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<資料・『赫旗』170号−第4面論文>

レーニンに助けを求めた帝国主義的民主主義者
――共産同火花派・氷上君への反批判――

深山和彦
『赫旗』170号(1994年12月10日発行)所収


 『火花』一五八号が、本紙一六六号の「金日成主席の逝去に思う」(青木浩)、同一六七号の「ブルジョア民主主義に解体され反動的立場に転げ落ちる火花派」(左京広)に対して批判を掲載している。「『赫旗』−左京署名文章による批判に応えて」(氷上潤署名)と題した論文である。意見表明の期待も述べられているので、相応の反批判を行っておくことにする。
 なお、氷上論文がひたすらレーニンの言葉を盾にわれわれを批判しているので、私の反論もこれに付き合わざるをえない。読者の皆さんには、その点をご容赦願いたい。

 氷上論文とわれわれの見解を分ける核心から入ろう。同論文は、次のように述べる。
 「われわれは、赫旗派のように『国連−帝国主義の圧迫に抗する朝鮮民族の民族的抵抗に対しては、それがどの階級・いかなる勢力により組織されたものであっても支持しなければならない』(『赫旗』一六六号『金日成主席の逝去に思う』)という没階級的な見地に立つことはできない。われわれには、共和国における階級闘争の現局面−諸階級・諸勢力の相互関係を分析することなしに、プロレタリアートの階級闘争の戦術を論じることなどできないのである。/『共産主義者としてのわれわれは、植民地諸国のブルジョア的解放運動が現実的に革命的である場合にだけ、またわれわれが農民および広範な被搾取者大衆を革命的精神で教育しようとするのを運動の代表者が妨害しない場合にだけ、ブルジョア的解放運動を支持しなければならないし、また支持するであろう』(『民族および植民地問題委員会の報告』)…赫旗派は、被抑圧民族の解放運動をめぐる自らの主張が正しいと考え続けるのであれば、このレーニンの主張に対して、はっきりと〃間違っている〃と言い切らなければならない」と。氷上君は、火花派の政治態度を正当化するという目的に性急なあまり、レーニンを歪曲してしまっていることに気づいていないようである。
 レーニンは、次のように述べている。「われわれのテーゼの最も重要な、基本約思想はなにか? それは、被抑圧民族と抑圧民族を区別することである」(『民族および植民地問題委員会の報告』)と。すなわち「小国家への人類の細分状態と諸民族のあらゆる分立とをなくし、諸民族の接近をはかるばかりか、さらに諸民族を融合させる」(『社会主義革命と民族自決権』)という「社会主義の目的」(同上)を達成するために、「抑圧民族のプロレタリアート」と「被抑圧民族の社会主義者」とには異なった政治態度が求められるということなのである。
 そして、氷上君の上記引用筒所においてレーニンが指し示しているのは、その前後の文脈から明らかなように、「被抑圧民族の社会主義者」の取るべき政治態度なのだ。なおレーニンの場合、「被抑圧民族の社会主義者」のとるべき態度として、この点だけでなく「抑圧民族の労働者と被抑圧民族の労働者との完全な無条件の統一−組織的統一をも含む−を、特に強く主張し、それを実現しなければならない」(同上)を強調している。
 だが、氷上君はこれを「抑圧民族のプロレタリアート」もが取るべき政治態度へと拡張してしまったのである。それは、この論文のレーニン引用の全般的特徴となっている。言うなれば彼は、「抑圧民族のプロレタリアート」として取るべき政治態度を覆い隠しているのであり、こうして抑圧民族のプロレタリアートが他民族抑圧に加担する道を掃き清めていると言わざるをえないのである。他方、われわれは、レーニン同様に「抑圧民族のプロレタリアート」と「被抑圧民族の社会主義者」が取るべき政治態度を区別し、もっぱら抑圧民族のプロレタリアートとしての取るべき態度を語ってきた。
 「被抑圧民族のブルジョアジーが抑圧民族とたたかうかぎり、そのかぎりで、われわれは、いつでも、どんな場合にも、他の誰よりも断固として彼らを支持する」(『民族自決権について』)
 われわれは、火花派が無視しているレーニンのこの主張を、共和国の官僚ブルジョアジーに対する態度においても貫いてきた。すなわち、帝国主義列強の「制裁」恫喝に対する彼ら・彼女らの民族的抵抗を支持してきたのである。あくまでも「たたかうかぎり」で。それは、わが国の労働者が米日帝国主義に対する非和解的な政治的立場へと自らを組織し、朝鮮・韓国の労働者との階級的団結への道を開くために不可欠だからである。

