共産主義者同盟(火花)

現在のイラク情勢と反戦・国際連帯のスローガンをめぐって
−討論報告−(2)

「火花」編集委員会
278号(2004年10月)所収


II.討論

 討論の中心となったのは、今の反戦運動・国際連帯活動と、その中におけるNGO・NPO活動の評価をめぐる問題である。以下、その内容を報告する。
 国際連帯の内実やプロレタリアート(党)の戦術を問い直す一つの材料となればと思う。

1.日本における反戦運動・国際連帯活動の現状とNGO・NPOへの評価

 これまでの提起にあまり異論はないが、その内容は今や大衆運動の中でも周知のことだ。われわれはもう一歩先に進まなければならない。
旧来の「左派」が呼びかけている反戦共同行動でも、市民運動、NGO・NPOの結集がカギとなっており、そうしたものへと運動の実態を移行させていくことが図られている。ただ、その規模は欧米での反戦運動と比較すると小さい。欧米では、社会主義者、共産主義者が大規模な反戦運動のイニシアチブとして登場している。ANSWERがそうであるし、「世界社会フォーラム」もそうした動きを背景としている。日本においては、なぜ「左派」の結集が進まず、運動の現実に立ち遅れているのか、を考えなければならない。
提起の内容について、もう一点指摘しておきたい。NGOと言っても多種多様であり、中には、西洋的価値観を押しつけようとするグループも存在するということだ。たとえ ば、アフガニスタンでそうしたNGOが攻撃対象となっている。日本においては、NPO、NGOの積極的イメージがふくらみすぎではないか。

 反戦運動の評価についてだが、欧米では、少なくとも'70年代以降の「新・旧」左翼運動、労働運動、そして社会運動の継続性があり、それが現在の大衆運動の動員力に 結びついていると思う。日本の反戦運動においては、その背景における切断状況があり、欧米のようにはならないのではないか。その結果、一方で、旧来の枠組みを越えない共同行動の継続、一方で、「新しい市民運動」ともくくれないような運動のカオス的状況が生じていると思う。
提起では、「反帝民族解放闘争支持」のスローガンが批判されているが、'60〜70年代、当時の世界的な構造において、反帝民族解放・社会主義革命の現実的な条件が存 在したし、ベトナム解放闘争、キューバ革命運動支持等を掲げる日本における運動もリアリティをもっていた。今、このような現実の条件が失われていることは確かだ。しかし、パレスチナ連帯運動等の取り組みは継続されており、それと結びつくことが必要である。また、スリランカ、東チモール、韓国、そして、アメリカ等々、世界の階級闘争の現状を見なければならないし、その中で新左翼系譜が生き続け、新たな視点で運動を展開している現実に注目し結合する活動が必要だ。
  提起は、「反帝民族解放」に「新しい社会建設」を対置しているように見えるが、社会革命、即、NGO・NPOと言えるだろうか。それ自体の拡大というより今述べたような各国の運動主体と結合する視点を持たなければならない。少なくとも、「NGO・NPOに依拠し」、と言うことはできない。

NGO・NPO自体多様性をもっており、ひとくくりにすることはできない。反帝闘争を掲げてきた左翼運動のメンバーもその中で活動を展開しているし、二極対立的にとらえることはできない。
 注目すべきは、NGO、NPOそれ自体と言うより、その背景にあるエネルギー、政治的志向だと思う。たしかに、その運動が階級関係の問題を捨象してしまう危険性もあるだろう。だが、たとえば、「自国帝国主義打倒」か否か、という基準のみでNPO・NGOを判断するのは誤りだ。具体的な活動の中で、現地の人々の志向を、文化の問題も踏まえ、把握し、社会建設に参加する実体的活動を求めたいという動き、その中で運動への実感、自覚を持ちたいという志向、その積極性をとらえることが必要だ。
 その意味で、提起において、今あるNGO・NPOそれ自体に連帯・依拠するということを言っているわけではない。イラク問題について見ても、旧来の左翼政治の内容が 破綻を見せている中で、それを実践的に批判していくためにも、現に展開されている広範な運動の中からポジティブなものを見い出したいということだ。

