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貨幣を巡る攻防-リーマンショック以後

斎藤 隆雄
436号(2020年3月)所収


 2月24日、NY株式市場が1000ドル以上下落して以降、乱高下を繰り返しながらも3月に入ってからは原油価格の下落を伴いながらリーマン以来の様相を示し始めている。原因は今世情を騒がせているCOVID19の世界的な蔓延であるが、今年の世界経済が景気後退を噂されている中での今回の騒動で先進国政府はなんとか真実を覆い隠そうと必死である。しかし、危機管理に対する明確な知見もない中でこれらの弥縫策は事態を悪化させるばかりであろう。既に崩壊しつつあるシステムに、今年は衝撃が走る可能性が増大しつつある。

1.崩壊局面を取り繕う世界政治

 今年に入って世界経済の後退局面を示唆するいくつかの兆候が現れてきている。既に日本の昨年の第三四半期の経済成長がマイナスであったという知らせが届いている。これは言わずと知れた消費税増税による需要減退が原因であるが、それに追い打ちをかけるようにCOVID19の世界的蔓延で中国経済への打撃がサプライチェーンを寸断させている。今年のこれからの推移は悲観的にならざるを得ないだろう。トランプ政権は自らの政権維持のために国内経済への回帰を深めるだろうが、米中貿易の縮小、英国のEU経済からの離脱、米軍ネットワークの縮小等、不確実性が増大する今年の世界経済は新たな局面の端緒となる可能性が大きい。
 しかしこれらの政治的社会的な変動は単なるきっかけにすぎず、むしろ問題は08年リーマンショック以降の金融資本の動向であろう。既に何度か言及したように、この間の世界的な金融規制は米国の新たな銀証分離政策と16兆ドルに上る巨額のドルを世界的に散布することで資本主義経済の崩壊局面をしのぐことができたものの、事態そのものはデフレ、低成長、金融資本支配という更なるバブル期待経済を克服できていない。OECD諸国のほとんどの貨幣システムが膨大な債務を抱えているものの、これらを償還する展望もなく、左右からのポピュリズムによって財政出動を迫られ、更なる債務の増大がこれから予想される事態である。
 ではこれらの八方塞がりの局面において資本家階級に何らかの妙手が用意されているのだろうか。かつて70年代のスタグフレーション経済の下で華々しく登場した新自由主義のような新たな局面打開策はあるのだろうか。現在までのところ、そのような兆候はどこにも見えないように思われるが、一つだけかろうじて取り上げるとしたら、MMFではなかろうか。この理論が提起するものは、これまでも述べたように決して目新しいものではない。古くは18世紀前半期の英国において論議された古くて新しい課題なのである。それがまたぞろ議論の俎上に登ってきたということは、いよいよ資本主義経済の原点が問われるということでもある。マルクスが資本主義経済を分析する以前の資本主義時代の論争が再び論題となるという意味では資本家階級にとって自らのアイデンティティが問われるということでもあるだろう。このことの意味を紐解くという作業は現在の危機を認識する上での必須の要請である。

