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欧州左派が直面する課題

斎藤 隆雄
411号(2016年9月)所収


 欧州を今席巻している排外主義とスペイン・ギリシャで起こった民衆運動とが現代先進国で流動しつつある社会変動と根元で繋がっているという言説がある。それは、ズコッティ広場と米大統領候補トランプとが繋がっているという見解にもなっている。そのような分析は何を表しているのだろうか。それは単なる皮相的見解でしかないのだろうか、それとも重要な何かを指し示しているのだろうか。

1.シリザが開いた新しい局面

 過ぐる参議院選の後、あるメディアのコラム記事に次のような分析が載った。「今の日本に経済政策での政治対立はない」と。早々と民進党が消費税増税を見送り、政治的対立を避けるため安倍がそれに追従することで、経済問題の最大の課題である財政問題に合意したということなのだ。このことを巡っては米国の高名なエコノミストを呼んでまでお墨付きをいただいたというおまけ話までついてくる。
 そこで振り返ってみると、昨年の夏、欧州でツィプラスとメルケルが合意したという例の追加債務案は債務と政治を考える上で貴重な教訓を与えていることが分かる。つまり、債務問題は現代社会においては政治問題にしてはならないという巨大な圧力がかかっているということなのだ。ギリシャは、独仏の巨大金融機関の甘い劇薬を飲まされ、国家財政が破綻する結果となった時、住民がシリザという選択をしたのはきわめて正しいものだった。そしてツィプラスが土壇場で国民投票を提起するという攻勢に出たのも最大限の賞賛に値する。しかし、それでもなおEU内新自由主義者たちはそれを完全に無視した。すなわち、ギリシャがドイツの植民地であるということ、あるいはドイツがかつてのIMFであるということを白日の下にさらけ出させたのである。債務問題は政治的選択の問題ではなく、「借りたものは返せ」という倫理問題へとすり替えられている訳である。ここでは、ギリシャ住民にとって国家権力を奪取する意味がほとんどないということを示している。
 EU内部で起こっているこのような現象は、国際金融資本帝国に対する闘い方が根底から変化せざるを得ないことを示している。今ある事象はEU内部の二つの分岐を表している。一つは金融資本国家内部の排外主義である。英EU離脱勢力は明らかに金融資本の恩恵にあずかっていないし、むしろそれによって苦しめられている労働者階級が主体である。フランスの「ルペン」もイタリアの「五つ星」もEUの軛から逃れ国民国家へ閉じこもることが現在の困難への解決策だと主張する。他方、金融資本に収奪されている周辺諸国では、スペインやギリシャのように従来の左派的運動に解決の糸口を探ろうとする人々と、ポーランドやハンガリーのように未だスターリン主義の記憶が残る諸国の右派的運動に傾斜する人々との揺れがある。
 しかし、債権国にしても債務国にしてもいずれにしてもその国家の住民には政治的選択肢は存在しない。欧州の右派勢力がEUからの離脱を決定したとしても、それが問題の解決になる訳ではないことは明らかである。シリア難民の流入だけが今の困難の原因ではないし、むしろ国民国家への回帰は帝国からの収奪が強化されるだけだろう。(ただし、英国のEU離脱はポンドの減価が英国輸出産業労働者にとって幾ばくかの恩恵を与える可能性は残るが、それは英国がEMU圏でなく、かつ債権国という特殊性による) とりわけ独仏のEU内債権国にとってはユーロの恩恵を手放したくないし、排外主義勢力への政治的抑圧をこれから一層強めることが予想される。それに反して、EU債務国家群であるギリシャやスペイン、ポルトガルといった国々の労働者にとっては、彼等と対峙する相手が国内ブルジョアジーではないということが致命的な課題である。おそらくこれが一時代前の植民地政策であれば欧州解体へと進む必然性があったであろうが、今日、その可能性はほとんどない。なぜなら、周辺国家の国民国家への回帰は、急速な資本逃避と通貨危機を生み出すからである。それを防ぐには、議会政治的民主主義過程を無条件に無視した変革過程を実現できなければならない。その選択に耐えるような欧州諸国は今のところ存在しないだろう。