II

 次に、氷上論文が「民族自決権」と「民主主義」の関係論について述べつつわれわれを批判している箇所を取り上げたい。
 この議論は、米帝を頭目とする帝国主義列強が、ソ社帝に対する勝利を背景に「第三世界」諸国に対しても民主化を強制し始めたこと、こうして多国籍企業の資本活動にとって最良の国際環境をつくろうと攻勢的に画策し出したことと無関係ではない。帝国主義は、「湾岸戦争」以来、民族自決権尊重よりも人権擁護・民主化が優先するとして〃南〃の諸国に対する自己の政治的、軍事的干渉を正当化する主張を立ててきた。氷上君の議論は、帝国主義のこうした最近のイデオロギー攻勢に呼応するものとなっているのである。彼は、次のようにわれわれを批判する。
 「『赫旗』第一六六号『金日成主席の逝去に思う』という文章でも、『われわれは朝鮮民族の自決権の支持を何よりも優先させなければならない』…と語られている。/つまり、民族自決権を他の民主主義的諸権利から区別し、何か特別な、何よりも最優先すべき権利として取り扱うべきだと主張しているのである…/赫旗派と違って、われわれは民族自決権をめぐって、マルクス・レーニンの見解の側に立っている。すなわち、民族自決権は、もろもろの民主主義的権利の一つである…と考えているということである。/レーニンの見解を紹介しておく。/『自決権は民主主義の諸要求の内の一つであって、それは、当然に、民主主義の一般的利益に従属されなければならない』…/『自決をも含めた民主主義の個々の要求は、絶対的なものでなく、一般民主主義的な(今日では一般社会主義的な)世界的運動の小部分である』」と。
 ここでも、氷上君は大きな誤りを犯してしまった。
 彼がレーニンを引用した筒所は、一番目の引用筒所の前後の文からも明らかなように、「一八四八年とその後の数年間」の歴史的状況を頭に描いて語られているのであり、「この一般的利益は、第一にツァーリズムと闘争することであった」のである。すなわち、その意味するところは、ツァーリズムとの闘争という世界的運動の前進のために、この全体に矛盾する小民族運動(ツァーリズムの陰謀の道具・共和主義的であっても)に反対する態度は正しかったということなのである。レーニンは資本主義的帝国主義の時代の民族綱領と比較して、当時のそれを次のように総括している。「以前には、第一に『ツァーリズムに反対』して(またツァーリズムによって反民主主義的な方向で利用されていた若干の小民族運動に反対して)、西欧の大民族の革命的国民に味方しなければならなかった。いまでは、帝国主義国、帝国主義的ブルジョアジー、社会帝国主義者の歩調を合わせた統一戦線に反対し、社会主義革命のためにあらゆる反帝国主義的民族運動を利用することに味方しなければならない」(『自決に関する討論の総括』)と。
 氷上君は、レーニンの言葉をその歴史的背景から切り離し、悪い意味での教条に変えて、われわれに対する批判の武器として利用したのである。「民族自決権」は「政治的民主主義の諸要求の一つ」という「理論上」全く正しい一般論も、「民族自決権」支持を押し出すべき具体的な歴史的現実の中で語るとき、反動に道を拓くということを知らねばならない。なお氷上君は、われわれが、「民族自決権を他の民主主義的諸権利から区別し、何か特別な何よりも最優先すべき権利として取り扱うべきだ」と主張しているかのようにデッチ上げてこれを批判している。われわれが今年前半の朝鮮情勢という具体的現実に対する政治態度として「朝鮮民族の自決権の支持を、何よりも優先しなければならない」としたのを、さっそくその具体的現実から切り離し、何時でも、どんな場合でも運用する原則論に翻訳してしまったわけだ。それは、いま指摘したレーニン引用のやり方と共通する誤りであり、唯物論者としての根本的な思想的欠陥を示しているといえよう。

