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アベクロイズムの新たな混迷(2)

斎藤 隆雄
420号(2017年11月)所収


 先月の原稿を書き終える時に新たなニュースが入ってきた。アベが議会を解散するというニュースである。さもありなん。姑息な手段にかけては人後に落ちないアベのことである、やりそうなことだ、と。しかし、アレヨアレヨという間に小池新党に民進党が解体され、立憲民主党なる政党が出来上がり、保守対リベラルという図式が鮮明にはなったが、保守を名乗る政党の花盛りとしか言いようのない議会状況が生まれている。これをどのように見ればいいのだろうか。

1.財政再建かヘリマネか

 前号で指摘したように、現時点での日本政府の債務状況は絶望的である。一度や二度の増税で何とかなる事態はとうの昔に過ぎ去っているが、アベは増税路線を提起している。しかしその増税分を、財政再建に寄与させるのではなく教育予算に注ぎ込むという。後の雑多な保守は増税に反対である。ということは、増税そのものは財政再建問題ではなく、財政政策(リフレ路線)を巡る問題だということになる。つまり財政支出を税で賄うか国債で賄うか、という違いである。前者の場合、増税が民間消費を減少させるので、19年以降の景気減退が予想され、20年オリンピックでの建築・観光景気をあてにして何とか乗り切りたいというのがアベの魂胆であろう。後者であれば、現在の好況局面のだらだら景気が継続され、20年を過ぎて戦後最長なる実感なき好況局面が続くであろう。その際、物価上昇の可能性は後者の方が高いであろうが、たとえ企業内部留保への課税(かなり困難であるが)に踏み切ったとしても財政状況はさほど変化はないと予想できる。なぜなら、長期金利の上昇圧力を抑えるための日銀の金利操作政策が限界に達する可能性が高いからである。
 いずれにしても、花盛りの保守選択選挙は日本経済にとって何のインパクトも与えないことだけは確かである。むしろここで注目すべきは、アベの提起している増税路線である。今回の公約はおそらく彼のお抱えのエコノミストたちの助言をほとんど考慮していないように見える。増税分を教育予算に振り向けるというのは、予算規模的に見て少ないリスクで最大のメリットを得ようという彼なりの商売人根性が丸見えである。若年層の消費マインドを期待するという目論見はいいのだろうが、現在の日本の消費構造はそのような小手先の政策で変化するようなものではないばかりか、教育予算増額によって潤う業界といえば、彼のお友達業界だという見え見えの政策なのである。そしてそれは彼の「働き方改革」という戦後労働法制解体の前哨戦だということも明記しておかねばならない。なぜなら、若者向けの予算編成はこれからの労働者への彼なりの懐柔策なのだから。

2.保守かリベラルか

 立憲民主党ができたことで、もう一方の対立軸がある意味鮮明になったことも今回の選挙での焦点であろう。では、リベラルは何を提起するのだろうか。憲法問題はさておくとしても経済政策においてはほとんどその中身が見えない。というよりも、リベラルとは何を意味するのかさえ明らかではない。戦後リベラル党派がこれまで何を政府に要求し、何を政府で実現しようとしてきたのか。福祉政策一つとってみても、その中身は政権党と官僚の設定する枠組みの中で半歩踏み出る程度の政策しか提起せず、またその実現に向けた理念さえほとんど無内容なものでしかなかったのではないか。おそらくリベラルと称する政治家とその理論家たちは日本の政治構造を根底から変革しようとする展望さえ描いてこなかったし、何が変革への桎梏となっているかさえ見つけることができていなかったのである。
 本来リベラリズムとは自由主義のことであり、政府の人民に対する干渉に対してその自由権を防衛するという意味合いがあった。しかし、日本の戦後政治においてのリベラリズムはその意味合いがほとんど失われてしまい、本来あるべき軍事的強権政治に対する抵抗という戦前期におけるリベラルとは全く絶縁したものとなってしまった。戦後における政治権力への抵抗権という意味での自由権は、保守主流派の戦前回帰願望(再軍備派)と国独資派との蜜月が形成されたことで、自由権は完全に簒奪されてしまっていた。そしてそれを不完全で歪曲された形ではあるが、意識せずに代表していたのが社会党に代表される「革新」派であったことは日本の歴史的特殊局面であった。これは、欧米的歴史観と政治理念から見た日本的特性であるだろう。
 しかし、このようなことは戦後民主主義運動において常に論議されてきたことであり、「革新」派と呼び慣らわされてきた人々にとっては常識の部類に入る事柄である。にもかかわらず、このリベラリズムが今日においてもなお日本における政治的潮流とはならず、失われたままとなっているのは、リベラリズムが共産主義思想に親和的であるとみなされてきているからである。戦後の多くの論者がこの呪縛に挑戦しては敗北していったことは周知の歴史的事実である。このリベラリズムアレルギーはどこから来るのか?これが日本の政治情勢の革命にとって最大のポイントであることは誰もが知り、誰もが突破できない壁であるのだろう。
 つまり、この奇妙な壁は戦後「革新」派が社会主義を唱えて労働者の組織化を図る際にもアレルギーとして作用していたし、保守派政治家たちの戦後改革と対米自立においてもアレルギーとして作用していた。この奇妙な図式こそ、今、立憲民主党が直面する本当の敵であるのだが、それはおそらく意識化できていないだろう。当面する選挙戦においてアベ的なものへの批判が飛び交うであろうが、リベラルが自らのアレルギーを治癒させるための宣伝戦に突入し、アベ的な復古的軍事的複合政治との決別を、小池的軍事的新自由主義政治との差異を明らかにして自らを示し得るかは甚だ心許ないと言える。
 残念ながら、リベラルがリベラルとして日本において自立するにはその歴史的下部精神構造が未熟だと言わざるを得ない。90年代におけるスターリン派の凋落において「革新」派のアレルギーがもたらす抗体が作用しなくなって希望を抱いた人々も、もう一方の保守派のアレルギーを軽視しすぎたことで、より根の深いこの抗体反応に気づかなかったと言える。次号において述べるつもりだが、原発立地自治体の長たちが抱える奴隷根性の闇がまだ日本の隅々にまで澱のごとく沈潜していること、その驚愕すべきニヒリズムは「健全なる」リベラリズムを創生することができない決定的な要因なのだということを認識すべきである。故にリベラルはそれ自身として自立するためには、今一度彼らなりの民権運動を発動しない限り展望はないであろう。

3.二番煎じの近未来

 本稿が誌上に掲載される頃には選挙結果が明らかになっているであろうが、保守派花盛りの政治状況の中では決定的な時代的問題意識は立ち現れないであろう。むしろ時代的閉塞状況が深まり、アベ的復古主義と小池的新自由主義という二番煎じの苦い近未来を飲み込まされることになる可能性が大きい。トランプ的世界情勢の中でのこの選択は、危機に満ちたものになることは確実であるし、次の時代へのより決定的な変革を準備するものになるだろう。故に、選択は曖昧であってはならないという意味で、われわれは共産主義の旗を高く掲げなければならない。


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