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中国−東欧の民主化運動について

1994年7月


はじめに

  われわれは、中国や東欧の民主化運動のもつ二重性について分析する機会があった。  「ソ連や東欧諸国、また中国における民主化運動は、二重の・相対立する性格を合わせ持っ ている。一方ではそれは広汎に導入された商品生産―資本主義的生産が不可避に生み出 す階級対立の進展と、まがりなりにも資本主義を否定せんとした革命を潜り抜けてきた現 実に基礎をもつプロレタリア独裁復権・強化の側面である」。
 今回はこの二重性について、より突っ込んで考えてみようと思う。
 かの六・四以降、世界のあちらこちらに“民主の女神像”が建ち、留学生や亡命活動家 たちによる組織づくりが進められている。去る七月二八日から三〇日にかけてシカゴで全 米中国学生学者第一次代表大会が開かれた。『読売新聞』(1989.8.15.)によれは、 「大会には全米百三十大学をはじめ香港、台湾、日本、豪州、カナダ、西ドイツなどから合 わせて五百人を超す学生、学者が参加し」、全米中国学生学者自治連合会が結成された。 そこで、ウアルカイシ君は、「共産党政権を打ち倒すなどと一度も言ってはいない。競合 する政治勢力が認められ国民が選択の権利をもつことを望むだけだ。 ・・・私たちは必ず 国に帰る。九〇年代までには独裁は終わり、自由と人権と民主主義の新しい中国が生まれ るだうう」と述べたという。
 このウアルカイシ君の言葉のなかにも、かの二重性が絡み合って表現されている。一 方では、独裁にたいして自由、人権、民主主義が対置され、その限りでそれはブルジョア 民主主義として現れている。独裁の内実を問わず、民主主義の内実を問わず、したがって  「民主主義もまた一つの国家であること」(レーニン『国家と革命』岩波文庫p.32.)を 忘れ、本来対立概念ではない独裁と民主主義とが対立させられ、ブルジョア民主主義の特 徴たる形式性・抽象性の枠に縛られている。だが他方で、ウアルカイシ君は、「国民が選 択の権利をもつことを望む」と述べている。もちろんこれも単なる選挙権のことだとした ら、ブルジョア民主主義的形式性の枠内の議論であろう。だが、よく考えてみれば、「選 択の権利を持つ」ということは、人々が“選択する能力”を持っていることを前提とする。 民主化運動はまさしくこのような“選択しうる能力”をプロレタリア人民が獲得せんとす る運動ではないのか。ケ小平は、このようなプロレタリアートの政治的能力が現在無いか ら政治改革は時期早尚だとして、この政治的能力をプロレタリアートが闘い取ることを封 殺してしまったのであった。“選択しうる能力”の獲得ということは、単なる法的なこと がらではなくて、階級としてのプロレタリアートの任務である。したがって、一九四九年 の解放後四〇年経た現在でも非識字率三〇パーセントといった事態に対する徹底的な大衆 的な闘いが、遂行されなければならないだろう。つまり社会の個々の成員の政治的能力を 高め上げていくことが社会制度・構造の変革としっかりと噛み合ったものとして展開され なければならないのであり、それがプロレタリアートの自己規律・組織性によって裏打ち されていなければならないのである。民主化運動はこのようなプロレタリア独裁を強化せ んとする内実を自然成長的に内包している。

I 民主化運動の民主主義的側面について

(1)ブルジョア民主主義―市民社会とブルジョア国家

 民主化運動がもつブルジョア民主主義的性格について少し考えてみよう。
 ブルジョア民主主義の特徴は、その形式性・抽象性にあることは既に述べた。まさしく その形式性、抽象性のゆえにそれは、ブルジョア独裁を実現・実行するときのテコになる ことができる。ブルジョアジーの階級支配のあれこれの“悪”を、階級対立の一切のあら われを、諸階級間の衝突と紛争・闘争の一切のあらわれを、それ=ブルジョア民主主義は その形式性と抽象性をテコとして覆い隠す。
 資本主義社会の下で、階級と階級対立は完成された。そこでは階級対立は経済的支配・ 隷属を基盤とするものであることが実現・完成された。

「労働手段すなわち生活源泉の領有者に対する労働者の経済的な服従が、あらゆる形 態の隷従、あらゆる社会的悲惨、精神的退廃および政治的従属の基底に横たわること」  (「国際労働者協会一般規約」望月清司訳―岩波文庫)

