共産主義者同盟(火花)

社会運動の現実批判のいくつかの批判的検討

流 広志
275号(2004年7月)所収


 すでにアメリカでもイギリスでも、政府自身の調査によって、イラク戦争の口実だったフセイン政権の大量破壊兵器保有は否定された。小泉政権は、これで、まだ大量破壊兵器があるともないとも言えないなどという言い逃れはできなくなった。参議院選挙では多くの人々がこのような小泉政権のごまかしにノーを突きつけた。
 参議院選挙では、党大会で帝国主義規定を捨て、民主的資本主義を目指す改良主義路線を採択した日本共産党が大きく議席を減らした。日共スターリニストは、党中央の都合で改良主義派に転落して延命をはかろうとしたが、そんなものを労働者大衆の多くは望んでなかったのである。党の名称に「社会」「共産」という中身と無縁の言葉が入っているにすぎない社共の議席が少なくなったことは、共産主義とは無関係である。
 共産主義を堅持する諸運動は、この間、労働運動や反戦運動などの領域で、一定の勢力を維持し、一部では拡大さえしている。世界では、その傾向はより明確である。具体的な内容の評価を別にして、イラク労働者共産党は、失業者や労働組合の大組織を建設することに成功し、インドではインド共産党が連立政権の一角を占め、フィリピンでは共産ゲリラが復活し、スリランカでは、社会主義政党の人民解放戦線が政権入りし、イギリスでは、労働党支持組合から分裂した諸労組が新たな政治グループを形成する動きがあり、韓国では、民主労総を基盤とする左翼政党が国会で10議席を獲得し、フランスでは地方選挙で、社共が躍進し、アメリカでも大統領予備選で、一時は左派候補ディーン旋風が吹いた、等々。
 参議院選挙では、日本での環境政党の「みどりの会議」(代表中村敦夫氏)が、90万票を獲得した。候補や支援者には、NPOなどの社会運動に関わる人々が多い。みどりの会議」は、当選者をだせなかったが、そこに示されたNPOなどの社会運動の政治参加が注目される。これまで、社会運動は、政治を忌避する傾向が強いと見られてきたが、そうとも言えなくなってきた。そこから見えてきたことがある。内在的な問題解明を試みるという立場から少々検討してみたい。

「みどりの会議」中村敦夫氏の現実批判について

 中村敦夫氏は、参院選にあたって、二大政党をチェックできる第三極ができるかどうかと環境政党が日本で成立するかどうかが二大テーマだと述べている。第一の点については、支配階級が政権をたらい回しする仕組みにすぎない二大政党制を容認しているのは不可解である。第二の点では、すでにヨーロッパ諸国では環境政党の政権参加は長い経験があり、その中で、ドイツの緑の党が、コソボ空爆を容認するなど、基本政策をめぐる議論や分裂や軋轢が生じ、その質が問われる段階に入っている。日本はそこまで進んでいないということなのかもしれないが、国会に環境政党がなくても、環境問題への取り組みはいろいろと長く存在しているのだから、同じではないだろうか。氏は議席の有無にこだわりすぎているように見える。
 氏は、基本的な問題は、環境破壊や浪費や資源争奪戦争などを生んでいる今日の経済(資本主義経済)の限界にあるという。資本家の言う環境問題の解決とは、日経連の「環境立国」論が環境技術や省エネ製品を世界に売り込むための経営戦略論であることでも明らかなように、そこをも蓄積の領域にするものにすぎない。氏は、「ある程度の文化的生活に到達したら、それ以上の膨張を控え、ゆったりと持続できる健全な社会へ方向転換しなければならない。人間が生態系の一部だという原点に立ち返り、これ以上、経済成長という名目で、環境破壊を拡大してはならない。経済は環境という大きな器の中で成立しているのであって、その器を壊すことは、人類の生命を断つことにつながる」という。
 そして、氏は、「無限の経済成長を前提とする自由主義でも社会主義でもなく、21世紀型の第三の政治理念」が必要だという。社会主義論は違うと思うが、スターリニズム自称社会主義の現実が、社会主義そのものへの不信につながったので、こう言うのもやむをえない面もある。しかし、すでにソ連消滅から10年以上たっており、その総括が進んでいる中で、いつまでも決まり文句のように言っていていいのだろうか。共産制社会という資本制社会とは原理的にまったく異なるものを対置してこそ、資本主義経済がもたらしている世界的な富と貧困の対立、環境破壊、戦争、抑圧、差別の現実の根本的な変革を確固として推進できる力を得られるものと考える。
 同じようにグローバル化を批判する中村哲氏は、高度資本制社会の終わりが始まったとはっきりと主張しているが、中村敦夫氏はその点が曖昧である。氏の言う「ゆっくりと持続可能な社会」は根本的には共産制社会を意味すると考える。資本主義経済は資本蓄積を目的として生産するが、共産主義経済は、生活欲求を満たすことを目的として生産するからであり、資本制生産社会は自然的関係に対して社会的歴史的につくりだされた要素が優勢であるが、共産制社会はそれらを調和させるものだからである(マルクス『経済学批判』への序説)。
 中村敦夫氏は、信用膨張によって、危機をひたすら未来へと累積しながら、現在の一時的繁栄を享受できているにすぎない今日の資本主義経済が、延命をはかりつつ、破滅を引き寄せていることを指摘し、それが終わるべきだという結論の手前までいきながら、「改革」でなんとかなるように言う。例えば、氏は、それを解決する方策の一つとして利子のない地域通貨を対置している。
 そもそも貨幣は生産関係を物化したものであるから、貨幣の廃棄は現存の生産関係の廃棄である。現存の貨幣は、生産者・商人が相互に与えあう信用に基づく信用流通を基礎にする信用貨幣が、同時に国家紙幣(鋳貨)機能を果たしているものである。資本主義的収入源泉の三位一体である利潤―利子、土地―地代、労働―労働賃金のすべてが逆立ちしているが、これらは、労働が賃労働の形態を取ることから生み出されているのであり、利子の廃止は、資本主義的生産関係の廃棄、賃労働の廃止、商品・貨幣の廃止まで進むことで実現される。やはり共産制社会が必要なのである。新しい非スターリニズム共産主義が、資本主義経済が陥っている袋小路から人類を脱出させる根本的オルターナティブであり、「第三の政治理念」である。
 中村敦夫氏の主張には、反WTO、南北格差の是正などNPOの主張と共通する点が多いが、そこには、かかる社会運動の政治表現、今日の資本主義経済の不条理の直感や批判が存在している。また、「みどりの会議」の「みどりの政治宣言」には入会権の再確立などの共有制の要求もある。しかし、なお、より深化・発展させなければならない点がある。

