共産主義者同盟(火花)

安倍お友達国家の行く末

斎藤 隆雄
418号(2017年6月)所収


 秘密保護法、安保法制、共謀罪法と矢継ぎ早に治安関連法体系を整備してきた安倍政権は、他方で民法関連の諸法規の改正にも手を入れている。またこの五月には安倍自身が九条改憲を提起した。これらの動きの背後で進行している事態の本質とは何なのか?彼らが民衆弾圧へと動かざるを得ない根拠は何なのかを探ってみる。

1.立憲主義の空虚

 安保法制改悪への闘いの中で、「立憲主義」が国会前デモを主宰する部隊で強調されたことがあった。これは憲法が権力の圧政に対して制限を加えるという近代人権宣言以来の規範を復権させるということを意味していた。安全保障関連の法体系を改変するために強引な議会運営を強行した安倍政権に対して多くの人びとが抗議の行動を起こした。国会前での集会にはこれまでには見られなかった程の数の抗議行動がくり返し行われた。これらの抗議行動は70年安保闘争以来と言われもした。
 では、その抗議行動が権力の圧政に対する制限を加えるための新たな人権宣言を提起したのだろうか。対置されたのは安倍政権打倒でもなく、新たな共和国宣言でもなく、現憲法を守れというスローガンだったのではないだろうか。現憲法が既に200年に亘る民主主義の闘いの集大成であるものとして存在しているではないかということ、故に安倍政権が現憲法に違反している政権であるということであったのではないか。つまり、現憲法を守る限り安保法制の改悪のようなことはできはしないのだということだったのではないか。このことが、「立憲主義を守れ」という意味であったのではないか。
 だが、他方で安倍政権が民主的な選挙で選ばれた多数派政権であり、その正統性を既に担保されているという限り、安保法制の違法性を問うことは難しいとも言える。では、現憲法が持っている権力の圧政に対する制限能力には限界があるということなのか。ヴァージニアの権利章典のように明らかな革命権* 1を条文化していなければ、このような民主主義的圧政に対しては有効性を持ち得ないのか。
「立憲主義」の理念に照らして言えば、現憲法下での安倍政権が悪法であっても、たとえ現憲法の精神に反しているとしても、選挙をくぐり抜けていれば成立させることができるということであれば、新たな憲法を対置する以外にそれを阻止することはできない。つまり、憲法を立て替えるしかないだろう、ということである。ここに国会前抗議行動の理念の矛盾が露呈している。あるいは、「立憲主義」の空虚な内容が、立ち尽くすしかない行動として現れざるを得なかったのだ。やっと、我々は17世紀の英国における国王への請願行動に追いついたのだろうか?「民主主義国家」と称する多くの国で今や国家の方針を巡る分裂が起こり始めている時、「立憲主義」は革命権の復活以外にないのでは、と思われる。

2.戦後政治の総決算という空虚

 90年代以降、国会政治の中で「戦後政治の総決算」という言葉が飛び交った時期があった。戦後保守合同以降の自社均衡政治の崩壊による戦後保守と戦後左派とのそれぞれのアイデンティティが揺らぎ始めた時期であった。そして、その結果は安倍と蓮舫という形で具現化している現在の国会政治がある。この四半世紀の決算の結果、その決算書の中には何が書かれているのかは、現在の国会政治を眺めてみれば自ずと明らかになるであろう。そう、粉飾決算なのである。国家の理念としての平和主義も人権思想もそのほとんどが建前化して、戦争の総括さえ忘れ去られた過去として化石化してしまって、平和と戦争をごちゃ混ぜにした法体系が次の時代の理念として確立しつつある。
 しかし、明らかに戦後法体系の決算として進行しつつあるものはこの戦後世界の70年間の変容に合わせて確実に進行しつつある「市民社会」の変容を合法化するための実質的な決算である。労働法、民法、税法、金融関連法等の着実な変革はおそらく国会政治の見えない決算書である。そこに進行しつつある地殻変動は、戦後世界を確実に変革してきたものであり、人びとの生活と未来を暗示している。保守と左派が意識するとしないとに関わらず、彼らの共有する全体が地殻変動を起こしている。故に、安倍がリフレ派と靖国派とが合体していても誰も不思議には思わなくなった。整合性がないと抗議の声を挙げる者がいたとしても、彼らは実は合理的なのだとは気づいていない。歴史を語る者は常に自らのイデオロギーを語る者であるということ、それが自らの政治的方針であるということ、そしてそれが矛盾していようがいまいが、整合性があろうがなかろうが、それを判断する物差しそのものが放棄されたということを気づくべきである。
 戦後レジュームが埋葬されたことで明らかになってきたのは、変革を指向する者にとって時代を次へと進めることであって、その粉飾決算書を生き延びさせることではないだろうということだ。粉飾を告発して再生させるのでなく、粉飾をもって倒産させるべきなのだと。そのためには、次の時代の企画が明らかになっていなければ倒産は正当化できない。苦し紛れの次の企画書やその場しのぎの再生案が今や世界中で溢れている中で、左派もまた次の企画書が描けていない。戦後政治を総括するには、政治的法的上部構造のみならずこの70年間の下部構造の変容を総括しなければ何も出てこないということを肝に銘ずるべきだ。

