共産主義者同盟(火花)

民主対独裁図式や功利主義・プラグマティズムによるイラク戦争正当化批判

流 広志
270号(2004年2月)所収


民主対独裁図式によるイラク戦争正当化批判

 イラクで大量破壊兵器を調査したケイ元CIA特別顧問のイラクには大量破壊兵器がなかったとする証言が出てから、ブッシュ政権はイラク戦争の大義をめぐって混乱に陥っている。ブッシュ大統領は、フセイン政権に大量破壊兵器を開発する可能性があったと述べ、戦争の大義を「ありうる」に訂正した。
 一部のメディアは大量破壊兵器の存在だけがイラク戦争の大義ではないと主張している。共通するのは独裁対民主という図式を持っていることだ。2月13日の『毎日新聞』「記者の目」の高畑昭男氏(論説室)の「イラク戦争の大義 大量破壊兵器だけが問題か」はその一例である。氏は、大量破壊兵器が見つからない現実は重いとしながら、それだけで当時のフセイン政権の脅威がなくイラク戦争に正当性はなかったかと疑問を呈し、その理由として、フセイン政権は、査察と制裁解除後ただちに生物・化学兵器の生産再開する準備体制をとり、運搬手段たるミサイル開発製造を先に進めていたというケイ氏の発言をあげている。氏は、独裁政権のような不透明な体制の情報収集は難しいが情報を調査する必要はあるとしながら、そのことは武力行使の正当性とは話が違うと言う。フセイン政権がリビアのように正直に申告すれば問題は終わっていたというのである。はたしてそうか。

 情報の不透明さは「民主」政権にもあった。対イラク戦争準備を進めていたアメリカ帝国主義ブッシュ政権は,昨年2月5日の国連安保理事会にパウエル国務長官を送り込んで,イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を隠している証拠として、「イラク共和国防衛隊の大佐と准将とがアルキディン社の改造車を査察団から隠すよう指示する内容の盗聴記録と1月16日に発見された化学兵器搭載可能な空の弾頭発見を受けて1月30日に共和国防衛隊将校が現場将校に禁止された弾薬をなくすよう指示する内容の盗聴記録,化学兵器貯蔵所や化学工場やミサイル施設を査察前に撤去した証拠という衛星写真,移動式生物化学兵器生産施設のイラスト,禁止されている射程150キロメートル以上のミサイル実験施設という衛星写真,イラクがアルカイダ幹部のアブムサブ・ザルカウィを支援しているという情報,等」(『火花』258号2003年2月)をあげた。これは、NHKが深夜に同時中継したほどの重要な安保理会議であり、この情報を元に、小泉総理は翌日の午前中の衆議院予算委員会で、これでイラクが国連決議1441に違犯している疑惑が深まったとして、アメリカの対イラク政策支持をより固める根拠にした演説である。アメリカは、世界に向かって、これだけの具体的な証拠があるので、この差し迫る脅威を排除しなければならないと強調し、その後、戦争を実行したのである。これらの情報が誤りだったとなると、アメリカは世界をミスリードし、それに乗っかった日本政府の多大な犠牲が出る戦争という重大事についての政治判断の信頼性が問われるのは当然である。
 国連安保理は、国連決議1441の「重大な結果を招く」という表現を軍事的行動と解釈する米英などとそうではないとするロシア・フランスなどの多数派に分かれた。国連憲章は、脅威を取り除くための国連安保理決議に基づく戦争を容認しているが、それまでの武力攻撃への個別的・集団的自衛権行使を容認するとしている。国連決議1441の結論は、安保理での再討議、査察強化を求めるもので、武力行使を正当化するものではない。
 高畑氏に代表される独裁対民主のアプリオリな対立図式を現実に当てはめて、それに合わせて証拠を提示するというやり方をとるかぎり、リアリティのある判断はできないのである。大量破壊兵器保有の疑惑だけで、1万人を超えるイラク人犠牲者(「イラク・ボディ・カウント」調べ)、インフラ破壊、生活苦、高失業、戦争後遺症、労働運動・失業者運動の暴力的破壊、等々を結果した戦争と占領を正当化するのは困難である。氏は、現実を直視できなくしている図式的思考やエリート的懐疑主義によって真実の価値を低める中途半端を捨て、真実を追究すべきだと思う。真実は「実に重い」のである。

