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SNS時代の社会革命(2)

斎藤 隆雄
441号(2020年9月)所収


 Covid19の世界的蔓延によって世界各国の政治的経済的な構造と脆弱性が露わになってきた。グローバリズムによって統合されたかに見えた世界は地域と個別性によって見事にその本質が露呈し、感染症対策という公衆衛生局面の特性が国民国家の生政治、言い換えれば新自由主義経済の感染度がくっきりと可視化されてきた。

1.三つのトリレンマ?

 八月二十七日付けの朝日新聞紙上で津田大介さんはコロナ問題を論じながら、橘玲さんのトリレンマに言及している。橘さんは週刊プレイボーイ誌上の記事*1でコロナ問題をめぐるトリレンマを@経済活動再開、A感染抑制、Bプライバシー保護の三つとして取り上げ、それらの内二つしか成立しない、つまりどれか一つを切り捨てなければならないという。そこで津田さんはこれを元に、具体的な国名を挙げながら、例示している。@とAを優先し、Bを切り捨てたのが中国、韓国、台湾。そして@とBを優先し、Aを切り捨てたのが米国、スウェーデン。AとBを優先して、@を切り捨てたのが欧州各国とニュージーランドだと。更に、これらを踏まえて津田さんはこのトリレンマを拡張して、@経済活動再開=資本主義、A感染抑制=福祉国家、Bプライバシー保護=民主政治、という独自のトリレンマを論じている。この区分でいくと、中国・韓国・台湾は民主政治を捨てたことになり、米国・スウェーデンは集団免疫路線の新自由主義であり、欧州各国とニュージーランドは生政治路線あるいは社会民主主義路線とでも言えるだろうか。いささか疑問なのは中国と韓国、台湾を同じ路線にしてしまっていることだが、プライバシー=民主主義としてしまっているところに無理があるのだろう。いずれにせよ、津田さんの言いたいことは、日本はどれでもなくて三つの要素を追い続けて、何一つ解決できていないと言いたいのだ。理想を言えば三つとも実現させたいのは理解できるが、現実的にはあり得ないこと、つまり現実を理解できていないのが日本だということになるのだろう。
 では現実とは何だろうか。何故、この三つは並び立つことができないのだろうか。感染抑制と経済活動再開はこれまでもよく言われているジレンマなのは理解できる。ウィルスは人を介して広がるのだから、経済活動が活発になればそれだけ人が動き感染も広がるのは当然だろう。そこにプライバシーが介在するのは、感染抑制のための公衆衛生政策が住民管理という結果を招くからである。民主主義とりわけ自由主義的側面、つまり個人の自由を保証しながら感染を抑制するというのは実は無理があるということなのだ。だからプライバシー保護と感染抑制とは相性が悪いということだ。当然、三つが揃えばそれぞれが相互に干渉しあい、同時に三つがめでたく実現するということはないということになる。トリレンマと称されるようにせいぜい二つしか成立しないというのも了解できる。*2
 しかし、津田さんは宮本太郎さんの論考*3を参照しながら、かつてはこの三つが成立していた時代があったという。それは戦後から1970年までの時期だという。そして70年代の石油危機以降にもはやこの幸福な時代は終わったのだと。津田さんの短い記事の中ではこれ以上の論議はなされていないが、私のこれまでの戦後資本主義の歴史規定からするなら、まさに1970年代以降戦後ニューディール期が終焉したという意味では鋭い指摘であるだろう。第一次IMF/GATT体制そのものが宮本さんの言う幸福な時代であったのだ。その時代は三つの要素が並び立つ時代であった。つまり資本主義と福祉国家と民主主義の三つのほどほどに成り立った時代であったということだ。何故並び立ち得たのかと言えば、それは資本主義のグローバリズムに対する国家の障壁がはっきりと構築されていたからだ。通貨の固定相場制と国家間の資本移動の制限は先進国家内部の福祉政策(ケインズ型財政政策)とそれを支える戦後型民主主義という枠組みが資本主義の暴走を防いでいたとも言える。
 周知の如く、これら幸福な時代は資本主義のグローバリズムと戦後民主主義の限界、東西冷戦という国際政治の対立構造から石油危機をきっかけにして崩壊し、80年代以降の新自由主義の時代へと移行していった。現在のトリレンマとはまさに新自由主義時代のトリレンマだと言える。この津田さんが論理展開したものは既にダニ・ロドリックが著書『グローバリゼーション・パラドックス』の中で展開している。ロドリックによれば、現代はグローバリズムと国家主義と民主主義がトリレンマにあるというのだ。だから彼によればグローバリズムと国家を優先する中国は民主主義を制限せざるを得ないし、トランプが国家と民主主義を選ぼうとするならはグローバリズムを否定せざるを得ないので、国連関連機関からの脱退や貿易管理を示唆せざるを得ないのだ*4
 以上のように、三種類のトリレンマが出揃ったところで現在のコロナ問題が直面している困難の根拠を整理してみよう。つまり、このコロナ問題が招来させている問題群は新自由主義時代の産物だということだ。何故なら、生政治の段階でなければプライバシー保護と感染抑止とはジレンマには陥らなかっただろうし、古典的自由主義の時代であれば庶民のプライバシーなど問題にもならなかっただろう。問題は単純な資本主義と公衆衛生政策との矛盾として捉えられていたはずだ。事態を複雑に見せているのは戦後ニューディール期から新自由主義期への移行に伴う多様な変容がいまだに十分には捉え切れていないからである。コロナが示してくれた危機(トリレンマ)とは現代社会の危機であって、Covid19がそれを可視化させたということなのだ。そう捉えなければ、今回の事態の意味は解けないであろう。

