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安倍退陣後の政権構想(2)

斎藤 隆雄
423号(2018年5月)所収


 安保法制以降の新たな政治の季節が再来している。政府派も反政府派も事態の本質を見極められずに、流動化していると見るのが妥当ではないだろうか。統治機構が機能していないことを安倍政治の本質であると思い違いしているリベラルと、嵐が過ぎ去るのを見て見ぬ振りをしてやり過ごそうとする右派という如何にも現代思想に相応しい状況が現出している。
 かつて官僚政治を抵抗勢力と規定し新自由主義政治を強行突破した小泉政権とは違い、安倍が癒着しようとしている官僚政治は如何にも古色蒼然とした色合いが濃いが、それが旧民主党政権の遺産でもあるという皮肉な現象を人々は見逃している。問われるべきは、そこではないのだ。

1.財政/金融政策

 安倍政権後の最も緊急を要する課題は、日銀の金融政策をどうするかである。政治家も官僚も異口同音に、繰り言のようにいうセリフは財政再建である。プライマリーバランスやら財政健全化やらが大方の合意となっている。それは安倍も否定しないだろう。しかし、黒田日銀がやっていることはこれとは真反対のことであることを皆知っている。していることとやっていることとが真反対であることを認識しているにも関わらず、それを問題として取り上げないという摩訶不思議なことがこの政権の取り柄である。政権が官僚の統制すら取れないにも関わらず、それを屁とも思っていない所にこの政権の狡猾さが現れているが、これこそ彼らの取り柄である。なぜなら、日本国家の制御は国会も内閣も必要としないからである。
 安倍のお友達の利権を慮って官僚が失態を演じているにも関わらず、知らん顔できるのはそれが国家の制御に関わりがないことを彼らは知っていて、そんなことは瑣末事だとタカを括っているからである。ただ、日々自動的に運営される官僚的管理機構の上に乗っかって自らの利権と欲望(憲法改正)の実現にしか関心がないのが安倍政権の取り柄である。
 では今、彼の後を継ぐ者に残された課題とは何か?それが金融政策であることは間違いない。日銀黒田は今、間違いなく日本経済を制御しているし、これからの財政政策の展望を決定的なものにしている。なぜなら、彼の政策は歴史的に見て極めて実験的なことだからである。大量の国債を引き受けたにも関わらずインフレが起きないという歴史上極めて稀な出来事をしでかしたのであるから。
 そこで当面の選択肢が二つあることになる。黒田のリフレ政策を継続するのか、それとも緊縮財政によるプライマリーバランスを図るのか。前者であれば、真逆の言説に対しての説明責任が問われるだろう。後者であれば、増税と予算縮小による長く続くデフレ局面(ゼロ成長=実質賃金低下)の継続を覚悟しなければならない。何れにしても、そう容易いことではないが、この選択肢はあとを継ぐ者にとって厄介な遺産となるはずである。最もありそうな経路は、安倍と同様、知らんぷりを決め込むことであるが、そうなると、黒田日銀の政府とのアジェンダは当面有効となり、どっちつかずの金融政策、つまり黒田の悪い面が表に現れることになるだろう。財政政策とのリンクが失われ続け、土建/製造業国家としての日本ブルジョアジーはいっときの安堵を得るが、展望のない未来が待っている。
 安倍後の政権構想を、自称共産主義者が無関心を装うことはある意味ありそうなことである。それは、放っておけば自滅するだろうといういつもながらの待機主義が身に染み付いているからである。しかし、それは歴史から何も学ばない姿勢である。ワイマール体制後のドイツに現れた右派連合に対して共産主義者たちは何を対置したのかを思い浮かべる必要がある。遅きに失した人民戦線路線を繰り返してはならない。我々がとるべき政策は、財政緊縮政策ではあり得ない。なぜならそれは労働者階級に更なる辛苦を与えることが確実だからである。取るべき選択肢は、だからリフレ路線の新しい転換である。黒田日銀と政府とのアジェンダを再度結び直し、財政政策との連携をはっきりと位置づけ直す作業が求められる。それは、新しい政権の金融/財政展望を明確にする司令塔となるものである。つまり、新自由主義経済イデオロギーの根幹にある貨幣数量説への最後通牒であり、政府規模の大小論に対峙する新たな公共論であり、金融無政府空間に対する民主的コントロールである。
 さてここで読者も感じておられるだろうことを確認しておこう。この政策は全然新しくない。意地悪く言えば、戦前期軍部がやろうとした手法を民生用に手直ししただけである。だが、この政策が先祖返りすることにはならない状況がすでに出来上がっている。問題はそれをする決意があるか否かである。安倍が祖父たちの遺訓を掲げてやろうとしてやりきれないのは、既に時代が前に進んでいるからである。戦前期革新官僚たちが農本主義から計画経済へと突き進んだ原体験そのものは今や存在しない。昭和恐慌からデフレ経済へという時代背景は、今日の世界経済と似ても似つかない姿となっている。善悪や良い悪いは別として既に世界経済は緊密に連携された製造業/情報ネットワークによって構造化されている。これは相互に国内外の境界線を破壊する資本主義的生産様式そのものなのであって、課題はこれを国家でない主体がいかにコントロールできるか、ということなのである。かつての植民地経営を基盤とした帝国主義は境界線そのものが前提であった。かつての大東亜の幻想はこれを一歩たりとも克服できなかったが、今や境界そのものが溶け出し、国内植民地と国外植民地が融合しつつある。時代が次を準備することは疑いがない。

