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状況―ポピュリズム政治と主体

斎藤 隆雄
432号(2019年7月)所収


 「れいわ新選組」という奇妙なネイミングの党派が現れた。政策綱領を見ると明らかだが、かなり大胆なスローガンを掲げている。いわば、これは左派ポピュリズムだと言えそうだ。これで、やっと左右のポピュリズムが出揃った。これからの制度政治の展開を考えてみたい。

1.日本の右翼ポピュリズム

 右翼ポピュリズムの代表格は安倍政権だ。大胆な金融緩和と特異な言説構造によって一見従来の保守政治と差異化させる微妙な政治行動が、典型的なポピュリズムとは幾分ズレがあるとは言え、現在世界を席巻しつつあるポピュリズム政治の最先端を突っ走っていると言っていいだろう。安倍のヘゲモニー戦略は、保守としての自民党という政権党と日本会議という親米右翼オカルト勢力ががっちりとタグを組んだところにある。その上で、バリバリの新自由主義政党である維新の会と中間階級政党である公明党(いわば、欧州におけるキリスト教右派に当たる)を微妙なバランスでボナパッているという、特異な政権である。この政権がかくも長きにわたって政権を維持できているのは、日本の特徴的な戦後政治にあると言えよう。すなわち、戦後長く政権の座にあった自民党とそれを支えてきた官僚機構との蜜月が、戦後政治の基調である社会民主主義政治(ケインズ型福祉国家路線)を特異な形で取り込んで強固な岩盤を形成してきたことであろう。この繋がりが生まれたそもそもの起源が第二次世界大戦の総動員体制にあったことから、綿々と受け継がれてきた日本制度政治の基調を形作っていることにある。この氷河のように降り積もった戦後日本制度政治の岩盤の上に生まれたポピュリズム政権としての安倍政権は、21世紀初頭のポスト冷戦期の政治を先導することになっている。
 安倍がしばしば「悪夢」と揶揄する民主党政権は、実は見事なまでの新自由主義政権であった。今日、欧州で右派ポピュリズムの攻撃の的となっているEU官僚政治と同型であったことが、短命であった民主党政権の悲喜劇であっただろう。つまり、それは安倍ヘゲモニー戦略にとっては格好の標的となり、小泉政権の新自由主義政策の失策をカモフラージュし、ちょっとした錯覚を生み出している見事な戦略なのである。「新生」自民党が、自らの遺産と特異な日本的状況を巧みに利用したという意味では、安倍ヘゲモニー戦略は「先進的」であったが、いよいよ世界政治が彼らに追いついてきつつある中で、逆にその限界を露呈しつつあるようだ。
 いよいよ安倍戦略も末期に突入する今回の選挙と、その後の継承者たちの顔ぶれから何が見えてくるであろうか。リーマン以降の景気上昇局面の終焉と右翼ポピュリズム政治がかき回す世界政治の波乱の中で果たして生き残るヘゲモニー戦略は何かという新たな課題に直面し、従来の延長戦では生き残れないことは明らかである以上、一種の岐路に差し掛かることになるだろう。