2.対置するべきもの

 そこでまず検討しなければならないのは、これまでリベラル左派が対置してきた多様な政策メニューの持っている歴史的な意味、つまりそれが現状で示す役割が過去のそれと如何に異なるのかということを明らかにすることであろう。前稿(『何が困難か』)では簡単に触れただけだが、ここではそれらを幾分詳しく検討してみよう。まず左派が対置する下部構造をめぐるメニューは協同組合的な地域経済活性化であろう。地産地消や連帯経済、地域通貨といった政策の束にある含意はグローバル資本とグローバルサプライチェーンに対抗する目に見える民衆の経済構築であった。先進国のような大規模な国民国家経済ではなく、狭い地域を対象とした日常消費財と農産物などの商品生産を協同組合的な理念によって統合することで巨大資本の独占に対抗し、地域通貨という金融機能によって貨幣を国家管理から奪還し脱中央集権化を実現しようとするものであった。これらの提案は、20世紀社会主義運動の傍流であった「自律と自治」運動の発展形である。これらのメニューは欧州では各地で実践されたし、旧ユーゴスラヴィアでは国家単位で試みられたものだが、残念ながらことごとく失敗に終わっている*5。旧ユーゴもモンドラゴンも、あるいは各地の協同組合運動も資本主義のグローバルで巨大な供給網に対抗できなかった。これらの運動は戦後ブレトンウッズ体制によって形作られた国家の資本規制によって自立していた国民経済には適合していたが、資本がグローバルに動き出すともはや対抗できるものではない。つまり国家の規制(上部構造)に支えられなければ現在では維持できない存在である。
 さらにもう一つのニューディール路線として提起されているのが、上部構造つまり政治的・行政的・法的規制としての改革メニューである。俗にいう再分配路線のことなのだが、代表的なものとしては累進課税があるが、この間のコロナ騒動でにわかに注目されてきたベーシック・インカム(BI)などもその範疇に入るだろう。欧州では一部すでに実験的に実施され始めているようだ。また、環境問題で話題となっているのがトービン税(金融取引税)である。これらは概ね新自由主義に対抗する社会民主主義的でケインズ主義的な路線としてリベラル左派が提起しているものである。ただしこれらのメニューはまさに上部構造であるが故に常に動揺的で他の政治課題とセットでなければ持続しない種類のものが多い。累進課税はタックスヘイブンと戦わなければならないし、BIは資本家の賃金引き下げ圧力となるなどの副作用が必ず起こってくる。*6
 以上のように新装開店したニューディール政策は現在の資本主義の世界史的な位置を度外視したメニューのように思える。つまりいずれの政策も新自由主義が進めた資本のグローバリゼーションを視野に入れていないものだからである。元々あったかつてのニューディール政策とは、第一次世界大戦によって崩壊した欧州政治/経済を立て直すために資本主義国家が迫りくる社会主義革命に対置する形で作り出した一国的でブロック経済内部の国内政治財政システムの変換だった。当時、これらのシステム変換はワイマール共和国体制や国際連盟的平和主義と帝国主義的拡張路線がせめぎ合っていた時代の中にあって、一方でファシズム、ナチズムを生み出し、他方でニューディールを生み出したというものである。下部構造的変換としての大量生産大量消費社会の登場と上部構造的変換としての民主主義政治の登場がこの時代の基本的な特徴なのである。この時に起こった激変は欧州大陸におけるオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国の崩壊に見られる19世紀政治の終焉であり、新たに立ち上がったロシア革命のレーニンの「平和に関する布告」とアメリカ大統領ウィルソンの「平和原則」とが戦後政治の新たな志向性であり、没落しつつある農民/地主層に依拠する保守派と台頭しつつある労働者階級、拡大し動揺する中間層が新たな民主主義政治の中で抗争する社会を形成したのだった。この激動の戦間期が生み出した世界史的な結論は帝国主義戦争として帰結し、大西洋憲章路線である戦後国際連合規範と第一次IMF/GATT/世銀体制が生まれたのである。
 基本的には1970年までの政治経済システムはこの体制が維持されていたし、その元での戦後的繁栄であった。先に述べたように、資本主義と国家と民主主義がその時代の限界性を持ちつつも、一定のバランスを保って維持されてきた時代である。しかしこの三つの要素の中で最も割食ったのは資本主義であって、その矛盾の集約点が国際通貨ドルのユーロドル蓄積に現れ、合衆国が維持してきたドル=金体制が崩壊することで、資本主義のグローバリズムがその後、解き放たれたわけである。資本主義と国家と民主主義の蜜月が終焉し、現在、グローバリズムと生政治国家と民主主義がそれぞれの道を邁進することによる矛盾点がCovid19によって露わになったと考えられる。
 故に、ニューディール期に形成された諸政策のセットは現在ではことごとくその有効性を疑われるに至っている。生政治と民主主義を追求するこの政策はまず資本のグローバルな展開を阻害しなければならないし、更に生政治と民主主義との間の矛盾にも立ち向かわなければならない。故に今や中国における生政治と権威主義というセットが欧州においても立ち現れつつあり、合衆国におけるグローバリズムと国家主義という選択も各国に蔓延しつつある。
 いずれにせよ、現在の資本のグローバリズムの現状を否定することはもはや不可能であり、この不均衡な負債経済体制がインターネット社会という基礎の上に形成されている以上、この現実の中からしか未来は見通せないということは明らかである。

