない諸見地のあいだにとぐろを巻いて、どちらにも「同意しよう」と務め、自分たちの意見の相違点を、こまかな修正、疑念、善良で罪のない願望等々に帰してしまう。綱領問題における日和見主義者の同志エドワルド・ベルンシュタインは、党の革命的綱領に「同意」しており、それの「根本的な改正」をしたがっているにちがいないのに、この改正を時宜に適しないもの、合目的でないものと考え、また「批判」の「一般的原則」(それは主として、ブルジョア民主主義から諸原則や合言葉を無批判に借りてくることにある)を明らかにすることほど重要でないものと、考えている。戦術問題における日和見主義者の同志フォン。フォルマールも、革命的社会民主主義(共産主義―流)の古い戦術に同意しており、同じように多くは熱弁や、小修正や、嘲笑にとどまっていて、明確な「入閣主義的」戦術を決して主張しない。組織問題における日和見主義者の同志マルトフや同志アクセリロードも、公然たる挑戦を受けたにもかかわらず、「規約によって規定する」ことができるような、明確な原則的命題を、これまでなに一つだしていない。彼らもまた、われわれの組織規約の「根本的改正」を望んでいる、しかし無条件に望んでいるのであろうが(『イスクラ』第五八号、二ページ、第三欄)、むしろ、まず最初に「組織の一般的問題」を論じるであろう(なぜなら、第一条にもかかわらず依然として中央集権主義的であるわれわれの規約を真に根本的に改正することは、それが新『イスクラ』の主旨でおこなわれるとすれば、不可避的に自治主義に導くであろうが、同志マルトフは、自治主義へ向かう自分の原則的傾向を、もちろん、自分自身にたいしてさえ白状したくないからである)。だから、組織問題にかんする彼らの「原則的」立場は、七色にきらめいている」(同上278〜9頁)。
 レーニンは、「党内の種々の色合いのあいだの闘争は不可避であり、この闘争が無政府状態や分裂に導かないかぎりは、またこの闘争が、すべての同志や党員に一致して承認された枠内でおこなわれるかぎりは、必要でもある」(同上200〜1頁)と述べている。そして、この大会の「激しい闘争、非難しあう煽動、非同志的な態度、重苦しい雰囲気」に苦情を述べた「中間派」の代議員に対して、レーニンは、「われわれの大会は、なんと立派なものだろう! 公然たる、自由な闘争。いろいろな意見が述べられる。いろいろな色合いが明白になった。いろいろなグループが現われた。手があげられる。決定が採択される。一つの段階をとおりすぎた。前進!―私はこのように解している。これが生活というものである。これは、いつはてるともわからない、退屈なインテリゲンツィアの口論ではない。インテリゲンツィアの口論は、問題を解決したから終わるのではなく、しゃべり疲れたから終わるにすぎない・・・」(同上202頁)と答えた。

