共産主義者同盟(火花)

アフガニスタン・イラク侵略戦争の歴史的背景について。少々。
イラク侵略にボディブローをあびせた3・20国際反戦運動。少々。

流 広志
271号(2004年3月)所収


 アメリカ政府は、6月末のイラクへの統治権限委譲後も米軍を長期駐留させるとともに、アメリカの在外公館では最大規模の職員約3000人の駐イラクアメリカ大使館を開設する予定だという。ソ連のアフガニスタン侵略を想起させるものになってきた。

アフガニスタン

 1919年のイギリスから独立以来続いた王政が崩壊し「アフガニスタン共和国」が成立したのは1973年7月であった。1978年4月軍部クーデターにより人民民主党政権が成立(「アフガニスタン民主共和国」)し、翌年12月にはソ連の軍事介入のもとカルマル政権が成立、1986年5月にはナジブラが書記長に就任した。1989年2月にはジュネーブ合意に基づき、駐留ソ連軍の撤退が完了した。
 山内昌之氏によると、ソ連のアフガニスタン侵攻は、当初8万5千人のソ連軍であったが、6年間で15万人に増大し、国境沿いに3万人の兵員増員を行った。「ソ連は、一九二七年のロシア革命直後に中央アジアの草原で試みたように、アフガニスタンでも部族長を勧誘して各部族をまるごと味方につけようとした。だが、侵攻前にアフガニスタンの革命政権が部族の有力者を迫害した暗い思い出を容易にぬぐい去ることもできず、この試みは失敗に帰した」(同上 38頁)。その背景には、北カフカースや中央アジアに広く存在するタリーカと呼ばれるイスラム神秘主義教団が民衆に与えている影響があると氏は言う
。  山内昌之氏によれば、イスラムのスーフィズム(神秘主義)教団タリーカは、ズィクルという儀式を持ち、中には、氏族制度の名残を残し、血の復讐を義務づけられた血縁集団もあるという(『神軍 緑軍 赤軍』筑摩書房 390頁)。「アフガニスタンでも在地のタリーカは、非常に小さく均質な集団を形づくっている。そのメンバーは互いによく見知っており、「ピール」と呼ばれる教団最高指導者への尊敬と服従心に根ざす紀律をかたく守っている。二人のピール自身も直接に軍事作戦を指揮しているといわれる。かれらは都市でもその郊外でも必要な時には戦闘集団にたやすく変わり、内部的にも高い士気を維持しながら団結する。当局側の密偵や内通者はなかなか浸透しづらいので、軍事・政治両面でかなり効率の高い集団だといえるであろう」(同上 39頁)。
 またこれとは別に、氏が「革命的イスラム」と呼びうるとしているムジャヒディンもいるが、それはエジプトのムスリム同胞団などのイスラム復興運動のながれをくむ勢力である。これにはイスラム原理主義のタリバンやアルカイダも含まれる。氏は言及していないが、この潮流にアメリカは、パキスタン経由で膨大な軍事的経済的支援を行っていた。  当初4割を占めていた中央アジア出身の将兵はロシア人などのヨーロッパ系の将兵によって置き換えられていった。そして、「ソ連軍は弱体なアフガン軍を頼るわけにはいかないので、しばしば独自に作戦を進めざるをえない。この構図は、かつてのベトナム戦争におけるアメリカ軍と南ベトナム軍との関係に酷似していた」(同上41頁)。
 ソ連軍撤退後の92年4月ムジャヒディン・ゲリラ勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊し、ムジャヒディン政権が成立するが、各派間の主導権争いにより内戦状態が続いた。94年頃から、イスラムへの回帰を訴えるタリバンが勢力を伸ばし、96年9月に首都カブールを制圧し、99年までには国土の9割を実効支配するようになる。
 2001年10月、米帝ブッシュは、9・11事件を引き起こしたとするビンラディン率いるアルカイダをかくまっているとして、その引き渡しを拒否したオマル師を最高指導者とするタリバン政権に対する攻撃を開始し、北部同盟を支援した。同年12月に、タリバン政権を倒した北部同盟などを主体とするボン合意が成立し、22日に暫定政権が誕生した。  その後、アフガニスタンには米英独仏などの軍隊が駐留し、米英軍は、タリバンやアルカイダなどの掃討作戦を強めている。米英軍は、その過程で、誤爆などで、次々と一般住民を殺害している。また国際人権団体ヒューマンライツウォッチは、米軍の住民に対する不当弾圧・不当拘束を止めるよう警告を発している。
 パキスタン軍によるパキスタン西部国境付近の部族支配地域でのアルカイダ掃討戦では当初、アルカイダNo2のザワヒリ氏を包囲したかもしれないという情報が流れたが、それも、CNNは19日の段階で否定したように、情報が錯綜している。