3.トランプの功罪

 トランプ政権の登場によって目に見えて明らかになったことがある。それまで隠されていた地下水脈が溢れ出たことで人びとはいくつかのはっきりした時代の変容を理解した。90年代以降のネオリベラリズムが果たした社会的変容についてのこれまでの曖昧な理解があるはっきりとした姿として見え始めた。その一つに、先ほど翻訳されたナンシー・フレイザーの論考「進歩主義ネオリベラリズムの終焉」(『世界』4月号)がある。彼女は、1992年のクリントン政権が英国のブレア政権とともに設計した進歩的ネオリベの理念をトランプの登場によってくっきりと浮き上がらせた。
 「…進歩主義ネオリベラリズムは、フェミニズム、反レイシズム、多文化主義、LGBTQの権利運動といった新しい社会運動の主流派の動向に連係する一方で、他方ではウォールストリートやシリコンバレー、ハリウッドといった高所得者向けの『象徴的』かつサービス提供型のビジネスセンターと提携する。このような連携において、進歩主義的な諸勢力は認知資本主義、とりわけ金融化の諸勢力へと効果的に接合される。…ダイバーシティやエンパワーメントといった理想??…はいまや、製造業やかつての中産階級的な生活を徹底的に壊滅させてきた政策に、体裁の良いごまかしを与えているのだ。」(p.32)
 ブレアが米国の中東政策に無条件に賛同したことで、そのいかがわしい「ニューレイバー政策」の化けの皮が既に剥がれていたとはいえ、クリントン?オバマ路線への微かな「ニューディール連合」的希望を託していたリベラル左派的願望がトランプによって打ち砕かれた意味は大きい。つまり、クリントニズムによって覆い隠されていた労働者階級の怒りが共和党や民主党のエスタブリッシュメントたちを吹き飛ばしたことで、真の階級的攻防がどこにあったかが明らかになったからである。彼女が最後に示した言葉は無条件に正しい。現状を「開かれた不安定な状況」と言い、「このような状況においては、危険だけではなく、好機もまた存在しているのだ?すなわち、新たなニュー・レフトを構築するというチャンスが」と。フレイザーが示す新しいニュー・レフトとは、進歩主義的ネオリベによって歪められた社会運動とトランプによって歪められた労働者階級の怒りとを結びつけることにあるということなのだ。この結合は言うほどには容易くないことは確かだが、サンダースによって示された方向性と結びつくという萌芽が既にあることも事実だ。
 そして、他方で日本においては太平洋の向こう側とはいささか色合いが異なっている。安倍がトランプにすり寄っているのは、労働者の怒りを共有しているからではない。彼の置かれている位置はそれを許しはしない。なぜなら、巨大な資源大国の米国とは違い「ジャパンファースト」とは居直れないからである。そこで繰り出してくる政治手法は何でもありの日和見主義である。かつてスペインの衰退の原因となったセビリア商人の役割* 2を安倍が担っているということだ。世界中を駆け回り、商業外交を振りまき、相反することも平気で臆面もなく披瀝する商人たちとまったく同じなのだ。
 安倍のこの間の戦後レジュームからの脱却とは、強いて言えば「近代主義からの逃亡」とでも言えるものであろう。その意味では、国家と商売が強固に結びついた重商主義時代の理念、自由の抑圧と利益への飽くなき願望とが、復古主義と軍事国家化として立ち現れていると言えるだろう。彼は自身の願望に利用できるものはどんなものでもつまみ食いするが、国家と官僚を使いこなすきわめて巧みな商売人でしかない。その意味で、ネオリベラリズム後の不安定性の中に浮遊しつつ自らがどこへ行こうとしているのかも定かではないことを最も熟知しているはずである。それだからこそ、彼の中ではどのような形であろうとも憲法に手を入れ、明治以来の西欧近代主義を乗り越えたいとする彼なりの反近代主義だけが小さなお友達サークルの中で固着している。これは日本にとっては災難であるとしても、ネオリベ以降の世界情勢の中で階級闘争の激化の予感を共有する(だからこそこの間の治安法再編なのだ)という意味では時代が次へと進む前段であることを彼自身が証明していると言えるだろう。