2.プロ独という方針が無効になった理由

 ギリシャの今日の苦闘を解決する方法が国家権力を奪取することではないというのなら、他に何があるのだろうか。それを探るには今日のギリシャがどのように形成されてきたのかを知らなければならない。とはいえ、それはギリシャ固有の問題ではない。それはスペインであっても同じである。
 プロ独方針を最初に放棄したのはイタリア共産党であったが、彼等がそれを選択したのは権力を奪取する可能性がなかったからではなかった。むしろ逆であった。つまりそれは今ツィプラスが直面している困難と同じものの前に屈服しただけだった。権力を奪取してからの次の一手が見えてこないという事態にたじろいだのだ。なぜなら、一国での権力奪取が意味するものが百年前とは格段に違っているからである。イタリアが機会を逃した70年代と比べて、今日の困難は更に強化されているが、金融帝国の収奪もそれ以上に強化されている。階級間の激突は一層苛烈になってきているにもかかわらず、プロ独へのハードルが更に高くなってきている。それは議会制民主主義が発達したからか?否!それは政治的な問題か?否!それは経済的問題か?否!では、何なんだ!それは国家だ。
 権力を奪取しても解決できない課題に直面しているのにもかかわらず、解決へ至る課題が国家だというのは確かに矛盾だ。つまり、奪取すべき国家のありかを我々は見間違えているということなのだ。このことを端的に示しているのは、2000年以来の欧州統合の要となった通貨統合が、各国の財政規律に箍を嵌めることであったことと密接に関係している。思い出してみる必要があるのは、70年代以来世界は変動相場制へ移行して、自国の通貨政策を守るためには資本移動と為替制度のいずれかを手放さなければならなくなったことは自明の論理だった。それは、絶対主義とナポレオン戦争によって形作られた近代国民国家とはまったく姿形が異なるものを表している。ここ40数年間の世界の変貌を計算に入れずに国家を語ることはアナクロニズムに陥ることになるのだ。欧州統合が変動相場制の荒波から自国を守る城壁だと考えていた人々にとっては、もはや新たな船出という冒険の前にたじろかざるをえない。もはや国民国家という城内平和は経済問題においては、すなわち経済生活においては不可能になってきている。ギリシャがEMU(欧州通貨同盟)から離脱すれば、一挙に国家破綻に陥ることは疑いをえない。たとえ旧通貨ドラクマへ回帰して切り下げても、債務はドラクマでは清算できないし、国家財産の多くをドイツに差し押さえられることになることは自明だ(現在でも一部そうなっているが)。当然、ドイツとの戦争という選択肢はユーゴやシリアの運命と同じであろう。
 欧州通貨同盟というのは、異なる国民国家を一つの通貨で固定するという意味では、かつてのブレトン・ウッズ体制と同じ構造になっていると考えていい。しかし、ブレトン・ウッズ体制には外部がなかったが、EMUにはドル通貨圏という外部がある。ギリシャが財政危機に陥った場合、その根拠はさておくとしても、ドイツが自らの債権の取り立てをするのは80年代の中南米や90年代のアジア諸国への米国ワシントン=IMF官僚と国際金融資本の無慈悲な取り立て政策とまったく同じ構造なのである(ギリシャの債務はドイツの高利貸し資本の見事な餌食であった)。そして、ドイツには更にギリシャへの圧力として外部=ドル通貨圏への二重の圧力をかける利益があったのである。このことはギリシャに国民国家としての成立要件をことごとく奪った上での屈服を迫っているということが明らかになるだろう。EMUという固定相場制では、ギリシャは自らの金融政策を持ち得ないし、更に財政政策さえEU協約での制限を課されている限り、資本規制をする以外に何ら権限を持たないのである。ブレトン・ウッズ体制では異なる通貨の固定相場制であったが、EMUはユーロという単一の通貨であるが故に、かつてのアルゼンチンやタイでのドルペッグ制をとっていた諸国の経験した金融危機と同じ運命を辿ることになるのである。
 選択肢はほとんどないといっていい。変動相場制へ移行したタイのようにEU離脱を選択するとしても、IMFコンセンサスが待ち受けている。現状の左派政権ではアルゼンチンと同じ運命を辿ると見た方がいい。昨年末、アルゼンチンの中道左派政権は国際金融資本の執拗な圧力の下で、ついに右派に政権を譲るしか生き延びる道がなった。
 シリザの選んだ道は確かに困難なものであるが、考える限りの最善の道ではあるだろう。しかし、そのことは今日の国民国家が単独で何事かを決めることができない構造になっているということをも明らかにしている。すなわち、国民国家とは世界帝国構造の内部におけるブルジョアジーの支配システムの一部であるという事実を容赦なく指し示しているのである。ギリシャが軍事独裁から離脱してEUに参加する選択をした時、世界は既に帝国構造へと舵を切っていたのである。個々の国民国家の統治形態やその傾向性は、帝国構造へ組み込む際の彩り以上には機能しないのである。民主主義は、限られた幾つかの選択肢の中の正統性付与でしかなく、線路の上を走る列車の切り替えポイントなのだ。線路を敷設しているのは金融帝国だということは忘れてはならない。

