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戦争国家という選択

斎藤 隆雄
417号(2017年5月)所収


 秘密保護法、安保法制、そして共謀罪法。日米共同軍事行動とセットの国内治安維持・戦争国家化への道を選択しつつある日本は、3.11以降もなお原発を維持しつつ軍事産業の海外輸出というフルセットの軍事国家への道を突き進んでいる。ブルジョアジーとその雇われ政治家たちの思惑とは別に、この選択にはもう一つの別の選択があるのか、と問わねばならない。九条を守り、立憲主義を守ることが、この選択肢の経路上にはないことは分かりきっている。問われるべきは、憲法ではなく戦争国家という選択の根拠である。

1.民主主義が形骸化しているのではない

 民意はそこにはない、という声がある。平和な日本の生活を守れという声がある。保守政治家たちは、日本の平和を守るために治安維持・軍事国家化すると言う。あるいは、普通の国家になるのだとも言う(日本は普通ではなく、特殊だという規定)。共に、平和を唱えて国家の安全保障を論議する。
 問題はそうなると、どちらが平和への道なのだということになる。しかし、この論議の「平和」はあくまでも「日本の平和」なのだ。そして、「日本の平和」は国内法制と日米安保の如何で成り立つという前提を共有している。日本の国民がそういう国内平和という相変わらずの枠組みの中で、国内的に議論して解決できる課題だと思い込んでいる。だから、当然今沖縄で起きている辺野古や高江の闘争はほとんど論議の中に入り込まない。そして、最も重要なこの問題への解答が世界政治と経済にあるということも議論には入らない。
 民主主義が形骸化しているというのは、ちょっとした勘違いかもしれない。少なくとも、上記のような枠組みでの選択を日本人は「選択」したという意味では民主主義は正しく貫徹されている。共謀罪法案の論議において、既存の法制度で十分だというリベラル派と不十分だという保守派との論議は、治安維持という民衆弾圧の武器の種類を論議していることに等しい。多くの日本人が、自国の政治選択には民衆弾圧という檻が必要だと考えていることは明らかだ。牧歌的な平和ではなく、管理された平和が必要だと、自由な空気の平和ではなく、重苦しいが囲いの中の羊のような平和がいいと考えているのである。
 しかし、その「日本の平和」は囲いがあろうとなかろうと、治安が良かろうと悪かろうと破綻する時は突然やってくる。なぜなら、戦争は日本の外からやってくるからである。否、国内であろうと国外であろうとそれは想定外の出来事なのである。戦争を決定するために国民投票をする国はない。戦争を始めるには一握りの政治家の恣意で十分なのだ。そのことを理解することが民主主義を理解することなのだということを日本人は百年前に経験している。百年前には民主主義がなかったという言説は、今の民主主義が百年前から進歩していると勘違いしている人たちの思い込みである。国民主権が機能するには、それが機能する政治空間がなければならない。それは、国民が自分たちは羊のままでいいというなら機能しない。民主主義的に戦争することはきわめて容易なのだ。形骸化しているのは日本人そのものだ。

