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リーマン後の世界

斎藤 隆雄
427号(2018年9月)所収


 6月号において私は財政ファイナンス政策に対する好意的な評価を下したが、それに対して「分かりにくい」という感想や幾分批判的なものもいただいた。確かに、論議を急ぐあまり分析の不十分な部分があることも認めざるを得ない。そこで、再度この問題を論じることにする。

1.緊縮か、反緊縮か

 2011年5月に始まったスペインの15M運動から、NYのオキュパイ運動、日本の3.11以降の反原発運動などリーマン以降の高まった大衆運動において様々に論じられるテーマの中に「緊縮か、反緊縮か」というスローガンがある。これは言い換えれば、「新自由主義か、新ケインズ主義か」ということであり、「小さな政府か、大きな政府か」という言い古されたテーマも呼び起こす。更に言えば、「成長か、脱成長か」というスローガンとも繋がっている。欧州労働運動においては反緊縮派が主導権を握りつつあるようだが、これは日本の「リベラル派」(議会政治における左派)と比べて逆転現象を起こしている。つまり、これまで何度も言ってきたことだが、アベノミクスは緊縮と反緊縮の無原則ごちゃ混ぜ政策であり、緊縮そのものが政治課題とならないという特異な政治状況となっていることがどうやら事態を分かりにくくしているようなのだ。この原因は、リベラル派が実は緊縮派だということに起因している。故に、相対的にアベノミクスが反緊縮に見えるし、とりわけ金融政策においては明らかにリフレ政策を取っている以上、その印象が強まることになる。
 そこでリベラル派の緊縮思想の中身は何かというと、これも時代遅れになったクリントン・ブレア路線なのだ。歴史的には破綻してしまった思想からまだ抜けきれていない。しかし困ったことにこの緊縮路線は脱成長論と親和性があるということだ。しかも膨大に膨れ上がる国債残高を見て、国民の多くが経験したあのバブル崩壊の残像がよぎるのである。故に、多額の借金、赤字財政、将来不安と重ねて緊縮へと走り、それが結果的には脱成長につながるという皮肉な結果を招いているのである。確かに3.11の現在進行形の恐怖もまたリベラル派にとっては緊縮へと導く水路になっている可能性もあるだろう。
 しかし、問題の根源にある事態は2008年リーマンショックによって新自由主義政策が完全に破綻したという現状認識が不足していることである。それは、欧米諸国で吹き荒れたオキュパイ運動が日本では全く影も形もなかったことに現れている。それは当然のことでもあるのだが、日本においてはサブプライムローンという形の土地バブルは起きなかったし、それは別の形で既に20年前に起こっていたのだからである。この時間のズレは現在の日本の政治状況に決定的な影響を与えている。日本のリベラル派が90年代に颯爽と登場したクリントン・ブレア路線に固執し、00年代に一斉を風靡した小泉新自由主義政策に翻弄され、欧米とは順序が逆転してしまったことで、歴史的現在の時代認識ができないでいるのだ。
 更に悪いことに、資産バブル時代に突入した1980年代以降の日本経済は省エネ技術とドル安政策(円高)、原油価格の低位安定に助けられて空前の好景気に見舞われたわけであり、今日のような金融資本支配がまだ完成していない時代であったがために、決定的な大衆運動も起きなかったことである。バブル崩壊があたかも全国民的な災難のような外観を呈することになり、政治的大衆運動とはならなかった。それに反して2000年代のサブプライムローンはあからさまな詐欺商法による金融資本の収奪という構造が見え、グローバリズム経済の全開の時代であることで階級格差が天文学的な数字となっていたことである。
 ここから言えることは、日本のリベラル派の混乱にはそれなりの理由があるということなのだが、今日のようにグローバル化が全面化している時代にあって、世界経済政治情勢を顧みずして政治ができるのかと疑いたくなるような時代遅れが顕著なのである。左派であると自称するのであるのなら時代を先読みしなければならないはずが、時代遅れであってはどうしようもないのである。
 新自由主義路線の破綻が明らかになっている現在、緊縮政策をとればどうなるかは明らかである。国内政治に左右されないグローバル大企業にとっては痛くも痒くもないだろう。国内産業、非製造業にとっては大歓迎だろう。なぜなら、緊縮とは財政政策の縮小、福祉政策の縮小だから、現在のような労働力不足は解消することは明らかだからだ。これまで様々な施策で少ないとはいえ救援されていた人々が路頭に迷うことになるからだ。つまり賃金の下降圧力が高まるのである。それは社会的不安定を招くだろうから、政権はますます社会的排除と管理を強めていくことも予想される。社会的混乱は今の安倍政権やその後継者たちにとっては、非常事態条項をまねきよせる好機と考えるかもしれない。いずれにしても事態は悪化すれど、好転することはない。
 一方、反緊縮政策をとればどうなるか。異口同音に「財源がない」という大合唱が起きるだろうが、実は財源の問題ではないのである。財政政策の構造改革こそが実は反緊縮政策には必要なのだ。ここが理解できないと現在の政策論点が曖昧となる。つまり、リーマンショックによって世界経済に何が起こっているのかを理解できない、あるいはサブプライムローンとは何なのかが理解できないことで、何が起こっているのかを見誤るのである。今、世界を席巻しているのは、金融派生商品に代表される膨大な架空商品の群れであり、世界中の貯蓄をかき集めて賭博場を開帳してる金融市場なのであって、まさしく貨幣が有り余っている。問題は、富の占有者は誰だ、ということをはっきりさせないといけない。つまり、財源がないという言い方は、世の中のどこを探しても財源がないのだというのなら、それは納得できるでしょう。しかし、貨幣は有り余っているという現実を皆は知っているはずです。「財源がない」という言説が誰の言葉であるかはもう明らかです。富裕層と大資本家たちこそが自らの富の独占を覆い隠すための言説だということを理解しなければならないのです。

