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安倍/菅政権と市民社会

斎藤 隆雄
443号(2020年11月)所収


 新しい政権が誕生して、早速強権を発動してきた。日本学術会議への任命拒否は典型的な安倍政権を継承する所業だが、これに対するSNS上の糾弾と日本の知識人たちの抵抗が現在の日本の民主主義の成熟度を表しているが、同時に試されもしている。今一度、日本の階級闘争に注目してみることが必要だ。

1.新自由主義的自己責任論が階級闘争の指標だ

 興味深い調査が行われた。「2016年首都圏調査」と名付けられた政治意識を調べた調査を橋本健二さんが紹介している(『世界』11月号)。これによると非常に異なる三つのクラスターが存在することがわかる。第一のクラスターは新自由主義的右翼と性格づけられるクラスターで、「日本で格差が広がっても構わない」「所得再分配に反対」「貧困になったのは努力しなかったから」「日本は軍隊を持つべき」「沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない」「中国人・韓国人は日本を悪く言いすぎる」といった排外主義的でブルジョア的な意識の集団である。その数はおよそ10%と多くはないが、その多くが高所得階層(資産平均5千万円)で、資本家階級かそのおこぼれに預かっている人々だと考えられる。きわめて自らの利害に忠実だとも言える。そして対極にあるのが第三のクラスターで、橋本さんが「リベラル」と呼んでいる層だ。およそ50%と最大のクラスターだが、資産平均は2600万円でこの調査の中では一番低く、おそらく労働者階級と考えていい。この層は、貧困を必ずしも自己責任とは考えず、政府による福祉救済を充実させるべきと考えている。また、嫌韓嫌中の傾向は三分の一程度に限られ、日本が軍隊を持つことを支持する人はわずか1%だった。そして、第二のクラスターはいわゆる中間派である。資産平均が3千万円で、第一と第三のクラスターの傾向の真ん中に位置している。このクラスは個々の質問に対して「どちらとも言えない」を選択する人が多いのもそれを表している。
 橋本さんの分析によれば、この第一のクラスターである「新自由主義的右翼」という人々とは「自分は豊かだ」と自覚している男性だと言う(このクラスターの男性比率は77%)。つまりこういうことだ。日本の1割ほどの排外主義的ブルジョア層が政府自民党政権を支えているということなのだ。何とわかりやすい構図ではないか。議会の権力構造と民衆の政治傾向とが一致しないという疑似民主主義国家の典型的な構図である。ここではこれらのねじれ現象がなぜ、どのようにして起こるのかについては敢えて述べる必要もないだろう。既に前々稿で述べたことである。むしろここでは、人口の半数はいると想定される「リベラル」と呼ばれる人々が何故政治的表現を遂行することができないのか、ということを考えてみたい。
 周知のことだが日本の議会選挙で半数の人が投票行動を忌避している。少なくとも第一のクラスターの人々は確信的新自由主義者であるから多くが投票行動をすると考えられるから、この棄権組は第二と第三のクラスターだと考えられる。では何故このリベラルな意見の人々が民主主義的権利を放棄するのだろうか。このことを巡っては従来、野党がそのリベラルな政治を代表していないということが言われてきたが、確かにそういった側面はあるだろうが、むしろ確信的な忌避組が存在するのではないかと考える方がより実態に近いのではないだろうか。
 この間の政治的流動を巡って宮台真司さんがSNS等で分析している「感情の劣化」「連帯の喪失」という現象がそれを的確に言い表していると思われる*1。つまり、第二第三のクラスターの人々の中のリベラル派は自らがそういうリベラルな傾向を集団として自らの政治的利害関係集合として意識できていないし、意識したくもないという人々だということなのだ。この人々の意識の中で進行している事態こそが宮台さんの言う「感情の劣化」という事態なのだが、これはお互いのしんどさを共有できないというよそよそしさが世間に蔓延しているということでもある。このことについては、80年代以降の日本の産業構造のサービス労働化と新自由主義政府による市民社会内部の中間組織への攻撃によって形成されてきたという分析はこれまでも本稿でやってきた。問題は、ではこのような事態を打開する方策はあるのかということだ。
 このことについては歴史学者の与那覇潤さんが朝日新聞の論評で「負の個人主義」という指摘をしていることに注目してみたい*2。「俺とお前とは別の存在だから、触るな、不快な思いをさせるな」というような無礼で攻撃的な個人主義が蔓延していると、そこで指摘されている。この他者を排除して蛸壷に籠る悪しき個人主義は実は第一のクラスターの人々に特徴的な傾向だ。そしてそのことによって、世間全体がこの排除的個人主義が作り出す全体的檻に拘束されているだと考えられる。与那覇さんは迷惑をかけていいんだということを呼びかけているが、実は現実は労働者階級の多くが自分のことで精一杯で他者のことまで思いがいかないという現実もまたあるのだ。支配階級の人々の「負の個人主義」は確信的なものだが、労働者階級のそれはまさに強いられたものだということだ。確かに様々なメディア操作と労働現場の権力構造によって打ち固められている労働者にとって、この排除的個人主義の檻は自らの政治的社会的意識を確立し共有する場をほとんど与えられずに生活することを強いられている。そうなると、労働者階級の政治的意識はどんどん貧困化し、半径数メートルの生活圏にしか自らの自己意識が及ばなくなる。連帯を求めず、孤立だけが強固になっていく事態では病理的な爆発は起こるけれども、公共的政治意識が形成されず、わずかに残された政治的行動の一つである投票行動にさえ思いが及ばなくなる。この日本に蔓延する孤立主義の檻を打破するにはどうすればいいのだろうか?