3.デフォルト戦略は新たな方針か

 デフォルトをEUの周辺国家の戦略的方針にするという提案が一部になされている。ギリシャ、スペイン、ポルトガルがその候補だろうと思われる。これらの周辺諸国のデフォルト戦略は、EUの理念の迂回路だというのだ。それは、今左派が直面している課題が全EUの課題であるという認識が根底にある。確かに、そのような方針の提起によってEMU発足以前に戻るという事は可能かもしれない。英国の離脱以降のEUがデフレスパイラルに陥る蓋然性はきわめて高い。そうなれば、現状の通貨同盟は維持できないのは明らかだ。そこで、いくらかの修正が施されるかもしれない。しかし、それはおそらく周辺諸国の政治的動揺(次の方針を巡る)を生むだろうし、左派の不決断といういつもながらの繰り返しを経験するだけだろう。その意味で、デフォルト戦略は短期的な方針としては有益かもしれないが、それ以降の展望がそれを提起する人々には見えていない。
 ドイツの新自由主義政策を批判するのは、それ自体間違っていないが、08年金融恐慌以降の世界的デフレと低成長、低金利はEUが発祥の地ではない。ドイツの古くからの厳格な財政政策や新自由主義的金融政策は事態の悪化を促進したことは確かではあるものの、今日の世界的経済情勢は一国的な問題ではないことも周知なのだ。つまり、国民国家の一国的階級情勢は労働者階級の利害を反映していないことが問題なのである。今日、先進国ブルジョアジーのクラブは個々の国々の階級戦争を戦略的に管理しているのであって、国家は世界市場の構成要素ではあっても、個別に完結した構造を持っていないのである。それは世界市場が国家に取って代わったというのではないし、国家がなくなるというのでもない。むしろ国家は必要な部品であって、それなしには世界経済は成り立たないのではある。しかし一国における労働者階級の利害は世界市場の部分を構成するが故に、たとえその利害の貫徹である一国での革命は何物をも解決できないのである。欧州左派のデフォルト戦略が16年の時間を巻き戻すことができるとしても、それ自体ではせいぜいのところ新ケインズ主義的政策を模索する以外に方途はないだろう。
 おそらくそれでは、現在各国政府が苦闘している財政政策の「改革」以外には新しいものはでてこない。改革はいまある世界市場の管理者たちを追い詰め、歴史から退場させなければ前進できない。そのための第一歩はデフォルトではない。国家の財政的破綻はこれまで幾度となく繰り返されてきた日常的な出来事なのだから。いわば資本主義経済における恐慌のようにそれによって新たなリセットが行われ、歴史が巻き戻されてしまう。資本主義が新たなに息を吹き返し、経済の再構成が為される。そしてまた労働者階級が再び生み出されるというこれまでの歴史を繰り返すことになる。資本主義がこれまで恐慌とデフォルトと戦争によって常に新しい段階を印象付けてきたことは、普通に歴史を振り返れば理解できる。今回は違うといういつもの言葉と共に。
