共産主義者同盟(火花)

新理論の検討-『債務共和国の終焉』

斎藤 隆雄
376号(2013年3月)所収


 昨年末、『情況』誌別冊に新理論の集大成的な論文が掲載された。市田氏をはじめとした四名の新進気鋭の思想家たちによる共同論文(『債務共和国の終焉』)である。ここで展開されている理論は、従来から注目を集めていた欧州の新しい社会運動の潮流を理論的に支えている認知資本主義論や復権しつつある新しい共産主義理論を大胆に取り込みながら、更に日本に於ける若い世代の社会理論をも批判的に取り入れている点で画期的である。また、今回の『情況』別冊全体が「現代政治的理性批判」と銘打って今日の日本に於ける社会運動を支配している左派的理論構造を批判しているという意味でも注目に値すると思われる。
 これまで、現代資本主義の構造変容を捉え、その変革の方向性を探る試みを続けてきた筆者としては、この論文を丁寧に取り上げ、かつその有効性と射程範囲を対象化していくことは必要不可欠と考える。そこでまだ未読の読者も想定して、やや冗長となるかもしれないが、丁寧にその論理展開を追ってみることとした。

1.債務共和国とは

 本論文の冒頭は国際金融機関で有名なモルガン・スタンレー社の宣伝文書の引用から始められている 。その文書のタイトルは『世界の債券市場の進化』。内容は、文字通りこれから債券市場は活況になるから、おすすめですよ、ということだ * 1。 市田氏らが紹介するのは、そのレポートの中に示されている統計資料である。レポートによると、現在の世界債券市場の総額をおよそ100兆ドルと推定しており、23年前の1989年の15兆ドルから比べて6.7倍に膨れあがっている。まさに「革命」と呼ぶべき拡大である。何故なら、その同じ時期に世界の実質GDPは20兆ドルから70兆ドルに拡大したが、その率は3.5倍にすぎないからである。
 この二種類の数字系列から何が読み取れるのか。市田氏らはこれを「…世界の債券市場は規模において『生産』市場に追いつき、追い越したということが分かるだろう。世界はこの25年間で『生産する』より多く『借りる』ようになったのだ。言い換えれば、私たちは未来の富を食いつぶしながら、生きるようになった。」(p.11)と言うのである。
 確かに、この債券市場の規模拡大は驚異的なスピードであり、手元の資料(『証券市場の真実』参照)によれば債券残高が世界GDP総額を上回ったのは90年代末のようだ。まさに世界が日本化しつつある、つまり借金経済となっているということだ。ただ、ここで注意しなければならないのは債券は資産であり、GDPは付加価値であるから、単純な比較には説明が必要である。つまり、「未来を食いつぶしている」という表現は誤解を与える可能性がある。日本に於ける赤字国債の累積がGDPを遙かに上回っているという現状から、未来世代に負債を追わせているという今喧しく宣伝されている危機報道は誰もが知っている現実だが、それと同じことを言うだけなら、わざわざモルガンのレポートを取り上げる必要もない。
 市田氏らの言いたいことは、「富の現時点における不平等、不正義な移動が、債権債務関係を媒介に拡大している」(同)ということ、それが日本だけでなく世界規模で起こっているということなのである。この借金地獄は誰から誰への富の移動なのだということを明らかにする必要がある訳である。
 本論文も指摘する通り「債券の最終的購入者は今日、『投資家』という特別な種族ではなく、ほぼ私たち自身である。私たちは私たち自身に金を貸している。」(p.13)のであるが、問題はだから貸した金は返ってくるのかという疑義と借りた者が勝ちかという予測が錯綜することとなるが、そこまでの過程で問題が介在している。つまり、債券証書という紙切れは既に債務者によって消費されているはずなのであるから、その返済は将来の収益によって補填されなければならない。それが未来を食いつぶすという比喩なのである。そして、更にその返済(未来)の不確定性によって生まれるリスクを保護するための保険もまた債権となって二重化三重化となっているのが現在の金融市場で実態である。
 「公的債務を重視するケインズ主義も、民間債務に成長の主導役を期待する新自由主義も、どちらも『保険』(債務保険)思想であった。私たちの未来を担保に入れ、そのことでマイナスの潜在的《共》を創出し、市場参加者の全員を一蓮托生にする『保険』装置であった。」(p.14)のだから、GDPの拡大が持続する限りはまだはかない希望もあったが、もはやそれもかなわぬ希望となったというのが、先に示したモルガンの数字なのである。まさに「最終負担者探しを『政治問題』にするという契約であった」訳である。そして、その政治的決定が日本では増税やインフレターゲットという形で、その一端が現れているのだ* 2
 しかし、市田氏らはここで「マイナスの潜在的《共》を創出し…」と述べているが、未来を担保に入れるのは経済活動の基本中の基本であり、投資活動は一般的に未来予測であるからそれ自体がマイナスというのはこの段階では言い過ぎの感がある。資本主義経済は常に未来の収益性を求めて投資を繰り返し成長していくものである。ただ、収益性のない投資が蔓延しているということであれば、話は別である。それはバブルであり、ありもしない儲け話に資金を投入する詐欺まがいの経済行動は資本主義経済には付きものである。また、生産を上回る債権債務という点においても、巨大プロジェクトに巨額の資金が必要となるというのであれば、それもあり得る話である。後の行論で明らかになるが、市田氏らの論議はそういうミクロな問題ではないことを予め述べておきたい。
 産業資本主義段階から帝国主義段階に移行する 20世紀初頭において銀行資本が果たした役割もまたここでいう債権債務関係であり、利子生み資本の巨大な発生であった* 3 訳であるが、ケインズの時代と今日では幾分情況が異なっていると言うこともここで付け加えておかなければならない。敢えてここでケインズを引き合いに出す必要はおそらくないだろうと私は考える。なぜなら、前稿において述べたように、ケインズ主義をあまりに多用しすぎると現在の資本主義の変容を見失う危険性が大きいからである。1930年代の米巨大企業は既にこの時点で自己金融を成長の原資にしていたという事実があり、現代の金融資本の扱っている架空資本は現実資本と関係を持たないものが圧倒的であることから、ケインズ理論そのものが既に現代では無効であると思われるからである。
 本論文の表題にある「債務共和国」とは、つまり「借金共和国」という意味である。だが、それだけならブルジョア達の危機宣伝と同じだ。誰からの借金かを問わなければならない。先進国全部がそうなっているのなら、誰から借金するのか?そう、自分自身から。というより、新たな収奪構造がそこにあるということなのだ。では、どんな構造か、どんな変化があったのか。
 ここで付け加えて言うなら、通俗的なこれまでの説明は先進国の借金は新興国の貯蓄から賄われているというものである。これは米国の国債を中国が大量に購入しているという事実から納得しがちである。また、90年代から頻発する国際金融危機によって新興国は外貨準備を積み上げており、これが先進国の借金原資となっているという説明もなされている* 4。 これらの説明で事態が明らかになっているのか、というとそうではない。なぜなら、この間のリーマンショックやEUのソブリン危機で新興国が危機に陥っている訳ではないからである。先進国が借金を踏み倒すのなら、貸しているとされる新興国が危機に陥るはずだが、そうはなっていない。つまり、この「借金共和国」というシステムはまったく違う構造変化に原因しているのである、というのが本論文のテーマである。