社会運動のいくつかの分岐について

 「みどりの会議」は、都市民=「市民」を変革主体として強調している。それと、前号で杉本論文が紹介しているペシャワール会の中村哲氏の社会運動の内容が異なっているように思われる(「市民」がプロレタリアートの意味で使われている場合もあり、字面に拘泥するわけではない)。「みどりの政治宣言」や中村敦夫氏は、農業を重視しているが、そこにおける生産関係やそれに照応する共同体的諸関係についての記述がなく、そこに生きる農民・農村の姿が見えない。それに対して、中村哲氏の報告には、具体的な生き生きとした農民や農村の生きた姿がある。このように、社会運動といっても中身が違うので、そのいくつかを簡単に検討してみたい。
 7月17日、NHKのETV特集が、中村哲氏の活動とインタビューを放送したが、その中で、干ばつによって、アフガニスタンの大部分を占める農民や遊牧民が、生産手段たる土地が荒廃し、貧困や飢餓に追い込まれたことに対して、国際社会の復興支援が都市部での建設投資などに資金が集中し、農村部がまったく置き去りにされているという資本主義的支援の実態が描かれている。中村哲氏は、日本のアフガン報道と現地の実態がかけ離れていることを指摘しているが、資本主義の基本的法則や歴史的現実の認識から、氏のいうことが真実であることは虚偽的報道の諸断片からでも推測し判断できる。
 中村哲氏の実践や考えには、市民という抽象を可能にした資本制生産社会と都市文明(分業)への反省が深い次元で進んでいることが感じられる。それを、共同原理による共同体的ないし社会的社会運動と呼ぶことにする。氏たちは、農業共同体的諸関係、伝統的生産技術などの生産関係、村落のしがらみを生かしつつ農業の再生に力を入れるなど、具体的な生産関係から内在的な変革の契機を探り当ててそれを解放しようとする。それに対して、しがらみを超えた抽象的市民の水平的関係を形成しようとする市民的原理による市民社会的社会運動があり、そうしたNPOは、アフガニスタンでは主にカブールという大都市で教育や民主主義の実験に奔走している。両者は、アフガニスタンにとって優先されるべき事は何かを判断する価値観が違うのである。
 貧困・飢餓に迫られている農業社会のアフガンニスタンでは、中村哲氏の言うとおり、後者を優先すべきである。ところが、上述のETV特集で映された後者のタイプのNPOは、農村や都市下層の飢餓・貧困を横目に、比較的余裕のある層の子供を相手にカブールで英語のテキストで授業をするばかりで、そのような判断ができないのである。そこに見えるのは、援助側の自己満足や狭い価値観の押し付けである。それは、具体的な生産関係に照応する共同的社会関係を捨象する抽象的市民原理的価値観に原因があり、その深いとらえ直しが必要だと考える。それは、7月21日付『毎日新聞』社説のように、干ばつ被害にまったく触れず、選挙を全力で支援すべきだと外在的な民主主義イデオロギーの押し付けを優先するような報道も同じである。
 「みどりの会議」中村敦夫氏の主張で気になるのは、都市民=市民の主導権が無反省に前提されているように見えることである。農民=生産する・売る、市民=消費する・買うという固定的両極関係のままだと、農民=売る立場だけが途上国農民と競争する位置に立たされるという問題がある。それに対する「みどりの会議」の解答は、自給自足である。それと反対に、国際NPOオックスファムは、公正な貿易を実現すれば、途上国の農産物が適正価格で先進国市場で販売されるようになって、その利益によって途上国農民の生活が向上するのであり、先進国のわずかな数の農民を救うための農業保護政策のために途上国の多数の農民が貧困から脱出できないのだと主張している。それは自由貿易主義であり、おそらくリカードの比較優位説に立つものである。どちらもグローバリズムを批判しているが、根本に大きな違いがある。ところが、「みどりの会議」は、自給自足と共にフェアトレードを主張しており、両者の矛盾には無頓着だ。これらを根本解決する方策は階級の廃絶・分業の止揚なのだが、そこには踏み込んでいない。「みどりの政治宣言」は、社会運動の価値観や諸要求の雑多な集約物なのである。
 社会運動が、貧困解決への取り組みや戦争や紛争の解決といった今日の世界の構造的問題に取り組み、その現実的解決を目指す志向は評価されるべきものである。ただそれを根本的な問題解決につなげるためには、その要因をより全面的・根本的に解明する資本主義批判が必要である。社会運動は量的にも力量的にも大きくなり、政治の場にも進出しているので、その発展のためには、中身を検討することがより重要になっていると考える。