イラク

 フセイン政権の支配政党はバース党であり、民族的にはスンニ派を基盤としていた。
  バース党は、アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を原則として掲げ、1947年に、シリアのダマスカスで結党されたアラブ民族主義政党である。52年にアラブ社会党と合併し、アラブ・バース社会主義党となる。そのイデオロギーは、近代的ナショナリズムと社会主義である。バース党はアラブ各国にバース党を設立し、各々が政権を取って、それらが合体する形のアラブ統一国家形成を目指した。バース党指導部には、民族指導部アラブ世界全体を対象とする上位の民族指導部と当該国を対象とする下位の各国の地域指導部があった。ミシェル・アフラクらの民族指導部はシリアに置かれ、地域指導部はシリア、イラク、ヨルダン、レバノン、イエメン、等々へ拡がった。シリアに置かれた民族指導部はシリア地域指導部に追放され、アフラクらはイラクに亡命し、民族指導部を再建したが、89年に彼は死亡した。
 1951年にバース党イラク地域指導部が成立した。バース党イラク地域指導部は1959年に王政を打倒し政権についたカーセム首相の共産主義的政策に反対して暗殺未遂事件を起こし、フセインはシリア、エジプトに逃亡した。1963年の軍事クーデターで政権に参加したが、翌年にはバース党政権は倒れ、彼は逮捕投獄される。彼は1966年に脱獄し、その後、バクル書記長の下で副書記長につき、主に治安部門で活動して党勢を強めた。1968年の軍事クーデターによりバクルが大統領に就任する。このバース党バクル政権は、石油事業を国有化し、その収入で、農地の分配、学校教育の強化などの近代化政策を進めた。
 1979年、副大統領フセインはバクルを引退させて大統領となるとともに、イラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部と革命指導評議会議長に就任した。
 フセイン政権はイスラム主義を弾圧・抑圧した。1979年にイスラム革命で成立したイランのホメイニ政権に対して、翌80年にイラン・イラク戦争を起こした。この戦争で、イラン軍やイラン側に協力したとしてクルド人に対して化学兵器を使用した。フセイン政権はこの時はアメリカの協力を得ていた。1988年に国連決議で戦争は終結した。
 フセイン政権は、1990年にクウェートに侵攻して軍事占領し、併合を宣言した。クウェートは、もともとはオスマン帝国のバスラ州の一部でイギリスの保護領となる以前には存在しなかった。1938年に大油田が発見された。そして1961年にサバーハ首長を長として独立したものである。クウェートは民族自決権の対象となる民族国家ではなく、たんにアラブ系種族が地域権力を掌握しているにすぎないし、憲法で自らをアラブ国の一部と規定している国だ。米帝はフセイン政権を非難し、侵略を排除するとして、国連決議で多国籍軍による武力行使容認を取り付け、91年1月17日湾岸戦争を開始し、イラク軍をクウェートから排除した。そして2月28日には停戦が発効した。
 アラブ諸国家の多くで、貧富の拡大や民族や宗派間の不平等や差別を解決できない中で、タリーカなどの神秘主義的教団やサウジアラビアから生まれたワッハーブ派やエジプトのイスラム同胞団などのイスラム復興運動などによる氏族制や部族制に似た宗教共同体による喜捨や福祉や奉仕などによる救済や血の報復義務による氏族制的な治安維持などのイスラム共同体的結合が拡がっていった。
 バース党は民族指導部の事実上の消滅や各国地域指導部の変節や解体などによって、アラブ地域での影響力は極めて小さくなった。政権を握っているのはシリアだけになった。欧米流の近代的ナショナリズムは根付かなかったのである。
 クルドやシーア派などのイスラム主義者たちが大きな影響力をもったために、近代ナショナリストのバース党フセイン政権の政教分離・世俗主義が消えて、イラク基本法にイスラム法を法源の一つにするという規定が盛り込まれた。英米流近代主義に「洗脳」されている小泉政権はことの意味をまったく理解できないために、事態への適切な対応や判断を下せないので、英米帝と一緒に泥沼に引きづり込まれているのである。

