共産主義者同盟(火花)

安倍退陣後の政権構想(1)

斎藤 隆雄
423号(2018年5月)所収


一年越しの財務省/森友事件がいよいよ佳境を迎えつつある。政権の綻びは覆い隠すことができないぐらい露わになってきているが、国会での茶番劇では何かが明らかになる希望は捨てなければならないだろう。何でもありの安倍政権とこれまで述べてきたが、この事件で一層露わになった政権の独自の階級的立場が鮮明になっているものの、安倍に対峙する対抗軸を打ち出せる議会政党が現れる可能性は当面期待できない。国会/官邸前に結集した自然発生性は迷走するしかないし、どこに導かれるのかを心配しなければならない。官僚と政権の癒着と対抗という日常的な醜態が目に見えてきた時、何が批判され、何を対置しなければならないのか。対抗軸もまた混迷しているという現状からは、事態の危機は末期的というしかない現状が見えてくる。

1.官僚がんばれ!というシュプレヒコール

防衛省、文科省、厚労省、そして財務省と官僚を巡る事件が次々と暴露されて、政権内部の分裂はもはや誰の目にも明らかになっているが、その現れは文書の紛失、改ざん、捏造といったサボタージュまがいの案件ばかりである。安倍が推進しようとする政治構想がほとんど全く官僚に理解されていないばかりか、正面切っての対抗軸さえも提起できず泥沼化している。こういった現象は、かつての民主党政権下でも起きた現象である。鳩山はまんまと罠にはまったが、安倍はそういうわけにはいくまい。そこで、あろうことか「官僚頑張れ」というスローガンさえ聞こえてくる。文科省をクビになった前川をしつこく追跡する政権のストーカーぶりから見て、民衆が政権の醜悪さを弾劾するのは理解できても、官僚が事態を解決する能力があるわけではない。むしろ今回の騒動の発火点は、官僚が安倍政権の無内容ぶりを理解できない、すなわち官僚的合理性と安倍的迷宮性との齟齬を端的に露わにしているとも言えるからである。
では、安倍打倒を旗印に立ち上がった民衆運動は何を目指すべきなのか?問題の根底には何が潜んでいるのか?そこを見極めなければ、方向性は迷走するばかりである。

2.安倍政権を支える力学

安倍政権の階級的性格を見極めるには、その無内容ぶりではなく何でもありの充実した内容である。つまり、彼の依拠する政権維持方法論は言わずと知れた「九条改憲」という一点に向けた多彩なタコ足接続なのである。一方で、アベノミクスに見られるように、本来リベラル派が依拠するはずのポスト・ケインズ派の理論であるリフレ派を取り込み、日銀黒田を筆頭に財務官僚を抑えにかかりながら、他方で文科省には復古主義的道徳教育と国際主義的色彩を込めた英語教育という混乱を持ち込み、厚労省には賃上げ3%などの労働市場への介入と労動法制改悪の策動という国家主義的政策を強要している。そうかと思えば、通産省の新自由主義的政策として特区構想や規制緩和、カジノ建設といったまるで方向性の見えない政策のオンパレードである。これらは、安倍にとっては整合的であっても、実現すべき国家像が全くといって見えてこない。つまり、官僚にとっては方向性の見えない政権に対して指示待ちか、魔の悪い「忖度」しか残っていないのである。
しかし、我々はこのような安倍政権の「混迷」ぶりを混乱と捉えていたのでは事態を解明することはできない。実は、これこそ安倍政権の正体なのであって一つも混乱していないのである。日銀黒田が突撃している量的緩和政策はリベラル派が一歩間違うと転落しがちな国家管理社会への道を突き進んでいるのだし、文科省の教育現場への土足での介入ぶりと企業のやりたい放題を奨励する労動法制改悪は、国家社会主義路線と言っていいだろう。つまり、1940年代以降の日本の革新官僚達が目指そうとしていた、そして戦争によって頓挫した長い戦後を清算し、やっとたどり着いた国家社会主義独裁政権の樹立こそが彼の方向性なのであって、理路整然としたものであるのだ、彼の頭の中では。
そのためにこそ、安倍は長い戦後政治の中で生き残った戦前的残滓を現代的風に蘇らせるために、かくも手のこんだ手法を駆使しているのである。いわば現代風に言えば、ゾンビ政権とでも言える異様で奇怪な政権であるが故に、あたかも混乱しているかのように見えるのである。

