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人新世の「資本論」を巡る論議

斎藤 隆雄
450号(2021年10月)所収


 世界には流れがあって、其流れの先に滝が待ち受けていることが分かっていても、それを止めることができないことがままある。落ちた滝壺から眺めると、今来た滝が流れの中にいた時に想起した滝とは違って見えることがある。それは視点の転換による二つの像であり、滝についての経験(歴史)が生み出す知の豊富化であるだろう。

1.斎藤幸平さんへの様々な批判

 労働者党の機関紙『海つばめ』1403〜4号に「マルクスは『脱成長』論者だったか:斎藤幸平によるマルクス主義の歪曲」という論評が掲載されている。ここでは、縷々マルクスの原典にあたりながら、斎藤さんがこれらの原典からいかに逸脱しているかを詳論している。私もまたこの斎藤さんの著書を読ませていただいた感想として初発に思ったことは、70年代以降のマルクス研究の展開の中で取り上げられたあれこれの言説以上のものはないな、という感想だった。かねてからマルクスへの批判としてあった「生産力主義」という批判は、主にエコロジストからのものであったが、そこへ、斎藤さんが気候変動問題を巡る議論にマルクス主義を掲げながら「脱成長論」を展開しているのだから、議論が錯綜するのは当然と言えば当然である。
 つばめ論評はまず冒頭に、この生産力を取り上げている。
 「資本が利潤獲得のために自然を破壊していることは事実だとしても、斎藤のように生産力の発展の歴史的意義を否定することにはならない。」
 果たして斎藤さんが「歴史的意義」を否定したのかどうかは明らかではないが、確かにマルクスが生きた19世紀的な知的時代性から考えて生産力の発展という考え方を完全に放棄したというのは考え難いだろう。論評氏は「経済学批判要綱」からの引用などを引きつつ、「マルクスが晩年、資本が農地を疲弊させることを批判したリービッヒの著作を読み、自然破壊を論じたのは、利潤獲得を目的とする資本主義的生産の限界と矛盾を暴露し、資本の支配の克服の必然性、必要性を訴えるためであって、マルクスが考えを変えたというのは全くのでたらめである。」と言い切っている。
 さてここで問題となるのは、マルクスの原典解釈を巡る学術論議であろうかという基本的な疑問が湧く。そして、この「生産力」という概念を「そもそも、豊かな生産力の発展なしに労働者の目指す社会主義・共産主義はありえない」と断言する意味での「生産力」理解でいいのかということでもある。そもそも、社会主義や共産主義のリアルな姿とは資本主義文化が生み出すユートピアのような未来社会(万国博覧会などで描かれる未来社会やAIが動かす未来の街など)と同じなのかという根本的な疑問がある。「生産力」と聞いてそんなことを思い浮かべるようでは心許ないが、そもそも斎藤さんが批判する「気候変動危機」は石炭石油文明が生み出した危機であって、資本主義的発展との関係は必ずしも一直線ではない。石炭石油文明と資本主義が相即の関係にあるというのなら、それはマルクス主義の範疇ではなく、文明論の領域であるだろう。その辺りがごちゃごちゃになっていることで、議論がすれ違いを生み出し、要らぬ批判が派生されてしまう。
 例えば、論評氏は「斎藤はCO2削減のための『大規模な国家改造』とこれを担保する『大胆な財政出動』を説き、他方で生産と生活レベルのダウンや欲望の抑制を主張している」と、かなり大胆に曲解することになる。斎藤さんが反緊縮派やグリーンニューディールを批判していることを理解しているのであれば、こういう批判は生まれない。その意味では論評氏の批判はかなり「政治的」である。しかし、ここで論評氏の批判が唯一的確であると思える部分がなくもない。それは、資本主義の「希少性」を巡る議論である。斎藤さんはこの希少性の問題を「本源的蓄積」の問題から論じている。
 「マルクスによれば、『本源的蓄積』とは、資本が〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。」(p.237)
 本源的蓄積過程は資本主義の初期の成長過程だけでなく、現在に至るまで続く資本主義に必須の過程であるという見方をしている。これは確かに発展的な見方だと思われるが、この希少性を生み出して価値を収奪するという資本主義観はこれまでも聞き覚えのある言説である。問題はこれをマルクスが言ったか言わなかったかということではないだろう。元々この見方は近代経済学が切り開いた資源の最適配分という視点と共通のものであって、需要と供給の均衡の上に立脚することを重視する近代経済学的視点には必然的に見えてくるものである。とりわけ資本が世界中の資源を漁り尽くし、自国帝国主義内部にまでその外部性を見出そうとする段階に至って、この希少性がにわかに注目され始めたのだ。故に、この視点そのものは現代資本主義特有の問題でもあるという捉え方が重要であって、マルクスが前から言ってたよというのはいささか我田引水のきらいがあるだろう。それよりも、希少性が生み出す価値なるものが歴史的に見て資本主義固有の現象ではなく、人類史的な普遍性を持つものであって、それが資本主義においてどのような奇形性を生み出しているのかを切開する必要性を問題にすべきだろう。その意味では論評氏も斎藤さんもいささかのズレがあるのではないかと思わざるをえない。
 もう一つの批判は、武田信照さんの斎藤さんの著書への書評に見られる。武田さんは三つの論点に分けて批判しておられる。一つ目は気候変動問題への批判としてはよく見かける批判で、温暖化は本当に人為的なものかという疑義である。これはおそらく厳密には証明のしようがないものだろう。元々、この気候現象は状況証拠の積み重ねの上に立っているものであるから、演繹的な実証などは完全に無理で、実験による再現などは望むべくもない。当然ここに異論が介在する可能性が多発する訳である。故にこの論点は双方にとって無益なものとなる。次に二つ目の批判点は、先に紹介した論評氏と同様のマルクス解釈の問題であるので再論しない。そして第三番目の批判点が私には新鮮に思えるものであった。それはマルクスが言ったとされる「脱成長コミュニズム」はすでにJ.S.ミルが提唱しているという指摘である。つまり武田さんの言いたかったことは、わざわざマルクスを持ち出さなくてもその問題を論じることはできるよ、ということのようである。ただし、これは斎藤さんのマルクス論全体を見るなら、そうとも言えないのではないかと思われる。私はミルの著書を読んでいないので、なんとも言えないのだが、この気候問題と「脱成長論」にマルクスを介在させる意味は、価値論にあると考えている。使用価値と交換価値との対比の中で現在の資本主義経済の矛盾点を論じるという意味では、やはりマルクスをここで登場させることには意味があるだろう。
 以上、斎藤さんの著書への批判を見てきたが、この批判は予想されたものだと思われる。この手の批判は古典的なマルクス主義派からこれまでもエコロジスト左派への批判として繰り返されてきたものである。しかし、この斎藤幸平さんの著書の持っている意味はそういうところにあるのではないと考える。