この事態を初期マルクスは政治的国家と市民社会の分離としてまずおさえた。

「近代国家の成立史あるいはフランス革命。・・・市民的制度と国家制度とへのすべての要素の二重化」(マルクス一八四四―一八四八年のノートから)

この市民社会と国家の分離・二重化とはどういうことか。そしてそれは、今問題として いるブルジョア民主主義とどのような関係にあるのか。

「完成された政治的国家はその本質上、人間の実質的生活と対立した彼の類生活である。 人間の実質的生活、この自己中心的生活のあらゆる前提は国家領域の外、市民社会のう ちに在り続けるが、しかし市民社会の属性としてである。政治的国家が真の完成に達し たところでは、人間はたんに思惟のなか、意識のなかにおいてのみならず、現実のなか、 生活のなかにおいても二重の、つまり天国的と地上的の生活をいとなむ。前者は政治的 共同体における生活であって、ここでは彼は己れを共同物とみなしているのであり、後 者は市民社会における生活であって、ここでは彼は私人として活動し、他人を手段とみ なし、己れ自身を手段に貶しめ、よその諸力の手玉に取られる。・・・人間はその身近 な現実のなか、市民社会のなかでは、一個の俗世的存在者である。ここ、人間が現実 的個人という意味を自他にたいして持っているところでは、彼はある真実ならぬ現象で ある。これに反して、国家という、人間が類的存在者として通用しているところでは、 彼は想像上の主権の構成員であり、その現実的個人的生活を奪われて、ある非現実的な 普遍性によって満たされている」(「ユダヤ人問題のために」国民文庫p.289)

 資本主義社会のなかでは人は公人と私人とに分裂している。公人としては彼は抽象的個 人、一人の個人なるものであり、人間なるものを表象している。彼はだから、あるがまま の在り方、実生活からそこでは切断されており、例えば選挙権を行使する個人、一票を投 ずる個人としてある。それがあるがままの公人としての、主権者としての彼の在り方であ る。彼はそこでは主権者一般に昇天している。
 これにたいして私人としては、人々はそのあるがままの実生活者として公人に対立して いる。彼はあれこれの職業、仕事に就く人として、また家族を生きる人として私人である。 だが、人が、このような私人としてでなく、社会の一成員として、社会的人間としての実 を示そうとするや、この私人から離れた抽象的な公人としての在り方を通すしかない。だ から、実生活のほうが、したがって私人としての在り方が基盤となって、その上に公人と しての在り方が在るのであるが、にもかかわらず社会性と普遍性は公人としての在り方の ほうにこそあるのであるから、そのほうがいわば勝ちを常に占めるのであって、抽象的な 在り方、形式的な個人なるものとしてあって初めて、人は具体的な在り方、社会のなかに 生きる人として認められるわけである。かくして人は、私人としてもまた、公人に対する ものとして、個々の、具体的な、在るがままの在り方から切り離されて、私人なるものに 抽象化される。「公人」としては「想像上の主権の構成員であり」、「あくまで非現実的 な普遍性によってみたされ」、他方、「私人」としては、「真実ならぬ現象」である。

 「国家が出生、身分、教養、仕事を非政治的な区別と宣言し、これらの区別を無視して 人民の一人一人を人民主権の均等の分有者と公言し、現実的人民生活のあらゆる要素を 国家的見地から取り扱う場合、それは出生、身分、教養、仕事の区別をそれなりの仕方 で廃止するわけである。それにもかかわらず国家は私有財産、教養、仕事にそれなりの 仕方で、換言すれば私有財産として、教養として、仕事として、ものをいわせ、それら の特別な在り方を効かせる。これらの事実上の区別を廃止するどころか、国家はむしろ ただそれらの前提のもとにのみ存在し、己れを政治的国家と感じ、その普遍性をただこ れらの国家の諸要素との対立においてのみ効かせる」(同前p.288)

 市民社会に対するこの国家の在り方、市民社会の個々の成員にとっては、公共事として の公共事として浮き上がったものとしてあるこの国家、この抽象的な普遍性の領域、その 抽象的な普遍性のゆえに個々の個別的な具体性にたいして常に“勝ち”を占めるところの 領域−ブルジョア民主主義とはこのような転倒を表現するところのブルジョア国家の形態 規定である。ブルジョア社会において初めて階級が経済的な階級として剥き出しに、純化 して現れ、階級支配が経済的な隷属を基礎とするものへと純化されたことこそ、こうした 形式性と抽象性との方埓を可能にしているのである。だからこの転倒の“根”が問題であ る。

