共産主義者同盟(火花)

人でなし政府の反知性主義

斎藤 隆雄
447号(2021年4月)所収


 第四波が襲来して、今、大阪では医療崩壊が進行している。しかし、一方でマスコミはオリンピックの聖火リレーを報道し、そのギャップを認識しないでおこうという認知症に陥っている。この恐ろしい現実の行く末を見ようとしないという報道管制は、日本全土が反知性主義の焦土と化したことを証明している。

1.日本の反知性主義

 昨年9月に起こった学術会議任命問題を巡って、多くの学術サークルが抗議の声明を出している。この現象と現在の政府の無能とは連動している。さほど高い知的見識がなくとも、現在の政府の感染症対策の無能ぶりは理解できるし、連日テレビのワイドショーで評論家たちがツッコミどころ満載の政府の政策に対して、あれこれと「提言」していることを見れば合点がいくとともに、いささか不安にもなるというものだ。もはや政府官邸の知的能力は日に日に落ちぶれていくようだ。日本の知識人サークルがかくも大量の抗議声明を発するようになったのは、この無惨な現状を見ているからだろう。
 日本の知的伝統はかつて象牙の塔に立てこもっていると揶揄されたこともあったが、少なくとも戦後の民主主義改革期にはそれなりの批判的精神に満ちていた。それが、68年革命によって学生から一斉に批判されて、自らの批判的精神を自問して、次に自信を喪失し、ついには体制順応主義へと流れ込んだ。それ以来、日本の知的伝統はもともと脆弱であったとはいえ、政府の恫喝と甘い汁に誘われて、じわじわとすり寄っていくことになった。
 1990年代以降は、右からのナショナリズムの攻勢にあって散発的な抵抗があったとはいえ、政府の諮問会議などに参集する知識人が大挙してあらわれたことで、政府はこれを有効に利用することに熱中した。近年、政府文科省がリベラルアートへの軽視宣言を打ち上げたことで、全国で展開されている草の根保守による反民主主義的で反知性主義的な宣伝がますます勢いを増してきた。これらに押されて公共空間での恣意的な裁量が地方自治体で頻発するようになり、公民館利用への思想検閲や「トリエンナーレ」への文化庁の攻撃となってその醜悪な姿を露わにした。これらはまさにそのような知識人たちの知性に対する政府の応答なのであった。
 日本における知識人はわずかな例外を除き、そのほとんどが大学に籍を置いている。これは明治以降の殖産興業政策のもとで西欧化をしゃにむに目指してきた日本にとっては、知的階層に断絶があることは歴史的に見て明らかであろう。江戸期の知識人階層は朱子学者や陽明学者であったことで、近代の科学思想に転換することは容易ではなかった。明治以降、国家に雇われた特殊な階層としての知識人はだから、戦後においてもその脆弱性を拭うことはできなかったのはいたしかたないことでもあった。国家に見放され、学生に見放されると彼らはいくところを見つけることができなかったのである。そして今日、いよいよ国家から知識人たちは奴隷契約を結ぶことを強いられる局面になって、流石に拒否反応が現れたというわけである。それを促したのが、現在の政府の感染症対策の無能ぶりだったのだ。
 知識人階層にもっとも近い階層としては、もう一つ中央官僚がある。かつてはそれなりに優秀であったそうだが、今や見る影もない。日本の政治構造として、アメリカのような民間機関が発達していない中で、唯一国家行政の科学的分析の総本山である国家官僚は「日本のテクノクラート」と呼ばれていた時期もあったようだが、小泉政権以降の「官邸主導」とかいうオカルト政策によって完全に痴呆化してしまった。行政改革によって矢継ぎ早に人員削減され、能力以上の仕事を与えられて、もはや頭脳が働かなくなってしまったとはいうものの、現在の感染症対策を司る厚労省などは戦前からの悪名高い人体実験的役所であり、今回のCovid19に対する欺瞞的で見せかけの対策は伝統芸としか言えないものである。つい先程も、共産党によって暴露された、「PCR検査の拡大が医療崩壊を招く」という内部文書で明らかなように、ひとかけらも国民の健康など考えたこともない省庁である。これらの実態は、そういう国家設計しかしてこなかったという証左であり、利権の算段や退職後のポスト争いしか頭にない連中に国家の行く末を託しているという現実を表している。現在のような複雑化した世界情勢の中で国家の進路を彼ら彼女らに委ねること自体が自殺行為であるのだ。
 日本の反知性主義が不幸なのは、明治の政治家たちが国家の精神として立てた「和魂洋才」の精神が天皇制ファシズムに敗北し、仕切り直しとなった戦後の「アメリカ式民主主義」もまた自らの精神にはできず、相変わらず復古主義的な天皇制カルト思想に侵されてしまっている政治家に頼ることで自らの墓穴を掘ってしまっているということだ。90年代の政治改革期に日本の反知性が一斉に噴き出した時、なすすべもなくお茶を濁してきた日本の知識人や政治家たちは今、そのしっぺ返しを食らっていると見るべきだろう。
 学術会議任命問題へ反旗を翻した日本の知識人たちが今後どのような抵抗を貫徹できるか、我々はしっかりと見定めておこうではないか。日本にリベラルアーツが根付かなかったことで、今日の惨状を招いたことが明らかな以上、もはや「革命」とかというレベルの問題ではなくなってきている。よく言われる日本の「無責任体制」という批判は、それは単に責任という個のレベルの問題ではなく、国家を主導する知的階層の劣化という危機の問題であるということなのだ。