イラク侵略にボディブローをあびせた3・20世界同時反戦行動

 スペインで200名の死者を出した列車同時爆破事件が起きた。アルカイダの犯行と見られるこの事件の影響もあって、それまで優勢と見られた与党国民党が敗北し、イラク戦争に反対したスペイン社会労働党が勝って政権を奪った。サパテロ書記長は、6月末までに情況が好転しなければ、イラクに派遣しているスペイン軍部隊を撤退させることを明らかにした。米帝が築いた有志連合は揺れている。
 対テロ作戦に米英と一体で邁進していたスペイン国民党政権下の首都マドリッドで起きた3月11日の爆破攻撃は、ブッシュ大統領がフセイン政権を打倒したことで世界は安全になったと強調したことに根拠がないことを明らかにしたのである。
 イラクで米英軍への恨みや憎しみが拡がるのを放置したままでは、アルカイダやイスラム原理主義や反米武装勢力への支持が広まる恐れがあり、そうなれば米帝の中東侵略の橋頭堡たるイスラエルの権益が脅かされることになる。その危険を減少させるために米帝は、あれほど悪口を浴びせた国連を国連決議1511で人道復興支援に引っ張り出したのである。
 米帝ブッシュ政権が仕掛けた対イラク戦争は正当性のない侵略戦争であった。それを真っ先に支持した日帝小泉政権は、イラクへ自衛隊を派兵して、米帝の侵略に加担し、小泉政権は、単純な近代主義的進歩史観あるいは「オリエンタリズム」(サイード)に犯されているために、米英などによる上からの民主化でイラク社会が自由と民主主義のブルジョア的近代社会に向かっていくはずだと思い込んでいるのである。
 アラブ・イスラム世界における共同体的諸関係が、底辺の民衆を広範にとらえているらしいことが、山内氏の分析からうかがえる。復活したイラクでのシーア派のアシュラ祭りでは、男たちが上半身裸で剣を持ち、その剣で頭を傷つけ血を流しながら通りを練り歩くのが見られたが、それを報道した日本人記者は、血の匂いが充満して気分が悪くなったという。かかる宗教儀式の背後にどのような人々の生活や制度や関係があるのかを伝えるものはない。報道は、金がものをいうアメリカ型の民主主義や抽象的個人の抽象的平等や単婚家族制の下に女性差別を隠している近代家族制度などを標準として無批判に当てはめているものが多いのである。
 3・20イラク反戦反侵略世界同時行動は、報道によると、世界50ヵ国以上で、日本が全体で約13万人など多くの人々を結集して闘われた。それにしても、最近の世論調査でも目立ってきているが、報道機関によってどうして参加人数がこうも大きく違うのか?!いずれにせよ、報道の多くが数の多少に目を奪われて質を見逃しているが、国際反戦運動は内容的に深化し、戦争に加担する政府への反対と反戦を結びつけるものになっているのである。内容的深化を遂げている大規模な大衆的反戦行動がもたらすインパクトは強いし、その効果は徐々に明らかになるだろう。
 かかる国際的共同行動の経験の中で、国際的なプロレタリアート人民が帝国主義世界秩序に代わる新たな世界の創造に向けた闘いの芽が成長するだろう。平和フォーラム系の大阪集会がANSWER連合や韓国から参加してアピールを行ったのをはじめ、国際連帯が日常的なものとして定着したことが明確になった。国際連帯が、帝国主義戦争を廃絶するための基礎を形成するのである。
 帝国主義世界支配を終わらせて帝国主義戦争を廃絶するには、根本的にはそのような国際関係をも生み出している現在の資本主義的諸関係を根本変革し、その支配から全世界の労働者大衆を解放することが必要であり、そのような解放闘争の一環として、国際反戦闘争を発展させることが必要である。




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