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現代のアナーキズム(1)

斎藤 隆雄
401号(2015年9月)所収


前世紀末以降、階級闘争に現れる自然発生性にはどのような特徴があるのだろうか。ソビエト連邦を解体へと追い込んだ東欧の大衆的決起やその後の先進国を襲った経済危機への大衆的動員には、ある種の傾向性が垣間見える。先進国首脳会議に対する抗議行動と東欧の民主化運動には何の共通性があるのだろうか。更に、今世紀に入って現れたアラブ諸国の民主化運動やスペイン、アメリカでの占拠闘争は何を指し示しているのだろうか。これらは真剣に検討するに値する自然発生性であり、階級闘争の新しい傾向を顕している。

1.権力を執らずに社会を変える

今世紀に入ってから、いわゆるアナーキズム系の理論が相次いで現れている。それは、中南米の階級闘争に示されているような農村地域の解放闘争や資源を巡る自治権闘争など多彩な運動が前世紀末以降現れるようになったことと密接に関係している。更に、シアトルでの反グローバリズム運動に見られるような個別課題ではあっても、それ自体は極めて国際主義的な連帯運動もまた帝国主義者たちのイベントに合わせて各地で闘われている。これらは概ねゆるやかなネットワークを結びながら、相互にその戦いを学びながら成長してきていると言っていいだろう。既存の労働運動や市民運動も交え、あるいは巻き込んでその規模が年々拡大してきていることも事実である。
これらの新しい社会運動は、前世紀の80年代以降この30数年間を通じてある一貫した社会精神に基礎づけられたものとなっている。それは、同じ世紀の初頭に席巻した社会主義革命運動と鮮やかな対称性を示している。言わずと知れた、権力をあえて追い求めないという精神である。これらが単純にアナーキズムの精神の復興だと捉えない方がいい。なぜなら、19世紀の無政府主義思想が今日そのまま亡霊の如く蘇るには情勢があまりにも変転しているからである。あえて言うなら、19世紀の無政府主義が中世末期の農民反乱に起源を発するとするなら、ブルジョア革命たるフランス革命の乗り越えとしての意味を持っていたことを思い出さねばならない。
今日の新しい社会運動がアナーキズムの精神に基礎づけられているとするなら、1917年ロシア革命の乗り越えとしての意味を持っていると考えるべきではないだろうか。我々が長年このロシア革命の乗り越えをスターリン批判と社会民主主義批判に傾注してきたことを思えば、1980年代末期のソ連邦崩壊過程がその不徹底性を暴露したと言われても致し方ないだろう。問題は、17年にレーニンが突き当たった課題を再登場させているのだ。そう、権力問題である。
80年代以降の新しい社会運動が、その社会的領域での広がりの内部における民主主義問題においても、またグローバル・ガバナンスの周縁における権力問題の先鋭化においても、常に権力を相対化して捉える傾向を示してきた。中米に於ける反米闘争の苛烈な戦闘においても、反グローバルの旗の下における人種闘争やラディカルエコロジー闘争、フェミニズム闘争においても権力問題は、常に相対化された位置に置かれ続けている。それは、明らかにロシア革命の敗北、ソ連邦の敗北を明示的にも、隠された教訓としても示しているのだ。つまり、権力を奪取することは必要ではない、問題はその後の世界を如何に変革して行くかが明らかになっていないことだ、という共通した壁を意識するからなのである。
権力を執らずに社会を変えるという精神は、権力の重要性を軽視することではない。近代に於けるこの後半の千年紀における権力問題への根底的な批判の開始を意味するのである。