2.中央銀行の歴史的役割

 安倍政権が成立して早7年が過ぎているが、この時間的経過は日銀の異次元緩和という黒田総裁の政策が何だったかを振り返る時期を示している。異次元緩和とは市中の国債を日銀が大量に買い上げるという政策であるが、これによって市中に貨幣がばら撒かれるというような勘違い(「インフレ期待」という期待)が一時蔓延したが、既にこの間の現実を見ればマネーストックはほとんど増えず、日銀に預け金が積み上あがるだけであった。つまり、市中にある貨幣は日銀のコントロール下にはないということである。なぜだろうか。
 これまでのマクロ経済理論(新古典派経済学)では貨幣は中央銀行の債権オペレーションと金利操作によってコントロールできるという前提であった。これは経済理論上では貨幣供給はあらゆる経済現象にとっていわばベールのようなものであって外生的に前提されていたということである。80年代には貨幣数量説からする自動的な貨幣供給の方式(テーラー・ルール)さえ推奨され、中央銀行万能論が跋扈していた。ところが、実際においては中央銀行の政策の内実は内生的資金供給という現実に規定されていた。オペレーションと金利操作による貨幣供給量のコントロールは引き締めに若干作用するだけであって、信用創造による預金貨幣のコントロールなど不可能であることを示していた。これは経済理論が貨幣現象を全く理解していなかったということを示している。新古典派経済学は一世を風靡した新自由主義経済思想ではあったが、市場への信仰のあまりにも過剰な帰依が実は貨幣システムを動かしている資本主義の根幹である金融資本の市場支配力を看過していたのである。あるいはむしろそれらの理論は金融資本の世界的ネットワークを解明すべき政治経済現象から隠蔽するための理論であったとさえ言えるのである。
 しかしここに来て事態は思わぬ方向へと舵を取りつつある。それはリーマンショックによって露わになった世界経済の金融支配が一気に表面化したからである。FRBによる大量の貨幣供給とは何だったのかが問われるのである。公式的な見解では「流動性の確保」ということであるが、では何故リーマンショックで流動性が枯渇したのか。つまり、流動性の枯渇とは貨幣が不足しているということであるが、何故貨幣が一夜にして消滅したのか。多くの人は価値は消費する以外に消滅することはないと思いがちである。日常的には価格で表示される商品は消費されることでその価値が消滅すると思っている。確かに生活に必要な食料などは一定の貨幣を支払い購入し、それを摂取することで日々の生命活動を維持している。食料に含まれていた価値は肉体の一部になって消費され、市場から価格としての価値は消滅したのである。しかし、リーマンショックの際に消滅した価値とは何度も指摘したように架空資本である。それは債務者の未来の労働を担保にして価格づけられたものであって、その額面価格はその時点では存在しないものである。その存在しないものの価格をもって貨幣が取引されているのである。それがこれまで私が管理通貨とか、信用貨幣とか言ってきたものの正体である。これらの資本は一旦受取手が不信感を持って受け取りを拒否すれば、すぐにも不良債権化する代物である。