プラグマティズム・功利主義のイラク戦争正当化批判、3・20反戦反占領世界同時行動

 大量破壊兵器があるなしに関わらず、独裁政権が消えたことはイラク人にとっても世界にとっても良い結果をもたらしたのでよかったという戦争擁護論がある。これに近いのは、前々号で拙稿に引用したイラク国民がフセイン政権に苦しめられたことを戦争の大義に含めた小泉首相の参議院での答弁である。これはプラグマティズム的な考えである。  W・ジェイムズによれば、プラグマティズムとは、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向かおうとする態度なのである」(『プラグマティズム』岩波文庫 46頁)。
 彼は、前者の代表として、リッケルトなどの大陸系合理論をあげている。一見両者は対立しているようだが、「もし神学上の諸観念が具体的生命にとって価値を有することが事実において明らかならば、それらの観念は、そのかぎりにおいて善である、そしてかかる意味で、プラグマティズムにとって真であるだろう。なぜなら、その観念がどれだけ真であるかということは、ひとしく承認されなければならない他のもろもろの真理との関係に依存するだろうから」(同上59頁)と書いているように、プラグマティズムは、観念が「具体的生命」を規定するという観念論であり、人間にとっての主観的な有用性・効用を価値基準にしているだけである。主観的価値・効用を基礎にして真や善を規定しているのである。両者ともに観念論なのである。
 プラグマティズムが原理原則を主張するのは、それが「具体的生命」(人間)に有用な効用・結実をもたらすからにすぎない。観念が人間にとって善なる結果をもたらすかどうかで真理を判断するというのがプラグマティズムの思考様式であり、それはヒューマニズムとも呼ばれる。プラグマティズム的な「真なるものとは、信仰という面から見て、しかもまたそれと指し示しえられるようなはっきりした理由から、善であることが証拠だてられるものならば何であれそのものに付与される名前」(同上 62頁)なのである。真理とは「ごく簡単にいえば、われわれの考え方の促進剤に過ぎないので、それは「正義」がわれわれの行い方の促進剤に過ぎないのと同様である」(同上 163頁)。これは道具的・機能主義的真理観・道徳観といったものである。
 プラグマティズムの経済主義的効用主義を批判するミッシェル・フーコーは言う。「精神は実在する、それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々にーより一般的には、監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に、ある生産装置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々に行使されるのだと。この精神の歴史的実在性がある、と言うのも、この精神は、キリスト教神学によって表象される意味での精神と異なり、生まれつき罪を犯していて罰せられるべきだと言うわけではなく、むしろ、処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出ているからである。実在的な、だが身体不関与のこの精神はまったく実質的ではない。ある種の型の権力の成果と、ある知の指示関連とが有機的に結びついている構成要素こそが、しかも、権力の諸連関が在りうべき知をさそい出す場合の、また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である。精神のこの実在性ー指示関連をもとに、人々は各種の概念をつくりあげ、分析領域を切り取ってきたのであった。つまり、霊魂、主観、人格、意識など。その実在性ー指示関連のうえに、〔権力的な〕諸技術と学問的な言説をうち立ててきたのであり、それをもとにして、人間中心主義の道徳的な権利要求を浮かびあがらせてきたのである。しかしながら思い違いをしてはならないのである。実は、神学者たちの言う幻影たる精神の代わりに、実在的な人間像が、つまり知や哲学的思索の、あるいは技術本位の参与の客体たる人間像が、導入されたわけではなかったのだから。人々がわれわれに話しているその人間像、そして人々が解放しようと促しているその人間像こそは、すでにそれじたいにおいて、その人間像よりもはるかに深部で営まれる服従〔=臣民〕化の成果なのである。ある一つの精神がこの人間像に住みつき、それを実在にまで高める。だが、この実在それじたいは、権力が身体にふるう支配の中の一つの断片なのだ。ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神」(『監獄の誕生』新潮社33〜4頁)。
 ここでの議論に必要と思う部分を乱暴を承知で簡約すれば、権力によって身体の監獄としてつくられる精神=装置によって身体が支配=服従させられ、特定の質の労働が強制され、労働力が搾取される。そうした監獄としての精神=装置を備えた人間像こそが、人間中心主義(ヒューマニズム)の道徳的な権利要求の主体とされてきたというのである。