2.等価交換原則の停止

 「富の現時点における不平等、不正義な移動が、債権債務関係を媒介に拡大している」と現代資本主義の変容を捉えているが、その根本的な根拠はまた別の所にある。借りた金を返さないで済む合法的な方法があるのなら私も知りたいが、そうではないようだ。つまりミクロ経済を問題にしているのではなく、現実資本と架空資本を問題にしている。「『作った』以上に『借りる』根拠など、等価交換の原則からは出てこない」(p.12)と言うのである。あるいは、「等価交換原則がいちおう支配する生産過程のまったくの外から、富の横取りが行われている」(同)とも言う。これはどういう意味だろうか。
 年々の世界のGDPを越える債権が世界中を駆け巡っているという先に挙げた事実から、経済の原則である等価交換が行われていないのではないか、という疑問を提起している。あるいは生産過程の外部から収奪が行われているのではないかとも言う。
 ここで言う「等価交換原則」とは、生産過程における富の移転と労働力の価値(労賃)の見かけ上の等価のことである。生産過程内部で移転された価値部分がいわゆる剰余価値であり、それが利潤や地代となって現象すると本来考えられている。形の上で等価に見えるが、そこに搾取があるという資本主義の基本構造が縮小しつつある、というのである。本当にそうなっているのだろうか。
 「…労働が作り出す価値の総額を、社会が全体として消費可能な価値の絶対的限界にしているはずである。さらに、等価交換の世界における債務とは交換に先立ち消費された(しかし将来同額が支払われる予定の)価値であるから、労働価値原則は同じ総計を債務の絶対的限界として課しているはずである。この総計以上に『借りる』ことは、労働価値説に照らせばありえないのである。」(p.12)
 非常に分かりにくい表現なので、申し訳ないがミクロな例を挙げて考えてみよう。住宅ローンの場合、借金した方はそのカネで家を建てる訳であるから、その時点で大工に建築費用を支払っているので、付加価値に計上される。だが、それなら例えばひとつの国の住宅ローンを全体で見ればそれがすべて付加価値化していなければならないのに、マクロで見ればローンの方が大きいのは何故だと問うているのである。「債務の絶対的限界」というのはそういう意味であろう。
 ここで問題となるのは、債権債務の年々の額が年々の世界GDPを越えているのではないという事実である。モルガン・スタンレー社の数字は残高である。一年間に契約された債権債務はそれが執行されたとしたら、付加価値として計上されるはずであるが、その債務はそのローンの期間は残高として存在し続けることになる。だから、本来比べなければならないのは、債務残高と富全体であるだろう。しかしそれはともかく、それにしてもこの額の巨大さは問題にしていいはずである。市田氏の言う「等価交換原則の停止」という表現はレトリック上のものとして受け取り、この巨大な債権債務の額の問題に分析の焦点をあてるべきかもしれない。
 更に、「富の横取り」という問題がある。これは上に挙げた労働価値説問題とは別の回路で行われている。
 「生産過程の外部から生産の果実を奪う脱法的な回路、借りた『価値』を返さなくても罰せられない仕組みが、地球規模で形成されている。これは、価値法則の実質が『革命的』に変わったということではないのか。」((p.12)
 生産過程の外部という限り、それは流通過程か消費過程であるが、おそらくこの場合流通過程ということになるだろうか。あるいは、経済の外部という意味ととれば良いのかもしれない。いずれにしても、生産過程で収奪される剰余価値ではないものということになる。それも、借りた金を返さなくてもいいという非合法的な手法だという。つまり、価値法則が通用しないということであるから、等価交換が流通過程で行われていないか、あるいは経済外の収奪構造があるということになる。前者なら悪徳商業資本の暴利ということになり、後者なら資本主義経済以前の封建制か奴隷制経済と同じ構造ということになる。これでは、どうも説明になっていないので、流通過程における収奪についてもう一度考えてみよう。