2.市民社会の再建が問われている

 菅政権が矢継ぎ早に打ち出してきた諸政策を見ると、安倍政権の後継とばかりとは言えない側面が見えてきている。むしろ、より露骨に国家の支配を強める多様な道具を打ち出してきているとみた方がいい。安倍は仮想の国民運動キャンペーンと派手な外交がお好みだったが、菅はむしろ実質的な管理国家の実利的な方策を進めていくという本来の姿を現し始めている。実は安倍/菅政権の政治手法は当初アメリカ合衆国の連邦政府政治を真似るところから発想されたのではないかと思われる趣がある。それは官僚トップを完全に官邸のコントロールの下に置くという手法がそれを感じさせる。この手法を日本へ適用する上での危険性はアメリカ連邦政府が州政府に対して脆弱であり予算的足枷があるという独特のアメリカ的特異性を全く無視しているところにある。日本のような中央集権的な都市国家的統治形態ではこの手法は完全な独裁国家になってしまい、民主主義的機能が麻痺してしまうことになるからである。官僚の独立性が破棄され、官邸の独裁を可能にする菅の政治手法はこれまで新自由主義的な政治によって破壊された市民社会が機能しない日本においては容易に官邸独裁国家が実現することになるだろう。
 日本学術会議の任命拒否問題で露わになった政権の強権ぶりに対して、SNS上に現れた二つの反応は現在の日本の公共空間の階級的性格をくっきりと表現している。一つは主に知識人たちからの反応で、このような政権の行為は言論の自由を萎縮させ日本の未来に暗い影を落とすという予言めいた批判である。そしてもう一つは第一のクラスターからの言説と思しきもので、知識人エリートの生温い組織への政権の強権発動に喝采するものである。これら二つの言説に共通するものは、政権の行為への対象化ができていないことであろう。つまりここで問われているものは国家と市民社会との関係性と民主主義政治体制における制度設計の問題であるということである。安倍/菅政権がこの間に行ってきた強権発動の一貫性は自らが述べているように「戦後民主主義政治の転覆」なのであって、それは戦後自民党政権が戦後民主主義政治/憲法風土への巻き返しという一貫性としてあり、「総決算」の下に戦後リベラル政治を「普通の国家」という名の下に親米保守回帰政治体制として確立することである。ところがこの政権構想の想定している政治哲学は市民社会のない国家一元論であって、実態は抑圧的な管理社会を形成する結果とならざるを得ない。
 ところが、この政権の手法を絶賛する第一クラスター階級が見落としているのは、議会政治上の政権交代を想定していないことである。学術会議への任命拒否問題への理由開示を拒んでいるところから、彼らは自らの国家の理念への背理を覆い隠さざるを得ない。これは、これからの政治過程が強権的独裁へと進むしか道がなくなる結果となる。もしそうなら、これからの政治は階級戦争の準備に取り掛かるべき恐るべき状況であるということにもなる。
 しかし、これは我々自身にも降りかかる政治上の課題をも突きつけるだろう。なぜなら、この彼らの政治手法はかつてのスターリンが社会主義の危機に際して取った政治手法でもあるからだ。愛国主義、排外主義、権威主義、官僚独裁といった特徴は国家の力が必然的に到達する方向だからである。かつてヴァイマール憲法下でのドイツにおける階級闘争においてスターリンが下した「社会ファシズム規定」が持っていたブルジョア民主主義への批判は歴史的な再審にかけられるべきものとなるだろう。それは単に戦術的な方法論として捉えるべきではないし、彼我の力関係論へ矮小化することで「統一戦線論」にその活路を見出すという選択は既に完全な敗北であったと総括すべきである。
 戦後的な民主主義国家体制に対する左派の立ち位置は日本では60年安保闘争後の総括に表れているが、それはポツダム体制への疑義として68年革命に引き継がれてきたとするのが一般的な評価である。しかし、それは「全学共闘会議」という自治組織の敗北によって歴史に引き継がれることなく階級闘争理念から消失した。あえて言うなら、それらの理念は様々な社会運動形態へと分散的に継承されたのかもしれないが、80年代以降の新自由主義の労働組織、市民運動、地域運動への組織的な攻撃によって各個撃破されてしまったとみていいだろう。それがまさに第一節で述べたリベラル派の孤立主義へと結果したのだと考えられる。
 安倍/菅政権の強権発動はいよいよ知識階層の分散的な学術サークルへの攻撃へと矛を向けているが、かつて全共闘が批判した学者たちの砦もその階級的な固有性を剥奪されつつある。この現在形での階級闘争局面において何が問われているのか。それは国家への対抗軸としての市民社会の再構築ということではないのかとここで一旦の結論を述べておきたい。それは単に戦術上の共闘関係というような配置の問題ではなく、政治上の民主主義的権利を社会主義革命における制度的設計として再構築するという意味である。今問われているのは、まさしく国家そのものであり、幻想としての国家が民主主義的制度設計において如何様にあるべきかという、これまで看過されてきた社会主義理念の欠落環をこそ明らかにするべき時なのだ。そして同時にそれは階級闘争の実践的課題でもあることは言うまでもなかろう。社会が国家に突きつけるべき拘束着こそ問われている。

