斎藤幸平氏の新たな構想について
斎藤 隆雄
476号(2026年07月)所収
斎藤幸平が新しく『人新世の「黙示録」』(2026年:集英社)という著書を出した。とりあえず、一読させていただいた。特に彼の計画経済とプロ独に関する見解はこれまでのリベラル左派にはない新たなアプローチで新鮮であった。
1.状況:恒久欠乏経済とは?
斎藤氏の革命論の最も基礎の部分は、最初の三つの章で展開される「恒久欠乏経済」という現状分析である。つまり、大前提として気候変動による地球環境の悪化によって人間の生存にとって不可欠な食糧生産が打撃を受け、全般的な「恒久欠乏経済」が到来するという現状認識である*1。気候変動による農業の変調、温暖化による生活空間の劣化、飢餓の発生、資源の奪い合いと戦争、気候難民の増大等々によって人類にとっての生活物資が不足し、危機的な将来が迫っているというのだ。現状でもこのことは既に起こっていることだから、ますますひどくなるという予想を立てていることになる*2。更にその現状から世界の先進国は資源戦争を起こし、移民を排除し、自国の利害を優先するという、今まさに起こっている事態の一層の進行が予想されている。
《安定した気候のもとで、経済成長を続け、物質的豊かさを享受するという近代の大前提が、もはや維持不可能になったという点にある。》25
近代が終わったという言説は多いが、環境問題に関わって論じるのは初見である。ただ、ここで気になるのは、ロールズとヒュームを並行して論じて、ヒュームに軍配をあげている点である。ヒュームは人間社会が非常事態に出会うと正義が停止し、自己保存が優先されるとしている。この見立ては英国思想の系譜であるホッブスやロックの個人主義的な人間観が反映されていて、いわゆるハリウッドのパニック映画的な発想に近い。
《気候変動をきっかけとした複合危機が、深刻な欠乏を蔓延させ、リベラル民主主義の物質的条件を破壊し、これまでの法や規範は機能不全となる。「人新世」にリアリティをもつのは、ロールズのリベラリズムよりも、ヒュームの洞察なのである。》35
確かに先のコロナ危機では、そういう側面がないとは言えないが、逆に人々が協力し合う場面も多く見られたのではなかったか。東日本大震災や能登の震災においても、被災者たちはパニックには陥らなかった。その辺りが危機を連呼して、人間社会を甘く見ている側面も見受けられ、逆にそのことがのちの議論に影響してくるように感じる。というのも、彼の議論はこの危機の深さと社会の動揺とが変革に結びつくという見立てである以上、中途半端な動揺と修正によるその場限りの弥縫策の連続という未来もまたありうるということである*3。
2.計画経済の復権?
次に論じられるのは、気候危機における技術革新の問題である。これらの悲観的現状に対して資本家の一部がテクノロジーによってこれらの困難を克服できるという予想を立てている論者*4がいるという。しかしこれらの論者のことを左派加速主義者と称するらしく、「太陽コミュニズム」と自称しているようであるが、これらの指向は環境汚染や植民地主義的収奪を問題としないという意味で事態を更に悪化させる可能性があるとする。更に危惧されるのは、右派加速主義者の方であり、かのイーロン・マスクやピーター・ティールなどのテクノ・リバタリアンのことである。彼らの思想は、究極のエリート主義であって、実は彼らは未来を明るいものとは見ておらず、むしろ自分たちだけが生き残るために資源の独占に走っている。また、オルタナ右翼であるカーティス・ヤーヴィンは、ディープステートとカテドラル*5を打倒する革命を提唱しているらしく、テクノ・リバタリアンを君主に据えて、非効率な国家を解体し、企業がコミュニティを経営するという未来を描いている。そうなれば、ますます格差が拡大し、欠乏経済が急速に拡大することになる。故に、政治の世界では三つのファシズム(気候ファシズム・テクノファシズム・終末ファシズム)が跋扈すると予想される。まさに暗い未来である。
《今後やってくる事態は、コロナ禍などよりも格段に深刻である。なぜなら、これまでの平時の統治のやり方が通用しない「例外状態」の恒久化が進行していくからだ。そのため、資本主義やリベラル民主主義の枠組みは現実に適応できず、うまく機能しなくなっていく。
その暁に、弱肉強食の奪い合いへと向かうのか、それとも、レジリエントな連帯経済を構築できるのか。これこそが、恒久欠乏経済の時代における大きな分岐点なのである。》91
以上が現状分析である。そして次に彼が新たに持ち出した概念が「計画経済」である。
《本書が強調したいのが、資本主義の暴走が引き起こす環境=社会崩壊を止めるために必要な、国家を中心とする、より大規模な経済の「社会化」と「計画化」だからである。》104