2.立ちはだかる政治的困難

 安倍政権によって露呈した現実の矛盾を止揚するには一本の綱領や、一時の政権交代で解決するものではないだろう。それは日本の、そして世界の隅々にまで染み付いた古い政治意識、古いイデオロギー、古い経済関係、古い生産様式、古い人間関係を変革していかねばならない。おそらくそれこそが現実を変革する運動、固着し絡み合って我々を欺いている虚偽からの解放を求める運動である。それを私たちは「共産主義」と呼ぶが、その呼称は呼称でしかない。どのように呼ぼうが、それは今の我々の置かれている現実からの、その欺瞞からの、疎遠な現実からの変革なのである。
 とはいえ、死にかけている資本主義にしがみついてベタベタの現実主義を称揚するのなら、待機主義の左派とあまり大差はない。つまり、リベラル左派がかつてほど魅力的に見えないのは、格差解消のための福祉政策が貧困層を救い出せない、ただ甘やかすだけだという発想が労働者階級に染み付いているという現実があるからである。そして、面白いことにこの発想にブルジョアジーたちとプチブルジョアジーたちが唱和するという現象である。中間層が没落して二大階級に分離するというのがかつてのマルクス主義理論の常識であったが、この理論では労働者階級が自らの利害を自認するはずであるという前提がある。しかし、これは楽観的すぎるであろう。欧洲社会民主主義政治との違いは歴史的蓄積にあると学者連は言うかもしれないが、この「自己責任」論的発想は日本社会が明治以降の資本主義蓄積構造の、まさに歴史的蓄積の成果だと知る必要がある。一般に他者(よそ者)に対して見捨てるのは共同体の外の人間に対してであって、身内にはそのような論理は働かない*1。つまり現代の人間関係が徹底的に分断されている証左であるが、その共同体解体の下部構造の上に国家の共同幻想が解体されるという二重の疎外が構築されているのである。
 リベラル左派が、福祉政策の意義をいかに熱心に説こうと人々の国家への不信はそれだけでは払拭できないし、自身の納税が他者の懐へ入ることを毛嫌いすることをやめさせることはできない。なぜなら、リベラル派は個人の尊厳と人権を称揚し、多様性と多元性を褒め称えるのであるから、個々人が孤立することは美徳ではあれ、批判されるようなことではないからである。リベラル派にとっての最大の難関は国家幻想を如何に扱うかにある。それを敏感に察知した立憲民主党の党首は自らを保守主義者だと言わせしめたのであろう。
 政治的困難への解答はその政治的共通言語の構築という課題に答えることでしか解決できない。その構築作業は百年かかって解体されたものを再建するのであるから、少なくともそれだけの年月が必要だということは自明だ。資本主義的蓄積構造を下部から解体していくという作業は、覚醒剤依存症からの脱却と同様、容易なことではない。人々の協働性の回復は、手っ取り早い資本主義的手法では実現できない。既存の政治的関係の中で解体作業を進めるためには経済の下部構造と国家の岩盤とを掘削する必要があるのだから、貨幣と国家宗教を標的にするまでの行程を描かねばならない。そのための第一歩がどこにあるかを、安倍政権は示している。彼の行き詰まりこそが時代の鏡であり、教師である。

脚注

* 1 これがマックス・ウェーバーが名付けた、かの有名な「資本主義の精神」である。聖書に記された異邦人への高利貸しを、隣人にまで広めたカルバンの功績というわけだ。


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