2.左派ポピュリズム戦略

 左派にとって現在的なヘゲモニー戦略は何だろうか。リーマン以降の日本の政治的大衆行動は、安保法制という日本外交問題と福島原発事故を受けてのエコロジー問題、そして沖縄辺野古の基地問題という国家の根本に関わる基本的政治課題が相次いで浮上してきているが、それらは制度政治へほとんど影響を及ぼさなかった。この切断構造は何を意味しているのだろうか。
 エネルギーと外交という課題は、二つの特性に規定されている。一つは、戦後民主憲法下における9条問題という価値観政治である。この問題は安保法制と絡み、日本の制度政治の根幹を規定する課題であるが、左右のポピュリズム戦略にとってはまだ未解決問題であると言っていいだろう。安倍が日頃言及し目指していると称する「普通の国家」が現在混迷しているからだ。トランプ政権しかり、欧州連合しかり、イギリスに至っては国家的分裂状態に瀕している。ましてやG20に招待された諸国で「典型」となるような国家像はどこにも見えていない。いわば、長く戦後政治を規定していた大西洋憲章政治がソ連崩壊以降、ついにその理念を歴史的過去へと葬り去ったようである。それは、現在の日本国憲法がその憲章政治の最良の産物であったとしたら、かつて第一次世界大戦後の民主主義政治の最良の制度政治であった「ワイマール体制」下のドイツと相似形であるとも言えよう。更に、もう一つのエネルギー問題は戦後アメリカ帝国体制の下での資源供給システムに依存した国民経済という国家として死活の外交問題である。この資源問題に直結するエネルギー問題もまた戦後日本政治のアイデンティティを規定する特性であるだろう。
 しかしこれらの二つの特性が国内制度政治の結節点となるためには、国際政治のおける危機として民衆に意識される必要ある。安倍政権が抱える演出された危機とは、対中国あるいは対韓国との排外主義的立ち位置と対ロシア北方領土問題であるだろうが、いずれもアメリカ帝国の軍事戦略という日本にとっての不確定要因に左右されざるを得ない問題でもある。故に、これらの諸問題をヘゲモニー戦略へと取り込むことは極めて困難となる。右派ポピュリズムにとってこれらの課題は、現時点では消極的な要因であり、可視化されたくない問題でもある。
 他方左派ポピュリズムにとってはこの問題は現在最も政治的に敏感な大衆的運動の焦点である。オール沖縄を掲げた基地反対闘争や、一部保守をも動かしている反原発運動は左派にとって緊急の課題である。しかしながら、これらの課題が制度政治と切断されているのは、先に述べたようにこれらが「国家」の問題であって、「政治」の問題ではないからである。先のG20でのお祭り騒ぎという安倍のプロデュースによって可視化された「国際政治」は、国際社交界の宴会としてショーアップされて、単なる見世物として民衆には見えただろうということである。この状況は、現実の危機を危機として認識させないように操作された「現実」と現実感覚を喪失させた政治スタイルとが「国内政治の城内平和」を演出していると言えるだろう。故に、登場した左派ポピュリズムの「れいわ新選組」の選挙綱領は消費税と最低賃金と移民政策を巡る「経済問題」となるのである。これは、維新の会の新自由主義的経済問題と対比させると、制度政治におけるグラデーションが明らかになるだろう。行政費を削って節約し、規制緩和による民営化路線で「成長」を図るという維新の路線か、消費税廃止と最賃アップと行政拡大で「成長」を図るという新選組の路線かという、新自由主義対社会民主主義という分かりやすい構図が現れてくる。
 では、最大ポピュリズムである安倍政権はどこに位置するのだろうか、という疑問が浮かび上がる。つまり、完全に不可視化された壮大なる空虚がそこにはある。制度政治のレベルでの安倍は、ステルス化された現状維持でしかない。安倍の今回の選挙のメインスローガンは「これまで通り」ということだ。国内経済の格差社会化の深刻な進展と国際政治の混迷化という危機的な状況は、社会の底流で崩壊しつつある民衆の生活と世界戦争の予兆を招き寄せる国際情勢を示しつつあるにも関わらず、これらが「国家」的危機として認識されず、「政治」として機能させない「制度政治」の現状維持は、ある意味で矛盾の蓄積に他ならない。この切断による蓄積こそ、現在の日本政治の底流で進行している事態であることを認識すべきだろう。本来の左派ポピュリズム戦略にとってはこの蓄積された矛盾の爆発に対して如何に対応するかが求められているだろう。