2.二階建て戦略は可能か

今日のアナーキズム運動は様々な傾向を孕みながら多彩な戦術を駆使して、国家の、とりわけ官僚機構/警察権力へのゲリラ戦を展開している。時にこれらは、予想もつかない展開を生み、大衆的創造性を発揮する。既存の左派の運動戦術とは一線を画している、この戦術の多様性はどこから来るのだろうか。
かつて欧州において、68年革命に至るまでの特筆すべきアナーキズム運動として現在も注目されているシチュアシオン派の運動は、カウンター・カルチャーとしての影響力を世界中に拡散させた。これらのある意味での伝統的な思想傾向は、今日の社会運動に大きな影響力を及ぼしている。日本における68年革命がこれらの傾向を全共闘運動として体現していたと考えても、あながち的外れとはいえない。全共闘運動への歴史的評価は未だに定まったものではないにしても、これらの社会運動の持つ意味について、共産主義者はこれまで十分に検討し、教訓化したとは言えない。それは、カウンター・カルチャーのある種のものが資本主義的文化に取り込まれ、脱色されて、あたかも新しい資本主義的創造性であるかの如くに立ち現れてきたことと無関係ではない。左派がそのことをもって、これらの傾向への一面的否定へと傾いたのは確かであろう。
しかし、それらの応答の根底にある基準は、権力問題への立ち位置であったと思われる。このことは今日のアナーキズム運動とその思想が再度の応答として提起している、「権力は執らないぞ」と宣言することで、我々に挑戦してきているのである。我々はこれに対し、応答する義務があるだろう。
その第一歩として、私はデビッド・グレーバーを紹介しつつ検討してみたい。彼は革命戦略/思想を二つの層に分ける。「ハイセオリー」と「ローセオリー」と名づけられたこれらの構造は、翻訳者によって「高踏理論」と「低理論」と訳されているが、この二階建ての理論構造は日本のアナーキストである矢部史郎が次のようにまとめている。
「グレーバーさんは『高踏理論』であるマルクス主義は革命戦略のための理論的・分析的言説を目指す傾向があり、『低理論』のアナーキズムは革命実践のための倫理的言説を目指す傾向がある、と整理されています。」(「資本主義後の世界のために」p.191)
つまり、既存の共産主義運動は分析的理論をもって革命の全体像を描くが、アナーキストは倫理的な課題にも対応する、と。これはどういうことだろうか。
グレーバーによれば、革命の必要性を分析的に描いても、それでは革命は起こらない。
「人は青写真からでなく実践形態から自分の思考と展望を発展させるのです。展望は常に実践の中に埋め込まれているのです。もし方法と目的が一致する状態を望むなら、人はまず色とりどりの多様性と差異が尊重される環境を整えなければなりません。アナーキストの実践倫理はそれを強調します。」(同p.30)
一昔前なら、おそらく左派はこういう主張を「沼地派」と言い捨てて却下したことだろう、膨大な実践と犠牲の後に何も残らない実践唯一主義だとして。しかし、彼は他方で「ハイセオリー」の必要性も強調する。
「…自分を純粋なアナーキストと信じたい人たちは、私がマルクスを参照するのが気になるのです。しかし私はそのようなセクト主義的論理には関心がありません。マルクス主義の伝統には、実に多くの興味深い思想が含まれていて、これを一括りに否定し去るのは愚の骨頂です。」(同p.31)