 東チモールを例にとると、旧政権打倒までは「反帝」でよかったが、今、建設の段階では、もちろんその内容だけでは解決できない多くの困難が存在する。その過程に、種々のNGOが参加しているが、その「先進的な取り組み」、実験の多くは、実際には幻想の域を出ていないように思う。特別な意味をそこに見いだすことはできない。

NGOの実践が共産主義的な質をもっているかどうか、というような線引きにはあまり意味がない。われわれの課題は、その活動のエネルギー、そして、実践経験の蓄積をどう摂取するか、である。当然だが、それは、われわれ自身がNGOとして活動していくということではない。ともあれ、日本国内での高みからの批判に終始していてはならない。

かつては、民族解放闘争に対するソ連の物質的支援があり、ある意味で、われわれはそれを前提に、国際連帯を構想していた。しかし、ソ連邦の崩壊以降、国際連帯を構築していこうとするとき、物質的援助等にも取り組んでいく必要がある。この課題に対して、「主体としての」共産主義運動としてどう答えるのか、という問いを立てなければならない。この観点から、再度、現代世界の構造とどうリアルに結びつくか、こういう領域での独自の闘いが問われているのだ。

 たとえば、NGOは、今の世界の現実に内在する問題をそれぞれに見いだし、具体的な「仕事」を引き受けているわけだが、じゃあ、われわれは何を独自の仕事とするのか、ということか? 提起にもあったが、アラブにおける社会主義−国有化、パレスチナにおける国家建設の破綻や困難、とくにソ連邦の崩壊以降の困難に結びついていくことを考えなければ、たしかに国際連帯も単なるかけ声になってしまうだろう。今、「建設」の領域に、部分的ではあれ関わり経験を積んでいるのはNGO等である。その実践を自主的に検討することが必要なのではないか。

 ただ、その主張には、先進国主義的な傾向があるのではないか。いわば、もてる国、もてる者による支援、という発想があるように思う。そうではなくて、種々の左翼運動が国際的につくりだしているネットワークをより広げることが求められているのだ。実際、日本の新左翼運動もそうした国際交流の一環を形成している。私は「9.11」以降、世界的な反戦運動の高揚が始まった、というイメージを抱いている。そのことを背景に、ネットワークを通じて、共同討議を組織していくことが急務だと考える。

2.イラク社会の構造をどうとらえるか。「現実を知ること」について

 アラブの社会構造に踏み込むことを提起しているが、なかなか難しい。資料も少ないし、われわれの見方を規定している「オリエンタリズム」の転換が必要だ。だが、提起されたこととの関係で次のことを指摘しておきたい。
 かつてのアラブの反帝主義、ナセル等が主導したアラブ・ナショナリズムは、帝国主義の国境線を認めず、アラブ全体を解放するという志向をもっていた。それは、戦後の世界構造全体を揺るがすような大きな視点に立っていたと思う。そころが、それに対し、バース主義は、一国的な解放を中心に考え、いわば、その総和によるアラブの解放という方向だと思う。ただ、それが'70年代以降、人々に受容されてきた。ナショナルな政党が一国権力を掌握し、強権国家が生まれた。だが、内部的には強固だったか、と言えば疑問だ。むしろ、ある種の「共同的社会」が実際にもってきた力を見る必要があるのではないか。
 ところで、イラクでは、フセイン政権下、近代化が進められたが、ある意味で、イラク共産党、イラク労働者共産党も近代主義的志向が強いように思う。だから、ファルージャにおける抵抗活動をフセイン残党によるテロと見なしている。だが、補足提起にもあったが、ファルージャでは共同的社会が連綿としてあり、フセイン体制がその上からのしかかってきた、という構造があったのではないか。その意味で、ファルージャの闘いは住民蜂起と見るべきで、テロリストによるものと決めつけるのは誤っている。

