共産主義者同盟(火花)

香港の学生運動と中国共産党

渋谷 一三
393号(2014年11月)所収


<はじめに>

 中国政府が香港政庁の首長および議会の普通選挙制度を改悪し、本土並みの管理選挙を導入しようとしていることに対し、香港の民衆は学生を中心に従来通りの普通選挙の維持を求めて、幹線道路を封鎖して、改悪案の撤回を求めている。
 中国共産党追随層は一部住民をけしかけて、あるいは住民を装って直接に、学生に道路の封鎖の解除を求めて殴りかかったりする工作活動を行い、学生が民衆から遊離しているばかりか民衆に敵対していると印象づけている。
 工作活動を当然なこととして常に行っている中国共産党にすれば、手慣れた常套手段にすぎないのだが、日本のマスコミは反共マスコミも含めて、まんまと中国共産党のキャンペーンに包摂され、学生と住民の対立として「報道」している。マスコミとしては誰も取材に行っていないくせに「報道」して平気になってほぼ10年、工作活動を見抜く力すら失っている。
 ともあれ、天安門虐殺を経験してしまっている学生運動が香港で問われていることは尋常ではない。
 本稿は、学生運動の苦難、学生運動が直面している課題を考察しながら、中国共産党の堕落・腐敗を必然的なものとして考察してみたい。

1. 民主主義

 民主主義という概念は資本主義と共に生まれた。それはたまたま同時に起きたこと
 ( co- incident )ではない。商品の交換価値が国境や地域によって左右されることなく完璧に平等であることが資本主義の大前提であり、であるからこそ資本は国民国家を求め、さらに国境をも越える存在となり、資本主義が普遍化する根拠となったのだった。
 したがって、平等や民主主義という概念自体が不断に資本主義を生む傾向を帯びるのだが、民主主義は本来共産主義のゆりかごである。カストロにせよ毛沢東にせよ、徹底した民主主義者・民族主義者とよんでも差し支えない。
 今回の中国政府の選挙制度改悪は、民主主義の破壊であり、中国本土並みの抑圧体制を香港に構築し、「1国2制度」を解消して、「共産党を標榜する支配階級に独裁された資本主義国家を完全な形にしようとするものである。
 これと闘おうとする直感は、より平等(=だから自由)の交換価値を要求する、より純粋な資本主義から生み出された直感である。言い換えれば、現中国の資本主義は、資本主義としては猥雑で歪曲された資本主義であるからこそ、香港民衆にとって受け入れがたいのである。
 したがって、中国共産党が香港民衆を資本主義の道を走る者たちと批判する資格などない。中国共産党の資本主義が歪んだ国家独占資本主義なだけなのだ。
 香港学生運動および香港民衆がより民主的な民主主義を求めるのは、そのままではより洗練された資本主義を求める方向に不断に解体していく傾向を帯びる。これが、対話路線を生む内的根拠である。現在までの普通選挙が認められれば収束する性質のものなのである。
 他方、実際の戦術は対話路線ではなく、道路を封鎖占拠してしまうという圧力の力学に拝跪した戦術であり、学生運動内部には対話を一般的に排斥しようとする傾向に拝跪してしまう対話拒否部分が存在している。対話を拒否してもよい。だが、何を実現しようとしているのか、そのために何を為すべきか。この問いに答えるものを持ってはいないはずである。このことと、圧力をかけるという戦術が純粋に力学的に求める道路封鎖という戦術との乖離ないし矛盾、これが、学生運動が直面している課題の一つである。