 マルクスは、『資本論』第一巻 第6編労賃 第19章出来高賃金 の中で、労働力の搾取が賃金形態によって隠されることを指摘している。出来高賃金の場合には「労働の質や強度が労賃の形態そのものによって制御されるのだから、この形態は、労働監督の大きな部分を不要にする。したがって、この形態は、前に述べた近代的家内労働の基礎をなすと同時に、搾取と抑圧との階層制的に編成された制度の基礎をなすのである」(大月書店B 85頁)。これには下請け制と労働者を長としてかれが補助労働者を募集するという労働者による労働者の搾取を媒介とする資本による労働者の搾取の二つの基本形態がある。出来高賃金形態の場合には、労働の質は製品によって左右される。製品は平均的な品質をもっていなければならず、「もし労働者が平均的な作業能力をもっていなければ、つまり彼が一定の最小限の一日仕事を供給することができなければ、彼は解雇される」(同)。
 フーコーは「権力は《排除する》、それは《抑制する》それは《抑圧する》、それは《取締る》、それは《抽象する》、それは《仮面をかぶせる》、それは《隠蔽する》などの、否定・消極的な関連でつねに権力の効果を述べるやり方は中止しなければならない。実際には、権力は生み出している、現実的なるものを生み出している、客体の領域および真実についての祭式を生み出している、個人、ならび個人について把握しうる認識は、こうした生み出しの仕事に属している」(前掲書 196頁)と言う。しかし、権力が《排除》《抑圧》《取締》等々の行為をすることは事実だし、彼もそれを否定したわけではないだろう。
 出来高賃金は、時間賃金よりも「個性により大きい活動の余地を与えるということは、一方では労働者の個性を、したがって、また彼らの自由感や独立心や自制心を発達させ、他方では労働者どうしのあいだの競争を発達させるという傾向がある。それゆえ、出来高賃金は、個々人の労賃を平均水準よりも高くすると同時にこの水準そのものを低くする傾向があるのである」(同上 88頁)。マルクスは、出来高賃金制は、搾取を容易にする資本にとって都合のいい賃金奴隷制度の一形態であることを指摘しているのである。資本への自発的隷属を再生産しているものとして、フーコーが指摘している諸関連や諸制度や諸関係の束の権力作用・強制権があるととらえられる。例えば、彼は、「経済的な搾取によって〔身体〕の力と労働生産物は切り離されるが、他方、あえて言うならば、規律・訓練を旨とする強制権は、増加される素質と増大される支配とのあいだの拘束関係を、身体において確立するわけである」(同上 144頁)と言う。それは、出来高賃金制による労働者の自発的隷属の強制を指摘するマルクスの視座と重なるものといえよう。
 効用本位・結果本位のプラグマティズム・功利主義からは、現状保守の改良や折衷的で矛盾を累積する形での解決しか得られない。功利主義については『ドイツ・イデオロギー』で、「人間相互のさまざまな関係をすべて有用性(Brauchbarkeit)という一つの関係に解消するところの一見ばかばかしい議論、この一見形而上学的な抽象は、近代の市民社会の内部ではすべての関係が一つの抽象的な貨幣および商売の関係のもとに実践的に包摂されているということからうまれてくる」「この功利説(Nutzlichkeitstheorie)の本来の科学は経済学なのである」(岩波文庫 203頁)、ブルジョアジーは、功利=利用関係に直接従属しない他の諸関係をも幻想の中でこれに従属させてしまう、「この効用の物質的な表現こそ、すべて事物や人間や社会的関係のもつ諸価値の代表者、貨幣である」(同上 205頁)ことが指摘されている。また、「交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現れる」(『資本論』大月書店@ 74頁)のであり、交換価値は量的な関係で、それが独立したものが貨幣である。彼は、価値=量的関係という社会関係、功利=利用関係の効果=効用の物質的表現としての貨幣が権力となることを明らかにしている。
 さらに、彼は、「分業において個々人の私的活動は公益的となる」「経済的内容は功利説をだんだんに現存物のたんなる弁明に、すなわち現存の条件のもとでは人間相互の現在の諸関係こそもっとも有利な、公益的なものだという立証にかえてゆく。すべての近年の経済学者のばあいにそれはこのような性格をおびているのである」(同上 210頁)というように、功利主義が分業を反映したものでもあることを指摘している。
 また、フーコーの前掲書第3部第一章の注。「K・マルクス『資本論』第一巻、第四部、十三〔十一〕章〔協同作業〕。いくどもマルクスは労働の分業の諸問題と軍事戦術の諸問題との類似をいくども強調している。たとえば「騎兵中隊の攻撃力または歩兵連隊の防禦力が各騎兵もしくは各歩兵によって個々別々に展開される攻撃力もしくは防禦力の総和とは本質的に異なるのと同様に、〔中略〕個々別々の労働者の力学的な力の総和は、多数の労働者が同一の不分割の作業で同時に協同作業をする場合に展開される力学的な力とは異なる」(同書、同所)」。
