共産主義者同盟(火花)

MMTを巡る諸問題

斎藤 隆雄
435号(2020年1月)所収


 近年盛んに論議されるようになったMMTだが、かつてリフレ派がそうであったように、どうやら右派と左派に分岐しているという世評をいただいているようだ。これらの論議のどこがおかしいのか、はっきりさせる必要がありそうだ。現在、MMTを論議することの意味を確定しておきたい。

1.MMTはなぜ異端なのか

 最初に我が国にこの理論が紹介された時、主流派の人々が異口同音に口にしたのが、「とんでも理論」だという規定だった。その意味するところは、「財政赤字では国家は破綻しない」という常識では理解できないことを言い出していた点だった。政治家や経済学者が日本の膨大な財政赤字を「危機だ」「日本沈没」だと叫んでいる時に、この理論はまるで逆撫でするように言い切ったからだ。しかし、考えてみると先進国の中で飛び抜けて巨額の赤字を抱える我が国が、長年危機だと言われる割にはインフレも起こらず、むしろデフレを脱却できない状態であるのは不思議であった。また、巨額の赤字国債を発行すると国内の貯蓄を使い果たしてしまうなどというまことしやかな言説が流布していたにも関わらず、民間貯蓄は減るどころか毎年積み増されているという厳然たる事実が存在した。
 人々はこの事実と理論の齟齬を何となく気付きながらも既存主流派の経済理論に依拠し続けてきた。2008年のリーマンショックを経済理論家たちが予測できなかったことで主流派の信頼も揺らいでいたここ十年ほどは理論そのものが無効となる時代が到来したのではないかと訝っているその時に、MMTが現れて人々の注目を浴びることになった。資本主義が終焉するかもしれない、あるいはもう終わっているけど気づいていないなどという言説が現れる時代に、実はそうではなくて、貨幣経済の見方が間違っていただけなんですという言説が現れれば皆、驚き慌てふためく。
 では、このMMTとはどんな理論なのだろうか。果たして異端なのだろうか。
 『情況』夏号で石塚良次さんが的確に指摘しているが、「MMTの本領はそこにあるのではない」(P.45)のである。
 「その理論は現在の主流派経済学(マルクス経済学の主流派も含む)の考え方に根本的な批判を投げかけている。経済システムの基軸に位置する貨幣についての見方を変えることによって、資本主義経済の作動様式の認識に根底的な転換を迫っている。」(同)
 このように「貨幣論」が問題の中心にあると指摘し、その学説史的背景として「内生的貨幣供給論」を取り上げている。実のところ、MMTを本格的に論じようと思うと、このような短い記事では到底入りきれないほど内容が濃いものである。そして、異端と言われるにも関わらず、実はこの理論の淵源は19世紀初頭にイギリスにおいて戦われた通貨論争にあって「銀行学派」と呼ばれた人々の言説にあることから、資本主義経済をめぐる認識の最も根底的な部分を巡る論議なのだということがわかる。
 では、何故「異端」だという批判がこれほどにも流布したのか。それは、現在の主流派の経済理論がことごとく新古典派統合という貨幣数量説に基づく「外生的貨幣供給論」によって建てられているからである。つまり、かつての「通貨学派」の末裔たちだ。かの有名なマクロ経済学で最初に出てくるグラフであるIS-LM分析自体が成立しないのだから、「異端」と言わなければ立つ瀬がないのだろう。だから、そういう意味では確かに「異端」なのだろう。しかし、今や最大の経済危機を予見できず、世界的にはびこる低金利と脱インフレ経済を説明できないような理論がMMTを「異端」と呼んでもあまり説得的ではないように思える。対抗理論をレッテル貼りで批判するのは、大抵は根拠のない後ろめたさからくるのだから、ここはしっかりとMMTを少なくとも現在の主流派経済理論への真っ当な批判として位置付けておくことが必要だ。