3.権力の分立と社会主義革命

 権力の分立は、権力へのチェック&バランスという民主主義制度の根幹であるように思われる。18世紀に自然発生的に生まれた権力分立の制度の淵源は意外と古いし、それ自体は近代の産物であるとは言えないだろう。中世イタリア北部の都市国家(コムーネ)の統治形態には既に権力を統制するシステムが生まれていた*3。国家が形成される時、常に起こる独裁の弊害はその悲劇的な結末によって幾度もその権力の掣肘のための制度設計が行われてきたが、他方でそれ自体がまた緩慢な共同体の拡大と繁栄による新たな多様性の流入に脅かされてきた。我々左派が従来からこの国家の諸問題に対して無邪気に国家の死滅を夢想する以外に何らかの制度設計を企図してきたのかと問うならば、些か心許ないのではないだろうか。過渡的プロレタリア独裁という階級戦争史観に基づく国家形態が19世紀的な遺物であると考えざるを得ないのは、階級的利害と組織が目に見えて鮮明である時代であった19世紀とは違い、今日の社会の複雑に絡み合った階級/階層構造の時代である21世紀資本主義国家群との違いが鮮明だからである。つまり現在の社会主義革命の過渡的国家論は議会と権力、官僚と市民社会という輻輳する資本主義経済構造の生み出した状況を前にして、正義と公正を担保する真の民主主義制度を下部構造的変革を含めた根源的な制度設計として問われているのである。
 かつて民衆次元での「寄り合い」でもあった自然発生的に生まれた合議体は部族社会における三部会やカースト制度下における利害調整機関など、人類史における様々な議会形式が生まれてきた。それらは民衆の共産主義的な基礎でもあるが、同時に共同体における決定への従属という集合性の一者への収斂を避けることができなかった。権力は単に合意するだけでは生まれない。権力を行使する物理力のみならず、それを支える共同意思が必要だ。たとえそれが同調圧力であろうと忖度であろうと違いはない。そこに様々な無数の差異と多様性が介在する。更に言うならばそれらは時間軸に沿って変容する。その政治過程そのものが権力を構成する。故に決定は時間と空間を凍結しなければならない。
 国家の政治的実行過程は今や官僚組織の凡庸な取り替え可能なルーチンではなく、透明性と検証可能性が不可欠な時間軸の停止と進行の不断の断続過程でなくてはならない。そのためには、権力の分立は分野と領域を超えて多数制を必要とする。現代の議会構成が多様な委員会組織と行政機関との連携を必要としているのはそのためであろう。しかし、現在の日本の議会制度の不全はそういう複合的な政治過程からきているのではない。むしろ、先に指摘したマジョリティがマジョリティのままに政治的表現を反映することができないという歪んだ制度設計が同時に政治的意識形態を不断に拡散させている。この安倍/菅的政治手法は歴史的には繰り返し現れてきたアジア的な全体主義政治の模倣だと言っていいだろう。この政治支配の構造は古来、中東からアジアにかけて幾世代もの帝国政治を演じてきたものであり、かのロシア革命を簒奪したスターリン政治と同型なのである。