 そこで我々は、「今回」の危機に対処するには眼前の情景に惑わされず、国家の国民が国家を構成しないというような危機へと導く戦略を選ぶ必要がある。低成長とマイナス金利によって今や国家が約束していた国民は幻となっていく必然性にあり、資本主義とりわけ高度先進国であればある程肥大化する財政赤字という債務の重圧の下で進行するマイナス成長という資本主義の緩慢な死をリセットさせずに迎えさせなければならない。それは破綻とはまるで違う様相を呈するだろう。金利ゼロの世界を我々はできるだけ長く、そしてデフレをできるだけ長く維持するために政策を選ばなければならない。財政規律をできるだけ麻痺させなければならない。それは財政による成長理論ではない。急激なインフレを起こさせないためにも財政による慎重な拡大が必要だが、どこにも金融的魔術を生み出させてはいけない。そのための国家の民主主義的制度を利用しても構わないだろう。しかし、それは資本主義の死を促進するための政策でなければならない。
 企業は既に国境を越えてその所有権を移動させている。国際金融資本は世界経済の価格差を探してゼロサムゲームに現を抜かしている。しかし、08年恐慌からの債務拡大はゼロ成長によって更なる拡大へと向かい、実体経済への停滞を生み出している。世界貿易は縮小が始まっているが、人々は国境を越えて移動し始めた。債務者としての権利を留保して労働者階級はゼロ金利貨幣に代わる新たなコミュニケートを模索し始めるだろう。債務を背負っている労働者階級こそがその任にふさわしいのは言うまでもない。
 今、我々の危機はむしろ欧州における排外主義右派や米国における人種差別的な保守潮流、日本に於いてはアナクロニズム的な復古主義右派が、資本主義の緩慢な衰退を受け入れない人々によって構成されているということだろう。危機に対して左派が成長理論にこだわり、右派が孤立国家へと閉塞するなら、世界市場の管理者たちは恐慌、デフォルト、戦争というリスク戦術を取りやすくなる。それでは彼等の勝利に終わるだろう。そうさせないために何が必要なのかを問うべきだ。

4.地殻変動への選択

 スペインやギリシャで起こっている大衆運動、フランスやイタリアで起こっている排外主義、東欧で起こっている復古的右派、米国で見られる人種差別的な排外主義、これらの地殻変動を思わせる世界的な動きは、イスラム圏での民主化運動以降の世界史的流れであり、帝国の引き起こした新自由主義的危機戦略の結果でもある。これらはまだ次の時代の萌芽的な様相を示しているだけで、一見混沌として見えるが、確実に70年代以降の金融帝国体制の崩壊を指し示している。それらに対する我々共産主義者たちのいつもながらの立ち遅れは目に余るものがある。従来の政治主導型の、政治戦略型の革命論はもはや無効であるし、古めかしいプロ独理論は何の役にも立たない。
 国家と国家財政が世界金融資本の下で管理されている限り、政治制度や多数派工作、民主主義的手続きは何も生み出さないばかりか、単なるお色直しであり、人々を幻滅と絶望へと導くだけである。巨額の債務に縛られているのは労働者階級であるが、これは制度の問題でも法の問題でもなく資本主義の問題である。国際金融資本が久しく高利貸しとなり、我々を人間ではなく資本として徹底的に貶めてきたことに対する反攻は、制度と法を越えて、資本の廃絶と商品=貨幣の廃棄に向けた闘いの構築を迫っている。人類史的な巨歩を踏み出さなければならないのだ。


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