2. 一か月を越えた道路占拠

 道路占拠が一カ月を越え、タクシー・ドライバーや沿道商店主との利害の対立は先鋭なものになった。この矛盾を放置すれば、学生運動側の敗北は必然となる。生活の為に封鎖という戦術が邪魔になっている大衆に対し、闘争の大義を前面に出して不利益を飲めと迫る上から目線の尊大な姿勢なくしてはこの戦術を続けられないからである。
 狡猾な中国当局は、タクシー運転手や商店主との対立が先鋭化するのを待つ戦術をとっている。
 学生は当局との対話を決めるしかなかったが、当局が学生の要求を飲む可能性はない。
 中国当局が学生の要求を飲む可能性があるのは、道路封鎖に利害が対立する民衆が怒りの矛先を学生の要求を飲まない当局に対して向けた場合のみだが、中国当局の住民煽動が効を奏して、怒りの矛先は学生に向けられている。
 仮にこの怒りの矛先を中国当局に向け直すことに成功したとしても、当局は決して学生の要求を飲まない。この場合、学生運動側は闘争方針を提出することができない。戦術が道路封鎖という一つの戦術に限られているからである。
 赤シャツ組と黄シャツ組が交互に道路封鎖を続けたタイの経験から学んでいる中国当局は、行き詰まるのが学生運動側であることを知っている。
 学生の道路封鎖戦術は早晩惨めな敗北を喫することになる。当局との対話を機に封鎖を解除し、より人民大衆に依拠した運動に再構築する以外にない。この事業に早急に成功することはありえない。人民大衆に依拠するということは、人民大衆自身の運動の構築・高揚の中で、そのわずかな一部として運動するという位置に自らを置くことを意味するからである。決して、学生運動を人民大衆に支持させるということではないからである。
 天安門事件の再来を望んで、仮に学生の犠牲の上に第2の天安門があったとしても、それは中国への国際的反感を増大させることに役立ちはしても、運動の根底からの組織という課題を先送りにするだけのことにしかならない。

 香港の学生の怒りはまっとうなものだ。その怒りが勝利するためには壮大な運動と道のりが必要だ。それは天安門事件によって中国の学生・青年が背負った課題と全く重なるものである。

3. 民主主義に敵対する資本主義の必然としての汚職・不正

 温家宝元首相の私財は2150億円以上だと日本のマスコミは報道している。その額は推測する以外にはないので、額自体に大した意味はない。日本であれば、首相になったからとて到底このような蓄財はできず、「汚職まみれの政治家」などいなくなったし、かりにこのように汚職まみれになった所で、発覚して刑務所に入り、蓄積した財は没収されるだけである。
 こうした違いは、<1>節でみたように、民主主義の程度の違いに根拠を持つ。
 同一の商品の価格が地域や販売相手によって異なる場合、商品は国境を越えることがないばかりか地域を越えることもなく、原理的には個人を越えることもない。商品の交換価値がどこにおいても同一であることが平等の概念の根拠であり、これが政治的には民主主義の概念を生み出す。
 民主主義を口にするブルジョアジ―が実際の人間に対しては決して平等の意識を持っているわけではなく、むしろ反対に自らの高所得は自らの天賦の才能への報酬だという観念を持っている差別者である。なのに、彼らが民主主義を口にするのは、民衆を美しい言葉で騙して支配するためにではなく、「本能的に」価値の平等性を信仰していることから自然発生する意識なのである。この「本能」は、実は毎日、毎回、一回一回の商取引を行う度に市場で生まれている意識なのである。ブルジョアは市場を通じて、毎回、価値が価値通りに交換されることを追求しているのである。
 かく実在の人間に対しては決して向けられることのないブルジョア民主主義の平等意識が日々発生しているのであり、これがブルジョア民主主義者の限界を形作っている。また、このような限界が必ず付随しているブルジョア民主主義からその概念上の徹底として共産主義思想が資本主義から発生する根拠となっている。
 このブルジョア民主主義にすら敵対している中国の支配階級は、価値の交換を「適正に」行うことを至上命題とする<市場>を形成することすら出来ていないのである。
 彼らが収賄し私腹を肥やすことはもちろん、資本家が贈賄していい目をみる不正、利益の上がる起業を一般には認めず特権化する不正、原材料を安く入れさせるために経済的圧力以外の政治的圧力をかけることができる暴力、などなど、様々の不平等な競争は民主主義と相容れない。
 中国共産党が腐敗・不正の撲滅を叫んでも、それは自分以外の不正・腐敗を許さないという新たな不正の宣言以外の何者でもない。
 腐敗が無くなるどころかより大規模になっているのは中国のここ30年の歴史が示してあまりある。
 中国「共産党」に不正・腐敗をなくすことは出来ない!

 国際共産主義運動は中国「共産党」の打倒を要求している。




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