共産主義者同盟(火花)

アベクロイズムの新たな混迷(3) ―憲法を巡る問題―

斎藤 隆雄
421号(2017年12月)所収


 選挙が一通り終了して、アベの思惑通りに事が進んだと見ていいのだろう。初めから何もなかったといえばそうなのだが、終わりもそれを見事に証明したという意味では摩訶不思議な政治劇であった。
 とはいえ、これからの政権の攻勢の本命は憲法問題であることは誰の目にも明らかである。そして、この問題を巡っては前回にも述べたが、体制翼賛体制が進展するか否かの試金石でもある。左派が何を対峙するかが真に問われる時が訪れる。

1 最高法規とは何か

 日本の労働者階級が今回ほどその試金石を問われる時はないであろう。何故なら、憲法という訳の分からない代物を考えろということなのだから。それが何なのかさえほとんど理解不能の代物だが、法学者たちや政治家たちがあれこれと喧しく述べ奉る、大切大事なものであるという理解はできたとしても、憲法が規定するあれこれの規定が真に守られた試しがないではないのか、という疑義が常に付き纏うのである。9条(安全保障問題)ばかりではない。言論の自由も男女平等もこの日本では未だ実現していない。数え挙げればキリがないが、憲法とは実現すべき未来の理想国家像を示すというのなら、それはそれで良いだろうが、では昨今の改憲論議は何なのだということになる。現実に合わせて憲法を変えるというのだから、真逆の論議となっている。
 つまりこういうことである。現実の社会をただなぞるだけの法規なら、法運用が現実と合わなくなることなのだから、法規定を変更することには異論が出ない。民法や経済関連法ではよく起こってくる。例えばデジタル化による文書などは旧民法の規定にないことで契約上の法的保護が受けられなくなるなどである。他方で、理念としての理想国家というのであれば、改正動議は現在の支配階級の理念を文章化したものということであるから、かの帝国憲法がそうであったように支配者たちが理想とする国家像がそこに書き表されていることになる。前者ということであれば、単なる法運用上の問題?それであれば憲法論議にはならない?ではなく、日々司法の中で闘われている労働者と雇用者、市民と国家の間で争点となっている諸問題を反映すべきである。また、後者ということであれば、労働者階級が理想する国家像を対置するべきであろう。
 さてそこで問わなければならない。労働者階級が理想とする国家理念とは何か、と。更に問わなければならない。支配階級の理想とする国家理念とは何か、と。現実をなぞるだけの改正なら、現行憲法の理念がどういう現実と齟齬をきたしているのか、と。そして最後には、究極の論議として、最高法規としての憲法とは、何かと。

2 ブルジョア法の理念

 ヨーロッパにおける18世紀からの市民革命の理念、ブルジョア民主主義の理念の中心にあるのは人間(個人)の権利である。しかし当初、この「人間とは欧州におけるブルジョアジー自身のことであり、女性や労働者階級や障碍者ばかりではなく、欧州人以外の全ての人類は含まれていなかった。彼らの理念は、資本家階級の自由であり、平等に競争する(小ブルジョアの大ブルジョアに対する)権利であり、市場を愛する理念であった。これら1%の理念を拡張すべくこの300年間余の階級闘争は人間と人間との壁を取り払う闘いであった。この攻防は今も続いている。しかし、元来ブルジョアの理念であったこの人間の権利思想は限界に突き当たりつつある。なぜなら、1%の市場を支配する人間たちは相変わらず富の過半を支配し続けているからであり、20世紀の大恐慌と二度の世界戦争によってもたらされた先進工業国における社会主義経済とフォーディズムによる小春日和は既に過去のものとなったからである。
 法的政治的なあるいは制度的な理念としてのブルジョア法理念はその拡張という闘いの限界を示しつつあるということは、次の新たな人類の規範を歴史が求めつつあるということである。それは、理念自身が次のステップに歩み出せと言っているのだ。つまり、これまでのブルジョア法理念の拡張をその限界にまで押し広げた闘いを基礎としつつも、単なる拡張ではない何らかの飛躍を求めているのである。
 では、それは何なのか?と性急に問いかけるだけでは何も生まれない。かのブルジョア革命がまさに封建領主たちと闘った歴史を振り返れば、壮絶な内戦と階級間の攻防を経なければ成就しなかったことが思い起こされるだろう。今や、欧州大陸という限定された地域の闘いではなく、全地球規模での階級攻防である以上、我々の想像を絶するものとなることは明らかである。平和主義と無抵抗主義とで事が成就すると考える者はお人好しというしかないであろう。が、しかし平和主義と無抵抗主義は実はこの300年間の闘いの教訓でもあることを忘れないでおかなければならない。

