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SNS時代の社会革命(1)

斎藤 隆雄
436号(2020年3月)所収


 インターネットを使った通信技術の驚異的な発展に伴って、情報処理と通信能力がハードとソフトの両面で大衆的な使用に耐えるほどになってきた。このことによって人々の対話関係が地殻変動を起こしていることは周知の事実であろう。この技術革新が招いた社会革命をどう位置付けていくのかは、現在の政治革命の緊急の課題である。

1.2010年代の社会運動

 既に大方の論者が指摘しているように、2011年の「アラブの春」以降の大衆運動はSNSを使った水平的なつながりが基調となり、指導的な部分がないアナーキーな運動となっている。この直接民主主義的要求運動は従来の社会運動とは著しく異なる特徴を持ち始めている。中東、欧州、北米、アジアと世界的な広がりと都市に集中した大衆的反乱は、個々に個別のスローガンを掲げながらも、従来までの統一した綱領を持たず、また集権的な指導部にあらかじめ組織されているわけでもない、極めて自然発生的な運動なのである。そして、それを可能としたのがSNSを使った通信機器であったということである。これらの大衆運動は従来のものとどこが違っていて、何をもたらしているのだろうか。
 社会の交通形態はその時代の生産力とその構造に規定されていることは言うまでもない。20世紀初頭の欧州革命期においては先端技術として電信や電話があったとはいえ、主に新聞がその広範な大衆への交通形態であった。レーニンが党の宣伝媒体として採用したのは「全国政治新聞」であったことは有名である。安価で大衆的な広がりがあり、広範な呼びかけに適した通信手段は主に新聞であった時代はブルジョア国家の側もまたその規制に熱を入れていた。新聞はまさに階級闘争の攻防の最先端であったと言える。その後、技術の発展とともにラジオやテレビが導入されると、その大規模で高価な機材を必要とする技術ゆえにブルジョア階級の宣伝機関として大規模に導入され、同時にその時代の大衆的大量消費社会の出現と並行して、いわゆる「スペクタクルの時代」に突入することになる。20世紀中期以降、このような大衆宣伝戦においてブルジョアジーは一方的で圧倒的な勢力を得ることになった。これらのマス・コミュニケーション機関は映像とキャッチコピーによる大量の宣伝情報を一方向的に流すことができ、政治的にも経済的経営的にも巨大な権力を獲得した。いわゆる大衆社会現象と呼ばれる多くはこのマスコミによる情報操作機能に依存していたと思われる。
 マスコミ機能はブルジョアにとって格好の宣伝機関であるがゆえに国家の規制対象であり、免許制度によって固く守られていた。他方で労働者階級の利害を代表する様々な組織は依然として新聞と書籍に依存するしかなかったと言える。一部には非合法ラジオ局などの試みはあったとはいえ、映像伝達に関してはほぼブルジョアの独占であった。
 転機が訪れたのは、1980年代以降であろう。デジタル通信回線の発達と電子機器の機能の向上によって当初はまだ専門的な領域であったとはいえ、文書の通信が大衆的な広がりを持てるようなってきた。インターネット草創期においてはこれらの機能が民衆運動に革命的な転換をもたらすかもしれないと予想された。つまり、マスコミ機能が個々人に与えられるかもしれないという予感であった。それは従来ブルジョアが独占していた機能を大衆化し、通信手段を民衆のものとなる可能性を示していた。これらの技術的発明は資本主義が求める大量生産と大量消費構造の必然的な方向性であり、情報という商品を大量の個人へ双方向的に散布できることが大規模な利潤を実現させるということを見つけた資本は驚異的な速度でその機能を発展させた。それが21世紀に突入して以降の電子機器の発展をもたらしただろう。ソーシャルネットワークという双方向的な通信網のアイデアはそういう発展の必然的な結果であったと思われる。また、その機能を持った機器が片手で持てるほどの小さな機器の中に収められたことで、爆発的な広がりを獲得した。今や、GAFAと呼ばれるプラットフォーム企業の時価総額は一国のGDPをも凌駕するほどへと肥大している。
 つまり、資本の貪欲な利潤獲得の欲望が常に資本を世界資本へと拡大するとともに、全人類をも巻き込んだ広範な一人一人の人々へ浸透していくという典型的な機能を証明したことになる。2010年代の世界中で起こった民衆反乱はそのスローガンや思想のあれこれではなく、その大衆行動を支えた相互確認、相互通信がこれまでの運動とは全く異なった様相を示していることが重要なのである。