 流通過程での暴利が可能なのは、競争概念がない場合であり、価値法則が作用する以上、早晩暴利は解消されるというのが経済学の古典的な考えである。ただ、例外がある。帝国主義時代の資本主義が寡占経済となっていることで、この競争概念が作用せず、価格硬直性が産まれるという現象が既に1930年代に指摘されている。しかし、この場合は製造業資本の場合であって、金融資本の価格硬直性についてはこれまであまり聞いたことがない。
 では、市田氏らは何が言いたいのであろうか。そう、まさに金融資本の繰り出す諸商品の問題なのである。
 「…『保険市場』の総額-デリバティブの元となる想定原本の総額-は現在600兆ドル程度にのぼっている。100兆ドルの債務を六倍に見積もることで、リスク回避が図られているのである。」(p.13)
 金融資本が生み出す様々な金融商品は、80年代以降驚異的な拡大を果たしてきた。金融工学という数式だけの経済学がもてはやされ、投資商品として世界を席巻したのは記憶に新しい。現在もまた新たな金融商品を日々ひねくり回して作り上げようとしている。これらはすべて架空資本であるが、何故斯くの如くに流通するのであろうか。それは指摘されているように、まさにリスク回避である。
 資本主義経済は未来への不確定な投資をなすことで、新たな利益を限りなく追い求めるものであり、製造業であれサービス業であれ、資本の有機的構成の高度化による利潤の飽くなき追求がその本性である。金融資本もその例外ではあり得ない。彼らは、世界中の遊休資本をかき集め、投資先を探し、運用することで利益を挙げる。投資は常に不確定(リスク)である。顧客に対しても自らに対してもそのリスク(危険)を回避するために保険が多用される。保険は、空間的にも時間的にも損失を先送りし分散するシステムであるから、その不確定性は限りなく拡大する。ついには担保価値を越えて破綻する。それが金融恐慌である。
 こういう風に見てくれば、市田氏らが言いたいことは明らかになる。経済に於ける「価値法則」の失効ではなく、金融市場における架空資本の流通法則が価値実体を持っていないということなのである。この金融資本の実態が我々の暮しに、労働者階級の生活に多大な影響力を持っているということが暴かれなければならない。

3.EU共和国のソブリン危機

 ギリシャの債務危機から端を発したEUの金融危機はイタリア、スペイン、ポルトガルへと波及し、財政統合が課題となり、EUの諸国間の統合の弱点が露呈した形となった。大騒ぎしたこの二年間ほどの間、欧州政治は二つの潮流にくっきりと分かれた。
 「財政緊縮(=右翼)か、それとも政府債務による福祉国家の堅持(=左翼)か、という分岐」(p.25)が政治の表舞台に現れた選択であった。一見分かりよい分岐ではあるが、論文はそれが「問題なのではない」と言い切る。左派の債務危機へのスタンスは民主主義問題であって、より拡大された共和国への統合を求めている。つまり、「公共」空間は左翼の領分だとして、「債務が重大問題であるかぎり、『右翼』に出番がなく、『すべての関与者』を公共空間のなかに参入させようとする『左翼』だけが、ことにあたることができるのだ。」(同)という議論を紹介している。ここで言う『左翼』とは欧州社民派のことであるが、左派的論戦はこの公共圏を巡る論議が何かを解決するかの如くに展開されている。しかし、彼らの言う民主主義問題は「現実の『元本』を提供している人々を『関与者』として公共空間のなかに招き入れ、彼らに最終的負担を『合意』させること」なのである。
 そう、「関与者」とはその資格を持つ者であって、すべての市民でもなく、すべての労働者でもない。ギリシャやアイスランドの市民が関与者である訳ではない。そこには選択肢はなく、論者の言うように「ペストかコレラか」という問題である。この合意は新たな債務を産む構造を構築するだけである。今、欧州で進行している事態は ECBによる架空資本の再拡大であることは確かである。EU全体の対外債務を銀行危機から切り離し、湯水のような資金供給によって銀行救済をEU官僚たちは熱中している。一級市民たちの最終負担は繰り延べされ、債務者たちの悲劇は繰り返されることになる。
 欧州の福祉国家体制が持続可能なのか否かという問題は政治上の問題なのか、それとも経済上の問題なのか。つまり、分配上の問題なのかそれとも生産上の問題なのか。左派は前者だと答え、右派は後者だと答える。しかし、それはどちらも間違っている。その問いの枠組みは既に時代遅れであって、事態はケインズもフリードマンも踏み倒して進行しているのである。