3.安倍政権の時代的背景

1990年代以降、ソ連崩壊という世界政治の構造転換によって日本の政治構造も劇的に転換してきたことは衆目の一致するところである。それは日本の戦後的価値観という上部構造の転換でもあったが、同時に当時の新自由主義政策下におけるバブル崩壊という下部構造の転換と重なったことで、より混迷を深めたと言えるだろう。90年代は故に戦後的方法論の総動員的対応を余儀無くさせたのである(バブル崩壊以降の巨額の財政支出のこと)。しかし、それはいわば付け焼き刃的な対処療法でしかなく、展望のある方向性ではないが故に当然のごとくに見事な失敗に終わった。そのことは、00年代における新自由主義的回帰とでも言える小泉政権を生み出しはしたが、この一周遅れの時代錯誤的政権はリーマンショックで見事に破綻したと言えよう。そして、世界恐慌後の民主党政権がこれも時代遅れの「第三の道」、すなわち新自由主義路線と社会民主主義路線の混合政策(ブレア・クリントン路線)を踏襲したことで時代の最後尾を飾ったのである。
安倍政権の異様奇怪な階級的性格はこのような時代的背景の中で立ち現れたことを理解するなら、この政権のいくつかの政策がまさにこの時代を映す鏡であるということがわかるのである。全てが安倍の憲法改正路線を指し示しており、そのための政治的政策的配分であり、左右両翼へ伸ばした天秤政策なのである。しかしそれはある意味でポストモダン風の脱近代にありがちな混迷をも生み出している。親米路線と靖国路線という相反する政治勢力の二股然り、英語教育と道徳教育という相反する理念然り、リフレ路線と増税路線という何がしたいのか理解しがたい政策ミックス然りである。
しかし一つだけはっきりしていることがある。これらの陽動政策は政権が実際に推し進めてきた政策により、もはやその正体が明らかになりつつある。女性活躍路線と労動法規改正という若年労働者への使い捨て路線と社会福祉政策の削減という高齢者世帯切り捨て路線によって、自ら密かに自認し相思相愛である大ブルジョアジー自体がかえってそれらの政策で瓦解するであろうということである。頼みの綱である米中・アジア市場は二極化へ突き進む世界政治に対する理念なき迷走路線で、国内市場ばかりではなく国際市場においてもその基盤を掘り崩される可能性が増大してきている。
時代は次の一歩を踏み出している。安倍政権の存在自体を歴史の屑篭へと早々に送り出さなければならない時が迫っている。憲法改正へのこだわりをあの手この手で取り繕う安倍政治が招き寄せる最悪の事態を想定して、次の時代への準備を始めなければならない。そういう時なのである。