 我々が学ばなければならないのは、この政権の轍を再び踏まないための制度設計が如何様にあるべきかという問題であるだろう。既に述べたように、これは欧米における市民社会の成熟と連邦制という歴史的教訓があるものの、これらの歴史的産物は単に市民社会の再建と地方分権によって実現するものではない。現在のコロナ下において生まれている生政治に則った管理社会化はむしろこの全体主義政治と親和的であるが故に、容易に権力の暴走を招き入れる可能性を持っている*4。一節で述べたように現在のコロナ下においてリモートワークを強いられ、どうでもいい仕事が可視化されつつある現状においては、ますます個々の労働者は失業の危機に晒され、かつまた家庭という蛸壷に閉じこもる傾向が増大することを考えれば、政権の情報管理支配がその実効性を発揮する可能性が高くなるだろう。つまり、階級意識を形成する私的な空間も公的な空間も狭められ、社会性そのものが自閉的になる状況が蔓延する。それは政治的な経験と情報が限定され、最も資産と地位のある第一クラスターの声が拡大されるということとなる。この状況を打開するために我々が必要とする政治空間はどこにあるのだろうか。
 社会主義革命を標榜する従来の左派は、リベラルとどこで分岐線を引いてきたかと問いかけてみたい。レーニンは統合の前の分離を強固に主張したが、分離が分断となる危険性については語らなかった。ブルジョアジーは労働者階級の内部の分断を利用することに自らの活路を見出しているし、現在も多数派であるリベラルに政治的発言権を与えないための情報操作を巧みに行使している。だから、分岐線を引くことの意味を明らかにしないのなら、それはますます支配階級の政治に利用されるだけであろう。だからこそ、これまでのリベラルとの分岐が本来の革命理念に照らして労働者階級が団結するために必要であるのかを問い返すべきだ。
 このことに関しては90年代以降の日本の階級闘争の特異性に注目すべきだ。00年代からの排外主義的な街頭行動勢力の台頭は90年代の日本の議会政治の変動に端を発していると見る見解がある。これは表面上の非自民政権が成立した十年間であったという意味ではリベラル派の登場であったということのように見える。とりわけ、この時期の二大政党形成を目論む選挙制度改革や近代主義の基づく行財政改革*5はソ連崩壊以降の世界的な市民運動の興隆に刺激され矢継ぎ早に実現されてきた。そして、00年代以降の「バックラッシュ」と呼ばれる反動化攻勢が生まれるのは、このことと無関係ではない。しかしながら、革命左派のこの時期における立ち位置はソ連崩壊以降のリベラル攻勢に対して、社会主義理念を如何に防衛し、ロシア革命の歴史的意義を如何に評価するかに拘泥して、その総括に苦しんでいた。その意味では、この時期のリベラル派との関係性は曖昧になっていたということは事実だろう。21世紀に突入して、日本における反動攻勢と新自由主義政策の結合によって引き起こされてきた格差拡大と自己責任論構造に対して有効な階級闘争を組織できなかったことが、幕間劇のような民主党政権期におけるリベラル派との距離をさらに曖昧にしたとも言える。
 現在問われるべきは、このようなリベラル派との曖昧な関係性に甘んじず、民主主義闘争を巡る諸問題すなわち国家を巡る諸問題そのものを正面から実践的に提起するべきであろうということなのだ。そのことなくしては、手垢に塗れた「市民社会」の再建もあり得ないだろう。