4.貨幣レント

 先進国の資本主義経済が根底的に変化しているとする本論文の主要なテーマが、このレント論である。「生産過程の内部で生産された価値を、生産過程の外部から合法的に奪っていく仕組み」は随分昔から存在した。それは地代(レント)である。アダム・スミスが富の源泉を三つの階級(労働、資本、土地)に切り分けた時から始まって、それは現在も重要な経済学上の要素である。
 マルクスはこの三つの要素のなかで地代を剰余価値の一部であり、資本家からの分け前とした。価値を創造するものが労働である限り、土地をただ所有しているだけで収入が得られるという論理は、前近代的なものだと理解することはそれほど難しくない。それは確かに「生産過程の外部から」の収奪であり、かつてイギリス政治を左右した二つの階級闘争であった。地主階級と資本家階級との長い政治闘争は農業や貿易を巡って熾烈に戦われた。
 では、このレントの根拠とは何だろうか。それは「土地の希少性」だと言う。「土地が資本により生産不可能であるために、希少な土地のレンタル料が…『社会的に』生まれた。」のだ。このレント概念は現代では拡大することができる。なぜなら、希少なものは全てレントとしての収入を得ることができると考えられるからである。資本によって生産が可能ではない希少なものとは、現代では土地だけに限らない。ここで問題となるのが、貨幣と労働者である。
 貨幣レントとは、貨幣の希少性ということであるが、貨幣それ自体は現代では管理通貨となって以来、工場で生産できるではないかという疑問が生まれるかもしれない。本論文ではこの「貨幣」を管理通貨か金のことかは明らかにしていないので、とりあえず貨幣金ということとして理解しておきたい * 5。そして、この貨幣レントは「信用制度と株式会社の発展」によって、「貨幣レントに期待する資本所有と、利潤を生む現場である資本経営の分離を推し進める」という19世紀末に現れた産業資本家と金融資本家との分離傾向を生み出す。20世紀初頭にケインズが成熟期のイギリス資本主義を分析した時に問題にしたのは、この金融的収入だけを目的に市場に参入している金融資本家たちであった。いわゆる、「利子生み資本」のことである。
 ケインズのこの問題への発言を本論文も取り上げているので、付け加えて言うなら、彼はこの金融資本家たち(現代の利子生み資本の源泉とは違う)が当時一定の高金利を当てにした投資行動が市場の均衡を破壊し、失業者を生み出す根拠となっていると理解した。当時「利子」の根拠は倹約という美徳への報酬と考えられていたが、そういった心理主義的な根拠から彼は経済学を解放したとも言える。彼の低金利政策の提唱は、だから貨幣資本の希少性を解消することにあった。低い金利で資金を調達できる環境が産業資本家を新たな投資活動に駆り立て、新たな雇用を生み出すという循環を期待したのである。
 だが、市田氏たちが問題とするのは「現代の利子生み資本」である。先に述べた特殊な資本家階級がいる訳ではない現代の金融資本経済を前提として考察されている。その上で、「産業資本の成長がレントの拡張スピードを上回っていなければならない」と言う。でなければ、金融資本家たちはレント(金利)を要求して行動するだろうということである。つまり、有り余る金融資本(遊休資本)に見合う投資先がなければならないということなのである。この分析は、「生産からの資本の撤退」とも表現されている。投資先がないので、資本が滞留しているともいえる訳で、現代日本の1500兆円にのぼる金融資本の活用が論議されるのもそれである* 6
 だから、国家による財政政策によって新たな産業資本の育成と既存産業資本の需要を掘り起こさなければならないことになる。ケインズの有効需要政策とはこのようなものであった、とする。そこで、最初に取り上げたモルガン・スタンレー社のことを思い出していただきたい。債券市場の拡大と生産の拡大との格差が示すとおり、完全に資本は産業から撤退しているではないか、と。そのことは次のように述べられている。
 「ケインズ政策における国債は、国家のイニシアチブにより人々の将来の購買力を利子生み資本に代える装置であり、かつ、それを『生産』拡張に注ぎ込んで利潤とレントを共存させる仕組みであった。産業の資金吸収力が失速したとき、このバランスは崩れる。単に崩れるばかりではなく、利潤ではなくレントを求める傾向(株から債権への資金の移動-モルガン・スタンレーが『革命』と呼んだ現象の底流にある)を加速度的に強めざるを得ず、産業の資金吸収力をいっそう弱めるだろう。」(p.28)
 産業資本の衰退と有り余る金融資本という構図こそ、ここで問題としなければならない。成熟した資本主義経済にとってこの構図は、かつて20世紀初頭のイギリス経済と同じものである。ケインズが嘆いた諸問題もこの構図から来ていると言えるかもしれない。ただ、ここで市田氏らは債権のレントである金利を貨幣の希少性によって生まれるという論の組み立てをしている。これは今説明した経済現象とは食い違う。むしろ、貨幣は有り余っているのではないか。むしろ、管理通貨制度による中央銀行の貨幣供給をこそ問題にしなければならないのではないだろうか。このことは、次に論じる「労働レント」との関係と密接に関わっているので、きわめて重要である。