 我々はこのような架空資本を日常生活上において極めて特殊なものと思っている。株式や国債などの投機的な金融商品は一部の富裕層が金儲けのためにやりとりしている特殊なもの、あたかも賭博場での出来事のように思いがちだが、実はこれは極めて日常的な出来事であるのだ。最も分かりやすい例で言うなら、我々の日常的な給与の支払いが銀行振込で行われていることが多いが、この銀行へ振り込まれた預金通貨*1は実は何人も受け取りを拒否できない貨幣ではないのである。振り込まれた預金通貨を記帳した銀行がその時点で倒産すれば、支払い(預金の引き出し)を拒否できるのである。預金保険機構が1000万円まで保証するという規定は当該銀行の仕事ではなく、銀行ネットワーク上の保険装置であって、預金通貨そのものは真性の貨幣ではないということはあまり理解されていない。
 現在の中央銀行システムは米国の中央銀行の名前が象徴しているように、「準備制度」*2なのである。市中に流通している貨幣と預金通貨に対する中央銀行の補償額はたかだか数%でしかないのである。つまり我々が貨幣だと思っている通貨のほとんどが何の後ろ盾もない架空のものだということである。このことを理解できるならば、のんびりとよそ事のように架空資本を眺めている時ではないということを知ることになる。しかしにわかにそのようなことは信じがたいという方たちに少し歴史的なおさらいをする必要があるかもしれない。
 中央銀行制度ができたのはそれほど古い時代ではない。資本主義の勃興期である17世紀において未だ権力を握っていないブルジョアジーたちは封建領主の戦争費用を貸し付ける立場であった。当時、通貨は王権によって独占できず、様々な貨幣が国内に流通していた*3。故に両替商が発達し、不足する通貨に変わって商取引においては為替が発展してきた。これらの貨幣を扱う商人たちが後の銀行業へと成長していくのである。王権は戦争費用を調達するために大商人たちから資金を借りるときに約定書を発行したのがいわゆる国債の初期形態である。裏付けは大抵は徴税権であるが、この徴税作業自体もブルジョアが担うことも多かった。
 銀行が最初に発生したのはイタリアと言われている。その後オランダのアムステルダムに大きな銀行が形成され、商業取引の中心地となっていった。この時、通貨の最終的な担保は金銀貨であったが、日常的取引に不便であり、大きな商取引にはほとんど為替が使われ、銀行が保証するものも出てきた。いわゆる信用貨幣の初期形態である。このように、貨幣の自然発生的な成長は資本主義の成長過程に即して発展してきたわけである。産業革命が起こり資本主義が本格的に始動し始めた18世紀において当然のごとく銀行業も発展してきた。多くの銀行が自ら銀行券を発行し、地域経済を潤した。本格的な中央銀行ができたのはイギリスにおいてである。周知のように当時最も発達した資本主義国家であったイギリスにおけるイングランド銀行が国家と結びついてその巨大な権力を持ち始めたが、当初は他の銀行と並存していたが、19世紀初頭に既に述べた通貨論争を経て、イングランド銀行券が国家的な流通権能を獲得したのである。その時に論議になったのが、銀行券に対する準備の問題であった。通貨学派は100%金貨で準備する必要性を説いた。他方、銀行学派は100%の金貨準備は必要ないと力説した。論争の結論は通貨学派が勝利したとなっているが、実態はその後の恐慌時において不足する通貨の流通を保証するために100%準備を停止することが頻発した。つまり、金本位制は有名無実化したわけである。周知のごとく、20世紀に入って第一次世界大戦とその後の大恐慌によって金本位制は瓦解する。そして以後、金という裏付けのない管理通貨が流通することになる。