2.希望が悪夢へ

 インターネット草創期における情報の民衆への獲得という夢は二つのことから語られていた。一つはネットによる安価で瞬時の双方向の伝達機能がそれまで巨大資本に牛耳られてきたコミュニケーション手段を民衆の元へと奪還できるということと、二つ目はデジタル機器の発展がそれらを駆動させるソフトウェアと情報を安価にさせ、限りなく大衆的なものとなるという期待であった。しかし、21世紀の初頭の20年間で事態は予想を覆す進展を見せた。通信機器の小型化は驚異的な速度で進展し、かつての大型パーソナルコンピュータを手のひらサイズへと変化させたが、他方で期待されたコミュニケーション手段の大衆化はSNSというプラットフォームの上で実現したとはいえ、このデジタル世界で実現したのは思わぬ事態であったと言える。また、ソフトウェアの大衆化はオペレーションソフトの寡占化により安価なアプリケーションも従属的な地位に置かれ、いずれも資本の元に統合されてしまったのである。
 とりわけ予想外の事態であったのは、SNS上で交わされる膨大な情報は先に取り上げた民衆の政治的な覚醒を呼び戻したと同時、それは不定形な市民社会の流動性を生のままで表面化させたことで、様々な社会現象を招き寄せたことだった。この事態は実はこれらの技術革新が起こってきた歴史的経済的な下部構造の変革の結果であったという最も基本的な駆動因を我々に教えてくれている。そのことを現在の技術革新の最先端であるAIやビックデータとの兼ね合いで白井聡さんが見事に指摘しているので引用してみよう。
 「卵が先か、鶏が先か???現在飛躍的に発展しつつあるAI、ビックデータといったテクノロジーが社会を消去するのか、あるいは、すでに社会が消去された時代にふさわしいものとして、そうした時代状況を肥沃な土壌としてこれらのテクノロジーが生まれたのか。正解は前者ではあり得ない。テクノロジーの発展は、社会の存在様式の従属関数である。なぜなら、社会はつねに、どのテクノロジーを発展させるかを取捨選択するからだ。」(白井聡「社会は存在しない」『情況』2020年冬号p.68)
 白井さんが言うように、現在の技術革新が1980年代から駆動した新自由主義経済が市民社会を劇的に変革してきた結果であるということを忘れてはならない。ネットによって動き出している世界、従来の運動形態を陳腐化しているこの社会的変動は新自由主義がこの40年間に破壊し尽くした市民社会の多様な公共圏に散在した共同機能が資本の元へと従属し解体されてきた結果なのである。だからこそ、それはとりわけ都市に集中した民衆の膨大な抗争を無定形なものとして露わにしているのである。過去の政治的基準では捉えきれない社会運動、左右を問わない不定形な流動性は近代が生み出した社会運動の基本的な枠組みを完全に乗り越えてしまっているのである。
 新自由主義経済が社会に及ぼした最大の貢献は、それまでの市民社会を破壊したということである。サッチャーが「社会は存在しない」と喝破したのは、社会を破壊するという戦闘宣言であったわけだ。彼女がそれまでの英国における福祉社会理念を徹底的に攻撃したことはつとに有名であるが、その戦略がポピュリズムであると指摘したのはシャンタル・ムフであった。
 「サッチャーは個人の自由を称揚し、抑圧的な国家権力からの解放を約束することで、多くのセクターから新自由主義プロジェクトへの支持を調達した。このような言説は、国家的介入の恩恵を受けていた人々からも共感を呼んだ。なぜなら、彼らは利益の配分がしばしば官僚的に行われることに不満を抱いていたからである。…一部の労働者の利益をフェミニストと移民の利益に対置し、仕事を奪われているのは彼らのせいであるとすることで、サッチャーは労働者階級の重要なセクターを自分の味方につけることに成功した。」(シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』p.48)
 現在にまで続くこの新自由主義的社会戦略はそれまでの市民社会が構成していた多様な中間組織を資本の元に統合する作用をもたらす一方で、労働者階級を結合していた労働組合および社会運動を徹底的に攻撃することで個別労働者を自己責任論に基づく個人へと解体していった。それは産業のサービス労働化と軌を一にするものであって、資本の生産力の発展と機械化によって生まれる大衆社会現象という資本の社会化の典型的な歴史的な必然なのであった。今や社会の交通形態は資本化されたコミュニケーション手段によって縦横に組織され、人々がそれまで営々と積み上げてきた社会性を破壊し尽くしてきたのである。
 インターネット草創期における希望は今や見事に裏切られ、国家と官僚の管理システムへと発展してきたが、資本が資本である限り、彼らの本性である収奪構造はますます苛烈を極め、民衆の経済的疲弊は極限にまで進行するであろう。故にこそ民衆の自然発生的な抗争はこの小さなデジタル機器のネットワークが持つ二律背反機能に依存する結果となったのだと考えられる。ネットワークで生まれる排外主義的言説と民主主義的言説の格闘はイデオロギー戦線における階級闘争と化しているのはそのためである。