2.気候変動問題へのアプローチは経済学の範囲か

 先にも述べたが、この気候変動問題はそもそも経済学的範疇なのかという疑問がある。つまり、マルクスが経済学批判として資本論を書き上げた時の問題意識そのものが問われているのだということだ。だから、社会主義や共産主義を実現するためには豊かな生産力が必要だという時の「生産力」という考え方そのものが現在の資本主義的生産力の延長線上で考えることができるのかという根底的な疑問に我々は答えていないのではないのだろうか。斎藤さんの論理展開を読んでいると、彼の「脱生産力」という考え方には現在の資本主義的生産力とは違う生産力を考えようとしているように見える。
 「生産の〈コモン〉化、ミュニシパリズム、市民会議、市民が主体的に参画する民主主義が拡張すれば、どのような社会に住みたいかをめぐって、もっと根本的な議論を開始できるようになるだろう。」(p.356)
 このように彼が述べる時、資本主義が駆動している「生産力」がそこにどのように働くのかを政治的に捉えようとしているのではないかと思われる。エネルギーの地産地消とか、協同組合的な社会とか、連帯経済とかが実際に全社会的に機能するためには、例えば先にあげた論評氏が言うように、それを実現させるためには国家全体を改造する必要があるのではといった早とちりをしたくなるのもわかるような気がする。なぜなら、現在の資本主義社会を駆動させている資本家階級の権力構造の強大さとそれが人々に及ぼす精神的、文化的な影響力を考えるなら、「何呑気なことを言ってるのか」とツッコミを入れたくなるだろう。実現すべき社会を政治的に考えるのなら、この権力構造の解体作業への言及がなくては、それは絵に描いた餅でしかないと言うのが論評氏の見解なのである。単に、多くの人が考え方を変えれば社会が動くと言うような、かつての空想主義的な主意主義では強固に打ち固められた現代社会の支配構造を解体することなどできはしないだろう。
 この気候変動問題へのアプローチはこのような政治的な視点では全く歯が立たないことは明らかだ。では経済学的なアプローチでこれが解明されるのであろうか。確かに資本主義経済が産業革命以来石炭/石油文明を極度に煮詰め、またそれによって人類に膨大な恩恵をもたらしたことは間違いない。しかし、その結果生まれた地球環境問題はその膨大なエネルギー消費を許容するものではなかったということであって、それは地球という惑星規模の物理環境が資本主義的限界を指し示したに過ぎない。マルクスは環境問題の危機が示す19世紀の萌芽的な兆候に気付き警鐘を鳴らしたのであって、彼の学説がどうのこうのという問題ではない。そして武田さんも指摘されているようにこのような警鐘はマルクス一人ではなく何人もの先人が感じていたことでもあったのだ。その意味でこの問題は政治的でも経済的でもなく、文化人類学的な視点から分析されなければならない問題であると言える。
 そしてその上に立って、マルクスが1世紀以上前にスミスやリカードが代表するいわゆる古典派経済学が資本主義経済を解析する上で役立たずであることを暴露し、経済学そのものを批判したのであるから、その手法を今我々が直面している地球規模の厄災に対する処方箋として役立てることが重要なのである。