 日本では、参議院選挙の過程での各種世論調査に明らかなように、自衛隊の多国籍軍参加に過半数が反対し、小泉不支持が支持を超えている。国内反戦運動は、昨年と違って、3・20国際反戦共同行動後、イラク暫定政権への政権委譲後も勢いを持続した。7月4日の「ワールド・ピース・ナウ」(WPN)主催の反戦パレードは、主催者発表で1200人を結集したが、反戦運動の勢いが衰えないのに危機感を抱いたらしい警備公安警察は、早く歩けなどとがなりたてて挑発を繰り返した上で、3名を不当逮捕した。WPNなどの報告によると、この日の警備は最初から挑発的であったという。おそらく当初から逮捕を含む弾圧計画があったのである。かかる不当弾圧を糾弾する。このような反戦運動潰しを狙った不当弾圧を跳ね返し、今秋10月のANSWER連合による100万人反戦パレードに呼応する国際反戦運動を成功させることが必要である。なお、弾圧ということでは、一橋大学での石原講演会抗議行動の際に、警察が、精神障害者一人を不当逮捕する事件があった。かかる不当弾圧を弾劾する。
 また、アフガニスタンでの中村哲氏の実践から、平和は、人々が農民と同時に労働者でもあるという形で階級を廃絶し、共同体的関係を形成することで確固としたものになりうるということがわかる。情況が異なるにしても、階級の廃絶は反戦運動の大目標でなければならないのである。追求すべきは、そのような持続的反戦運動である。
 中村哲氏は、アフガニスタンの現実を踏まえて、「虚構の理屈にだまされてはならない。危険なのは決してテロリストではない。弱い者の立場をくまず、ことを己の利害で解決しようとする強者の驕りと愚かさである。強者としての己が裁かれる日が来ることを、私たちは知るべきである」と言う。もっともな意見である。
 6月28日、イラクを占領統治してきた連合国暫定当局(CPA)は、予定を2日前倒しして、ヤワル大統領、アラウィ首相、マフムード最高裁長官、ブレマー行政官ら、わずか6人の式典で、イラク暫定政府に主権を移譲した。その後ただちにブレマーはバグダッド空港から逃げるように帰国した。連合軍は多国籍軍になった。親米アラウィ首相は、さっそく、戒厳令を含む治安権限の確立を宣言し、死刑復活を主張している。イラク労働者共産党は、この傀儡政府の下では、自由や民主主義や人権は確立されないと批判している。イラク人民の自己解放闘争は続いており、その中で、各種自治団体や失業者組合や労働組合に結集する労働者人民の力量が増している。
 イラク連帯闘争やそれ以外でも、必要なのは、自由や民主主義のイデオロギーを押し付けながら行う外在的な復興支援などではない。必要なのは、そこに内在している変革の具体的契機を探り当ててそれを解放することである。そこに共産主義がある。それを促進するプロレタリア国際主義の質が求められている。それを資本主義的帝国主義を世界から一掃する闘い、資本・商品・貨幣を廃絶する共産制社会を実現する闘いと結びつけて発展させることを推進する高度な団結体を建設することが必要である。




TOP