 たしかに、必ずしも、ファルージャがフセインとべったりだったとは言えないだろう。そこでの闘いをテロと決めつけるのは、政治的な観点からのスローガンだ。そのことも合わせて、今、情勢の具体的な分析がいるとともに、それが現段階では決してシンプルな構造になっているわけではないことを把握しなければならない。現代世界にも、一本補助線を引けば理解できるというようなシンプルさはない。だから、スローガンにも、慎重さが求められると思う。'70年代以降の反帝民族解放闘争、その失敗の賞賛というような誤りに陥ってはならないと思うのだ。

 パレスチナ連帯運動でも、かつてはPLO支持(ないしその左派支持)の単純なスローガンが通用した。今はそういう構図が成立しない。
イスラエル軍による議長府包囲に対し、パレスチナにNGO的な形でアプローチしてきた人々が、大量に現地に入って、「人間の盾」等の形で活動した。しかし、その経験 の中で、PLOの腐敗を目の当たりにし、今、とても支持・連帯と言えないような状況だという。こういう現実を知るためにも、現地の人々とともに活動に取り組んでいる部分の経験から学ぶべきことは多い。また、NGO・NPOの中に政治的な訓練を積んだ人々が数多く育まれている。この点で、左翼運動の立ち遅れがあると思う。

3.世界階級闘争の「環」ということをめぐって

 私は、今、「世界はどうなっているか」をトータルにとらえる視座、すなわち、世界 階級闘争の「環」を明らかにする作業が必要だと思う。現代世界を帝国主義の動向だけでとらえるのは一面的な見方だし、反帝闘争の結合と言っても、イスラム原理主義の反帝、反米の突出、という現象に追われていてはならない。また、たとえば、中国、ベ ナム、キューバ等々は残存し、社会主義をなお掲げ続けている。そうした現実を無視することも非現実的だ。その意味で、'60年代末、「体制間矛盾論」や「反スタ論」に対して提出された「一向過渡期世界論」のような理論の復権を考えるべきではないか。

 左派の活動とNGO・NPOとの相互作用で運動の現状があると言えるだろう。ともあれ、現実と運動は変化しているのであり、古い運動形態とスローガンでは対応するこ とができない。この点で、日本の現実が立ち遅れていることを認めなければならない。
 その際、少数派が集まって旗を掲げれば、ということではない。今、起きていること、課題としてあがっていることとの関係で運動をとらえ返す作業が求められている。
こう考えたとき、なぜ、「過渡期世界論」なのか、疑問である。

 私もだ。これが「環」だ、という発想自体がおかしい。そういうものを示す「主体」とは何だ、という疑問もある。ではなくて、今、直接現実を知ろうとする志向、特に下層へと向かおうとする志向が重要だ。「環」とか「××論」とかを立てることで、そのように都合よく現実を見、一方、見るべきことを見落とす危険性がある。

 現実に、社会主義を目指す運動が存在し、左翼運動もまた各地でイニシアチブとして活動を展開している。こうしたことをトータルにとらえるべきだと言っているのだ。当然、世界の現実がそうシンプルにとらえられるとは考えていない。ただ、何らかの視座をもたなければならない、ということだ。
 運動形態も、今なお労働運動、市民運動等々、多様に存在している。提起のような主張では、NGO・NPOという一つの運動形態に限定することになるのではないか。

 そのようなことは言っていない。繰り返すようだが、個々のNGO・NPOを取り上げてあれこれ論評しようと言うつもりもないし、運動形態についても、NGO・NPO自体、一元的にとらえることはできない。
 そういう論議ではなくて、従来、「兵站」的な位置づけであった社会建設、社会活動の領域への注目が今必要だという問題意識に基づき、NGO・NPOの活動とそこに存在する志向やエネルギーに注目しているのだ。たとえば、キューバ革命への連帯について言えば、これまで多様な連帯運動が継続されてきたが、政治情勢と対応し、現地の諸政治運動と結合していくことはもちろん重要である。が、同時に、革命社会建設の活動領域に注目することも重要な課題であり、いずれかに一元化できる問題ではない。
 ところが、日本の左派的運動の場合、あくまで現地の問題を政治扇動の素材として扱っている部分が多いのではないか。
 イラクの現実すべてを知る、そんなことはできない。だが、連帯すべき対象の現実を知らなくても政治主張が成立するような構造がある、そのことへの批判が提案の主旨である。