5.労働レント

 ここまでの新理論の展開は、何とか従来の論理で解釈することができたが、ここからは、全く新たな課題に挑戦することになる。つまり、労働力の価値がレントとなっているというのである。
 「労働が価値を生産しないとするのではなく、労働時間がその尺度であるという原理を捨てる」(p.29)というのはどういう意味だろうか。
 利子生み資本がレント(金利)を求めて徘徊している。しかし、産業資本は衰退するばかりである。故に、産業資本から生み出される剰余価値は減少する一方なのに、利子生み資本はレントを求めて肥大するので、何らかの異なった源泉があるはずである、というのがそもそもの原点である。そこで生まれるのが、「労働レント」という考え方である。
 「固定資本に結合されない労働全般に、賃金ではなくレントの請求権を認めればよい」というのである。すると、先に述べた労働価値説が無効になったという論理とがつながるわけである。では、その根拠は何だろうか。
 「人間の活動全般を『共有地化』し、それぞれの活動に私的所有権を認め(人間の「民営化」)、すべての活動にレンタル料を付す。」(同)ことで、人間活動が希少化されるという。希少だから、レントが発生するはずだ、というのがこの根拠である。あるいは、「人間そのものを利子生み資本とする」とも言う。この発想は、本論文の注にも書かれているが、稲葉振一郎の『「資本」論』から取られているようである。では、この人的資本の論議は今日の資本主義経済の根本現象を捉え、かつ批判できているのだろうか。
 人的資本という考え方は随分以前から存在したことは、ここでも指摘されており、ケインズ派を批判するためにシカゴ学派が考え出した議論である( T.W.シュルツ)。「資本」概念を拡大し、富を生み出すものとその可能性のすべてを資本と規定するという超歴史的な命名を行っている。こういった議論はこれまで何度も歴史的に登場してきたようだが、この発想を現代資本主義の利子生み資本の正体解明につなげようとしている訳である* 7
 実は、こういった発想が生まれる背景には資本主義が成熟するにつれて第三次産業が拡大し、サービス労働に多くの労働者が就労するようになったことと関係している。価値を生み出すのは、第一次と第二次産業だけであって、サービス労働は価値を生まないとする従来のマルクス主義的な発想が、現実の経済とは整合しないように見えるからである。更に、製造業においても機械化が進み、無人工場が取りざたされるようになると、価値を生み出すのは労働ではないのではないかと疑問符をつける人々が増えてきた。
 価値の源泉が労働力であるとするなら、膨大なサービス労働に従事する労働者の労働は何なのか。労働である限り価値を生み出しているのではないのか、という疑問は当然である。「サービス労働は人間の活動そのものに値段を付け、その値段は費用とはなんの関係もない『レンタル料』である。」というのは、本当か。更にたとえサービス労働に支払われる賃金がレントだとしても、それが労働力の再生産費ではないと何故言えるのか。
 「私の身体、情緒的振る舞い、知的能力、等々はすべて、社会的に『希少な私』の私有財産であり、私はそれを『売る』という形式で『貸して』いる。」とはどういうことか。
 労働価値説が従来から批判にさらされてきたのは、この形式が労働という目に見えない不定型なものを扱うからであった。リンネルや背広などの物的な商品であれば、その使用価値と価値との違いは理解しやすいが、労働力という商品は「売る」ではなく、「貸す」と言い換えても成立するのではないか、と思えるのである。では、何故「売る」ではなく「貸す」でなければならないのか、また逆に「貸す」ではなく、「売る」でなければならない理由はあるのか、が問題となってくる。