こういう柔軟な発想が可能な所以は、彼が文化人類学を研究する人であったからかもしれない。ロシア革命以降、現在に至るまでの百年間に生まれた様々な思想の中から多様な社会運動理論へと応用される思想を取り込む必要性をここでは評価する必要があるだろう。そういう前提を踏まえて、クレーバーの二階建て理論を振り返るなら、彼の言いたいことが見えてくる。おそらく、彼は既存の左派が組織された労働者階級の整然たる運動に依拠しすぎたこと、あるいは「ハイセオリー」偏重のセクト主義に陥り、組織温存型の非実践的運動に陥ったこと、多様性を取り込むことに失敗し、運動の画一性を克服できなかったこと等々を批判的に見ているのである。それはひとつも間違えてはいない。アナーキストが階級闘争の自然発生性を鋭く捉える感性こそ、すなわち革命戦略の一階部分は我々が学ぶべき多くのものを含んでいる。
では、何故それらの多様性を掴み取る感性や倫理を既存の左派が失ったのか、更には我々が理論偏重の、あるいは組織偏重の党派闘争に明け暮れて、現に目前に在る対抗運動の萌芽を見失ったのかが問われなければならない。それはここでの作業ではないにしろ、真摯に問い続けなければならないが、その問いへの解答の一端が、先に挙げた権力問題を巡る分岐と密接に関係しているのである。なぜなら、我々は革命思想を二階建てとは捉えなかったし、彼の言う「ハイセオリー」は「ローセオリー」と一体のものであると考えていたからである。つまり、論理が倫理を飲み込んだとも言えるだろう。何故二階建てにしなければならないかは、だから、自ずと明らかである。グレーバーの言う倫理を論理から導き出さねばならないのである。それが、まさに権力問題に行き着く課題だったのである。
もう少し詳しく見てみよう。「ハイセオリー」における国家論とはどのようなものなのか。
「われわれが国家と呼ぶものは、実際にそれらが存在していないところに存在していると想像するものです。それらはある意味でユートピア的妄想なのです。だから国家は二つの要素の合体でできているといえます。ユートピア的妄想と急襲的略奪機構です。それらの間には原理的に何の関係もないのですが、実際には合体する傾向にあります。」(同p.42)
この国家論の是非を問う前に、ここでも幻想と現実が二重写しになっていることに気づく必要がある。国家=暴力装置という有名なドグマは、この二重構造を一重として捉えようとすることで、実は国家の持つ幻想性を見失ってきたという側面があることに気づくのである。この幻想性を、後に市民社会論という形で復元したことで、ヘゲモニー論が登場するのではあるが、彼は初めから国家をユートピア幻想と捉えてしまっているのである。
ここで言われている国家とは、暴力装置と切り離した「国家」のことである。だから、暴力装置が消失すれば、人びとはこの妄想から覚めるのである。と、言いたいところではあるが、おそらくそうではないだろう。なぜなら、この妄想は「ユートピア的」なのだから。むしろ、この国家論が有効であるとするなら、国家を幻想と捉えることによって、革命運動に倫理性を思い出させることができることである。「権力を執らない」とは幻想を楯にして暴力装置を使うことの是非を問い返させるからである。
このことを我々の「ハイセオリー」に適応するなら、どうなるのか。プロレタリア独裁が形成する国家が「妄想」であるとするなら、「妄想」を支える略奪機構は自ずと腐敗せざるを得ないだろう。二階建て戦略が示す意味は、実にこういうことになるしかないのである。しかし、それでは革命は永遠の彼方に遠ざかるだけではないのだろうか。現代のアナーキズムは、やはり永遠の自然発生性に終わるのだろうか。