2.知性の活用

 現在の日本の知性はどこにあるのだろうか?この間政府が求めている知性とは、実用主義以外ではない。20世紀の科学革命以降、資本主義は科学技術をその相対的剰余価値の源泉としてきた。大量の有用な機械の発明は資本にとっては利益の源泉であり、その「先進性」は独占的技術による特別剰余価値をもたらすかけがえのない知識である。これは社会が求める一歩先にある技術であり、その社会が求める欲望の先取りである。この手の科学知はそれまでの文化の経路に依存する傾向がある。特に日本の科学知は既存の「革新的」技術の改良と改善に長けていたと言われている。それらの知のあり様は日本の電機産業や自動車産業を支えてきたが、21世紀に突入する頃になると、これらの経路に依存する科学技術には限界が見えてきている。それが時代の転換期と言われている所以である。既存の技術体系では現在の世界が直面している危機を乗り切れないと言われ、まさに資本主義が危機だと叫ばれるようになってきた。
 おそらくこれからの時代に求められているのは、科学革命ではなく、知識革命であるだろう。知の部分概念である科学を包摂する知総体の革命が求められている。2010年代以降、日本が直面している原発事故とコロナパンデミックが30年に及ぶ「失われた時代」であるデフレ現象の中で突きつけられたというどん詰まりの事態に対して、リベラルアーツを拒否し、民主主義を拒否し、軍事と監視で国家を運営していこうとするような時代錯誤な精神はもはやどのような未来も描き得ない。
 現在、資本主義の終焉が取り沙汰されている現状から見るなら、かつての蒸気機関から電子/原子の時代へと変転してきた知の変遷は一つの区切りを迎えようとしている。大量生産構造が地球的な限界を迎えていることが明らかになりつつあり、それは生産から消費へと変転してきた資本主義経済のこの間の流れにその限界を提示している。ここで求められているのは、これまでの資本主義が歩んできた狭い経路に拘束されない拡大された知の革命であるのだが、この課題に最も遠い位置にいるのが日本であるということは疑いはない。福島原発事故対応とコロナパンデミックへの対応、そして学術会議問題での現政府の対応がそのことを如実に示している。
 では、今後この政府はどこまで凋落すれば、立ち直れるのだろうか?このことに関して、内田樹が良いことを言っている。

「誤解している人が多いが、民主制は何か『良いこと』を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、『悪いこと』が起きた後に、国民たちが『この厄災を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にない』というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎付けるための擬制が民主制である。」(内田樹編『日本の反知性主義』p.57)

 日本が民主制である限り、このことは真実である。つまり、国民がこの失政の債務を払っているという自覚が生まれるまでは、どこまでもこの「人でなし政治」は続くということである。今自らが政治の失敗で酷い目に遭っているという国民の自覚が生まれつつあるという予兆がするのは私だけであろうか。

3.知の選択

 コロナ感染症に対する政府の政策選択のあれこれにお墨付きを与えているのが、専門家会議なるものである。ここでご活躍の専門家と称する人々とは何者なのだろうか。
 この一年で明らかになったことは、これまで言われてきたように、政治家に媚びへつらい忖度する御用学者たちというばかりではなく、彼ら彼女ら自身が新たな科学観を日々作り出しているということだ。それは現政権が打ち立てた階級利害の壮大な構築物、その全体性をシステマティックに運用するという、いわば一種の知の体系そのものなのである。つまり、それは御用学者の域を超えているということでもある。なぜなら、御用聞きであれば、自らの心情を横に置いて顧客に従属するという二重性がそこにあると前提されているからである。そのような二重性はそこでは存在しない。
 この間の政府の政策選択を戦前のインパール作戦に擬える人がいる。「欲しがりません、勝つまでは」という突撃精神で、竹槍で近代兵器に立ち向かおうという例のカリカチュアのことである。しかしこのスローガンは戦前期の民衆の知的水準に合わせた大本営のコマーシャルである。この構造そのものは変わらずとはいえ、それは少なくとも現政権の例のアベノマスクほどには進化していると見るべきだろう。それらの表層的な電通的宣伝戦の武器とは違い、専門家たちが構築しつつある世界観はもっとおぞましいものであると知るべきである。
 市中感染の実態をPCR検査で把握しようとは絶対しないという頑なな精神とは何なのかを考えればそれは判明する。つまり、そんなことは百も承知の上で、市中感染が問題ではなく医療機関の行政的な配置構造をいかに維持するかということが本来の目的であるということなのだ。それは医療専門家たちの行政的組み込み構造を典型的に表しているという、現代の学術会議構造と同じ病状なのである。故に、そこで構築される知の枠組みとは国家と国民との関係性ではなく、あるいは憲法概念にある人間の規定でもなく、更には科学と福祉の関係でもない、専門家利権と政治家利権との結合体としての科学という体系なのである。
 既にわれわれは、あの原発事故でその有り様を「原子力村」として認識していたはずであるが、それは単に原子力技術者と電力会社の利権だけにとどまらず、医学と感染症学、スポーツ関連の諸学と情報関連の諸学と関連技術、更には現代経済学と行政学を含めて、およそ従来、知の体系に関わる様々な専門分野全体がその専門性の利害の虜となり、その自己再生産そのものを目的とする体系となっているということである。これこそがリベラルアーツを欠いた知の世界そのものであるということであり、それはいわゆるポストモダン派の寿いだ「近代の超克」であり「近代の終焉」のことなのである。かつて現代社会がテクノクラートによる自動機械となったなどと、批判したのか評価したのか分からないような言説があったが、今まさに現代日本のテクノクラートによる自滅という現実を目の当たりにして批判理論が復権されなければならない時になったと自覚すべきである。




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