 労働者が労働力を「売る」と言う場合、買う側の資本家は何を買っているのか。資本家は労働者を丸ごと工場なり、事務所なりに時間決めで拘束し、その指示に従わせて一連の労働行為を行わせる。それが「買う」の意味である。その労働行為によって付加された価値は、出荷された商品なりサービスなりが販売されて回収される。その販売された商品の価値には剰余が含まれている。つまり、労働者と資本家との労働力を巡る売り買いは価値通り(その労働者の生産費、生活費)になされたにもかかわらず剰余が生まれるという仕組みこそ、資本主義経済の秘密であった。では「買う」という表現が何故使われるのか。一般的に買ったものは丸ごとその購買者の所有物になるはずであるが、労働者そのものを買うのではなく、その労働能力を買うのであり、商品売買に似せて「擬制」しているのである、ということになる。この労働力を巡る特殊な売買は、実はサービス労働において更にはっきりとする。サービスとは対購買者へのある種の行為をもって売買と称していることが多いのであるから、姿形がはっきりしていない。購買者は、販売者の身体行為全体を管理する必要が生まれる。つまり、資本家が労働者を雇用する時に生まれる労務管理と同型の問題が生じてくるのである* 8
 故にだから、ここでそれらを「貸し借り」という擬制に入れ替えても問題はないということになるのだろうか。労働力商品の売買の場合はその価値基準を労働者の生産費として、一般的な商品売買と同様に、一般的社会的労働という概念で統一されていた。では、レンタル料はどうなのか。何をもってその価値を計るのだろうか。一般にレンタル料はその商品の価格の割引現在価格であるから、その商品の価値が確定していなければレンタル料も確定しない。では、労働力の価値はあらかじめ確定されていなければレンタル料も確定できないことになる。
 「『人的資本のレント』と『価値』は、どこまでも自己言及的である。将来見込まれる利益をどう現時点において評価するかという主観的な値にすぎず、…にもかかわらず、一度暫定的に決まってさえしまえば、『客観的』に価値が決められた物的商品と交換可能なのである。」(p.30)
 ここで市田氏らは、レントを主観的で価値は客観的と敢えて確定的に述べているが、おそらくこれは間違いであろう。市場で価格が確定するとき、物的なものも非物的なものもやはり客観的に決められている。価値的に客観的でないのは、労働力が商品になる時であって、そこに資本家と労働者の階級闘争があるからであり、販売者と購買者の利害対立があるからである。
 「非物質的労働の全体からなる一個の人的資本においては、いかなる客観的価値基準もないのだ。」と言い切るが、知的労働によって生み出されたアイデアや目に見えない商品である労働力などは、もともと価値基準がないものなのである。工場労働のように比較的目に見えやすい機械に従属する労働の場合は時間決めでその生産性が計測できるが、それでも資本家(管理者)たちが常に目を光らせていなければ剰余価値は生み出されないだろう。資本家たちが刺激(インセンティブ)と呼ぶものはその好例である。もちろん、知的労働に関しては更に曖昧になる。時間拘束をかければ生まれるという種類のものではないからである。しかし、それでもこれらの労働力の価値は市場で決まるのであって、それが社会的な一般的労働となるのであるから、客観的でないとは言えないこととなる。むしろ、こういった知的労働から生み出される特許とかソフトといった非物質的なものの価格は、企業間競争の中で価格が決められると考えた方が合理的である。その場合、当該労働者の再生産費を大きく上回る価格が提示されることがある。これは恣意的なのではなく、一種の階級闘争と擬制した方がいいだろう。ただ、それが個人だというだけで「利子生み資本」に擬製する必要があるとは思えない。
 発明発見を巡る法廷闘争が話題になる時があるが、それは資本家と労働者との剰余を巡る闘争だということと考えることができる。労働力を巡るこのような論議は、究極的には「資本」をどう見るかという問題に尽きるのではないか。先に挙げたように、価値を生み出すものがすべて資本だというようなとらえ方をすれば、資本主義経済といった規定そのものさえ意味がなくなってくるだろうし、歴史は平坦な姿に変えられてしまう。『資本論』第三部の序文にエンゲルスが書いたように* 9 、これらの発想は 19世紀末に既に現れていたが、この労働レントという規定がそういったものと同列にならないという論証はまだ不足しているのではないだろうか。