III

 では、このような氷上君の、朝鮮情勢に対する政治態度はどうだろうか?
 彼は、「共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の今日の発展のためには、朝鮮労働党の支配体制の打倒が不可欠」と叫び、共和国のプロレタリアートに対し、「今後、帝国主義−国連が民主化・人権擁護の要求をもって介入を強めていくといった局面が生じた際に、共和国のプロレタリアートが、そうした情勢を自らの政治的自由の拡大のために、プロレタリアートの階級闘争の発展のために、最大限に活用すること」を勧めている。つまり、帝国主義−国連が朝鮮半島北半部に民主主義的覇権拡張を画策する際には、朝鮮労働党の支配の打倒をめざし帝国主義−国連と〃別個に進んで共に撃て〃と、共和国のプロレタリアートに戦術指南しているのである。そしてその際、火花派自身は「それへの連帯を日本のプロレタリアートに呼びかけ、その見地から共和国の支配体制を批判する」というのだ。
 したがって当然だが、この論文の中に「抑圧民族のプロレタリアート」という主体的立場からする任務、自らか帝国主義列強の「制裁」恫喝に反対し、日帝打倒・米帝一掃をめざしてたたかうという国際連帯上の中心任務への言及を探し出すことはできない。そもそも、こうした主体的中心任務は氷上君の関心の対象外になっているようである。例えば左京同志の文章は、国際連帯上のこの中心任務の火花派による曖昧化を取り上げたものなのだか、そしてそのことしか述べていないのだが、氷上君にかかるとそれも共和国の労働者・勤労大衆への赫旗派としての戦術提起に化けてしまい、自己のつくりあげた幻影に突進している始末なのだ。さらには、紙面の都合上詳述を避けるが、共和国が国家的独立を達していることをもって「民族自決権」支持の問題は歴史的に過去のものとなったかのように臭わせる主張さえしている。「制裁」恫喝、南北分断、植民地支配の居直りなど、朝鮮民族の自決権に対する帝国主義の側の巻き返し・侵害・脅威は現にあり、抑圧−被抑圧の関係と民族的不信の感情が再生産されている事実が見えなくなっているのだ。
 帝国主義的民主主義者! これが氷上君の現在の姿である。

IV

 ところで、カンボジア、ベトナム地域、パレスチナ・中東地域、北アイルランドに続いて、この十月の朝米合意で朝鮮半島でも「新秩序」の形成が動き始めた。
 ただし、朝米合意は、周知のように極めて脆弱な基盤の上に成立しており、帝国主義列強の「制裁」発動と共和国の抵抗とが再び繰り返され先鋭化する可能性は多分に残されている。南北統一の課題もある。植民地支配の謝罪と賠償、戦後補償の問題もある。そうした事態や問題には、「抑圧民族のプロレタリアート」として、これまでの議論を踏まえた政治態度が求められる。
 そのことを確認した上で、われわれは、新たな局面での態度を確立・強化していかねばならない。
 資本主義経済が、独占資本の多国籍展開を推進軸とした新たな発展局面に入り、それを条件づけるものとして市場開放・市場経済・議会制民主主義を全世界に強制している。そこでは官僚制国家独占資本主義と官僚専制が存続できる余地は基本的に残されていない。共和国も、この世界史的圧力下に置かれている。
 そうした中で、米帝が、共和国の官僚ブルジョアジーを屈服させ、朝鮮「新秩序」の形成過程に辛うじて取り込んだ。そして、共和国の官僚ブルジョアジーは、民族主義を押し立てて抵抗しつつも、生き残りを賭けて・自主的自己再編(解体)する道に踏みこんだ。他方日帝は、共和国が国際反革命体制の「新秩序」の内に入ってきたことで、共和国との間で自己の歴史的責任の明確化と国交正常化の課題に取り組まざるをえなくなる。そのことは、日帝が、民主主義を旗印に掲げた現代的覇権国家へ、さらなる転換を迫られることを意味している。
 われわれは、このような共和国の官僚ブルジョアジーをも再編・統合し始めた国際反革命体制の「新秩序」に対しては、共和国のプロレタリアートとの共同布陣をもって攻囲する態度を押し出していかねばならない。そこでも、米日帝国主義の民主主義的な支配と覇権拡張の粉砕がわれわれの中心任務である。そうして、この中心任務の達成のためには、共和国民主化要求運動に対する日帝国家権力の後見拡大を「言下に否定できない」(『火花』一五五号、4/15集会参加者有志)などとする現代帝国主義に対する日和見主義(帝国主義的民主主義)の批判が、ますます重要になっているのである。


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