1917年以降

 第2回大会後、ロシア社会民主労働党は、中央機関紙『イスクラ』編集局と評議会を拠点とするメンシェヴィキと中央委員会に拠るボリシェヴィキに分かれたが、その後も、両派は、批判し合いながらも、何度も和解した。有名なレーニンの「四月テーゼ」も両派の合同集会で読み上げられたのである。しかし、党の三月協議会の時点では、『プラウダ』にスターリンとカーメネフが掲載した臨時政府を条件付きで支持する方針が採択され、ツィンメルヴァルト派との統一をうたった。4月に帰国したレーニンの「四月テーゼ」は、臨時政府の打倒、全権力をソヴィエトへ、ソヴィエト共和国(パリ・コミューン型国家)の樹立、ツィンメルヴァルト派に代わる新たなインターナショナルの創設、と反対のことを主張した。これも『プラウダ』に載った。「全権力をソヴィエトへ」は、この年の2月27日(二月革命)からこの時までは、権力をソヴィエトに平和的に移行させることを意味した。4月の労働者大衆のデモによる臨時政府の危機に対して、エス・エルとメンシェヴィキは閣僚を送り込んで第二次連立政府=第一次連立内閣を発足させることで、カデットなどのブルジョア政府を助けたが、ボリシェヴィキのスローガンは同じであった。
 ボリシェビヴィキの中央委員会はデモの中止を決定したが、7月3〜4日の労働者大衆の自然発生的な反政府デモを止めることはできなかった。エス・エルとメンシェヴィキが閣僚に入った臨時政府は、軍隊を送って、党の編集局を襲い、デモを実力で押しつぶし、ボリシェヴィキの新聞発行を禁止し、逮捕、捜索、虐殺を行い、首都の革命的な兵士を前線へ送り、前線で反乱兵を処刑した。ソヴィエトは、臨時政府のブルジョアジーと小ブルジョアジーの協調機関になった。そのような機関に権力を移すことは問題外であり、メンシェヴィキとエス・エルのソヴィエトの裏切りに対する闘争が課題になったとレーニンは判断した。彼は権力の性格を階級性で測ったのである。小ブルジョアジーの特徴は、プロレタリアートとブルジョアジーとの中間で動揺を繰り返すことである。しかし、多くはその経済的地位から、ブルジョアジーになりたいという願望を持ち、そちらに傾きがちである。レーニンは、8月から9月にかけて『国家と革命』を書き、その中で、日和見主義・修正主義国家論を批判し、カデット、エス・エル、メンシェヴィキが、2月27日から8月27日まで、改革をさぼり、官吏装置の再分配を行っただけという事態によって、「被抑圧階級と彼らの先頭に立つプロレタリアートとには、全ブルジョア社会にたいする彼らの和解できない敵対関係がますますはっきりしてくる」(岩波文庫48頁)ことを指摘した。彼は、7月半ばの『スローガンについて』で、状況の変化によって、「権力をソヴィエトへ」のスローガン革命が、革命の圧殺者へ権力を渡すことを要求するものになったので、掲げるわけにはいかないと書いた。
 レーニンは、「エス・エルとメンシェヴィキが、ボルシェヴィキの粉砕や、戦線での銃殺や、労働者の武装解除を支持したので、革命的プロレタリアートが、いわばその「復讐」として、反革命に対抗してこれらの諸党を支持するのを「拒絶」するようなことをやれると考えるなら、ひどい誤りであろう。そういう問題のたて方は、第一に、俗物的な道徳観念をプロレタリアートになすりつけることであろうし(プロレタリアートは、運動の利益のためなら、いつでも、動揺的な小ブルジョアジーはおろか大ブルジョアジーをさえ支持するであろうから)、第二に―そしてこれが肝心なことだが―、それは「道徳談義」によって問題の政治的核心をぼかそうとする俗物的な試みであろう」(『さしせまる破局、それとどうたたかうか 他』国民文庫65〜6頁)と述べた。この場合の「問題の政治的核心」は、平和的に権力を掌握することができなくなったということである。
 プロレタリアートの任務がソヴィエトを自らの手に奪還することになり、武力対決が避けられないものとなった以上、それに対応するために党の革命を実行しなければならなかった。レーニンは長々と「談義」をしている場合ではないことを強調した。
 1917年7月26日から8月3日までロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ第6回党大会が開催された。大会は、党員資格を規定する規約第一条に、党員は党のすべての決定に従うことという補足を加え、また、新党員の採用は党員2名の推薦によって行われ、その組織の党員総会で確認されることが決定され、すべての党組織が民主主義的中央集権制の原則で建設されるべきことが強調された(同上 注)。この規約改訂は、ブルジョアジーの臨時政府との軍事的決戦に備えたものである。厳しい弾圧下のトロツキーらのメジライオンツィが入党したこの大会でも、「談義」が行われていた。具体的な行動計画はなかった。それが決定されたのは10月16日である。このころ、ケレンスキー臨時政府は、英米帝国主義と共謀してペテルスブルクをドイツ軍に引き渡す準備を始め、政府をモスクワに移す決定をした。ベルサイユ派のブルジョアジーが昨日まで敵であったプロイセン軍をパリに引き入れてパリ・コミューンを圧殺したのと同様に、国際反革命同盟が、革命を圧殺しようとしていたので、ぐずぐずしているわけにはいかなかったのである。

 レーニンは、晩年の闘争において、平和的な建設が最重点の課題になっていることを強調した。しかし具体的にそうなったことに適応して、どのような党の革命が必要なのかを具体的に明らかにする時間はなかった。
 ボリシェヴィキの第10回大会で一時的例外的分派禁止規定が決定された。後にこの規定はスターリンによって一般的規定とされる。しかし、コミンテルン第3回大会のケーネンによる「共産党の構成、その活動の方法と内容に関するテーゼ」では、中央委員会と諮問評議会を大会でつくり、場合によっては中央委員会に政治局や組織局などの小委員会をつくって日常の指令を行い、大きな問題について決定するために中央委員会を定期開催してもよいと述べた。さらに、中央委員会は、重大な戦術問題での意見の相違を抑圧してはならないし、その代表者を中央委員会に必ず入れるべきだと述べていた。これは、ロシア社会民主労働党の実際の経験から来ているのだろう。レーニンはロシア的すぎると批判したが、このテーゼの内容を支持した。
 また、レーニンは、官僚と通じたスターリンの書記局の力の増大に対して、労働者大衆から選ばれる労農監督部による国家の監督による官僚の力の抑制と党中央委員会の大幅増員をもって対抗しようとした。それは、書記局にたいする中央委員会の評議・監督強化を意図したものだろう。
 スターリンの書記長解任を求めたレーニンの「遺書」は、スターリンらによって握りつぶされた。トロツキーは、レーニンがスターリンの厳しい監視をかいくぐり、最後の力をふりしぼって命がけで書いたこの「遺書」を使わなかった。スターリンを通じて浸透してきたのは、事業の利益より出世の利益を上に置く官僚主義であり、それは革命を破滅させるので、この闘争は革命そのものを守る闘いだった。
 この後、スターリンが実権を握ってからも、しばらくは、「談義」や反対派との共存の伝統は簡単には破られなかった。しかし、その後、いわゆる「血の粛清」という反対派の抹殺が行われるようになる。