6.債務の拡大

 だが、市田氏等が提起しようと意図しているものはそういった論証問題であるよりも、現代資本主義体制の下にあって労働者階級が債務奴隷となっている、ということなのである。そしてこの債務奴隷体制の仕組みは必ずしも労働レントではなく、現代福祉国家体制への批判として構成することも可能である。
 「サービスの対価は主観的であるがゆえに、しばしば国家が、まるでその欠陥を補うかのように、つまり『客観』を代行するかのように介入する。」(p.33)
 ここで国家の福祉サービスの経済的役割が取り上げられる。公的機関による教育や研究、更に近年では介護労働もその領域に入る。これらの労働が生み出す価値とは何かが問われている。
 「家族によって担われていた介護を『社会化』する諸制度は、無償であった『情動労働』にサービス労働の『絶対地代』(最低額)を割り当てるかのような現状を呈している。」(同)
 現代資本主義が労働者の再生産をさえ不可能としているという指摘は、バウマンやベックの社会学分析で明らかになってきているが、その典型例が近代家族の崩壊であった。介護労働が無償であったのは曲がりなりにも近代家族がまだ維持できていた時代のものであり、それが崩壊した以上「社会化」か「姥捨て」かしか方法がない。だが、それは資本主義という経路の「社会化」以外に持ち合わせがない。なぜなら、労働者は資本家に生活丸ごと売った(奴隷制)のではなく、その労働力を売ったのであるから、労働者は自らの再生産を商品市場で行わなければならない。労働能力を失った人間には、もし財産を形成していなければ、現代資本主義世界では生きる術が残されていないことになる。この現実を回避するために年金制度が既に早い段階から生まれていたことは周知である。
 「サービスを生産-分配する税は、国家を介した国民による自分自身への強制投資である。…サービス労働者が提供するサービスはしたがって債務の返済であり、彼らは国家の債務奴隷にほかならない。彼らに支払われる賃金は、賃金という名の債務の転嫁なのである。」(p.33-34)
 国家の社会福祉費用は税で賄われているから、人間を資本だと擬制すれば、もはや資本ではなくなった(価値を生み出さない)資本への投資であることになる。これを「投資」と名付けるのか否かは文学的な問題である。サービス労働が「債務の返済」だというのは、支払うのが国家であるから、国家が労働者へ債務を負っていることになるが、これは税もしくは介護保険料の払い戻しという意味なのであろうか。サービス労働者の賃金が「債務の転嫁」だというのは、年金ファンドが巨大な利子生み資本であるから、運用に失敗しつつある(肥大化のツケ)が故に本来の価値よりも少ない(つまり収奪)賃金で働かせているという意味であろうか。「絶対地代」という意味は、サービス労働者の再生産費という意味では理解できるが、労働者階級が支払う税や介護保険料、あるいは年金保険料が利子生み資本の原資となり、それがもはや投資先を失っているという現状分析からするなら、福祉国家制度そのものの機能不全であり、持続不可能であるという以上の意味ではないだろう。
 「これは、国家を含む保険業者が労働者をだましているというより、蓄積体制そのものの変化に起因すると考えるべきである。」(p.36)
 まったくその通りである。まさに蓄積体制が変化しつつある。では、どのような?
 レント論的に言えば、現代産業資本は相対的剰余価値生産そのものの壁に突き当たっている、不断の技術革新による可変資本の縮小からは膨大な第三次産業の就労者を生み出しつつ、利潤率の低下を被る訳であるから、「成果の根拠があやふやな管理職に法外な報酬を支払うこと」が正当化できない。だから労働の価値は基準のないレントとすることで正当化したい、という。その結果、「労働者の貧窮化による蓄積の進行」が実現する。
 では、この蓄積体制に展望があるのだろうか。相対的剰余生産が究極まで進み、相対的過剰人口が巨大な層として滞留しているはずの現代資本主義が、国家の福祉国家体制によって第三次産業として「絶対地代」(最低賃金)の下で生活しているとするなら、この生産体制は早晩破綻せざるを得ないだろう。否、既に破綻しつつあるのかもしれない。少なくとも、この日本においてマイナス成長が続く現在、デフレと少子化で何とか維持できているに過ぎない。