 ではこれらの銀行家たちと国家の役割との関係は歴史的に見てどのように評価すればいいのだろうか。イングランド銀行は第二次世界大戦後に初めて国家の一機関として取り込まれたが、それまでは一民間会社であった。また、現在の日銀も半官半民の会社組織であり株式を発行し、上場されている。中央銀行は国家とは独立の機関でなければならないという現在の不文律はどこからきたのだろうか。銀行業が資本主義の司令塔であるという観点はその歴史的な発展から見て間違いないし、帝国主義段階を規定した金融資本主義もそのことを露骨に明らかにしているだろう。では何故、中央銀行が国家と一体とならないのだろう。その秘密は信用貨幣という特殊な貨幣の性質にある。ブルジョアシーの頭目としての金融資本にとって信用貨幣は最も重要な利益の源泉なのである。前稿(『MMTを巡る諸問題』)で銀行はゼロから貨幣を創造できるという秘密を暴露したが、それは信用創造と呼ばれて、信用貨幣でしかなし得ないものなのだ。かつての金本位制時代においてさえ銀行家は景気変動に合わせて多量の信用貨幣(金の裏付けのない貨幣)を中央銀行の名前で発行したし、国際金融ネットワークを通じて膨大な利子を獲得した。ゼロから利子を取得できるというこの美味しい魅惑に満ちたシステムを彼らは手放すわけにはいかないのである。しかしこのシステムは資本主義経済の景気循環を拡張し変動を拡大するものであって、まさにその変動こそが金融資本にとっての正念場であり、利潤獲得の好機なのである。国家と中央銀行の関係はこの信用貨幣システムを巡ってこれまで様々な攻防を繰り返してきた。国家が金融システムを包摂しようとしたのか、あるいは金融資本家が国家を利用したのかという疑問はこれまでも論議されてきたが、私見によれば国家と金融資本との関係は信用貨幣システムを巡って利害をこれまで一致させてきたというのが正当な見方であろう。楊枝嗣郎さんはこのことを次のように表現している。
 「…中央銀行が国家の政策と深い関わりにある存在であったのは、中央銀行券が法貨とされ、「半官半民」の存在となったことから、免れ得なかったのである。独立性の主張は、たびたび国家の要求に従属させられてきた歴史的現実と、信用貨幣という性格から来る経済社会に立脚せんとするの要求との相克の現れであろう。中央銀行券を「国民通貨」の地位につけ、「一国の通貨体系の基軸」となる必要、即ち国民経済の内部において、金属鋳貨による支払決済制度の世界から、信用が最終的な支払決済手段となる世界を生み出す必要が、資本の側にも、国家の側にもあったことが、近代国民国家(主権国家)ならびに国民経済が中央銀行設立に協働してきた理由であり、そのことによって、その後の資本主義経済発展の貨幣制度的基礎を獲得したのである。」(楊枝嗣郎『信用貨幣と国家』*4
 楊枝さんはこれらの国家と金融資本家たちとの関係を優しい目で見られておられるが、現実にはそれら二者の攻防は歴史的には熾烈を極めたと言っていいだろう。19世紀アメリカの南北戦争時において国家紙幣を発行することで内戦を収束させたリンカーンは国家権力の市民社会への強権行使が仇となって暗殺され、同じく20世紀においてはケネディが国家紙幣を発行しようとして同様の目にあったのだ*5。同じような事例は日本においても高橋是清がその好例である。近代国民国家形成期において相互に利害を一致させた国家と市民社会(金融資本)は国家の危機の時代においてはそのむき出しの利害がまさに相克するのである。

