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再び,赫旗派−深山氏からの反批判に応えて

氷上 潤
162号(1995年2月)所収


 『火花』158号(1994年10月号)掲載の私の文章に対する反論−深山和彦署名論文−が,「レーニンに助けを求めた帝国主義的民主主義者」といういかにも古くからの活動家が好んで用いそうなタイトルでもって,『赫旗』170号(199412月号)に掲載された[→[資料]]
 何よりもまずわれわれは,赫旗派に対して次のことをはっきりと指摘しなければならない.すなわち,赫旗派の主張・見解からは,共和国(朝鮮民主主義人民共和国)のプロレタリアートの階級闘争の発展に注目・連帯する,という見地がすっぽり抜け落ちていることである.共産主義者の党たらんとする赫旗派にあって,どうして,何ゆえに,共和国のプロレタリアートの置かれた苛酷な状況に無関心でいられるのだろうか.
 深山氏は,そんなことはない,次のように述べているではないか,と反論するかもしれない.

「われわれは,このような共和国の官僚ブルジョアジーをも再編・統合し始めた国際反革命体制の『新秩序』に対しては,共和国のプロレタリアートとの共同布陣をもって攻囲する態度を押し出していかねばならない.」(『赫旗』170号掲載論文の最終段落)

 しかし,まさにこの叙述に,赫旗派の共産主義者の党としての欠陥が如実にあらわれ出ていると言わなければならない.帝国主義の動向からのみ,プロレタリアートの階級闘争の戦術を措定しようとする反帝力学主義の欠陥から,赫旗派のメンバーはいつまで目を背け続けるのだろうか.
 赫旗派にあっては,共和国の党・国家官僚が帝国主義と協調し始めたときに初めて,共和国のプロレタリアートとの連帯が課題となる,ということなのだろうか.‘反帝’という媒介以外には,プロレタリアートは,国際的に接近し,「共同布陣」を形成していくことはできないと,赫旗派は想定しているのだろうか.この点についてぜひとも再検討してもらいたい.

II

 また,深山氏は次のように述べている.

「彼は,『共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の今日的発展のためには,朝鮮労働党の支配体制の打倒が不可欠』と叫び…」「帝国主義−国連と〃別個に進んで共に撃て〃と戦術指南しているのである」(同前.III第2段落)

 深山氏は,私が共和国における階級闘争の現実に接近しようとして意見表明した部分を取り上げ,侮蔑・揶揄の言葉を投げかけることで,日本のプロレタリアート・共産主義者が,共和国の階級闘争の戦術について自己の見解を提出すること自体に対して消極的・否定的な態度を示している.これはどういうことだろうか.
 深山氏は次のように述べてもいる.

「左京同志の文章は,国際連帯上のこの中心任務(“日帝打倒・米帝一掃をめざしてたたかうという中心任務”…引用者)の火花派による曖昧化を取り上げたものなのだが,そしてそのことしか述べていないのだが,氷上君にかかるとそれも共和国の労働者・勤労大衆への赫旗派としての戦術提起に化けてしまい,自己のつくりあげた幻影に突撃している始末なのだ.」(同前.III第3段落

 あえて問う.では,赫旗派としての,共和国プロレタリアートの階級闘争をめぐる戦術提起・判断はどのようなものになるのか,と.赫旗派が,共産主義者の党であり,世界革命・インタナショナルの建設の見地を堅持しているのであれば,当然この問いに答えなければならないはずだ.今日もはや,共和国社会を分析する情報,判断材料が少ない,といった言い訳は通用しないのだから.

「この間の朝鮮労働党による米日帝国主義との種々の駆け引きは,もっぱら共和国における党・国家官僚の支配特権の維持という利害からなされているにすぎない.かつてレーニンがブルジョア民族運動(−民族革命運動)を支持したのは,その運動の発展の中に,プロレタリアートの階級的成長を促していく条件を見て取ったからである.しかし,われわれは今日の朝鮮労働党の反帝国主義に,プロレタリアートの階級的成長につながる進歩的性格を見て取ることはできない.それどころか,われわれは,共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の今日的発展のためには,朝鮮労働党の支配体制の打倒が不可欠,と判断しているのである」(以上,『火花』158号「『赫旗』−左京署名文章による批判に応えて」

 このように提出したわれわれの判断は間違っているのかどうか,赫旗派は自己の見解を述べるべきではないか.
 それとも,赫旗派は,日本という一国的民族的枠組みの党であり,そうした問いに答える必要はないと考えているのだろうか.それならそうとはっきり言ってもらいたい.もしそうなら議論の土俵を設定し直さなければならなくなるだろう.