3.個人主義的共産主義

グレーバーの共産主義像は、きわめて素朴である。彼は言う。
「ほとんどの人たちは『原始共産主義』とは、土地を共同所有する社会、あるいはすべてが共同所有されている社会とみなしています。モースはその考えは間違っていると言っています。第一に個人的所有のない社会など絶対にありえない。第二に共同所有があったとしても、誰がそれを管理するかという問題が残ります。…『実践の表象』をではなく『実践』を見るならば、『各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』という原理にもとづいて、お互いの財産やエネルギーを使い合う関係、私があなたにものを頼む権利の限界は、あなたが将来私に頼むかもしれないことの限界だけだという関係???これはあらゆるところにあるのです。もしあなたと私が、お互いに必要な時に助け合うだろうという想定にもとづいて、いちいちどれだけ私があなたに贈与し、あなたは私にどれだけ贈与したか計量しない関係をもつならば、それは共産主義的関係である。少なくともそのような共産主義的関係は、近しい友人関係、恋人、家族の間には存在しています。…あらゆる人間社会は、そのような個人的共産主義のネットワークによって縫い合わされているのです。」(p.52-3)
彼の言う共産主義像は、日常生活に普遍的に存在している協同労働のことである。その労働の日常的場面での交換関係、社会関係を「個人主義的共産主義」と呼ぶ。これはそれ自体で革命理論の基礎となるのだろうか。あるいは、このような発想がどういうところから招来されているのだろうか。文化人類学者のモースが引用されているように、彼は共産主義理論を資本主義から導き出していない。長い人類史の中から資本主義に取って代わるオルタナティブを探そうとする時に、抵抗運動の基礎にある日常性からその種を取り出そうとしているのである。今日、資本主義がよろめき、崩壊しつつある時に、多くの人びとが資本主義にしがみついているのは、「よりましなオルタナティブを想像しえない」状態に縛り付けられているだけなのだから、なぜこうなっているのかを解明しなければならないという。彼に言わせれば、オルタナティブを想像したり、創造したりすることを「恐れる」のは、官僚組織が「未来を破壊するために企図された、巨大機構」として機能しているからだと。
国家の幻想を打ち破り、我々の労働と創造性を収奪する巨大機構である官僚組織を破壊すれば、日常性に裏打ちされた共産主義社会が立ち現れるのだろうか。
「かくして共産主義はここにすでにある」と彼は言う。「資本主義は、単に共産主義を管理する貧しいシステム」でしかないというのが彼の資本主義観である。確かに、彼の言うように資本主義と国民国家の体制は強固に見えて、意外と脆いものかもしれない。国家は時として戦争によって消滅したり、経済的危機によって破綻したり、デフォルトしたりする。歴史上、これまでにいくつもの国家が消えていった。資本主義もこれまでその時々で姿を変えて、変態してきた。が、しかし一度も共産主義を実現したことはない。おそらく、問題はこうだ。資本主義も国家も脆いが、共産主義は難しい。では、何故?
現代のアナーキストが言う「いまここにある共産主義」の実現が困難な理由は、資本主義や国家が作り上げたシステムをそのまま維持しようとするからである。彼らの言う「個人主義的共産主義」はまさに個人的であるが故に、実現困難なのである。共産主義が社会として機能していくためには、システムとならなければならない。個人の集合体である社会が素朴な協同労働だけで動くと考えるのは、かなり無理がある。そのことは、クレーバー自身も百も承知なのだが、彼がそこで持ち出すのが、「フェティシズムがなくなることはない」という考えである。つまり、「君が新しい社会的現実を創造しようとする場合にもまた、ある種の詐欺がなくてはならない」という。これこそ、「高踏理論」では革命が起こらないという彼の主張の中心的なテーマだと考えていいのです。そして、このことをはっきりと主張するというのも楽しい限りではある。システム構築のむずかしさを、彼ら流に言えばコモンを構築することの難しさがここでは吐露されている。
生産構造や分配方式などの資本主義的システムを市場という詐欺的システムで動かしているのが現在だとすれば、もう一つの詐欺的システムである共産主義で動かしてみればどうでしょうか、と提案しているのだが、この人を食ったような話には、しかし真実が孕まれていることも確かである。フェティシュという人間社会に固着している機能を正面から攻撃せずに、複眼的な理解として共生させているところにその特徴がある。この理解は、「王様は裸だ」と暴露すると同時に、「裸になろう」と呼びかける皮肉を真顔で叫ぶことで、協同労働に付着している狭さを逃れようとしているかのようである。

4.共産主義と自由

現代のアナーキズム理論には現在様々な派生的思想が現れている。グレーバーが紹介する、カストリアディスやヴァネーゲム、バスカー、ホロウェイなどと共に、欧州の理論家であるネグリたちの「マルチチュード論」や柄谷行人の「第四の交換様式論」など多彩な理論展開が見られる。これらに共通するものを取り出すのは容易なことではない。しかし、ひとつだけ挙げるとすれば、共産主義社会における自由の問題があるのではないだろうか。ソビエト体制の崩壊以降、とりわけ欧州の社会変革的運動の基本的な基調が、自由という課題を抜きには語れなくなっているということだ。この二つの行動原理を如何に統合するか、あるいはしないかという新しい課題が今の共産主義思想には求められている。それは端的に言えば民主主義の問題である。ミクロな個人主義的共産主義の観点から言えば、互酬性の問題に帰着できるが、もはや姿形も見えないグローバル世界の中では民主主義は共和制国家と共に、明らかに妄想の域に達している。その限りでは、全面的政治暴露という、この妄想の社会意識を批判し続けなくてはならない。おそらくこのことは現代のアナーキストたちと共有できる課題ではあるし、また我々が彼らから学ぶことも少なからずあるだろうと、思われる。
新しい妄想が必要だとするなら、それは必ずこの民主主義という妄想にぶち当たるはずである。これが新しい社会の中でどんな形をしているかについては、個人主義的な領域に止まってはいけない。これを個人主義的なものに切り縮めてしまうと、恐ろしく共同体的な狭さを生んでしまうという矛盾に満ちた事態を招き寄せる可能性を孕んでしまう。今や流行の「開かれた多様性」
という原理は、一秒に地球を七周り半というスピードで巡る情報によって限界づけられていることを忘れている。今一度、このことを再提起して本論考を終える。


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