3.グローバリズムの二つの側面

 多国籍企業の世界的展開は20世紀初頭には既に帝国主義として既知のものである。その原型は17世紀初頭の東インド会社に始まるが、20世紀初頭の多国籍企業は第三世界から資源を収奪するためのものであって、そのロジスティックは海上交通路であり、故にパナマやカイロが重要な要衝となっていた。では現代のグローバリズムの多国籍企業は如何なる生態なのか。相変わらず石油資源の要衝は中東ペルシャ湾であり、ホルムズ海峡ではあるが、製造業関連の多国籍企業は先進国を中心に規模の大小を問わず世界中に拡散し始めている。とりわけ東アジアにおけるそれは国際分業のネットワーク、サプライチェーンとして大規模な工業製品部品の供給網となっている。これらの安価な労働力を求めて展開する多国籍企業群はかつての帝国主義時代における丸抱えの軍事的な領土占有とは異なり、第三世界を労働供給だけではなく消費主体としても機能させるという現代資本主義の大量生産大衆消費構造をそのままグローバルに展開している。しかしこれだけならニューディール資本主義という基本構造を変革することにはならなかった。問題は、この多国籍製造業ではなく多国籍金融資本がそれを上回る規模で世界展開したことに新自由主義の特徴がある。この金融ネットワークの世界的展開こそ、現代の資本主義の基本的な特徴であり、既に第一稿で述べた世界的インターネット網の構築が急速に進展した所以なのである。20世紀初頭が大量生産大量消費という資源浪費型資本主義を拡大したとすれば、20世紀後半の新自由主義は金融ネットワークの構築という金融的貨幣的欲望の世界展開を拡大し集中投下したことで実現したと言えるだろう。このデータ文化の占有構造こそ現代の帝国主義の特徴であり、新自由主義時代のグローバルリズム資本の本質である。その構造の上で現代の帝国主義国家の戦争戦略は成り立っていると考えられる。
 資本主義にとって問題となるのは、だから国内統治とグローバル・ガバナンスである。資本のグローバリズムは必然的に従来の生政治を蝕んでいく。戦後ニューディール期に形成された福祉国家路線は既に英米圏経済で崩壊の危機に瀕している。故に、国家はグローバリズムと民主主義の二者選択に直面せざるを得ない。このジレンマに対する資本主義国家群の狭い選択肢は安い労働力としての移民導入政策であり、その結果生まれるのは選択的なカースト制生政治(後期生政治国家)しかないであろう。これは必然的に国内政治における排外主義を生み出し、ますます反グローバリズム運動の幅を広げることになる。それは当然、国内統治の危機を生み出し、権威主義的な管理社会化へと導くだろう。
 以上のような二つのグローバリズムが生み出す局面は、これからの世界政治を規定することになる。先進国家群(帝国主義と言い換えてもいい)が抱えるこれらの困難は一方で変革の萌芽でもある。資本の世界展開を支えた世界的インターネット回線の発達が2010年代以降の反政府運動の民衆の結合を生み出したという意味では、これらのジレンマはすなわち変革の契機でもある。ただ、これらの自然発生性を如何に組織するのか、如何に統合するのか、如何なる方向性を持ちうるのかは変革的意識性のこれからの意思に関わってくるだろう。

脚注

*1橘玲『「GOTOトラベル」が失敗するほんとうの理由』週刊プレイボーイ8/3
*2経済活動再開とプライバシーの関係だけは親和性があるように見える。この二つは元々自由主義の二つの側面だから、米国とスウェーデンが最も資本主義的な対応と言えるかもしれない。
*3宮本太郎『社会的投資戦略を超えて』思想8月号
*4トランプが必ずしもそう選んでいると思えない。彼の真の姿は自らの地位の防衛でしかないだろうが、たまたまその戦略上に国家と民主主義があっただけで、いつでも民主主義は都合で捨てるだろう。
*5失敗が言い過ぎなら、資本主義との共存とでも言うべきだろうか。ユニークな中小資本の運動と変わらないのであれば、社会革命とはならないであろう。
*6今野晴貴『ベーシックインカムを日本で導入しようというならば』(「世界」9月号)


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