 コミンテルン第3回大会が打ち出した統一戦線戦術について、レーニンは、「コミンテルンは攻撃戦術から包囲戦術に移った、すなわち滲透が公然たる武装闘争にとって代わった、と述べた」(『コミンテルンドキュメントT』現代思潮社197頁)。トロツキーは、それを防衛のための過渡的綱領による大衆の獲得と規定した。統一戦線戦術を説明して、ジノヴェフは、1921年12月のコミンテルン執行委員会での演説で、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの政治的関係の例をあげた。彼は、下からの労働者の要求に応えて両者の統一がはかられたのであり、統一戦線は、労働者階級の革命的要求を資本家階級に対して貫くためのものであったと述べた。これは1917年7月16日のコルニーロフの反乱後、臨時政府=第二次連立政権内のエス・エルの左右分裂とメンシェヴィキ右派(祖国防衛派)と左派(国際主義派)の対立が激しくなって解体が進み、ボリシェヴィキへ加入する者が増えたことなどを指しているものだろう。1905年革命時に労働者の反専制の闘争機関としてつくられたソヴィエトは、エス・エルとメンシェヴィキの小ブルジョア・ヘゲモニーに支配された。ボリシェヴィキは長く少数派であった。1917年の4月党協議会の時点では党員8万人にすぎず、7月事件後の第6回党大会までに24万人に激増したのである。
 レーニンは、コミンテルン創設時(1919年)に、ソヴィエト型制度として、ドイツの労働者評議会(レーテ)とイギリスの職場世話役をあげた。ドイツでレーテ革命を目指して蜂起したローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは、ワイマール共和国の社会民主党シャイデマン政府によって殺害された。一連の西欧における革命的行動が押しつぶされたのは、革命党の力不足によるもので、労働者の中で多数となることが必要だとして統一戦線戦術が採用されたのである。
 レーニンは、それが具体的な階級階層間の政治的関係形成の場であることを強調した。メンシェヴィキが政治的に代表したのは、動揺的な小ブルジョアジーであり、浮動的・個人主義的ブルジョア・インテリゲンツィアであった。「代表される者」と「代表する者」は異なる。そのために、レーニン・ボリシェヴィキは、メンシェヴィキとの適切な政治的関係を通じて、小ブルジョアジーをプロレタリアートの側に引きつけ、その影響下にある労働者大衆を、小ブルジョアジーの立場からプロレタリアートの立場に移行させることができたのである。権力を握るブルジョアジー諸党派、中間で動揺する小ブルジョアジーの諸党派、労働者の諸党派、などとの政治的諸関係を形成=闘争することを通じて、プロレタリアートの党形成を進め、革命を準備し、ヘゲモニーが実現できるのである。

 日和見主義・改良主義・修正主義を暴露し、共産主義の側に労働者大衆を結集し、引きつけ、資本家階級と階級として闘争するためのプロレタリアートの武器である中央集権的戦闘組織=党を建設する必要がある。その場合に党と大衆組織を混同してはならない。内乱・ソヴィエト等々の思想を宣伝すること、労働者大衆の自然発生的運動に方向を示し防衛すること、情勢を的確に評価すること、等々を通じて、党は、労働者大衆によって試され、信用を獲得しなければならないのである。
 最後に、『共産主義における左翼小児病』の中で議会主義は政治的に寿命が尽きたという宣伝ではない実践テーゼを出したドイツやオランダの「左派」を批判したレーニンの言葉を、自戒の意味も含めて引用して、「小論」を終える。
 「自分のおかした誤りにたいする党の態度は、それの党のまじめさを測り、また、党が自分の階級と勤労大衆にたいする義務を実際にはたすかどうかを測る、最も重要で、最も重要な基準の一つである、公然と誤りをみとめ、その原因をあばき、その誤りを生みだした情勢を分析し、誤りをあらためる手段を注意ぶかく討議すること、―これこそまじめな政党のしるしであり、これこそ、党が自分の義務を遂行することであり、これこそ―階級を、さらに大衆をも教育し、訓練することである。ドイツの(そしてまたオランダの「左派」はこの義務をはたさず、そのあきらかな誤りについてとくに注意ぶかく、きちょうめんに、慎重に研究しなかったが、このことこそ、彼らが階級の党ではなくなくて、サークルであり、大衆の党ではなくて、インテリゲンツィアとインテリかたぎのいちばんわるい面にかぶれた少数のグループであることを証明している」(国民文庫59頁)。




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