 以上のおおまかでやや強引かもしれない検討からでも、プラグマティズム・功利主義が、支配的思想として人々の思考を支配しているためにそれに逆らうのに困難を感じるという思想的情況が、現存の条件の下で妥当するにすぎない日米同盟を功利主義的な関係とする小泉首相などのイラク戦争支持論や結果の価値を高く見積もって計算するプラグマティズム的な結果・効用重視の判断から、すでにイラクに行ってしまっている自衛隊撤退の利害得失の計算から撤退は簡単ではないなどとする現状追認的戦争支持論を支えているのがわかる。支配階級の支配的思想を批判的に分析検討してみれば、この問題の多様な諸側面諸関連の理解や私益の公益化などの支配階級の実際の利益の反映などを突き止められよう。
 イラクでの自衛隊の復興支援活動は、イラク人のイラク人のためのイラク人による復興を実現するにはまったく不十分であるが、鳥越俊太郎氏は、2月19日の『毎日新聞』のインタビューで、カンボジアPKOで自衛隊が舗装した道路が一年ででこぼこ道に戻ってしまった実例をあげて、今回のイラクでの自衛隊による人道復興支援がブッシュ政権に向かって約束を果たしたと言って終わることになりかねないし、イラク人のためと言いながら、実はアメリカのため小泉政権のための自衛隊派兵だったと述べている。石油(中東の安定)と共にそれも小泉政権の復興人道支援の狙いなのである。
 帝国主義という条件が夜郎自大な帝国主義的愛国主義自愛主義を吹き込む。たとえば、この間、教育委員会による官僚主義的日の丸君が代強制、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動を利用した教科書改悪策動(藤岡信勝派が小林よしのり派を追放してから、この会は狭い知識人運動に純化し、動員も愛国主義的新興宗教団体頼りで、広がりを失っているようだ)、教育基本法改悪策動、その頂点として改憲策動があり、自衛隊イラク派兵はこうした国内政治の動きと関連している小泉政権の政治利用である。米帝ブッシュが自衛のための先制攻撃と言えば、それに呼応して過去の日帝の戦争を自衛戦争とする誤った歴史観が浮上する。司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』で日露戦争を自衛戦争として描いたが、それは戦前の労農派の戦争観と同じである(『火花』166号(1995年6月)「不戦決議」と歴史(戦争)認識について)。彼はその後の「坂の上」からの転落を嘆いてはいるが、帝国主義の理解を欠いている。日露戦争は、朝鮮半島の権益を取り合った帝国主義戦争だった。
 相も変わらず自虐史観がどうとか国賊がどうとか言えば、いっぱしのことを言っていると思い込んでいる「天狗」達に飽き飽きした人も増えているだろう。開戦時にブッシュ政権のイラク戦争を8割以上が支持したアメリカの愛国主義熱もずいぶん冷めている。1月28日の大量破壊兵器がなかったというケイ証言後のワシントンポスト紙とABCテレビとの合同世論調査では、「イラク戦争を戦う価値があった」(48%)を「闘う価値がなかった」(50%)が初めて上回った。ブッシュ政権の支持率は過去最低の50%になった。
 米帝ブッシュは、日本が2月18日にイランのアザデガン油田の採掘権を獲得したことに懸念を示した。しかし米帝は「イラン・リビア制裁強化法」発動などの強い態度に出ないようだ。日米の帝国主義的功利=利用関係はこういうものである。憲法前文を引用して国際貢献の崇高さを強調した小泉政権は、実は石油などの利益のためにうまく立ち回ろうとしている。また支配階級と反動は、有事立法や国家緊急権を書き込むなどの改憲などを通じて、精神に働きかけて人々の身体生命をも自由に使役する強制権確立を狙っている。
 昨二千万とも言われる世界同時反戦行動を成功させて以後、やや停滞していた反戦運動も、イラク人の反占領闘争の持続的成長と歩を合わせるように、昨秋以降活発となり、労働運動系では陸海空20労組から「連合」「全労協」「全労連」の取り組みへと拡大し、「ワールド・ピース・ナウ」などの市民運動やアナキスト系の「路上解放デモ」などの取り組みも活発となり、ANSWER連合などの開戦一周年の3月20日の世界同時反戦反侵略行動の呼びかけに合流する大運動にいったん集約されようとしている。国際反戦運動は、新植民地支配からの解放、民族抑圧差別からの解放、身分・ジェンダー差別からの解放、労働者の解放などの自由や解放を求める多様な人々との結びつきを追求している。
 資本の強権制支配をうち破る闘いとそれらを結合し世界の帝国主義支配を終わらせる闘いとしての質をもった国際反戦運動を発展させることが必要である。
  




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