3.フリーバンキングとシカゴ・プラン

 典型的な歴史理論の上でのブルジョアジーたちの権力奪取はヨーロッパ大陸の限られた地域でしか起こらなかった。封建王政から近代資本主義社会への転換は世界中で様々な変容態を経過してきたが、絶対王政権力自体が市民社会を取り込んだケースもあったことを考えると、資本主義経済を基底とする市民社会と国家との関係は一様ではない。最も初期の市民社会における金融システムは多数の銀行が並存したフリーバンキング時代である。アメリカの18世紀はその典型である。国家が何度か国立銀行を設立しようと試みたが、短命に終わっている。その意味では資本主義経済の勃興期においてはこの金融システムにおける自由主義は実体があったということであろう。一方、日本の明治維新期においては官札という国家紙幣が発行され、設立当初の日本銀行は政府の一機関であった。日本でのフリーバンキング時代はむしろ室町後期の両替商たちの時代の方が当てはまるであろうが、それでも国家(封建領主)との紐帯は切れていなかった。アジアにおけるフリーバンキング時代は明・清時代の中国におけるそれの方が当てはまるかもしれない*6。いずれにしても商業資本の発展に伴って金融資本は必然的に勃興し集積される。この過程は国家とは相対的独自に発展するものであり、国家が取り込むか、国家を奪取するかはこの時期においては必ずしも必然の法則ではなかった。だから、市民社会の西欧的経過が典型であるとする世界的標準という観念はもはや今では捨てさられるべきものだろう。
 だが、資本主義が市民社会の中であろうと国家資本主義の中であろうと、発展することによって生まれるブルジョジーたちの利害は信用貨幣制度という要のシステムを巡って国家と攻防せざるを得ない。歴史を振り返ってみるとそれが最も先鋭に現れたのが第一次世界大戦後の大恐慌であった。この資本主義の危機に対して現れた代替理論が二つあった。第一は言わずと知れたケインズ主義の有効需要政策である。これは市場の不均衡を認め、国家財政による市場介入が資本主義を救うというものであったが、かたやもう一つの代替理論は今では忘れ去られているが、I.フィッシャーらによるシカゴ・プランである。これはケインズが手を入れなかった信用貨幣システムに対して大胆に手を入れるプランであった。つまり中央銀行を廃止し、信用貨幣制度を解体し、100%準備銀行とするという計画である*7。これはこれまで歴史的に攻防を繰り返してきたブルジョアと国家の貨幣制度を巡る相互依存に対して、国家の絶対的な統合を意図するものである。実はこのプランが中央銀行を国家と統合するという意味でMMTと相似形なのである。
 フィッシャーによると29年大恐慌は銀行が作り出した信用創造による預金貨幣がわずかな貨幣準備の下で膨大にバブルを発生させ、それが弾けたことで起こったと見たのである。故に、銀行に信用創造をさせず、国家が100%の準備を銀行に強制し、貨幣を国家の独占とすることを計画したわけである。それによって景気変動に合わせた貨幣発行が可能となり、景気変動を和らげてバブルの発生を阻止できると考えたのである。このプランは当時のルーズベルト大統領の承認するところとはならなかったが、それは彼が金融ブルジョアジーたちの抵抗を恐れたからだと言われている。フィッシャーのプランはそれ迄金融資本が創造していた信用貨幣を廃止し、企業が必要とする資金を直接金融によって調達するというものであったが、国家の採用するところとはならず、かろうじて銀行と証券との分離という規制(グラス=スティーガル法)だけで危機を乗り越えようとしたわけである。
 以後、この案は長らく闇に葬られることとなったが、80年後に現れたリーマンショックによって俄かに復権をし始めた。いよいよ金融資本の生命線であるシステムに変革の手が入ろうとしているとも言えるのである。