3.社会の変容と自然発生性の特徴

 現在の社会運動は従来の左右のイデオロギーではなく、上下の支配従属関係の抗争から生まれているという指摘がある。あるいは、現在の右派ポピュリズムの台頭は左派が陣地を譲り渡したという指摘もされている*1。確かにこのような見た目の現象は産業構造の新自由主義的転換に伴った市民社会の変容にその根拠を置いているだろうが、そういった現状に対する対抗理論として市民社会の再構築というグラムシ的路線が提起されているが、それは現在でも有効なのだろうか。その問いに答えるためには、ひとまず本来の市民社会の初期設定とは何だったのかという議論が必要となる。資本主義社会が生まれる母胎であった市民社会の生成は自由主義と民主主義(平等)とを携えて発展してきた。その市民社会が資本主義の究極的な発展の末に「消去される」という事態を招いたのは、市民社会の階級抗争的な構造を資本の論理によって大衆化することがブルジョアジーにとってもはや桎梏となったということ以外には考えられない。自由と平等が市民の中で生き生きと資本と結びつく疾風怒濤の時代はもはや遠い過去のことであって、今や資本の独占と金融化による新自由主義的な社会変容が現実資本による収奪を蔓延させ、利子生み資本によるグローバルな金融支配という資本の物象化を現代の債務労働制度へと変容させ、労働者階級の個への解体という究極の主体性社会を実現させたことで、市民社会の共同体的交通形態(博愛)を完全に分解させたということなのである。
 2010年代以降に現れた新たな社会運動はこのことを見事に証明していると思われる。これは従来の集合的な労働者階級の結合を無効にし、新たな階級闘争の場を街頭とSNS上に移行させてきた。労働形態のサービス化によって細分化と分散化を余儀なくされた民衆の政治的抗争はネット空間上での情動的な共感となって溢れている。人々は労働現場ではなくネット上で会話している現実がその結合形態となっており、政治的な怒りや憎悪が短い文章と扇情的な映像によって満たされている。トランプがツイッターを使って日常的に政治宣伝を繰り返していることは有名であるが、その内容が真偽ではなく仮想の政治空間を作り上げていることがその顕著な特徴である。彼の政治世界の空想性はデジタル空間の架空性と同期しており、近年頻繁に登場する歴史の捏造やオカルト的歴史観と相似形であろう。つまりこれは市民社会が共有していた「倫理的共同体」という仮想を国家が統合するということに失敗したことを表している。市民社会の解体によって政治的言説が浮遊し始めたのである。それがネット空間における炎上を生み出し、街頭でのヘイトスピーチとカウンター行動という現実的抗争へと現れてきたのである。