2.現在の日銀政策は財政ファイナンスか?

 日銀黒田は昨年からすでに量的緩和を緩和し始めている。つまり、マネタリーベースを積み上げることの限界を感じ始めているのだ。国債を買い上げて市中銀行にマネーを供給しても、誰もそのマネーを欲しがらないのだ。黒田の目論見では、これだけ低金利で有り余るマネーがあれば投資活動が復活するだろうと思ったのだが、豈図らんや国内では十分な剰余価値を生み出すような実物投資の分野は限られていたのだ。更には借家バブルといった富裕層の相続税逃れの手法にも利用され、見当違いの効果までも生じている始末である。
 いよいよ手詰まりの日銀は昔ながらの金利操作へと舵を切り始めたが、これとて危うい政策選択であることに相違ないだろう。金利の上昇は現在の住宅ローンの変動金利を上昇させ、多くの労働者(とりわけ働き盛りの住宅ローンを抱えている労働者)たちの消費支出を冷え込ませることになるだろう。これらの状況を踏まえて、リベラル派は日銀黒田のリフレ政策が財政ファイナンスだと批判して、緊縮政策を取ればどのようになるかは一目瞭然だ。そもそも現在の日銀の政策が財政ファイナンスだと勘違いしていること自体が問題なのだ。あるいはこう言ってもいいだろう。そもそも財政ファイナンスとは何か、と。
 政府が発行する国債を市中銀行が買い上げ、それを日銀がさらに買い上げることで、市中に出回る貨幣量を調整しようという手法は、既に日本では60年代からなされていたことだ。戦前のような日銀の直接的な買い上げはインフレを招くとして法的に禁止されているが、それは現在の手法が法律の抜け道的なものだと解釈して、同等な結果を招くと心配する人々が今だにいるようだ。この現代の中央銀行の手法は戦後のケインズ主義的財政スペンディング政策として戦後先進国の経済金融政策として定着していたものなのだ。その意味では、それほど目新しい手法ではないとも言えるのである(確かにその規模は「異次元」ではあるが)。
 そこでこの手法によって積み上がってくる日銀バランスシート上の過剰負債(預金)が何なのかということが問われなければならない。市中銀行やノンバンクが保有している国債は明らかに政府の借金であることは確かだ。政府はそれらの国債に対して利払いと償還が必要だが、日銀が持っている国債に対しては借り換えするだけで済んでしまう(それを拒否することが理論的には可能だが、それをすれば政府は日銀人事に介入するだろう)。つまり、日銀内にある国債は通常の意味での借金とは言えないのだ。市中銀行へ借り換えを要求してもそれを拒否されれば、それ以上の強制は難しいが、日銀にはそれができるのだ。なぜなら、日銀は半官半民の銀行だからだ。
 では、そんな日銀内の過剰な負債とは何なのだろうか。バランスシート上ではこの負債は資産側の国債とイコールとなっている。これは市中銀行のバランスシート上においても同様だ。つまり、市中銀行は国債という資産の負債側に預金を持っている、つまり市中から集めた遊休資本で国債を買ったわけだから、もし資金が必要となればその国債を日銀に売却して貨幣を得ればいいわけだ(市中に貨幣が流出する)。問題は中央銀行の場合、保有している国債を売却するとはどういうことかなのだ。つまり日銀の保有する国債を誰が買えるかと言えば、市場からとなり、市中の遊休資本を吸収するということになるので逆の効果を生み出すのだ。このことによって日銀は市中にある貨幣量を調節しているわけだ。政府が80年代末の土地バブルの後始末のために膨大な財政スペンディングを行ったが、この多くを国債で賄ったのだが、それは市中の遊休資本を借りたということになり市中の貨幣を吸収し家計に代わって支出したことになり、総資本の過剰供給に対する需要を創出したことになる。しかしそれでは貨幣量は変わらないので、その国債を日銀が買い上げて貨幣を戻したということなのだ。マネタリーベースの増大とはそういうことになる。しかし、戻した貨幣を誰も使いたがらないというジレンマに陥っているのが現在の日本の金融の姿なのだ。現在、国内の銀行の預貸率は80%を下回っている。更には貨幣の流通速度も90年代から4割ほど下がってきている。これらをみれば、現状の日銀の政策を財政ファイナンスだと騒ぎ、何かしら非常事態であるかのごとくに言い立てるのは見当違いということになる。むしろ問題なのは、これらのマネタリーベースを活用できない日本の総資本の構造と財政スペンディング(政府)の方なのだ。
 現在の日銀の政策は真性の財政ファイナンスではない。もしこれを財政ファイナンスだと言うのなら、日本は戦後金融政策そのものが財政ファイナンスだったと言うことになる。国債を発行すると言う事は財政ファイナンスを伴うという管理通貨制度固有の金融政策の基本が踏まえられていないからこのような錯誤が生まれるのだ。