2.今の生活を守るためには成長が必要だ

 「日本の平和」を守るためには、今の生活を維持するための生産力と生活水準を守る必要があり、そのためには「経済成長」が欠かせないという言説が流布している。平和と成長は日本の政治家の常套句であり、日本の憲法的精神であると言ってもいい。そして、平和のために沖縄の米軍基地が必要であり、成長のために非正規労働者が必要なのだ。ではここで問わなければならない。誰の「平和と成長」なのか、と。
 ここ四半世紀、日本は純粋に経済学的に見て経済はまったく成長していない。平均賃金は傾向的に低下し、労働分配率も穏やかに低下している。真綿で首を絞められるように日本人労働者は生活を切り詰めている。デフレ下における緩やかな下落という何ともやりきれない状況がぬかるみのように続いている。このような状況の中で人びとは「平和と成長」というお題目を唯々唱えるしか道がないように思わされている。人はこのような茹でガエル状況の中では理性的な思考ができなくなる。ただ黙々と破局への行進を続けるしかない。先頭に翻る「平和と成長」という半ば薄汚れてぼろぼろになった御旗を時折眺めながら、人びとはただ歩き続けるしかないのである。
 時々、「株価」とかいう配給が回ってくる。最近は「低金利」という配給があった。そこに「安倍印」とか「黒田印」とかが印刷されているが、人びとはそれに群がって一時の安らぎを得る。しかし、一向にぬかるみは解消されない。ひとり、またひとり倒れていく人がいるが、誰も見向きもしない。後方に敵から守るためと称して大きな大砲を担がされている人びとがいるが、手助けしようという人は少ない。見ないようにしているのだ。さあ、この行進はどこへ行こうとしているのだろうか。
 「成長」という言葉は耳に心地よいが、さて誰が何のために成長するのか?労働者の分け前が増えるのか?パイが大きくなって、一人一人の取り分が増えると説明するエコノミストがいるが、本当か?実は金持ち企業のエリートたちは本当のことをよく知っている。彼らがどこで儲けているのかを。そして日本はこれ以上成長しないということも。企業収益の多くを海外に依存している日本の経済は、国内成長が見込めないことが明らかなための資本の本能的行動なのだから、彼らエリートたちはもはや日本国労働者とは言えない存在となっている。つまり、とぼとぼと行進を続ける労働者部隊の横をジープで通り抜ける将校たちなのだ。彼らは、この行軍を横目で見ながら「平和と成長」という御印を最も信じていない人たちだが、しかしこの巨大な群衆と遙か彼方のもう一つの群衆との取引には必要不可欠なのだ。
 「平和」のために「軍事」が必要だという将校たちの言説は、実はとぼとぼと行軍する人びとがいつ本当のことに気付くか、心配でならない。大砲を担いでいる最も抑圧された人びとが、「もうやめた」と言わないか心配している。配給する物資も少なくなってきているこの頃は、遙か彼方の群衆が襲ってくるかもしれないという宣伝に余念がない。海の向こうからやってくる援軍が我々を守ってくれるとしきりに伝令が言ってくるが、どうやら彼らは配給ではなく大砲を担がそうとしているようだ。それもこれも、将校たちの身を守るためであるらしい。
 「成長」とは、率直に言ってただただ賃金の上昇なのだ。しかし、一国の経済のみがたとえ労働賃金を上げたとしても、それはすぐさま国際競争力の低下としてエリートたちの所得の低下を招くだけだ。その単純な仕組みが決定的に我々を呪縛している。だから、言いかえよう。「成長」とは、企業の海外収益の増大、資本の新たな剰余収益の拡大ということだ。それは絶対に労働賃金に反映しない。反映させない。このことが決定的に重要だ。