4.市民社会と大衆社会

 最後に確認しておこう。現在の市民社会とはもはや19世紀の市民社会とは似ても似つかないものであるということだ。現在の市民社会が19世紀における市民社会からいかに変貌してきたのかについては今更ながらに語る必要があるようには思えないが、19世紀末以降の大衆化社会の勃興に即して語るならば、20世紀の市民社会は少数のブルジョアジーたちとその同伴者たちの限られた言説空間と政治空間ではなく、大量の顔の見えない大衆の膨大な層が拡大された選挙権と民主主義制度に支えられて立ち現れてきたということを確認すればいいだろう。そして、現在の21世紀の市民社会は更にその大衆社会の基礎の上に前世紀90年代以降のインターネット社会の技術発展の結果、一人ひとりの匿名の個がSNSを通じて政治空間に登場し始めている。この現在の市民社会のありようは数億の個人が無数の集合意思として政治上に現れているということを意味している。これはますます資本によって孤立化していく個人が社会を求めて繋がろうとする資本主義社会との闘争の象徴的な闘いの現れである。かつて日本の戦後期に現れた文化サークル運動の林立に比して言うならば、現在のSNS上に現れている様々なクラスターは仮想空間上のサークル運動である。そしてそれらはかつて同人メディアでしか拡散されなかった広がりをインターネット上で驚異的な公開性を獲得しつつある。新自由主義時代の四十年間はまさにこのアンチテーゼを抱えて社会そのものが葛藤しているということ示している。
 市民社会の変容は、しかし同時にその拡散性と公開性の故に空間軸と時間軸を一挙に拡大させ、政治空間を従前の伝統的で土着的な慣習的静止画としておくことを許さなくなっている。保守派が改革をお題目に掲げ、リベラル派が伝統を称揚する表層の言説の背後にはリスク社会を読み込んだ中途半端な二股政治が跋扈することとなった。その典型的な現れが菅政権の初動の政策に見られる。支配階級内部の分裂を調整することすらできず、もはや合理的理性からは遥か彼方へと飛躍させている。まさにその意味において、市民社会すなわち世界を初めから作り直すという闘いが始まっていると見るべきだろう。

脚注

*1 YouTube:【宮台真司×青木理】日本学日本学術会議任命拒否問題の本質(10/13)
*2 朝日新聞10月9日オピニオン欄:与那覇潤『迷惑かけあえる個人主義に』
*3 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンス『自由の命運』第五章参照。
*4 防疫・防災の準軍事体制については、長崎浩『準軍事耐性と情報技術コロナ小活』(「情況」2020秋号)参照。
*5 待鳥聡史『政治改革再考 変貌を遂げた国家の軌跡』参照。


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