3.脱成長論の勘違い

 安倍政権は何とかして経済を成長させたいとあれこれ姑息な手段を弄している。統計をいじったり、オリンピックやカジノなどに希望を見出しているが、それらはとんでもない見当違いなのだ。しかし、他方でリベラル派は脱成長論で論陣を張っているが、これも全くの見当違いだ。言うまでもないがGDPとは付加価値のことだから、成長するというのは付加価値が増えるということだ。その付加価値は誰が増やすのか。これも言うまでもなく労働によるしかない。今流行りの金融商品や仮想通貨は単なる価値の移転でしかない。
 政府の生産的財政支出の目玉は利権絡みの土建業関係や観光カジノといった収奪産業が中心だ。生産性の元となる労働者への政策はむしろ収奪を基本としながら、不足分を低賃金の外国人労働者に頼ろうとしており、成長どころか格差拡大がさらに進行することは間違いがない。他方で、脱成長論者たちの政策は緊縮政策と増税路線だ。これは今ある企業留保利益を税で価値移転し、労働者へ再配分すると言う考えなのだが、これでは総付加価値は増えない。脱成長なのだから一貫性はあるように見えるが、この政策の欠落している問題は現在の日本経済の総資本的蓄積構造を全く度外視している。成長をむやみに否定しようとして、日本経済の現況をほとんど視野に入れていない。確かに、現在の法人税は歴史上最低のレベルまで下がっており、再配分機能を果たしてはいない。この上、消費税を上げればますますその機能は衰えていくことは間違いない。そこで大企業の膨大な利益を吐き出させるというのは悪い考えではないように見える。また、富裕層への相続税や金融取引税の引き上げも取りざたされている。しかしこれらの税制改革によって日本経済がどう変化するかはあまり問われていない。
 現在の日本経済の特徴は、先に言ったよう国内に投資する先がない状態にある(総資本家的視点からだが)。企業の儲けは、基本的に労働者からの収奪と海外生産販売によるものだ。その多くは金融資本形態で保有されており、現在のグローバル金融市場でそのポジションを持っている。これに課税するとなれば、企業は一斉にそれらを海外に移転することは間違いがない。今や資本移動をボタン一つで可能になる世界となっている。おそらく海外での利益は現地での留保になるだろうから、ますます空洞化が進行する。そうなると、国内企業は利益の源泉を絶対的剰余価値の生産(労働者への搾取)に走るしかない。再配分が実現するとしても日本経済全体は低賃金労働と政府給付という奇形的な労働形態に陥る可能性が大きくなる。これは長時間労働と失業率の上昇、労働参加率の低下を招き、経済構想の変革という次の課題への移行を困難にするかもしれない。
 増税による再配分機能の復活は、日本の産業構造の長期的な変革過程を視野に入れたものでなければ、下手すればリーマン後の民主党の轍を踏むことになるだろう。現在の日本の総資本の蓄積構造はすでにあるグローバル経済を前提に成り立っている。この構造そのものの変革は日本だけの改革だけでは不可能であり、世界的な課題でもある。この世界グローバル経済の下での日本経済という課題では一国主義的な視点では歯が立たない。脱成長論者の射程を世界大での改革として立てた時、「脱」の意味が全く違ったものとなるだろうことは間違いない。脱成長論がナショナリズムに絡め取られないためにも、この視点からの改革を展望しなければならないだろう。