III

「共産主義者としてのわれわれは,植民地諸国のブルジョア的解放運動が現実に革命的であるばあいにだけ,またわれわれが農民および広範な被搾取者大衆を革命的精神で教育し組織しようとするのを運動の代表者が妨害しないばあいにだけ,ブルジョア的解放運動を支持しなければならないし,また支持するであろう」(「民族および植民地問題委員会の報告<コミンテルン第2回大会の報告文書>. 国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』p198)

 このレーニンの見解を,しっかりと継承すべきものとして,私は,158号文章において紹介しておいた.これに対して深山氏は,「氷上君の上記引用箇所においてレーニンが指し示しているのは,その前後の文脈から明らかなように,『被抑圧民族の社会主義者』の取るべき政治態度なのだ」(『赫旗』170号4面I第4段落)と述べている.本当に「明らか」なのかどうか,この論争に注目する皆さん自身に判断してもらうために,長くなるが「前後の文脈」を含めて引用することにしたい.

「私は,後進諸国におけるブルジョア民主主義運動の問題をとくに強調したい.ほかならぬこの問題が,若干の意見の相違をひきおこした.共産主義インタナショナルと諸国共産党が,後進諸国のブルジョア民主主義的運動を支持しなければならないと声明するのは,原則的にまた理論的にただしいかどうかについて,われわれは論争した.この討論の結果,われわれは『ブルジョア民主主義』運動のかわりに,民族革命運動についてかたるべきである,という全員一致の決定に到達した.・・・<中略>・・・ところで,ここに反対論がもちこまれた.もしわれわれがブルジョア民主主義運動をうんぬんするならば,改良主義運動と革命運動との間の区別がいっさいなくなる,というのである.ところが,この区別は,最近,後進の植民地諸国において,まったく明瞭にあらわれたのである.というのは,帝国主義ブルジョアジーは,被抑圧民族のあいだにも全力をあげて改良主義運動をうえつけることに努力しているからである.搾取諸国のブルジョアジーと植民地諸国のブルジョアジーとのあいだに一定の接近がおこった.そのために,非常にしばしば,−大多数のばあいにそうだといってもいいが−被抑圧諸国のブルジョアジーは,民族運動を支持していながらも,同時にまた帝国主義ブルジョアジーと協調して,すなわち彼らとあいたずさえて,すべての革命運動と革命的諸階級を相手に闘争している.委員会では,このことは,反駁の余地なく証明された.そして,われわれは,この区別を注意にいれ,ほとんどすべての箇所で『ブルジョア民主主義的』という表現にとりかえて『民族革命的』という表現をつかうのがもっぱらただしいことだと考えた.共産主義者としてのわれわれは,植民地諸国のブルジョア的解放運動が現実に革命的であるばあいにだけ,またわれわれが農民および広範な被搾取者大衆を革命的精神で教育し組織しようとするのを運動の代表者が妨害しないばあいにだけ,ブルジョア的解放運動を支持しなければならないし,また支持するであろう,というのがこのとりかえの本旨である.もしこれらの諸条件がないとすれば,これらの諸国において,共産主義者は,第2インタナショナルの英雄たちの属している改良主義的ブルジョアジーにたいして闘争しなければならない.改良主義党は,すでに植民地諸国に存在している.しかも,それらの党の代表者はときどき社会民主主義者とか社会主義者とか自称している.ここにいう区別は,いまやすべてのテーゼのなかにとりいれられている.そのせいで,われわれの見地は,いまでははるかに正確にまとめられていると私は考えている」(「民族および植民地問題委員会の報告」.国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』p196〜8…下線・太字は引用者)

 とりわけ深山氏以外の赫旗派のメンバーに問いたい.深山氏の指摘は,はたして「明らか」となっただろうか.少なくとも問題の箇所(ゴシック部分)の前の文脈では,「共産主義インタナショナルと諸国共産党が」どのような態度を取るべきかについての叙述となっている.そして私には,「共産主義者としてのわれわれは,」で始まる一文は,その叙述のまとめ・整理づけとなっている部分と読み取れる.そしてそうした「共産主義インタナショナルと諸国共産党が」取るべき態度を整理したのを踏まえて,それに続く一文において,「これらの諸国において,共産主義者は,」という形で,被抑圧諸国で活動する共産主義者の実践的課題を提起しているものと了解する.それ以外の読み取りが可能だろうか.
 それでも納得できない,ということであれば,「民族および植民地問題委員会の報告」の直前に執筆された「民族および植民地問題に関するテーゼ原案」<コミンテルン第2回大会への提出文書>の中で同趣旨のことを述べている次の箇所(国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』p193――この部分も158号文章で引用・紹介しておいたのだが...)を見てもらいたい.ここでは,読み誤りの余地なく,はっきりと“共産主義インタナショナルは”という主語で書き始められている.

「後進諸国のブルジョア民主主義的解放運動を共産主義の色彩で粉飾することにたいし,断固として闘争しなければならない.共産主義インタナショナルは,植民地と後進諸国のブルジョア民主主義的民族運動を支持しなければならないが,それは,すべての後進諸国で将来のプロレタリア政党−それは名前だけが共産党というのではない−の要素が集団をつくり,彼ら自身の任務,すなわち,その民族内のブルジョア民主主義運動と闘争する任務を意識するように教育されるということを専ら条件としている」(下線は引用者)

 深山氏が,赫旗派の都合で,レーニンの見解を歪めてしまったことこそが明白になっただろう.
 抑圧民族と被抑圧民族への分裂という情勢をしっかりとらえること,民族問題をめぐって抑圧民族の共産主義者と被抑圧民族の共産主義者とでは扇動上の重点の置き方は違ったものとなること,こうしたレーニンの提起を,赫旗派は,各々の共産主義者が民族解放運動,被抑圧民族の支配階級に対して取るべき態度の相違・機械的分離へと不当に拡張してしまっているのである.ある被抑圧民族の支配階級に対して,一方で被抑圧民族の共産主義者は打倒を呼びかけ,もう一方で抑圧民族の共産主義者は支持・擁護を呼びかける,といった基本的態度における相違・区別を設けるべきだと,いつ,どこでレーニンが提起したというのだろうか.