3 人権思想を超えるもの

 政治的理想を強めると夢想に陥るとかつてマルクスが指摘したが、今や市場経済が政治的な産物(理想)となってしまっている。市場原理こそが政治的理念の中心にあり、強者総取りと「あとは野となれ山となれ」というニヒリズムが蔓延している時代にあって、人権思想は個の利益を確保する思想へと落ちぶれてしまった。米国のある銀行幹部が不動産担保証券の将来的な危険性を指摘された時、「俺もお前もそのころにはいない」と応えたという話は象徴的である。また、次のような例も最近耳にした。日本のある原発立地地域の市長が原発事故の危険性を指摘された時、もし福島のようになったら「一蓮托生だ」と言ったそうである。これらの発言の意味を今更問い直しても仕方がないだろうが、かつての崇高であった人権思想は政治的理想として究極の孤立した個の論理となっていることを我々は目にし耳にしている。そしてその個とは今その時の個であり、過去も未来も世代を越えることもない、限りなく短く小さな個である、ということだ。
 人間の権利とは人間同士の関係性を言い表した理念であったことは既に忘れ去られ、ものとものとの関係である市場の論理に完全に置き換えられている。故に人権思想を政治的に表現する様式にはどんな未来も見通せないと言える。せいぜいそこにあるのは、市場のディール(取引)を模したものだけである。しかし、この人権思想の劣化を嘆いて懐古趣味に陥ることは更に事態を悪化させる。麗しき封建思想や儒教思想を奉る人々の復古主義は易々と独裁と圧政に陥ることは歴史が証明している。物象に支配される資本主義の成熟からの脱出には危険がつきものである。なぜなら、ものの支配から抜け出すために意識性の優位を対置し、多数の意識性を代表していると称する独裁者が、あるいは賢者と称する王が登場するからである。民主主義が機能していないと嘆くのは左右どちらの翼にあっても同様の落とし穴が準備されている。
 先進資本主義国家における統治システムを代表する者たちは今や何が政治的課題であるのかさえ理解できなくなってきている。ものに支配された世界に時代の意識性が消滅しているからである。そこで立ち現れるのは政治的世界を舞台にした茶番劇と手の込んだ舞台装置である。トランプとキムの児童劇団演ずる醜悪な火遊びは語るにも値しないが、それをいいことにアベの訳の分からない解散劇と続けば、1941年の日米決戦の教訓も何処へと言わざるを得ない。まさに「一蓮托生」「俺もお前もそのころにはいない」の世界である。
 そこで我々は2回目の戦後のことを考えなければならない。それは物象化からの脱出を意識性ではないやり方で実現することである。そんなことは可能か、と問われるかもしれない。そうだ、可能だ、と答えよう。それは人権宣言を超えるものでなければならない。あの建前だけの人権ではなく、人間と人間の関係性の復権を生産と消費、生活と共同を通して樹立しなければならない。それが如何に困難であったとしても、それ以外に戦後を生きることはできないし、今の世界を立て直すこともできない。

4 左折改憲とアベ王国憲法

 今、世界中で独裁者気取りの政治指導者が跋扈している。トランプしかり、アベしかり、そこに周とモディとドテルテと付け加えてもいいだろう。欧州にも同様の傾向を持った指導者が名乗りを挙げている。そこには、近代以降の人権思想はただの看板だけの薄っぺらな名残を残しているだけである。いつでもそれを店じまいして自分たちの王国の看板を立てようと準備怠りない。自民党の憲法改正案にはあからさまに「人権思想」が日本にはふさわしくないと明記されている。彼らは何をしたいのであろうか。
 どこやらの大臣が「ナチの手法」とやらに学びたいと吐露したことを見れば、どうやら「水晶の夜」を日本で再現したいようであるが、しかしそれは何を結果するであろうか。おそらく彼らが展望もなく、結果も顧みることもなく憧れている何らかの王国があるのだろうが、それは絶望的なまでに時代錯誤の王国である。何故なら彼らの王国が夢見るのは頭の中でのみ存在する復古的天皇制であり、自閉的な国家像である。それは、グローバル経済を支えとしている資本家たちの賛同も得ることができない代物である。しかし、アベはそのことを承知の上で「長いナイフの夜」も準備中であろう。そして彼が展望するであろう理念なき王国は自滅の道を歩まざるを得ない。多くの犠牲を払いながらではあろうが。
 それに対してリベラルは何を対抗しようというのだろうか。一年前に私は加藤典洋の改憲論を論じた際に、左折改憲論をリベラル左派の挑戦と言ったが、現時点ではその兆候は全く皆無のようだ。日本国憲法があまりにも簡素であるため、どこから論じたらいいのかさえ迷っている様子が見える。教育や言論、両性の平等など論ずべき課題は山積しているからだろう。ここにリベラル派の陥穽が見える。アベの九条への国軍規定と同様、空いた庭に別棟を建てようという魂胆なのだが、戒厳令(緊急事態条項)の付加も含めてそれはいくらでも可能であるかもしれない。しかし、それによって何が実現できるのだろうか。憲法の最高規定性はまさに日本の寄木細工の実態を見事に表現している。理念ではなく現実を写し取った法ならばそれでもよかろうが、最高規定性とは程遠いものとなるだろう。
 ブルジョア民主主義の賞味期限が切れている現在、現実と称するものも理念と称するものも、ほとんど夢想に近いものとなっている。おそらく現在という時点での現実という意味での現実をリアルに捉えているのはアベ以外にいないのかもしれない。そのアベが自身の自滅への道を展望できないという不幸は、この国の理念を語るものがいないというもう一つの現実を表している。アベ王国がトランプ王国とともに歴史の藻屑と消えることを見届けるまでは、次の時代が始まらないというのが現時点での正しい歴史認識であるのかもしれない。