「社会化」はいいとしても、「計画化」は如何にも古風な感じがするが、彼の持ち出した「計画経済構想」はある意味で現代的である。つまりこの計画経済は「デジタル社会主義」なのである。我々もいっときこのような構想を考えたことがあったように思う。現代のデジタル技術の発展を考えれば、かつてのような計画経済の限界性は克服できるのではないか、という希望である。
「気候変動」による「社会崩壊」という「欠乏経済」の下で、今後の世界は「足らずを知る」ことを学ばなければならないという。そしてそのためには資本主義経済では持続可能性がないので、計画的な生産体制をとるべきであるということだ。この発想自体は何も今発見された訳ではなく、多くの低開発諸国が植民地支配から独立した時期に採用したものであって、いわゆる「開発独裁」と呼ばれる政治体制が戦後世界の第三世界で一般的になったものである*6。ただし、この「計画経済」というものをあえて強調しないまでも、現代の資本主義経済体制の中で一定の役割を果たしているという事実と、更にそれが政治利権と結びつきやすくエリート支配に陥りやすいという歴史的事実があるということは注意が必要である。
3.ハイエク批判
しかし、斎藤氏はこの戦後史的な視点で物語ってはいない。つまり思想としての「市場経済崇拝」を攻撃するところから出発している。そして、この批判の俎上に登っているのがハイエクである。
《抜本的な気候変動対策が遅々として進まない真の原因は、実は、ハイエクにある。》102
《戦時経済の公的介入や経済計画を思い描けず、気候崩壊を止められないでいるのは、市場に余計な介入をしてはならないと、私たちが信じているからである。》101
こういう発想は流石にマルキストだな、と思わせる。この「計画経済」の議論を始めるためにはロシア革命後の戦間期に現れた論争、「社会主義経済計算論争」にまで遡ることになる。革命ロシアのNEP(新経済政策)やオーストリアでの様々な実践を視野に入れながら、ハイエクの計画経済批判に対する反論を展開する*7。
ここでちょっと余談になるが、彼は現代のリベラル左派の政策である反緊縮(消費税減税、量的緩和、ベーシックインカム等々)に対して批判的である。「ゆるふわアナキズム」と皮肉混じりで取り上げ、「気休めの思想」と断罪しているのが興味深い。反緊縮は新自由主義と同じだとも言う。確かにその側面はあるが、どちらかというとケインズ主義に近いのではと私は思うのだが…。
それはさておき、ここでのハイエク批判には二つの側面がある。一つはかつての計画経済が何故失敗したのかという疑問。もう一つがハイエクの称揚する市場経済はそれほど良いものなのか、という疑問である。前者の疑問に対して技術革新によって克服できるという。後者の疑問に対しては言わずと知れたマルクスの資本主義批判を対置して「資本の専制」を説く。いずれにしても、ここでの主要な論点は、「市場」が社会の必要や欲求を知るための最上の道具か、という問いへと至る。私がかつて計画経済を批判した論点の中心はこの市場が果たす役割、つまり価格調整という機能のことであった。市場に代わるような調整機能が人工的に作れるのかという疑問である。
私は既にいくつかのところで「計画経済」と「プロ独」について批判的な評価を与えてきたので、彼の議論と真っ向から対立する。まず、「計画経済不可能説」の根拠となるものは、ハイエクも言う通り社会が必要とする需要と欲求を政府が一箇所に収集することが可能なのかという疑問である。かつてソ連がゴスプランを作成した時、収集した情報を計算する時には既に古くなっていたという実態(収集に時間差がある)と収集した情報があまりにも多すぎて計算できないという現実に直面していたという事実である。1960年代当時ソ連が使用していた計算機BESM-6は、一秒間に80万回の性能であったと斎藤氏は指摘し、現代の日本の「富嶽」は41.5京回になっており、約5億倍の性能となっているので、上に挙げた困難は解決すると見ている。別の文献*8では、経済情報の流れは生産量の約二乗に比例して拡大すると指摘している論者もいるようだ。ロシア革命当初の生産体制では企業数が数千社程度であったことで比較的計算可能であったが、戦後の経済発展に合わせて60年代では企業数が4万7000社、工場は17万5000箇所、小売店60万箇所、飲食店16万軒と飛躍的に拡大し、回収されたデータの内、計画に使用されたものはわずか10%に過ぎなくなっていった。現在の日本の工場数は22万箇所で小売店では100万を上回っている現状からするなら、「富嶽」で計画経済が可能であるか否かが問われるだろう。ただ、現代のプラットフォーム企業(Amazonなど)は全世界相手に膨大な量の商品を瞬時にマッチングして配送していることを考えるなら、可能であると予想することは荒唐無稽の話ではなさそうである。具体的な数字を挙げるなら、ウーバーは15000以上の都市で毎月1000万前後のドライバーと2億人以上の客をマッチングさせて、毎日3500万件の移動を実現させている。
4.プロ独の意味は?