3.3.5%ルールは本当だろうか?

 斎藤さんが本書の後書きの中で、アメリカの政治学者の見解を引用する形で、3.5%の人が非暴力的な方法で立ち上がると社会が変わると述べている。これは本当か?たぶんこの見解が実は本書全体を規定していると言えるのである。日本で言えば400万人ほどが立ち上がればいいことになる。
 近代における社会革命の典型的形態は名誉革命やフランス革命から始まって、1848年革命、パリコミューン、ロシア革命、中国革命、キューバ革命と続くのだが、その多くが戦争に絡んだものが多い。つまり国家が危機にある時に起こるもので、往々にして暴力的形態を伴っていた。非暴力的な過程を経て社会が変革された事例はおそらく皆無ではないだろうか。だから、多くの活動家にとってこの3.5%ルールが俄には信じられない見解に見えるのである。
 確かに3.5%と言えども半端な数ではない。立ち上がる人々の質にもよるが、日本で400万人の人が確信を持って社会を変えようと考えることがありうるかどうかは、そしてこれらの人々が結合して行動できるかどうかは未知数である。しかし、不可能ではない数字でもある。問題は、ではこれらの人々が身近な社会で市民会議を結成し、民主主義を実践し、地方自治をコモンとして形成できたとしても、ではそれで経済構造を変えることが可能なのかというと、いささかの疑問が残る。というのも、経済は政治的レベルだけで動いているものではないからである。市場メカニズムは、労働、土地、貨幣(資本)そして商品のそれぞれを動かしている無意識的なシステムであって、それぞれは密接に絡み合い結合して自動運転されているものだからだ。暴力が伴うかどうかよりも、このシステムを変えるということは3.5%ではなく100%の人々の利害が絡むからこそ、それへの抵抗もまた並大抵ではないというでもある。身体的で具体的な暴力というよりも、問題はこの変革が全社会的なものであるが故に、当然強烈な政治的軋轢を生み出すということでもある。90年代からの日本の新自由主義改革が暴力的であったという意味では、それ以上に暴力的なものとなることは自明だろう。
 アメリカの政治学者の見解がどのようなものであるかは私の知るところではないので、これ以上の詮索はやめたいが、これらのルールによる改革はおそらくゆっくりとした改革を想定しているのだろう。近代における社会革命の劇的なスタイルからはかなり距離をおいたものが想定されているはずだ。であるなら、地球環境異変の最近の知見からはかなりズレが生じることにもなる。今世紀半ばには早々の分岐点が到来するというのなら、劇的な変革をしなければ間に合わないということにならないだろうか。前世紀の社会革命思想は押し並べて急速な変革、とりわけ政治革命が先行し、その革命国家の権力を用いて経済改革を一挙に進めるというのが定番だった。それは地球環境問題を考慮に入れていないのだが、おそらくブルジョア革命がそうであったことによる連想イメージから来る潜在的なスキーマというものであろう。しかし今世紀の革命はそれらの政治革命先行論とは違う社会革命が資本主義を廃絶するという課題には必要だということであれば、地球環境問題はその革命観との齟齬を来してしまうように思われる。
 文明史的な、あるいは文化人類学的な知見からする資本主義廃絶の理路がどのようなものなのかということから考えれば、この「ゆっくり革命論」が地球環境危機との関係性の中でどのような経路を辿るのかという展望が明らかにならなければ、旧世紀の革命論を総括したことにはならないということでもある。完全に私見ではあるが、この経路がこれまで一つの文明が滅亡した後でなければ、それを駆動していたシステムは停止しないという経験から考えるなら、資本主義こそこの環境問題によって死滅するだろうということではないのだろうか。それがどんな悲劇的な現象を引き起こすかは分からないが、その時には次の時代のシステムが立ち上がるのであろう。そのシステムが、斎藤さんの言うようなものであるのかないのかは知る由もないが、今求められているのが、次の時代への可能性を探る時代だということは確かであるように思われる。


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