4.次の一歩

 現在、周知のように失業率の低下と有効求人倍率、最低賃金の上昇が進行しているが、期待されているインフレは起こっていない。需給ギャップが解消すれば物価が上昇し、次いで賃金が上昇するというのが主流派経済学の常識だったはずだ。想定通りではないというのは21世紀の定常状態のようだ*1。既存の物差しが通用しないという現代にあって、資本主義経済が根底から地殻変動しているのではないかと疑われている。そのような時代にあって次の政権を担っていくための方針を立てるのは極めて難しい。がしかし、わかっていることもいくつかある。その一つは、これまで繰り返し指摘してきたように、日本の労働者の貯蓄率が低下していないということだ。デフレが解消せず需要が伸びない原因の一つに必ず挙げられるのが将来不安である。消費を削って将来の不安に備えるという庶民のささやかな努力が日本経済全体を落ち込ませている。これはひとえに政治の問題だが、経済的にはケインズ経済学的用語でいう流動性の罠である。多くの人々が「貨幣愛」の虜になってしまっている。そしてこのことの一端には今日の「管理通貨制度」への無理解がある。日銀のリフレ政策を批判する人々の持っている管理通貨への理解は、今だに「金本位制時代」のものであるのかもしれない。ケインズが過去の遺物と言った「金本位制」時代の通貨観が現代の亡霊となって徘徊している。
 次の改革の第一歩は、金融制度の改革であろう。なぜなら、この改革は極めて技術的なものだから、日本経済構造変革の準備段階として最もふさわしいと思われる。その最左派に位置するのが「シカゴプラン」だ*2。これまでの中央銀行の金利と国債による貨幣供給量の管理は、実は主役は市中銀行とノンバンクだ。中央銀行の政策はそのお膳立てはするが、実行するのは金融資本なのだ。だから、中央銀行はインフレは抑えられても、デフレは抑えられないとエコノミストたちがいうのはある意味正しい。シカゴプランとは、簡単に言えば市中の普通預金銀行を無くして中央銀行の支店にするというプランだ。つまり、これまで市中銀行が果たしていた信用創造をさせないということでもある。言い換えれば金融機関の資本信用を社会的に管理するということだ。それによって社会全体の投資活動を政治がコントロールすることでもある。この方針は、政治が健全に機能していることが前提になる。資本主義経済と市場には手を付けてはいないが、その根幹にある貨幣を完全に政治が掌握するということによって改革の第一歩となるのである。これまで金融資本とその仲間たちが総資本の利害を代表して貨幣を市場管理してきたのだが、それは先にも言ったように私的資本の限界により、一つ一つの資本にとっては合理的な選択が、日本経済全体にとって最悪の選択となるという限界を突破するには、貨幣に意識的な真の管理が必要となるのだ。これが私が提案する方向性である。
 この提案は現在のグローバル経済構造の問題を抜きには考えられないが、このことについては再度別の機会で述べることを約束して本稿を終える。

* 1 これは経済現象が階級闘争の諸結果によるという、これも労働という問題意識を欠いた視点からの錯覚なのだが、決定的な要因は90年代以降に凄まじい勢いで押し寄せた資本の側の労働者階級への規制緩和という攻撃に何ら有効な反撃を行えなかった我々の歴史的経験は十分に振り返る価値はある。
* 2 これは米国発の大恐慌時代(1930年代)に、シカゴ大学を中心としたエコノミストたちが提起した計画だったのでその名がある。


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