本書の指摘する通り、現代のデジタル技術をもってすれば確かに理論的には経済計算が可能であると思わざるをえない。故に私の過去の計画経済不可能論は撤回せざるをえない。彼は更にそれ以外の問題も解決すると指摘している。つまり、@計算能力の飛躍的進歩で計算できなという壁は打ち破られただけでなく、Aハイエクが不可能と指摘した「暗黙知」も、集約可能であるという。それはカメラやセンサー、IoTなどをインターネットに繋げば、リアルタイムで情報が収集できるという*9。また、B市場経済が価格という一つだけの指標で需給を調整するが、現代のデジタル技術は価格以外の指標(混み具合や商品評価などの双方向の情報)も提供できてしまうのである。そして最後にC計画経済の民主的運営さえ容易であるとする。《マーケットデザインの分野では、価格にうまく反映されなかった多元的な情報???逼迫度、家族構成、性別、年齢、成績、既往症など???を積極的に考慮することで、市場よりも適切なマッチングを、貨幣という媒介なしに、社会工学的に実現する…》160と。
ここまでくると、いよいよ「計画経済」は可能であるということになりそうである。そして次に問題となるのはこれを実行するにはどうするのかという問題となる。そこで登場するのが、何と「プロレタリア独裁」である。斎藤氏の言うのは、「エコロジー独裁」と名称を変更しているが、実質的には「プロ独」と同様の内容を備えている。つまりロシア革命におけるそれではなく、パリコミューンにおける元祖プロ独である。しかし多くの人々がイメージするのは、ロシア革命や中国革命におけるプロ独であるから、それをどうやら緩和するためにパリコミューンを例示しているように見える。
第四章から第七章までは主要にハイエクの計画経済批判に対する反批判に当てられている。資本主義市場経済における負の側面を詳細に列挙して、計画経済の負の側面との対比を試みている。これは面白い試みである。従来、資本主義批判が「資本の専制」にのみ焦点が当たりがちであったが、斎藤氏は無駄な生産(ブルシットジョブ)やエセ合理主義(使用価値の捨象)、隠蔽体質(情報の独占)と外部不経済(環境問題)といった多角的な批判を試みている。他方で計画経済における諸問題として情報の集中化による国家の独占と官僚制による硬直的な政治経済を取り上げている。つまり、これまでのハイエク的議論は単に二元論に陥っているだけだと。
《実際、私たちの思考は「中央計画vs自由市場」や「全体主義vs民主主義」といった二項対立にひどくとらわれている。》145
これまでの歴史上の資本主義も計画経済もいずれも欠陥だらけだというわけだ。
ここで、読者も薄々勘付かれたかもしれないが、現在の中国の実態が「エコ独」に近いのではないかということである。しかし、彼は現在の中国を「デジタル・スターリン主義」とか「気候毛沢東主義」などとレッテル貼りをしている。残念なことに、歴史上の計画経済の失敗については計算能力の問題以外にこれといって分析がなされていない。スターリンや毛沢東が極悪人だとはしていないが、では何故彼らの指導の下で失敗したのか、いわゆる権威主義や非民主的な政治が横行したのか、硬直的な官僚主義が蔓延したのかといった政治上・歴史上の諸問題については論じられていない。彼らが暴君であったとするのは歴史を単純化しすぎであり、むしろ何故そうなってしまったのかを論じるべきであったし、左派がこれまで縷々論じてきたのはこの点であったのではないのかという点は留意していいだろう。
最後の9章10章は、「エコ独裁」を「暗黒社会主義」とも言い換えて、来るべき気候崩壊に際して取るべき我々の道を提示している。これまでの社会主義が陥っている非民主的な体制を招来しないために、「下からの社会主義」を強調する。そのための手法を五つの点において展開。労働の民主化、市民権の解放、挑発・徴募、配給制と接収、禁止措置である。ここから一挙に現在の資本主義経済の下で行われている諸方策から論を立てる。欧州や南米の左派政権が実践した政策をつまみ食いしている。ドイツやスウェーデンの社会化政策やコロンビア、エクアドルなどの事例を挙げて、それらを総合して実施していくことで「暗黒社会主義」が実現すると。
