共産主義者同盟(火花)

イラク情勢について(4)

渋谷一三
276号(2004年8月)所収


1. 部族社会ではない

 報道の中に、「部族長」とか「部族」という表現が氾濫している。これは、tribeという英語をそのまま訳しているからである。誤訳をしているというのではない。英米がイスラム社会を見るときの偏見がtribeという表現となって認識の網にのぼせられる。この偏見をそのまま移入しているだけのことである。
 このことは、日本のマスメディアが、何ら独自の取材をせずに、大本営たる米国の発表を垂れ流していることを期せずして露呈している。
 イスラム社会への偏見だというのは、アフガンに対してもこのtribeという表現が使われていることから、そう断定できる。
 アフガニスタンの現状は軍閥支配政治であり、中央政府は成立していない。イラクの現状は軍閥政治などはなく、「部族長」の談合政治の下に中央傀儡政権が樹立され、この傀儡政権に反対している宗教指導者をリーダーとする反対派が武装抵抗闘争をしている、というものであろう。
 両者は明らかに異なった展開をしている。これを、まじめに分析しもせず、tribeという概念による認識で事を済ませようとしている。このため、現状分析においては失敗の連続なのである。
 また、読者の中にも、「4万人の一族の何某」とかいう表現にふれて、戸惑った経験をお持ちの方も多いと思います。運動圏の情報のなかにも、このtribeという言語に規定された認識構造は入り込んでいる。
 本稿は、「部族社会ではない」ということを論証することが目的である。

2. 一神教と多神教

 人間の平等という概念は一神教からその必然として導かれる。多神教においては神々相互間の平等に対応する概念としての人間相互間の平等という概念がその延長線上に提起される可能性を持つが、一神教においては神は一つで絶対的であり万能である。そうでなければ一神教にはなれないからである。
 多神教においてはすべてが相対化されるのに対し、一神教においては究極の真理とか絶対的なものが存在して欲しいという願望とか組織される。逆に言えば、現実の不確定性への不安から解放されたいという願望が、絶対的存在を仮定する一神教を生み出したといえる。
 事実、一神教のアラビアにおいて10世紀・11世紀に化学と数学が発展し、キリスト教という一神教の中世ヨ―ロッパにおいて、絶対的真理の追究としての物理学が成立発展する。相対化していては複雑すぎて辿り着けなかったであろう単純な法則の発見へと結実していく。生物学や医学においても遺伝子概念や病原菌概念が成立し様々の発見へとつながっていく。
 現実はその先を行き、絶対的なるものの追求という概念でできることはほぼし尽くしており、物事の複雑性をそのまま受け入れ、すべての事物を相対化して相互関係として総合的に認識することが求められるようになっている。一神教の時代は終わったと言える。
 一神教における「人間の平等」概念は絶対的で万能な神の下における、右往左往し無能な人間という人間把握上における平等でしかない。

3. イスラム教

 キリスト教が古代ローマ帝国という一大帝国を結実させるという形で現実化(物質化)された結果を総括できる歴史的位置にあったマホメットは、キリスト教における「人間の平等」の不完全さを一神教にまで遡って総括する視座を獲得することはできなかったが、ローマ帝国の人民支配の現実とその帝国の崩壊という現実を手にできた歴史的位置から、一神教の必然性から導かれる人間の平等という限界をもってであれ、キリスト教の「人間の平等」をより現実における人間の平等に発展させようとした跡が伺われる。
 キリスト教においては一度も実現したことのない一夫一婦制度へ人間が縛りつけられ、この建前から外れる女性存在には魔女のレッテルが貼られた。イスラム教においては、キリスト教からは魔物に見える一夫多妻制の容認(容認であって一夫多妻制度ではない)という現実の擁護が試みられる。
 キリスト教がなぜ一夫一婦制を強要するしかないかと言えば、求愛行動という偶然性の組織化行動が必然として持つ不確かさから逃れ絶対的なものを求める精神構造(キリスト教のもつ文化構造と言っても良い)から、求愛行動が恋愛という概念に発展せしめられ、絶対的な愛という仮想概念に導かれ、不確かで移ろいやすい恋愛を絶対化するために神の前での誓約がなされ、絶対的純粋なる愛の結実形態をして結婚を想定するという体系が出来上がるからである。その根底にあるのは他者への支配欲=オブラートに包んだ言い方をすれば移ろいやすい人の心をつなぎとめる願望に支配されてしまった人々=に発生する絶対的なる恋への願望である。 
 そもそも性は異なる遺伝子の組み合わせを保障するために発生した仕組みであり、同じ親をもつ兄弟や姉妹は非効率的存在である。他の哺乳類をみても一夫一婦制を取っているものはいない。動物それぞれの事情に合わせた形で実際の行動は同じものはないが、子育てをしなければならないという哺乳類共通の条件に照応する共通の性行動様式は、子育てが終わったら別の異性と性交するという点である。
 数千万から数億という精子の存在もキリスト教世界観から解釈すると生存競争であり、絶対的に優秀な一個の精子の選別過程と解釈されてしまうが、最も早く子宮に達するはずの精子は膣内で死んでいく。その死んだ精子のアルカリによって徐々に膣内は中和され「遅れて登場した」精子が偶然子宮に到達するのである。ここで行われているのは如何にして多様性を確保するのか如何にして偶然性を獲得するのかという作業と見ることができる。すなわち、多様性と偶然性を獲得するために数千から数億の精子が必要であったという解釈である。このことを詳述することは可能だが、本稿の目的からはそれるので、ここではこの指摘に留める。
 キリスト教世界観から見るのと、それにとらわれずに見るのと事ほど左様に違ってくるのである。
 キリスト教からみて許せない一夫多妻制もアラビア半島の現実の中では、成人男性の死亡率が大変に高い社会における寡婦の救済という役割を果たしたのであり、多くの妻を持つ立場に「追い込まれた」社会的強者にはどの妻にも苦痛を与えてはならないという願望に基づく考えられる限りの戒律が付帯されている。
 ここに見られるマホメットの姿勢は可能な限りの現実肯定による現実における人民の救済である。
 この姿勢は経済的不平等に対しても向けられる。
 現実における経済的不平等の承認から出発し、現実における経済的不平等の可能な限りの是正という方策である。彼はその方策をこれまた教義として絶対化させてみることで、社会全体への社会改革の方策の波及を構想したのであろう。
 マホメットがキリストと違ったのは、同じ一神教という制約・限界の内にありながらも、現実の人間相互間の平等という概念の発展であり、これが彼をして神の下での哀れで無能な人間という一点における平等を桎梏と感じ、だからこそ、神の下での平等ではない平等概念を成立させる一神教への宗教改革という位置をもったかどうかの違いである。もちろんキリスト教の物質化なしに、宗教改革の動機は発生しないのである。問題は後発のマホメットが宗教改革では収まらず新宗教の設立にまで踏み切らざるを得なかった社会的困窮と社会の相違であり、どのように教義を創出することでどのようにキリスト教世界観との相違を獲得できたかとうい点にある。