3.戦争という名の平和

 平和のために戦争するという古今東西の政治のセオリーを検証すると、支配者の気まぐれも含めて当該国家や集団の利益を求めて行うものである。その利益が平和をもたらすと為政者は兵士(国民)を説得するが、要は平和は利益が先行するのであって、その逆ではない。国家の利益はすなわち国民の利益だと、論証もされていないセオリーがそこにはある。多くの国がその幻の宣伝用セオリーを信奉して(あるいは信奉しているふりをして)、国家を武装化する。隣国の武装化が自国の武装化を要求するのは、隣国と自国の利益の争奪だからである。だから、「平和と成長」は明らかに戦争という概念の二つの側面である。つまり、世界大のパイの分け方を巡る彼我の交通関係だとも言える。
 近代以降、地球の有限性が明らかになるにしたがって平和という戦争形態が苛烈な様相を見せ始める。敗北という二分の一の確率が約束されている平和は、退路を断たれた国家をより強固に武装化することになった。また、それは同時に国家間の合従連衡が世界大で進行するという今日の世界政治が誕生した根拠のひとつでもある。利益を巡る争奪の苛烈化は、利益配分を巡る政治経済を複雑化させ、巧妙化させる。平和という戦争形態を実現するためには、国家間の利益配分を信頼という交通形態に転換あるいは言いかえをする必要があるが、いち早くそれを実現したのが資本である。資本のネットワークは利益配分の交通形態を物流から「通貨」へと進化させた。しかし残念なことに、この進化は国家と結びついた共生関係の中から生まれたが故に、広域国家=帝国と資本との親和性を生み出してしまった。いわば資本=世界交通通貨の利益集団が国家連合間の戦争形態に介入することで、二重の平和構造が生まれたのである。
 日本が米帝国と同盟関係を深化させ、土地にへばりついた労働者階級を沈黙させるためには、戦争国家化に着手するのが最善の選択であると思われる。それは、世界通貨集団と国家利益集団の当面の共通利益である。国家の枠の内部にへばりつく限り、労働者階級はそれらの集団の利益に従うしか選択肢はない。欧州に於けるEU通貨集団の失敗と反西欧文化圏の中ソと対峙しつつ収益を上げる通貨集団にとっては、米帝国にコバンザメのようにへばりつかなければならない。そして、いつかはそこから離脱して自らの帝国を築きたいという国家利益集団の意図をも満足させるためには、相反する彼らの妥協協定を満足させる選択肢はそれほど多くはない。
 労働者階級がこの泥沼の世界から抜け出すには、この通貨と国家の罠から抜け出すというとんでもない冒険が必要なのだ。今の日本人がこの冒険に飛び出すバイタリティーがあるようには見えない。むしろ、世界大の単一の沼地にほとんど沈みかけている多くの民衆の反乱が希望の光なのかもしれない。政治家たちが「テロ」と呼び習わす現象とは、そういう光の一つなのだが、いち早く政治家たちはそれが毒林檎だと言いふらしている。それを食べることはもちろん、その言葉を囁いてもいけないと言うのだから、よほど彼らはそれを恐れている。前世紀の二つの世界戦争で用いられた幾万の爆撃や朝鮮半島やインドシナ半島でくり返された惨たらしい殺戮よりも恐れているとしたら、それは彼らがよほど弱っていることの証左でもあるのかと疑ってしまう。確かに、長い間我が物顔で世界中で暴れまくっていた帝国も最近は、ツイッター爆弾に頼るようになったことは、その疑惑を確かなものにしている。これは平和が危ういのではなく、戦争が危ういのである。

4.次の選択を準備しよう

 戦争によって平和がやってくるというのは、確かに正しい。戦争がなければ、平和という言葉も消え去る。戦争という富の争奪は、繰り返し労働者の頭上で密かに行われている不可視の戦争である。工場で、街頭で、農村で、都市で、至るところで富は収奪されている。それは目に見えない戦争である。労働者階級の防衛戦は僅かに残された社会正義と点在する堡塁しかないが、世界大で展開している戦争の不均衡は今や国家利益集団と通貨利益集団との顕在化した戦争へと発展する可能性が増大している。それら神々の大戦に動員される不可視戦の兵士たちには、二つの戦線という選択が待ち受けている。
 この選択は危険に満ちた、絶望的な選択になる。国家のための犬のような死か、階級戦のための濡れ猫のような死か。いずれにしろ、希望のない選択かもしれない。ただ、前者は死してまだ社に醜態をさらすことが待ち受けているが、後者の死は人びとの記憶の底に受け継がれるだろう。そして山猫たちの最後の闘いは、「戦争と平和」を乗り越え、「平和と成長」を昔話とするだろう。
 次の選択に備えよう。国家と通貨から利益を得ることは永遠の戦争と平和の繰り返しだと自覚した時、平和を語ることではなく、成長を語ることではなく、最後の戦争に勝利することなのだということを知らなければならない。


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