5 最高法規としての日米安保

 条約が国家と国家との間の約束事であるという理由で、その国の憲法よりも優先されるということは、国家が他国との関係性の中でしか存在しないという意味では筋が通っている。国家が国家として存立しうるためには外部に国家がなければ意味がないだろう。では、憲法とは何なのだろう?それは一方で人類普遍の決まり事という対象なき自己像であると同時に、他方で他国との関係性の中での異質性・固有性の自己表出でもある。現代の憲法とは、前者は欧州における16世紀以降の長期にわたる戦争と革命を通じて形成されてきた法規範と20世紀の二度の世界戦争によって形作られた規範の延長線上にある。それは資本主義世界の自己像であり、自己表出である。後者は地域性と固有の社会性の歴史認識であり、究極的には個人にまで遡れる個別性である。世界が資本主義的商品経済によって埋め尽くされている今日において、個別性は完全に個に解体されたものとなっている以上、一個人一国家にまで論理的には細分化される。この普遍的神と個的神との分裂を繋ぐものが商品でしかないという現実こそ、憲法論議の空疎を生み出している。
 条約が憲法に勝る法規範であるなら、個と個の関係性は条約に擬すことができる。個と個の関係性を法規範として規定しているのは民法であるが、市民社会における組織を法的人格として擬している以上その延長上に国家が人格として想定できないわけではないであろう。国家を個人の上にそびえる超然的な組織として擬するが故に、憲法という国家と個人の関係性を規定しなければならなくなる。国家の死滅を想定する共産主義者にとってそのような超然的な存在との関係性をあれこれ議論する前に、個と個の関係性を民法という資本主義的市民社会の論理構造の中身としてではなく、条約として論議する方が生産的であるのかもしれない。ただ、今日の国家間のルール化は軍事的か商業的か産業的かを問わず、極めてお粗末な内容であり、これが将来的な論議の基礎になるのかという疑問は付きまとうだろう。この分野においてはカントのレベルを超えるものが未だに現れていないというのが正直なところであろうか。
 であるなら、現在の憲法論議への共産主義者のコミットはどうなるのであろうか。国家の死滅は憲法の死滅と考えていいのだろうか?このことがおそらく共産主義者が、マルクスの「ユダヤ人問題に寄せて」以降論議してこなかった所以であろう。国家を前提としない「社会」において、国家と個人との間の約束事を決める必要性が生まれないように見えるからである。では、これまで社会運動の中で国家との係争事であった人権規定はもはや歴史のくずかごへと葬り去られるというのだろうか。ここに実は社会主義社会と称した強権国家が生まれた所以の一つがあることは確かであるが、法規定という言葉(論理)上の幻想を無視するとしても、長い国家死滅への道を導く指標として人権規定がその基礎となることが疑い得ない。なぜなら、資本主義商品経済の基礎の上にしか社会主義は生まれないし、共産主義社会を築き得ないからである。であるなら、現在の憲法改正論議へのコミットは、復古派たちの時代錯誤的改作の歯止めとして、改正手続きを規定する「第9章」そのものを削除すること以上ではないように思われる。このことによって、復古派たちが真に問いたいことを明らかにさせることができるであろうし、彼らの言う「革命」を成就させるための前提が、そして市民が、国民が、何が問われているかがはっきりと認識でき、労働者階級の任務が明らかになるだろうからである。




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