3.主体を巡って

 ここ数年来ポピュリズム政治が世界的に話題となってきているが、この問題は実は主体の問題を抜きには語れない。普通選挙制度が曲がりなりにも整備されてきた資本主義世界では、歴史的に制度政治が成熟し、ブルジョアたちの政治変革は民衆を如何に管理し、統制し、政治的に無力化するかにかかっており、そのために膨大な資本と技術を投下してきた。その典型的な歴史がファシズムであり、当時最も進んだ民主主義制度の中から生まれたポピュリズム政治だったのだ。多かれ少なかれ、かのファシズムの方法論こそブルジョアたちの聖典であるし、繰り返し思い起こさせる歴史的模範であった。
 勘違いを避けるために、ファシズムの模範とは何かをはっきりとさせておかねばならない。それはスペクタクル政治である。少数派であることを避けることができないブルジョアジーにとっては、自らを組織することによってだけでは選挙政治を乗り切ることができない。同伴者を見つけ、資本主義の延命のためのイデオロギーを流布し、彼らの資本の恩恵を浴びることができる中間階級と様々な中間組織を形成し*1、かつ政治的スペクタクルとショーを展開することで多数派を形成するのである。アドルフが失敗したのは、単に外交政治においてであって、内政においては見事なまでの完成度を示したのである。この模範的な教訓は、その後、繰り返し資本主義世界に現れる、より洗練された形で。
 他方、同じ時代に左派の制度政治は「組織された労働者階級」という多数派に典型的な戦略をとることで、帝国主義時代に適応できずにきた。それが、欧州中枢でプロレタリア革命に失敗した大きな要因だった。ロシア革命がヘゲモニー戦略で権力奪取に成功したことと比べれば、その相違は明らかであろう。レーニン、トロツキー、グラムシといった先達の戦略はそのことを無意識的に直観していたものの、帝国主義の戦争という階級攻勢に太刀打ちすることはできなかった。故に、戦後世界の左派の理論戦線はこのヘゲモニー戦略の革命主体を巡って劇的な変遷を遂げることになったのである。
 資本主義の強大な生産力の拡大とそれに伴って起こった大衆消費社会の登場は、戦後ブルジョアジーの政治変革に驚異的な変化をもたらした。それが今日にまで延々と続くコミュニケーション革命である。労働者階級への徹底的な管理構造の構築は生産現場のみならず、彼らの生活そのものを丸ごと管理するイデオロギー装置として、様々な機能を担った中間組織、消費組織を生み落とした。それらは、労働者が何を考え、何を消費し、どのような家族生活を送るかを一つ一つ指し示した。かつて、労働者たちの共同体で培われた文化や習性は次々と「近代化」されていった。それに伴って、「組織された労働者階級」はその紐帯を失っていくことになった。左派の戦略にとってこの激変は猶予ならない事態であったが、当初それは主体の問題として意識されなかった。
 初期の批判活動はスペクタクル政治に対する人間主義的批判であった。「本来の主体」を取り戻せという訴えは変革主体としての労働者像を再構築する試みであったが、それは組織としての労働者階級という制度政治上の要請に応えるものではなかった。いわば古い啓蒙主義の域を超えるものではなかったのである。
 そして、次に問われたのが変容する労働者の意識構造の解明であった。それは、帝国主義特有の時代背景から生まれた無意識という領域を発見した精神分析を階級理論へと適応する試みであった。この時、提起された「主体」は自ら進んで従属する主体、管理されることで安定を得る心性の発見であった*2。資本主義が国家装置を使って支配する構造は単純な弾圧装置ばかりではなく、応答関係がそこに見出された。そして、「その主体」を巡って変革理論は階級から人民へと移行していった。資本主義の周縁部へ、つまり歴史的な遡行へと向かった。
 民族理論と資本主義のやり直しは「解放理論」へと昇格され、ヘゲモニー戦略が再演されたが、この世界的な血みどろの階級戦争は現在に至るも未完の革命として継続されている。そこでは二つの主体が登場することとなった。一つは、先進国途上国を問わず流動する人民主体の登場であり、もう一つはコミュニケーション革命の結果生まれたデジタルな主体である。これらの主体は、もはや既存の変革理論上では位置づけることができないものである。なぜなら、彼ら彼女らは国民国家内部に定位置を持っていないし、流動するということによって制度政治から常に落ちこぼれるからである。この流動とは単に物理的な移動だけではなく、その政治的社会的なアイデンティティの浮遊性そのものだからである。これらの主体は、いわば近代的意味における現実から隔離された「分け前のない人々」*3であり、制度政治内部で寄生する世界の周縁である。この主体をルンペンプロレタリアートと表現する論者もいるようだが、それは適当な表現ではない。むしろこの主体は、数の上ではますます多数派となっているものの、自らの共通したアイデンティティを持ってはいない。
 現代革命のポピュリズム的傾向が生まれるのは、このような主体の浮遊性から生じている。シュミラークルと呼ばれる仮想世界が近代的現実世界とずれ始め、病理現象を呈し始めているのは、特にデジタルコミュニケーションの世界で顕著である。これは現代コミュニケーション革命の諸結果として典型的に現れている。デジタル情報が一覧性に欠けていることはその初期から明らかになっていたが、むしろこの狭隘性がブルジョアジーの階級分断攻勢の道具となっている。階級闘争の場が制度政治の枠内にある限り、この精密に設計された上部柔構造は無数の派生形を生み出すだけで、転覆的解体とはならないであろう。再構築に向けた人民の政治行動はこの主体の浮遊性を前提にしか生み出されない。革命主体はこれまでも幽霊であったし、左派ポピュリズムとしての見えない主体としてしか登場しえないだろう。それは制度政治というデカルト空間ではないという意味で可能性の社会を前提としていることを忘れないでおこう。

脚注

* 1 いわゆるフォーディズムと呼ばれるシステムは、民間のシステムと考えてはいけない。国家の組織と資金に利害を持つ膨大な裾野を持つイデオロギー装置でもある。その意味で、福祉国家体制とは福祉を通じた生政治であることを忘れることはできない。
* 2 E.フロムからM.フーコーまでの階級分析は、この主体を対象としている。
* 3 この表現は、J.ランシエール『民主主義への憎悪』(2005年)からのもの。


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