2.「内生的貨幣供給論」とは何か

 内生的貨幣供給を理解するには、いくつかの常識的ではない現象を理解しなければならない。それは銀行のバランスシートの理解から始めるのがいいのだが、その前に最も前提的な問題として「債務」という現象の基本的な理解が必要だ。これは当たり前のことだが、財政赤字問題を論じる際に往々にして見過ごされてきたことだ。つまり、債務の対極にあるものは債権であり、借りには貸しがあるのである。ランダル・レイがその著書の中で言っているフレーズで言うなら「タンゴは二人いなければ踊れない」だ*1。赤字を問題にするならば、当然その対極にある黒字も取り上げなければならない。政府の赤字は当然誰かの黒字なのだから。
 これはバランスシートを考える上で最も基本的なことである。そして、銀行のバランスシートにおいて預金(銀行通貨)は負債側にあって、その対極にある資産は貸出債権である。ここで私たちは銀行が預金を受け入れてから貸出をすると予想する。それは収入があってから支出ができるという一般的な考えから出ている。しかし、預金は実は銀行にとっては負債であって収入ではないことが理解できていない。再度、石塚さんの論文から引用してみよう。
 「世間一般の理解では、銀行は預金を集め、その預金に利鞘を上乗せした金利で貸し出すというのが金融仲介機能であると考えられている。しかし、そうではない。銀行は預金を集める前にまず貸出を行うのである。その際に原資は不要である。借り手の預金口座に金額を書き込めばよい。あくまでも貸付が先行するのである。」(p.52)
 このことを理解するのは大変難しい。なぜなら、常識に反するだけではなく、かつて金融システムの基本であった金本位制のシステムとも違うからである。かつての通貨論争の際に問題となったのもこの点であった。金本位制にとって通貨は兌換であったからなおさらである。通貨の発行は金という実物資産の裏付けがなければならないというのが通貨学派の言い分であった。しかし、実はその当時でさえ銀行が発行する銀行通貨は必ずしも100%金の裏付けがあったわけではなかった。銀行実務家たちはそのことをよく理解していたが、経済学者たちはこのことを単にイレギュラーな事態でしかなく、本来の通貨のあり方ではないと考えたのである。しかし、私たちが問題とする貨幣は現在の管理通貨制度下における通貨である。前稿でその一端を述べたように、現在の貨幣はその歴史的変遷を経たものであり、現在の国家が抱える債務問題を考える時にはこの管理通貨制度下における現代通貨を語らなければならない。
 この内生的貨幣供給理解によって従来と異なる因果関係で最も問題となるのは、中央銀行の位置付けである。従来の理解では、中央銀行が貨幣の供給を規定していたと考えられていたが(外生的)、事態は逆であって市中銀行の貸出が貨幣供給を決定するということになる(内生的)。このように理解すると現在の日本の異次元緩和が何の効果も発揮していないことがよく理解できる。なぜなら、いくら中央銀行が国債を買い上げて貨幣を市中に供給したとしても、民間部門での貸出が増えなければ貨幣は流通しないのである。供給した貨幣はただただ中央銀行の負債側に預け金として積み上がるだけである。*2
 では、中央銀行は何らの役割も果たしていないのだろうか?否、そうではない。中央銀行は市中銀行相互の決済機能と金利操作による通貨調整を行うことはできる。ただ、現在のようなゼロ金利ではその機能も自ら放棄しているように見えるのだが。

3.MMTの何が革新的か

 MMTの最も革新的な点は財政政策と金融政策の関係を逆転させたことであろう。国家と中央銀行とを合わせる「統合政府」という考え方を基本に置いたことと、税の役割と国家債務とを切り離したことである。この考え方が成立するためには自国通貨が政府=中央銀行によって無制限に発行でき、デフォルトは自らの望まない限り起こり得ないという現実がなければならない。つまり、貨幣発行は税の裏付けがあるわけではなく、税と貨幣とは切り離されているということになる。海外収支を度外視するならば、政府部門の赤字は民間部門の黒字であるから、現在の日本の巨額の国家債務は同時に家計部門の巨額の貯蓄とならざるを得ない。だから当然、現在の日本の低金利とデフレ経済は貨幣現象ではないということになろう。そして、むしろ政府が巨額の赤字を積み上げて危機を煽ること自体が経済政策を歪めているということになる。
 とは言え、この理論で現在のグローバル金融資本主義を批判できると勘違いしてはいけない。元々このMMTは長い理論史をもっている。1960年代のイギリス労働党政権における論客であったカルドアをはじめとしてポスト・ケインズ主義の系譜を引いた多くの理論家が既に存在していた。つまり、30年代以降のケインズ主義とハイエク主義との長い確執、70年代以降のマネタリストとケインジアンの確執の一局面であるということも見逃してはならない。あくまでも、資本主義経済を前提においた資本主義のための理論であることに注意が必要である。

4.MMTはマルクス経済学を乗り越えたか

 マルクスが19世紀初頭の通貨論争に対して「通貨学派」に肩入れしていたという見方が一般的であるようだ。しかし、これは必ずしも的確であると言えない。『資本論』第3巻の諸章を読む限り、トゥックやフラートンに批判的であったとは思えない。明らかに銀行学派のいう銀行通貨の独自の運動を認めていたと思われる。では、何故通貨学派に近いと思われていたのかというと、それは商品貨幣論から来るのだろう。世界貨幣としての金の役割についてはマルクスは疑わなかったからだ。
 だがMMTが扱う貨幣は、国家が税として受け取る存在としての貨幣である。「課税が貨幣を駆動する」という理論前提からすれば、現代管理通貨は国家貨幣であるが、システムはそのようなものとはなっていない。この点については私の前稿での論議を参照していただくとして、この国家貨幣としての現代通貨が国民経済を如何に動かしているのかという点において、この理論は有効なのである。

脚注

*1ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』p.66参照
*2私のルネサンス研究所関西の研究レジュメを参照していただきたい。そこに異次元緩和後の中央銀行のバランスシートを載せている。




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