 「法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわ ゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、 ・・・に根ざしているということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学に求 めなければならない」(マルクス「経済学批判序言」岩波文庫pp.12-13)

というわけである。

(2)ブルジョア民主主義の形式性と抽象性

 ヘーゲルは普遍性について次のように言っている。

「特殊性は、・・・普遍自身の内在的契機である。だから、普遍は特殊性のなかにおい て他者の許にあるのではなく、まったく自分自身の許に(bei sich selbst)ある。/特 殊(das Besondere)は普遍性を含んでおり、この普遍性が特殊の実体をなす。類(die Gattung)はその種(die Arten)の中にあって普遍である。 ・・・特殊は普遍を中に含む のみでなく、またその規定性によって普遍を表現する」(『大論理学』武市健人訳 岩 波書店)
「普遍性と特殊性とは一方では個別性の生成の契機として現れた。・・・両者はそれら 自身において全体的概念であって、従って個別性のなかで他者に推移するのではなくて、 むしろこの個別性のなかでそれらの即且向自的な本性が措定されているのである」(同 前)

このような普遍―特殊―個別の関係のなかで、普遍が抽象的な普遍になるとはどういう ことなのか。

「媒介が単に制約にすぎないということ、云いかえると媒介がそれ自身において措定さ れていないということが、この普遍性を抽象的普遍性となすのである。このように媒介 が措定されていないが故に、抽象的なものの統一は直接性の形式をもち、また内容もそ の普遍性に対する無関心性の形式をもつ。・・・抽象的普遍も、もとより概念ではある が、しかし没概念的なものとしての概念にすぎず、即ち概念そのものとして措定されて いない概念にすぎない」(同前)

 特殊が媒介として規定されず、従って、特殊の内在的契機として、実体として普遍性が 規定されず、特殊から切断され浮き上がって抽象化されるということである。さらに、個 別性との関係でこの抽象的普遍についてヘーゲルは言う。

 「普遍がもつ否定的なもののために普遍は特殊となるのであるが、この普遍のもつ否 定的なものは、・・・二様の映現として規定された。即ち普遍が内への映現(das Scheinen nach Innen)であるかぎり、特殊もあくまでも普遍としてある。しかし、外への映 現(das Scheinen nach Aussen)によって、普遍は規定されたものとなる。従って、 この面の普遍への復帰も、またニ様である。即ち或は規定的なもの[特殊]を捨てて、 ヨリ高い、または最高の類に昇る抽象によるか、それとも普遍が規定性そのもののなか て個別性にまで降っていくところのその個別性によるかのいずれかである。―抽象が 概念の途からはずれ、真理を見捨てることになる迷路がここに現れる。抽象がそれにま で自分を高めるところの、そのヨリ高い、または最高の普遍は、漸次に無内容なものと なっていく皮相なものに主ぎない。これにたいして抽象によって振り捨てられる個別性 こそ却って深いものであって、概念はそこではじめて自分自身を把握し、概念として措 定されることになる」(同前)

 「没概念的なもの」であり、「無内容なもの」である抽象的普遍に対する具体性、個別 性は、その限りで個別性一般としてそれ自体抽象的普遍に昇天していくようなもの、個別 となっていないものである。市民社会と国家との分離に基ずいて、人は、私人と公人とに 自己を二重化するが、このとき、抽象的普遍としての人間なるものを表象する公人に対す る私人もまた抽象化されることになる。それは個々の人々の具体的な在り方そのものを表 現するのではなく、私人なるものとして抽象化されて公人に対置されることになるのであ る。個々の具体的な人々の在り方がそのまま公人=人間なるものに対置されるのではない。 こうして抽象的な普遍は「没概念的」で、「無内容」であるにもかかわらず抽象的な個別 性にたいして君臨することができる。抽象的な普遍としてあるブルジョア民主主義の理念 ―自由、民主、人権といったことが、個々の職業倫理やその他にたいしてあくまで上位 概念としてある。