4.MMTの意図するもの

 第二次世界大戦後の金融システムの攻防についてはすでに研究ノートにてその概要を述べてきたので、現在最も焦点となっているMMTについて、その意図するところとそれが果たす歴史的な位置を確定していきたい。80年代以降の新自由主義政策によって世界経済は金融資本の巻き返しを経験してきた。その目的とするところは金融にまつわる様々な規制を緩和することであった。ビックバンと呼ばれた改革はそもそも金融規制の解除のことであって、それは国内におけるそれまでの規制ばかりではなく、国際資本取引をめぐるそれでもあった。第二次世界大戦後の世界経済は世界恐慌時に導入された様々な金融規制を前提とするものであって、第一次IMF体制は固定為替相場制と国家間の資本移動への様々な規制で成り立っていた。それが国際金融資本にとっては足枷となってユーロドルという規制の抜け穴を拡大させることになった。その矛盾を一挙に解決するためには世界的な金融緩和が必要であったのである。新自由主義政策とは元来そのような金融資本の世界的展開を可能とするための金融ブルジョアジーたちの世界戦略であったわけである。この巻き返しは英米系資本が主導したということは間違いないにしても、先進国における金融システムを動かしている金融ブルジョアジーにとっては共通の利害でもあったが故に、瞬く間に世界中で拡大されていった。そして、それと共に経済思想上では貨幣をベールとする新古典派経済理論が経済思想界を席巻することになったのである。故に当然それまでの戦後経済を支えていたニューディール派の経済理論であったケインズ経済学は徹底的に片隅へと追いやられた。しかしケインズ派を継承する人々は現実の経済を動かしている金融システムが新古典派のそれとは相容れないことを主張し続けていた。つまり、実際の金融システムは新自由主義派の言うようなシステムでは動いていないことを指摘していたのである。そのことが露わになったのがリーマンショックという破局における当局の行動であった。リーマンショックの際、米国中央銀行であるFRBが巨額の資金供給を世界中の中央銀行へ行ったが、それがなぜ可能だったのかが人々の疑問を招いた。当時、CBSの番組でFRB議長であったバーナンキは司会者から、それらのお金はどこから出てきたのかと問われて、「準備預金を創造した」と答えている。つまり中央銀行の帳簿に数字を書いただけであったということを正直に述べている。準備 預金、すなわち預金通貨は何の根拠もなく作り出せるということを吐露しているのである 。この時、奇しくもかつての銀行学派が語っていた「最後の貸し手」機能が作動したわけである。それまで金融機関が膨大に拡張していた根拠のない架空資本(債権化)を中央銀行が買い取ることが可能であるということ、中央銀行が発行する銀行券とはそのようなものであるということを白日の下に曝け出したのである。
 このことで、これまでの金融システムで膨大な利益を得ていた金融資本の謎が明らかとなり、中央銀行を含めた全ての金融システムそのものがこの間の富の偏在と経済危機を招来したということが暴露され、人々のこれら1%の悪行を重ねた銀行家たちへの抗議がウォール街の占拠闘争として現れたのである。そしてこの時、ケインズ学派の末裔たち(ポストケインズ派)はMMTという新しい衣装をまとって登場することになる。つまり、これらの架空資本を銀行家たちに任せていてはダメだ、国家で管理しようということを言い出したわけである。彼らにとっては国家(議会)は人々の意思を反映する民主主義的な存在であって、秘密が暴露された以上、貨幣システムを一民間企業たる中央銀行ではなく国家機能として統合することを推奨することになるのである。彼らに言わせれば、貨幣は元々国家がその権威を保証しているのであって、金融ブルジョアジーたちに管理を任せておけばとんでもないことになるから、英知を集めた機関(議会の統制下での専門機関)で管理するべきだということになる。
 さて、ではそれではMMTが行う金融政策とはどんなものなのか?シカゴ・プランのような信用創造を廃止することなのだろうか?それは否である。彼らの政策は従来のケインズ主義の財政政策である有効需要の創造であって、目新しいものは何にもない。確かに、彼らの政策は現在の金融資本のやりたい放題の新自由主義的な政策ではなく、金融資本への規制を強め、失業を解消するための「就業保証プログラム」を提唱するが、それは従来のニューディール政策の延長であって、一つも革命的ではないことを知っておくべきだろう。確かにそれらの政策は現在の金融資本の跋扈する経済よりは比較的マシであることは確かであるし、金融資本とその政治的後援者たちが事あるごとに叫んでいる「国家債務」問題への明確な解答は注目に値するが、おそらくそれらの債務問題は密かに国家はMMTのいう現実をどこかで隠れて承認するしかない現実であるのだから、白々と実行するだけであろう。
 ここで最後に希望を託するものがあるとすれば、シカゴ・プランを現在の金融デジタル化経済と統合して、新たなシステムを立ち上げるという試みがある。金融資本の支配する世界を変革するためにはこの回路が今追求すべきものだろうが、筆者にはまだこれを語るための準備ができていない。今後の課題としたい。