4.プロレタリア国際主義の戦術問題をめぐって

 帝国主義・資本主義の支配構造と対抗する世界の諸運動に対する統一の呼びかけは、かつては、<党−国家(権力奪取)>の戦術に集約し、諸運動・課題をそれに従属させるものであった。しかし、それは今日、破綻している。では今、どういうレベルで運動の統一を考えるのか、という問いに対し、われわれは新たな社会建設の質をもった運動をつくりだすことを提起してきた。そして、そこでの運動・組織の結合の条件を検証しようとしてきた。「世界のありよう」とか「論」は、そうした実践の側から生まれる。
 資本主義・帝国主義に対する実践的批判のプロセスは、編み出された「論」より、現実の方が進んでいる点もある。NGO等の現実に寄り添った活動は、現実の中で検証され、その経験が蓄積されている。そこに注目し、結びつき、運動の統一の方向を(理論−綱領・戦術として)示していくような独自の活動が必要だし、そのための能力の形成を図らなければならないと思う。

 最初にも述べたが、サミットでも打ち出されたように、国連やアメリカ政府は、民間のNGOを大量にアラブ世界に送り込もうとしている。日本政府もそれに資金援助することになろう。一方、そうした補助・後ろ盾なしに、自立して活動しているNGOもある。われわれは、とにかく(NGOによる)援助ならよい、ということではなく、政府に従属する前者と後者の間に明確に線を引かなければならない。
 われわれが、NGO・NPOの活動領域に踏み込んでいこうとするなら、そうした分岐をつくりだしていくことが問われるだろう。

 政府から補助を受けない、ということが線引きの基準になるだろうか。実際の活動展開、現地との結合関係などトータルにとらえるべきだ。それに、NGO・NPOへの評価や批判は具体的なことに即して、具体的に展開すべきで、一般的な基準を立てることはできない。

 「新しい運動」と言うが、労働運動、自主生産・自主管理運動、社会変革の志向をもつ運動、これらは歴史的に、一貫して存在してきた。また、たとえば、部落解放闘争や女性解放闘争等の運動においても、新しい社会の建設を目指す志向が存在してきた。問題は、それらは、運動の発展段階で必然的に権力構造と突き当たる、ということだ。具体的には、弾圧との攻防関係等の形で。社会革命をめざす運動に、共産主義運動が結合していこうとするとき、資本と権力とのこの攻防に対して責任を引き受けていくことが問われる。それを具体的に示していくことが必要だ。

 運動との関わりは、国政、地方自治体、労働運動、そして、NPO・NGO等々の広がりと構造をもってつくりださなければならない。ヨーロッパの場合、その基盤となるような社会民主主義的な層が存在していると言えるだろう。 
 だが、日本の場合、そうした地盤は薄く弱い。制度や社会構造をめぐる個々の攻防の結びつきが希薄だ。その意味で、運動全体の底上げが必要だ。ただ、そこにおいて、社会的領域が先行するのではないだろうか。

 社会建設の能力と経験のないところで社会革命を伴った政治革命はない。現実の中から、先行する内容を取り出し、形にすること、これがわれわれ独自の役割だと思う。「論」的、段階的に「先行」としてあるのではなく、今の運動の中に社会革命の質を持ち得ているか否かが問題だ。それを主体的に見いだしていかなければならないのだが、この点で、われわれの経験・蓄積は未だ不十分だ。この活動になお重点を置いていくことが必要だと思う。




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