以上、大まかな概観を説明したが、この構想の最大の弱点は先に述べたように「気候毛沢東主義」と批判したことの意味を理解していないことである。確かに、資本主義からの逆襲はあるだろうと想定はされているものの、これに対して「新しい社会関係の創出」というゆるふわな規定で乗り切ろうとしている点である*10。資本主義体制あるいは資本家階級の力をいかにも楽観的に描いている。実際に起こるだろうことはこんなことでは済まないことは歴史を見れば分かりそうなものだ。現実にはこのような危機において起こるだろうことは、階級戦争なのである。彼がヒュームを評価して人々が自己保存に走ると想定していることは、実は社会ではなく、階級がそうなるということである。その時、人々は内戦に際して階級的立場の選択を迫られる。「新しい社会関係」を創出するために乗り越えなければならない壁はそこにある。この点を論じなければ社会主義を論じたことにはならない。この言葉の真の意味において立ち現れる階級戦争(内戦)が何を社会に招き入れるかを考察してこそ社会主義革命を論じたことになる。
斎藤幸平の新著は確かに気候変動下における現代革命の論じなければならない諸点を網羅したという意味では画期的である。しかし、いかんせんそれが政治革命であるという点を忘却しているようだ。
補足:高橋哲哉/斎藤幸平対談『左派の逆襲』(「世界」2026年7月号)について
この対談は新著の内容を前提にしたもので、ある意味では斎藤の論点の補足でもある。その中で着目したい点が二つあった。その一つが、フーコーの「生権力」である。斎藤の新著を読んで違和感を持たれた読者も多かったのではないかと思う点の一つに、デジタル社会主義で市民のそれぞれの属性や趣向などを国家が把握するという側面についてあまり言及していなかったことである。いわば「管理社会化」ではないかという批判が起こるのではないのか、ということである。この点について彼は次のように言っている。
《左派が技術に背を向ける理由の一つには、ミシェル・フーコーの提唱した「生権力」は、私たちの生に国家が介入するよくないものだという信念があるのではないでしょうか。ネグリ=ハートなどに顕著だと思いますが、生権力に対するアナキズム的な抵抗こそが、左派に残された自由だと。
しかし、新型コロナのパンデミック下ではそうした信念が一部、反ワクチンなどの形で反動化してしまった。コロナ禍を経て私が気づいたことは、危機の瞬間には、生権力は避けて通れなくなるということです。だとすれば、気候崩壊や戦争を前にして、生権力をいかに国民のために使うか、言ってみれば、積極的な生権力のあり方を左派は考えなければならない。》(p.15)
この彼の言説をどう読み取るか、は微妙である。つまり、フーコー的自由主義という左派が好んで使う幾つかの議論には自由権という昔ながらの論点があり、資本の私的所有権以外の多様な人権を全面に押し出して闘うという左派独特のスタイルが、矛盾に満ちたものであるという点である。故に左派がことごとくリベラルとなるという奇怪な現象はここから派生するのである。これはリベラルという立場が、いわば他者への無関心に基づいていることを意味しているのである。他者がどのような趣向であろうと、どのような好みであろうと、自分へ悪影響を及ぼさない限り、自由にしていいという立場に基づいているのである。しかし、これは人間が社会を構成し、国家を形成してきた歴史を考えれば、成り立たない権利である。故に自由権への組み立てを再考されなければならないのである。フーコーが提起した生権力を「政治権力」と同一視することの危うさと共に、国家が収集する「国民」の情報の管理の問題、そしてそれが権力と結びつく危険性の問題は、無政府主義的な自由権によっては解決できないのである。このことの気付きのないリベラルは階級闘争を闘えないし、当然資本主義など打倒し得ないのである。なぜなら、それはあくまでも連帯しえない個人の要求だからであり、あくまでも私的所有権を前提に組み立てられている運動だからである。
この点に関する議論は非常に根源的なものだと捉えるべきだろう。ソ連崩壊以降の左派が依拠した思想にこのフーコー的自由主義あるいはアナキズム的な自由主義が大きく影響している。様々な自由権をめぐる諸要求が反差別運動として湧き上がってきたのはそのことと深く関係している。資本主義体制の下で起こる多様な矛盾に対して対抗していく上でこの自由権は一見有効であると思われがちであるが、それは人間社会に対する深い考察からでも、資本主義に対する根源的な分析からでもないが故に、相矛盾する表層的な議論となってしまい、論理的にも社会分析的にも整合性が取れなくなってしまうことになる。