IV

 それでも深山氏・赫旗派は,次のレーニンの主張を盾に,反帝主義へと傾いた自らの党派性を防衛しようとするかもしれない.

「被抑圧民族のブルジョアジーが抑圧民族とたたかうかぎり,そのかぎりで,われわれは,いつでも,どんな場合にも,他の誰よりも断固として彼らを支持する」(「民族自決権について」.国民文庫『民族自決権について』p111)

 深山氏は,このレーニンの主張を「火花派が無視して」おり,一方赫旗派は「レーニンのこの主張を,共和国の官僚ブルジョアジーに対する態度においても貫いて」おり,それゆえ「帝国主義列強の『制裁』恫喝に対する彼ら・彼女らの民族的抵抗を支持してきたのである」と述べている.
 しかし深山氏は,この一文を引用するにあたって,はたしてその歴史的経過・背景を考慮に入れただろうか.
 レーニンが「民族自決権について」を執筆した1914年当時,被抑圧民族の民族運動は比較的に未分化な状況であったのであり,レーニンは,被抑圧民族の民族運動は総じて進歩的な性格を有している,と判断していたのである.
 しかしその後の,情勢の変化−民族運動内部での階級的分解の進行−,それに対応して生じた議論を踏まえて執筆されたのが,私が先に繰り返し引用したコミンテルン第2回大会へのレーニンの提出文書であり,また報告文書なのである.ここで,民族運動に対して共産主義者が取るべき態度は,「はるかに正確にまとめられ」るに至ったのである.
 それでもなお,赫旗派のように反帝国主義を立場としている−より正確には,反帝国主義にプロレタリアートの階級性(共産主義者の党派性)を溶解させてしまっている−人たちには,レーニンの提起の主旨はつかみとれないかもしれない.つまりレーニンが,もっぱら“帝国主義と協調しているかどうか”を分界線として,共産主義者が取るべき態度を定めているものと読み取るかもしれない.したがってまた,朝鮮労働党が,帝国主義世界秩序に与せず,「抑圧民族とたたかうかぎり」支持すべきだ,という態度を固持しようとするかもしれない.
 この当たりの歴史的事情としてはっきりしているのは,レーニンの存命中には,朝鮮労働党のような,反帝国主義・民族主義のイデオロギーを掲げ,帝国主義と対峙する「社会主義陣営」に属することで,プロレタリアートを抑圧・支配する特権官僚体制を形作っている政治勢力はいまだ出現していなかった,ということである.だからこの点での「正確」な記述をレーニンに期待すべきではない.
 しかしこうしたことを踏まえて,注意深く,再び先のレーニンの提起に目を向けるならば,「植民地諸国のブルジョア的解放運動が現実に革命的である」かどうか,「被搾取者大衆を革命的精神で教育し組織しようとするのを運動の代表者が妨害しない」かどうか,を見極めるべきだということを,「このとりかえの本旨」として押さえていることに気づくだろう.
 レーニンにとって,そしてまた今日生きるわれわれ共産主義者にとっても,第一義的に重要なのは,プロレタリアートの階級的成長を促進すること,そのための条件を押し広げること,このことに他ならない.商品生産,資本主義,帝国主義に対する態度は,この第一義的任務に従属させられねばならず,局面・局面において,「協調」として現れるような種々の妥協を行うことは必要なことである.しかるに赫旗派は,共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の発展という見地を一切欠落させて,帝国主義と対峙しているかどうかという表層的一面をもって,評価・判断するということを自己の積極的党派性としてしまっているのである.
 引き続き赫旗派がこの党派性を堅持しようというのであれば,共産主義の旗を掲げるのを止め,その代わりに反帝急進主義の旗をはっきりと掲げるべきではないだろうか.

 これまでのところ,赫旗派とわれわれの論争は噛み合っていない.論点のズレを生じさせている赫旗派の理論上の欠陥,レーニンの提起の誤った把握について,この文章で指摘したつもりである.赫旗派のメンバーには,ぜひとも本文章を検討の上,『火花』158号文章についても再度検討されるよう要請したい.また,この論争に注目する全ての党派,活動家,『火花』読者の皆さんにも,積極的な意見表明を要請したい.
 自己の優位性を誇示し,批判対象を貶めるような旧来の党派間論争ではなく,共和国プロレタリアートとの連帯をめぐって,日本のプロレタリアートが一歩でも前に進んでいくことを促進するような方向での論議関係を共に創り出していくよう呼びかけたい.


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