7.逆転

 「社会主義の失敗の次に訪れた、新自由主義の失敗の結末」(p.40)が、この現代の惨状だとすれば、今登場してきている資本主義経済の弥縫策は社会民主主義であり、福祉国家論である。しかし、見てきたようにこの考え方も既に破綻寸前なのである。なぜなら、社会民主主義もまた「人的資本」を基礎において構築された蓄積体制だからである。
 「…人的資本論は、文化左翼を取り込んだ社会民主主義の考え方ときわめて似通っていないだろうか。希少性と戦う人間の力を『学校教育と大学教育、オンザジョブトレーニング、移住、健康、経済情報』により高めよという掛け声は、流行の『エンパワーメント』論を完全に先取りしているではないか。ともに、『がんばれば報われる』と言う以上のことを述べてはいないだろう。」(同)
 確かに、今日の社会民主主義の陥っている壁は、こうである。先進国の資本主義が不断の技術革新の下で未来の収益を求めていくが、それはますます不変資本の拡大を実現し、より少ない労働でより大きい価値を生みだすシステムを構築する。それは、膨大な過剰人口を生み出し、労働市場の失敗を繰り返す。再配置だの、職業訓練だのといった試みはもはや労働者を人間として扱うことを否定し始めている。初等中等教育すら、そこを卒業した頃には陳腐化した知識しか習得していないという現実に直面しつつある。その一方で個人化が進み、労働者相互の団結は失われ、生活文化が破壊され、共有化すべき生活感覚が希薄となり、単調な結果としての民主主義だけが残ることになる。
 市田氏等の結論は「管理されたデフォルト」であるが、これはただの一歩でしかないだろう。むしろ、言いたいことは近代市民社会の基礎である私的所有権そのものに何らかのタガを嵌めなければならないということなのではないか。レントであろうと、価値法則であろうと、資本主義の搾取は止まらないし、労働者階級の悲哀は増すばかりである。ただ、債権債務の管理されたデフォルト後の社会とは何かという疑問も他方では聞こえてくる。「赤字国の責任と黒字国の責任を均衡させるケインズのプラン(国際清算同盟)を、再度議論の俎上に載せる必要がある。」(p.42)というのは、米帝打倒というスローガンと同じ意味であり、ケインズの果たせなかった夢(大英帝国の利益を守るという意味で)でもあるが、それはつまり、世界同時デフォルトというスローガンなのでもある。
 ケインズはデフォルトに関してどう考えていたのだろうか。
 「累積債務の要求が許容しうる比率を超えれば、三つの可能な方法のうちの一つもしくは二つの救済策が通常求められた。第一は債権の廃棄である。だが、革命を伴う場合でなければ、この方法は粗野すぎ、故意にすぎ、さらに転嫁がはっきりしすぎる。…第二の方法は、通貨の減価であり、それが固定化され、法律で確認されるにおよんで平価切り下げとなる。…残された科学的方法である資本課税は、いまだ大規模に試みられたことはないし、また将来もないであろう。」(『貨幣改革論』)
 第一の方法はロシア革命がその歴史的教訓を残した。第二の方法は第二次世界大戦がその歴史的教訓であろう。第三の方法は、「いまだ大規模に試みられたことはない」し、むしろこの資本所得への課税は軽減される傾向にある。新たな産業育成とベンチャービジネスへの投資を促すという名目でリスクを取る利子生み資本を拡大させている。しかし、この資本所得への課税はこれまで見てきた蓄積体制の根本的変革とはほど遠いものである。なぜなら、現実資本への投資(これがケインズの期待なのだが)そのものが構造的に脆弱化しているのだから、国家財政が支えるレント福祉国家という本論文の指摘する展望のない未来しかそれは指し示していない。
 では、残された道は何か。「働かなくても生きていける社会主義ではない。働いた報酬を『レント』として受け取ることを止める社会主義である。どんな不労所得も不正義とみなす社会主義である。」とは。
 残された課題は膨大である。ケインズの提案した清算同盟の考え方は国際的資本移動を制限するものであった。現時点から見ればこの提案はデフォルト後の世界を構想する上で、世界的な絶対的権力を必要とするだろう。また、労働を正義とするためにはサービス労働への社会的認知を根本的に変革する必要があるだろう。労働者階級の権力とはまさにこの課題からしか出発しないと言える。労働者階級の解体が言われて久しいが、過去への郷愁ではない、新たな公共空間の創造以外にそれは果たせないのではないか。権力は必要だが、その道は廃棄へのスケジュールを指し示してからでなければならない。まさに、「計画」とはそのことである。

脚注

* 1 レポートには冒頭、こう書かれている。「この25年間に世界の債券市場に起きた変化は、革命と呼ぶにふさしいと言えるでしょう。」
* 2 新自由主義が「保険」思想であるか否かもまた議論の分かれるところである。いわゆるリバタリアン的な発想からは直接でてこないのではないかと思われる。むしろ、グローバル金融資本のマネーゲームという意味での新自由主義がぴったりである。
* 3 レーニン的に言うなら、巨大銀行資本と産業資本の融合、ということになる。
* 4 リーマンショックが起きる前までのIMFの説明はこのようなものであった。
* 5 これを管理通貨と理解して、中央銀行の通貨管理問題として論議することも可能であるが、これはまた別個の大きな問題でもある。
* 6 ただし、金利を要求しても有り余っている以上、金利水準は低位にならざるをえない。ケインズが喜ぶ水準なのかもしれない。
* 7 80年前後に現れた「ネオマルクス主義」派と呼ばれる人々の理論もこういった労働価値説批判に関係している。今後、議論の対象となるかもしれない。
* 8 例えば、教育労働などはその価値を進学率といった指標を提示しなければならないのは、その良い例である。公教育が近年崩壊しつつあるのは、そういった指標を巡って揺れているからであろう。
* 9 序文にあるように、エンゲルスの忠告は私たちにも当てはまる。「科学的な問題に携わろうとする人は、なによりもまず、自分が利用しようとする書物をその著者が書いたとおりに読むことを、またことに、そこに書いてないことを読み込まないようにすることを、学ばなければならない。」




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