一つ明らかなことは、例えばアナキズム思想における無政府という事態を国家の干渉から自由になるという理想(全面的な自由権)を語りがちであるが、実際には国家統治が機能していない国々はコンゴやハイチを見れば明らかなように、普通の庶民が暮らしていくには非常に困難な地域である。暴力が跋扈し私的簒奪をもっぱらにする小集団がお互いに歪み合う社会が生まれることは一目瞭然である。ネット環境の草創期に完全な自由を謳って構築されたプラットフォームは悉く詐欺と犯罪の温床となってしまったという事例もそれに当てはまるだろう。何らかの規制や法的な理念がなければ、一定規模の集団は形成できないという自明の歴史的事実は、アナキズムや自由権を論じる時に踏まえなければならない真理である。これは論理的真理ではなく、人類が数十万年をかけて作り上げてきた人間社会の経験的な真理である。その意味で、フーコーが指摘した「生権力」という人間社会の特性に対して、斎藤氏が言うように「あり方」を再考すべきあるというのは確からしい。ただ、それをどう再考するのか、どう活用するのかという問題は現在においても未解決である。つまり、自由の王国というのは人類史の中ではほとんど最終形態であるとも言えるのである。特に先進国のテック企業のCEOに特徴的なリバタリアンたちが考える国家の廃絶志向は無政府ではなく、彼らの設定する資本主義的法空間における身分制社会である。巷に溢れるデジタルプラットフォームは誰も読んでいないが彼らにとって必須の規約で溢れている。危うくクッリクすることで取り込まれる投網(ネット)なのだ。
もう一つの着目点は改憲論議を巡る議論である。九条と安保条約、あるいは沖縄の基地問題とは切ってもきれない一体の複合的政治課題であるというのはよく知られた事実であるが、斎藤氏はこのことを次のように表現している。
《もし対米従属を止めるなら、九条を改正して自分たちの軍隊を持つことも視野に入れねばならず、これは「九条を守れ」という主張に対立してしまう。》(同)
この指摘に対して高橋氏は「九条と米軍と沖縄の犠牲はセットだったのです。」と応答している。今更ながらにこれを指摘しなければならないという言説空間そのものがリベラル左派の限界を表していることは明らかだ。高橋氏も指摘しているように、安保法制阻止運動の際にこの問題を取り上げることが「運動が分裂するからそれはできない」と自己規制をかけたという事実そのものが政治運動の未成熟を端的に露呈させていると言える。今日のリベラル左派の運動が政治的現実を見ることができず、現実を半歩も動かすことができないばかりか、敗北さえ総括ができない実態へと陥っているのはそういうことなのだということである。
現在進行している国会前の集会を巡るリベラル間の分裂や沖縄問題を巡る「立場論」なる迷宮が現れるのは、この政治的現実を見ないという限界を自ら課しているが故なのだ。日米安保破棄、沖縄自決権支持、日本独立=自衛権保持、九条堅持。この辺りがおそらく日本のまともなブルジョアジーのスローガンなのだということが理解できないと、この論議は前へと進まないであろう。
脚注
*1 オールド左翼には懐かしい「全般的危機」というフレーズを思い起こさせる。
*2 2020年から25年にかけて、パリ協定の1.5度の約束は既に無効になってしまった。この5年間で急速に世界の気温が上昇している。今年の夏は、スーパーエルニーニョによる更なる温暖化が予想されている。
*3 危機の深さによってそれは左右されるだろう。カタスロフ的な危機となると、斎藤氏の言うようなことが起こりうるが、経済恐慌や戦争とは違って、気候変動単体ではそうはならないのではないだろうか。ただ。気候変動が恐慌や戦争を随伴させるという筋立てなら、彼の言うことも現実的になる。
*4 エズラ・クライン他『アバンダンス』2025年News Picksパブリッシング
*5 これは大手メディアや官僚制、大学などのこと。
*6 ただし、ここでは低開発国ではなく、先進資本主義国における「計画経済」と言うことであろう。
*7 左派の間で一時流行った地域通貨も、戦間期のオーストリアでの実践が元になっている。
*8 以下の説明は、ヴィリ・レードンヴェルタ『デジタルの皇帝』(2024年みすず書房)からの数字である。
*9 これも現在では実現されている。在宅勤務という形態を実現したのは、労働者が自宅で労働しているか否かをモニターできる技術が発展したことで実現したのである。
*10 新開氏はこのことを「革命の主体がない」と論評されていた。まさに言い得て妙である。