4. 利子の禁止

 マホメット(ムハンマド)が構想したのは、不労所得を出来る限り排除することによる現実の経済的不平等の現実における人間の平等化である。
 その発展として必然的に自然発生していた利子を禁止する。これは人為的社会変革であり、困難な(非自然な)社会変革である以上政治・軍事権力による独裁だけでは不十分であり、宗教形態をも必要とした。
 利子を禁止することで、利子を起源とする不労所得は排除できる。しかし、他方、より多くの資金を必要とするプロジェクトを実現することが不可能になる。これを是正するために江戸時代風にいえば講の組織が自然発生する。相互扶助と大規模資金の調達機能の獲得形態である。現代風に言えばネットワーク。このネットワークをイスラム教世界観を理解する回路をもたないキリスト教世界観の人間からみれば、各地域ごとのネットワークとは認識されずに、Tribeとなる。
 講あるいはネットワークの書記官は執行権を手にし、それに基づく権力を掌握することになる。この書記官をキリスト教世界観の人間は「部族長」と認識し、書記官の暴走を阻止するために設けられた評議会を「部族会議」と認識せざるをえなくなってしまうのである。それはキリスト教世界観が必然的に内包していた限界の露呈である。

5. 利子の禁止による商習慣の相違

 利潤を目的とすれば、コスト+利潤=交換価値(商品の価値)という資本主義の技法が成立する。ところが利子・不労所得とみなされる利潤を否定したイスラム社会においては物品の交換はその必要性に基づいて決定される。必要性の度合いを一律に決めるなどということは出来ないので、売り手と買い手との間にその都度交渉が行われる。同じ物品が異なる値段で売買されるのである。
 この過程を体験した異文化圏(仏教圏)の人間からみると、「売り手も買い手もこの交渉そのものを楽しんでいるようであり、飛行機の出発時刻に間に合わせるために言い値で買おうとしている私には売りたがらない」(五木 寛之)奇妙な商売人と映る。そこで五木さんは売り値が高く設定されており、値切らない購買者たる私は物の価値が分からない人間と映り、物の価値がわからない人間には売りたくないのだろうと解釈する。
 この体験の必然か成り行きか、五木さんはその後すぐ蓮如上人の研究に入り、仏教系大学に入学することとなる。
 イスラム圏においては物品の値はその都度決められるので、資本主義圏の人間には理解不能なのである。物品の値段がその都度決められるという事情は、本節の冒頭に述べた通りである。ところで物品の値段がその都度決められるという制度は商品という概念を成立させない。あらかじめ価格を設定できないからである。また、その都度決める作業は資本主義から見れば非効率的であり、不公平なものと映る。
 かくして、奇異で理解不能なイスラム社会というステロタイプが出来上がる。資本主義が世界を席巻する過程で最も最後になったのが、その想定にあった交通不便で他文化との接触のなかった地域ではなく、イスラム圏であったのである。これまたキリスト教世界観により囚われた人にとっては不愉快の塊である。
 だが、イスラム社会では、実際の商取引における不公平(ぼる行為など)を防止するために、商取引を監視する第3者を必ず入れるように社会制度が発達した。この公証人とでも言うべき存在は両者から信任される人物でなければつとまらない。かくしてこうした人々がネットワークの中に必ずおり、高い社会的信任を得ている。この人々を乱暴にも米・英は部族会議の構成員と同一視したり、地元有力者などと認識する。
 利潤を得ることを良しとしない社会が必然的に発展させ生み出してきたのが「公証人」という資本主義からみると非効率で不労所得を得ているかのように見えてしまう存在なのである。

6. 運動圏のみなさんへ

 部族という用語は一切使わないようにしましょう。
 場合によって一門と訳すか、ネットワーク、あるいは○○互助組織とか訳しませんか?!
 本稿が少しでもお役に立つことを願います。
 また本稿への疑問やご意見をおよせください。




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