(付論)金子勝さんの山本太郎さんへの批判を考える

 『世界』四月号に金子勝さんが「もし君が首相になりたいと言うならば」という挑戦的な表題で、山本太郎さんの「れいわ新選組」の経済政策を批判しています。本稿を閉じるにあたり、この論争を参照することで足らずを補いたいと思います。
 金子さんの批判点の主眼は二つあります。一つはMMTへの間接的批判です。もう一つは現在の日本経済の現状への認識です。前者のMMTへの批判はいささか変化球ですが、山本さんのブレーンがMMTを悪用していると言います。なぜ悪用なのかというと、本稿でも述べたように本来のMMTの財政政策は「就業保証プログラム」(金子さんはこれをJob Guarantee Program -JGPと呼んでいます)なのですが、山本のブレーンはそれを消費税減税にすり替えたというのです。
 「まずMMTでは財政赤字で支出するのはJGPです。JGPならば、移民や若年層に最低賃金を保証することで、景気対策として物価上昇が起きるというのはまだ理解できます。ところが、れいわは財政赤字で消費税減税を行うのです。これは、反対に物価を下落させる政策です。」(p.37)
 つまり、減税しても需要(消費)は伸びないし、物価も上昇しないというのです。またもし需要が伸びて経済が成長すれば国債価格が暴落し経済は破綻するというのです。何れにしても良くはならないというわけです。確かに理屈の上では減税によってとりわけ低所得者層には大きな所得増が生まれますし、小売業が税金分を価格に反映させて減価すればそれだけ消費は増えそうですが、物価を上昇させようとするならば、減税はむしろ反対に作用する可能性があります。また、金子さんは価格支配力のある大企業は減税によっては賃金を上げることはないだろうと予想するわけです。更に「れいわ」は大企業への法人税を上げるのは物価上昇率が2%を超えた時と言っているので、金子さんの理屈で言うとそれはできなくなります。故に、山本さんの政策は成功しないと断言するのです。
 この二人のいうところの経路はいずれも一理あるのですが、現実の経済を考えると金子さんの言うところの経路の方が短期的には現実的であるようです。しかし、金子さんの批判はMMTへの直接的な批判ではなく、それを悪用しているブレーンだと言う限り、実際に山本さんが政権を握った時に行使する政策は減税だけではないでしょうから、いささか弱い批判だと言えます。
 次に二つ目の批判は日本経済に対する現状認識です。現在の日本経済が完全雇用水準にあるにも関わらず実質賃金が下落しているという事実に着目し、日本経済の現状は「深刻な産業衰退」にあると指摘します。一般的には完全雇用になれば人手不足になり賃金が上昇するのがこれまでの経験則です。また、世界的に見ても確かに欧米諸国の実質賃金はわずかではあるが上昇しています。なぜ日本だけが下落するのか?更に言えば、その人手不足を補うために外国人労働者を増やそうとする政府の政策ではなお一層賃金の下落を促進することになるということです。政府はこれまで、目先の技術革新を目論んでいろいろと経済改革(規制緩和)を打ち出してきたにも関わらず、実態の産業イノベーションも起こらず、ますます衰退しつつあるのが日本経済であるということなのです。金子さんは日本の代表的な装置産業である三菱重工や日立などを取り上げて、エネルギー分野における日本の選択は間違っており、必然的に衰退せざるを得ない現状を述べて、れいわがこの事実を理解していないと批判します。
 「山本さんとれいわに決定的に欠けているのは、日本が未来に向けてどのような産業で生きていくのかと言うビジョンであり、想像力です。」
 と指摘し、れいわのエネルギー政策を批判しています。この指摘は日本の産業基盤が衰退しているという根本認識の正当性が問われるのですが、実は金子さんもMMTが言うところの国債による赤字財政が直接にハイパーインフレを招くということはないだろうと述べ、ハイパーインフレが供給要因によるというMMTの指摘をほぼ認めているようです。ですので、れいわの産業政策の是非が問われるわけなのですが、それに対する金子さんの対置する政策は再生可能エネルギーによる地域グリッドシステムであり、医療・介護の分野におけるネットワーク活用などですので、これまでの日本の大資本体制に対する変革であって、れいわが今後これらの政策へ転換する可能性は否定できないのではないかと思われます。れいわの政策は今のところ、確かに荒削りな減税政策に注目が集まっていますが、日本の今後の産業政策の変革については未確定な部分が多々あります。
 何れにせよ、日本の産業政策のビジョンは早晩問われなければならない課題です。現在の日本の閉塞状況と世界経済のメルトダウン下においては、これこそ最も問われなければならない課題なのですが、にも関わらずそれらの経済を支える金融システムそのものを何故問い返さないのかが悔やまれます。MMTを活用するのであれば、このことを問わずしては真の変革はあり得ないでしょう。

脚注

*1預金通貨のマネーストックに占める割合は日本においては比較的少ない方であるが、それでも8割を超えるであろう。
*2Federal Reserve System(FRS)という正式名称の邦訳は「連邦準備制度」と呼ばれ、Federal Reserve Board(FRB)「連邦準備制度理事会」が機関の決定をする。この「準備」の率は数%であることが多いが、2019年12月現在の日銀の準備率は0.8%である。
*3中世期の貨幣の実際を知るにはジャック・ル=ゴフ『中世と貨幣』2010年(藤原書店2015年)が便利だ。
*4この論文は2001年5月の慶應義塾大学における金融学会春季全国大会での報告である。
*5このエピソードは山口薫『公共貨幣』(2015年東洋経済新報社)から
*6中国おける貨幣制度は、黒田明伸『貨幣システムの世界史』(2014年岩波書店)を参照。
*7一見これは金本位制のように見えるが、金属貨幣の裏付けを必要としない国家紙幣という位置付けであった。


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