4.安倍後の経済綱領

昨年来からの世界的好況局面が災いして、現在の安倍政権の置かれている歴史的位置が不鮮明になっていることは否めないが、明らかに彼の政策ミックスはリーマンショックによる新自由主義政策の敗北を目ざとく見つけ、相対的に押し上げられている新ケインズ派政策へ片足を突っ込んでいるだけである。だが、それさえも日本にとってあまり必然性がなかった黒田路線への傾斜によって、泥沼にはまり込んでしまったのである。増税約束は彼の片足路線の象徴的な現れであって、結局実現するのかさえ怪しくなってきている。問題は、90年代の巨大財政政策も小泉の規制緩和も安倍の政策ミックスも経済成長を実現できず、貧富の差がますます拡大し、消費需要は冷え切ってデフレは一向に克服できていないということだ。これは、皮肉なことに一部エコロジー派が提唱するゼロ成長路線の意図せざる現実化となっていることである。現象だけを見れば、規制緩和派の富裕層へ富が集中し、エコロジストのゼロ成長が実現したことで、今や資本主義社会は階級闘争の激化を、富の争奪というゼロサム戦争を準備しつつあるが、それはかつての階級闘争とは様相を異にしている。何故なら、新自由主義派もケインズ派も一向に事態を見通せないという現在の世界経済が、新たな局面に入りつつあるからである。それを象徴的に示しているのは、80年代以降傾向的に低下している長期金利が今や金利政策そのものを無効化していることである。資本主義が終わったという言説が流布するのはそういう現実の反映であるが、実は通貨金融政策(政府とブルジョアジーがこの半世紀の間しつこく宣伝してきたイデオロギー)の役割が用無しになったことの別な表現なのである。時代が安倍の所得政策(3%春闘)を言い出した時から、課題が所得配分にあることを自己吐露していることを示している。
安倍政権後の過渡的な政策は、だから鮮明である。それはブルジョアジーへの収奪である。富裕層への増税路線と企業所得の再分配である。そして、過剰に供給されている国債貨幣の供給先転換である。それは現在偏在している資産バブルの兆候を押しつぶして、公共政策の再編に全面的に取り組まなければならない。
それは現在、相も変わらず凝りもしない民営化路線がブルジョアジーの美味しい利得なっていることへの徹底的な批判に求められる。それは官であろうが民であろうが、最適政策が実現するためには情報の公開と民衆の管理が必要だということ、これ以外にはないのである。この間の議会における官僚のサボタージュ(統治能力の劣化)や大手企業の偽装工作(ガバナンスの劣化)を見れば一目瞭然であるが、相も変わらず市場万能主義を恥知らずにも声高に叫ぶ連中の息の根を止めなければならない。そのためのシステム構築は壮大な事業となるだろうが、百年かかってもやり抜かねばならない事業だと言わねばならない。
左翼的お約束でいえばそれらは「過渡的」政策であると言うのだろうが、それを言えば全てが予定調和となり、「過渡」が過渡でなくなるのはこれまでの歴史的な教訓から明らかである。むしろ、課題は現在の資本主義が直面している新たな矛盾、過剰な管理通貨とドル基軸通貨体制によるグローバリズム経済が生み出す不安定性と奇形性をこそ指弾すべきなのであって、それへの批判軸無くしては次の一歩は踏み出せないし、踏み出してはいけないのである。過剰通貨は同時に過剰金融資産であり、過剰貯蓄であることは言うまでもない。この過剰貯蓄の真の意味するところを見抜くべきであり、それを様々な金融商品を通じてブルジョアジーが収奪する構造が、先にのべた民営化政策や美辞麗句の成長戦略 などと称する古びた衣装の下に構築されているのだということを暴露すべきである。
富は管理通貨尺度で計った量ではなく、リアルな生活資料の供給力であって、全ての住民が健康で文化的な生活を送れることこそが成長である。資本の下で、過去の膨大な収奪の結果の下で労働者階級はブルジョアジーの命令と指揮に呻吟しながら生み出した富を自分自身へと取り戻すこと、そのためのシステムを構築するにはいかにすれば良いかを模索することが求められている。それは過渡ではなく、永遠の不断の課題なのである。もちろんそこにある前提は、富が全階級の財産であり、分業を通じて作り上げた全生産構造の今や世界大のネットワークを改革していくことでもある。ブルジョアたちは、自分たちが頭脳であり命令する資格があるなどというたわ言を流布し、資本主義的身体が腐りつつあっても意に介しない。そして、そのようなイデオロギーを「光り輝く」個人という美辞麗句で覆い隠そうとする。このことがブルジョアにとっては生命線であり、 富を貨幣幻想で欺くための武器なのである。「全世界の労働者は団結せよ」というスローガンは、富の貨幣幻想を捨てようという意味以外にとるべきではない。個が個であるために今や無理やり引き剥がされた個の悲哀として労働者階級は不安と絶望の中においても「責任」を取ろうとしている。それが膨大な家計貯蓄として現れ、金融資本の餌食となるという構図こそ、現在の資本主義の姿そのものである。その悲劇のループから脱出する仕事には、富を作り出す全ての労働者の叡智が必要なのだ。




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