(3)ブルジョア民主主義と商品生産

 このような事態は先に述べたように、階級支配の完成、経済的な支配―隷属関係に基 礎をもつものとして階級関係が構造化されたことによっている。階級支配の実は市民社会 のなか、経済的な関係のなかで挙げられており、その支配の政治的な表現―政治的な支 配は、抽象化され形式化されたブルジョア民主主義理念、この抽象的普遍概念の許に遂行 されることになる。ところでこうした事態は、階級支配の実が挙げられるところの市民社 会の中、商品生産―資本主義生産のなかにおける次の事態と照応していると思われる。
 商品の分析、とりわけ価値形態の分析のところである。商品は使用価値と価値との二 重物=統一である。使用価値としては、商品は個別性、多種多様な具体的姿態として存在 している。使用価値はその背後に具体的な歴史を背負っており、ものの有用性がまさしく 有用性として現れるためには一定の社会的な条件を前提する。その限りで使用価値は一定 の社会性を前提し、その契機として社会性を内に孕む。だが、他方、価値は純粋に社会性 を、ただ社会性そのものを表現する。

「商品の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材 は入っていない。・・・諸商品はただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸 表現であるかぎりでのみ価値対象性を持っているのだということ、したがって商品の価 値対象性は純粋に社会的であること・・・」(『資本論』vol.1.国民文庫 1 p.93)

だが、どのようにしてそれを表現するのか。価値形態の展開を通してである。

a量の商品A=b量の商品B

 商品Aは自分に商品Bを等置することによって、商品Aに含まれている具体的な労働に 商品Bに含まれている具体的な労働を等置する。この双方の商品に含まれている労働の等 置によって、先ず、商品Bをつくる労働の具体的有用的形態は捨象され、商品Aをつくる 労働とに共通な人間労働に商品Bの労働が還元される。すなわち抽象化される。このこと を通して、商品Aをつくる労働もまた価値をうみだす労働としては商品Bをつくる労働と 同じであることが表現されている。こうして双方に含まれている労働が価値の実体として 抽象化され、同じ抽象的人間労働であることが示されている。このように、商品が自らの 社会性を表現する場合、その社会性は個別性の内で普遍・特殊を規定しているようなもの としてではなくて、抽象化され、「より高い、または最高の類に昇る抽象」(ヘーゲル) でしかないところの社会性である。
 ここでは等価形態にある商品Bがそのあるがままの姿で価値あるもの・価値物として意 義をもつ。商品は自分の社会性を自ら在るがままに表出することはできず、自分とは異な るある商品を自分に等置すること、他の一商品を等価形態にすることによってはじめてそ れを表現できる。だから等価形態にある商品はそのままの姿で価値物・価値あるもの・抽 象的ではあるが、純粋に社会的なものとして現れる。等価物がこのように社会性一般をそ れ自体として表現することから、他方の相対的価値形態にある商品はあくまで私的なもの、 “公人一私人”でみたと同様な抽象化された私的なものを表現する。
 この価値形態が一般的価値形態にまで発展し、さらに貨幣形態に固定することを通じて、 商品の持つ社会的性格と私的性格の対立は固定され、発展する。一般的等価物・貨幣のう ちに一切の社会性が集約され、社会的な力を集中するのにたいして、それ以外の個々の諸 商品はあくまで私的なものとして一般的等価物=貨幣に対応する。商品生産社会―資本主 義的生産社会のうちでは、人々の人類としての類的な行為は、かかる根本的な疎外・転倒 をとうしてしか表現されないのである。
 このように、人々の類としての個別的な行為は、あるがままに社会的なものとしては現 われることができず、それらの行為の一切が商品関係のうちで抽象化され、抽象的な人間 労働一般に還元され、かくしてはじめて社会性を実現できる。また他方、抽象化された社 会性は、貨幣のうち集約され、一切の個別性から剥がれた抽象、抽象的普遍として貨幣の 力として顕現する。形式的抽象的な普遍に個別的・具体的なものが還元され、またこの 還元を通じて具体的なものもまた抽象化されるというこの商品生産のメカニズムはまさし く日々人々が無意識に行なっている事柄なのであり、このことが、形式性と抽象性をその 特徴とするブルジョア民主主義の諸理念の底にあるのである。

*      *       *

 中国や東欧の民主化運動が孕むブルジョア民主主義的な性格は、確かに商品生産―資本 主義的生産の浸透・発展に根ざしている。だからこそ、このことを自覚的に取り上げ、そ れと意識的に闘わないかぎり、ハンガリーに見られるように、社会の最も内奥からのブル ジョアジーヘの屈服が進行せざるをえないのである。民主化運動が自然成長的に孕むプロ レタリア独裁強化の運動に注目し、掴み、それを育むことが共産主義者の任務である。

(つづく)


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