4.崩壊か衰退か

 今、日本の直面している経済的政治的危機とは稀に見る有効求人倍率の高騰に示されている。景気変動の上昇局面に入りかけている世界経済の中で日本の労働力不足は、ここ数十年間に積み上げてきた労働者雇用構造の新自由主義的変革が足枷となっている。安倍はこれを苦し紛れに「同一労働同一賃金」などと言ってみたものの、ブルジョアジーたちはこれを許容するはずもない。個々の企業にとって現行制度は利益を生み出す最も手っ取り早い手段であるからだ。むしろ、彼らはこっそりと外国人労働者の導入を画策する。それは、国内への導入と海外での導入の同時進行である。しかし、安倍にとってはこのブルジョアジーたちの要求は自身のお友達である復古主義者たちには都合が悪い。そこでお得意の変身をしてみせるが、相反することを同時に行うことはこの場合双方から見放されるリスクが生まれる。生産性を上げる効果があると言って、AI導入をあれこれと言ってみたところで、所詮大企業にしか縁のないものである。改革は中途半端で何もしない場合と同じこととなる。そこに現れるものはきわめてグロテスクな複合体である。
 リフレ政策と規制緩和という複合体も同様である。規制緩和と言いつつも、せっせと公共投資を励み市場の資本財構造を歪め、労働規制(非正規労働法)を放置しながら保育所増設やら女性労働の活用やらと労働力配分の非効率な政策を続ける。これらは目先の華やかさだけが眼目であって、ほとんど何の政策的整合性もない* 3。ただただ景気循環の上昇局面のおこぼれを少しばかり享受するだけに終わるのが関の山であろう。
 最後に残るのは、クルーグマンやシムズなどの外国エコノミストの権威に寄りかかって、際限のない財政支出を積み上げるのみである。デフレの原因が需要不足なのだからと、政府支出を際限なく増大させることは今の安倍にとっては政権維持の切り札であり、国家に寄生する諸企業の利益を膨らませ、民衆の赤字国債への恐怖によって膨れあがる貯蓄を日銀が処理するという破滅へのシナリオをひた走ることとなる。たとえそれによる期待通りのインフレが起こったとしても(あまり蓋然性はないが)、賃金への見返りは正規?非正規労働構造の分断された労働市場ではほとんど機能しないことは明らかである。この安倍お友達国家の暴走は、既存の政党政治レベルではまったく止めることができない。なぜなら、この暴走サイクルはそれぞれの局面で諸階級の目先の利害を満足させるものだからだ。安倍のカメレオンのような変身の意味はそういう効用を発揮し、そのことを彼自身が最も熟知しているからだ。国会政治における野党と称する諸政党も、それを一部支えている労働組合も、財政支出だのみのリフレ派であり、ただ支出先を変えて欲しいと言っているに過ぎない。問題の根本を理解しない限り、安倍政権は安泰なのだ。むしろ、今後に起こるであろう階級戦争への備えとしての治安法や安保法への周到な準備を怠っていないという意味では、一枚上手だとも言える。
 事態は、だからこそより深刻な様相を示している。安倍政権の失政のよる崩壊を議会政治に期待することは難しいだろう。彼の政治路線の行く末は、社会の崩壊へと突き進むであろう。政治の崩壊ではなく、社会の崩壊にまで進まなければ気づくことが出来ない構造になってしまっている。その時にこそ、戦後レジュームの最後の鐘が鳴るだろう。我々はその時に備えなければならないし、事態がそうなってから何ものかを準備するのでは遅すぎるからである。政治は衰退するが、社会は崩壊することを覚悟してかからねばならない。

脚注

* 1 ヴァージニア権利章典、第三項「…いかなる政府でも、それがこれらの目的(社会の利益、保護及び安全)に反するか、あるいは不十分であることがみとめられた場合には、社会の多数のものは、その政府を改良し、変改し、あるいは廃止する権利を有する。…」(『人権宣言集』岩波文庫)
* 2 スペインを没落へ追いやった中継貿易商人たちのこと。彼らは、新大陸と欧州中心部への中継貿易で巨万の富を得たが、それらはスペイン本国の産業衰退を早める結果となった。
* 3 世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数が日本が111位であり、更に経済分野では118位と最悪の状態の中で、女性労働力を市場へ引き入れるということの意味はもはや言うに及ばないであろう。景気調整弁としての役割を女性を含めた非正規労働力を悪用、使い捨てるということである。




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