 これらの現実は市民社会の解体が近代を終焉させて、ポスト近代へと移行しつつあることを示している。この過程が国家の正当性を揺さぶり、政治のポピュリズム化を促進していることは明らかであろう。資本の巨大な拡張が社会の大衆化を生み出し、そのことによる国家の市民社会への介入が開始された20世紀初頭から発展してきた「福祉国家」という帝国主義段階における国家統合を資本自らが新自由主義というポスト近代への突破口を開いたことで社会そのものの溶解が始まったのである。政治のポピュリズム化が現れ、それが二つの分岐を生み出しているということは特徴的である。誤解してはならないのは、今見えている左右のポピュリズムは同じものの二つの側面ではなく、相反する二つの側面だということを理解しなければならない。ここ数年話題となっているポピュリズム運動の右派的な現れを分析することでそれは理解できる。グローバル資本への批判やブレグジットに見られる引きこもり現象は一見資本主義批判のように見えるが、実はこれらの運動が中間階級的な利害を反映しており、かつてのニューディール政策の焼き直しであるという実態を見逃してはならない。彼らの政策の反移民主義や排外主義、労働者主義は実はかつてのケインズ政策への回帰でしかないことを明らかにさせるべきだろう。なぜなら、戦後ケインズ主義の基本は国民経済の閉鎖性を前提としていたのであって、今日のグローバル資本の跋扈を許してはいないのである。右派ポピュリズムが夢見ているのはそういう時代のものである一方で、左派ポピュリズムと呼ばれる理念はポスト近代の理念を共有していることが特異な特徴である。それらが現在的に政治的抗争を組織する上で特徴的に見られるのは、フェミニズムやマイノリティ、あるいは国際連帯への共感を含みつつあることである。これらの特徴は右派との決定的な決別点となっていることは明らかであろう。故にこれらが国民国家への閉じこもりや民族主義的固執などとは決定的に別個であるという意義を見逃してはならない。これらの左派の新たな兆候を再建されるべき市民社会として金融資本支配との対抗軸となることを鮮明にしなければならない。
 だが我々が直面している新たな21世紀型の社会運動は、容易に鮮明であると勘違いしてはいけない*2。なぜなら、これらの左派の運動の特徴は常にブルジョアジーの脱近代型の支配構造への囲い込みに晒されているからである。今日の左派の多くが脱緊縮の経済政策をMMTに依拠しつつあるのもその危険な兆候である。また、議会主義への過度の依存というポピュリズム的な国家権力志向もまた危険な誘惑となることがあるだろう。ポスト近代における左派ポピュリズム運動は今二つの動向によって引き裂かれている。一つは民衆の爆発する異議申し立てが街頭行動と占拠闘争へと発展しつつあるが他方で議会政治へとそれを収斂させようとする動きもまた必然的に現れるのである。異議申し立てがいまだに政治的表現を克ち得ていない現在こそ決定的な分岐点だと考えられる。

脚注

*1中村勝己さんが『情況』誌上の論文で紹介されているマルコ・レヴェッリの言説や同じく同誌上の諏訪共平さんの論文にも散見される。
*2酒井隆史さんが指摘するように、現在ネトウヨが依拠する言説は「多様性」であって、「表現の自由」を盾に価値中立であるような議論を展開している。またそれに依拠しつつ資本の運動におもねる言説も登場しつつある。(酒井隆史『ジェントリフィケーションへの抵抗を解体しようとする者たち』2019年改訂版)


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