[HOME | バックナンバー | 綱領 | 戦術・組織総括 | サイト内検索 | パンフレット ]

ケインズ主義と名付けられたもの(2)

斎藤 隆雄
374号(2012年12月)所収


3.ケインズ理論と国家独占資本主義論

 国家独占資本を巡る戦後の論争に於いて論議された様々な課題の中に、現在を紐解く多くのヒントが隠されている。その中に、「独占による価値法則の変容」というテーマがあった。ケインズは元々独占資本については理論の中に取り込んではいない。それをしたのは、ケインズ派と呼ばれる人々であり、その中には M.ドップのようなマルクス主義者もいた。今では忘れられているかのようだが、その時代の論争の中には今日の諸テーマがほとんど出尽くしている。国家と独占資本と市民社会という三つの関係がひときわ注目される論争であった。
 独占資本が価値法則を変容させているというのは、30年代にケンブリッジ大学が企業調査をした際に明らかになった、いわば実態的な事実である。そして、それが経済全体をどのように変容させているのか、社会全体にどのような影響を与えているのかという課題の解明が求められていた。価値通りに商品市場が動いていないという事実は自由市場論者たちには決定的なダメージであったが、ケインズ理論にとっては想定された内容であった。その意味で、戦後の独占市場分析にケインズ理論が席巻するのは当然であったと言える。
 マルクス派(ここには、欧州社会民主主義派も含まれる)がこのケインズ理論に注目したのは、資本主義経済体制が持続可能ではないと捉えられるような理論構成をとっていたからである。つまり、利子率がゼロになるという想定は剰余価値がゼロになるということと同義と捉えられ、資本の資本たる意味がなくなる想定だからである。更には、国家の役割を超階級的なものと規定し、雇用問題を含めた調整役という想定も、マルクス派にとっては、あたかもプロ独国家の政策に近いと勘違いさせた。戦後の大衆社会化現象とフォーディズム生産様式がその幻想に拍車をかけたとも考えられる。だから、国家独占資本主義論と急進的ケインズ派とがその基礎理論を異にしながらも、現状分析と実践課題を共有するという奇妙な構図が生まれることになる。スウィージーやドップの「過小消費説」がケインズの「有効需要論」と合体し、組織労働者の賃上げ闘争に寄与したことは、欧州社民の理論的なバックボーンであった。
 国家独占資本主義論がほとんど忘れ去られるようになったのは、この理論が70年代以降のブルジョアジーの反攻としての市場主義政策がもたらした資本主義の変容が彼らの読み間違えた大衆社会化現象の分析による政治闘争方針と結合して、まったく用をなさなくなったことによる。ケインズ時代の階級闘争が「階級闘争」として機能していたのは独占資本傘下の組織労働者を中心とする組合主義が依然として政治的機能を持ち得ていたからであり、それは戦後成長期の大衆社会化現象を背景に大量に政治的舞台へと登場させたことと結びついていた。当時の左派が労働組合主義と如何に闘争したかによって先進国階級闘争の様相を決定した訳だが、その時既に市場主義派の反攻が始まっていたのである。
 日本の戦後国家独占資本主義論もまたその読み間違えの下で、市民派運動へと派生していくのも、この階級闘争が背景にあったからであるが、他方で国家の介入が公的領域として資本の論理になじまないという前提があったからでもある。国家が市民社会へ介入した分野として、真っ先に挙げられるのが公教育分野と医療分野である。それは一定の所得を前提とした私教育では国民皆教育は成立しないという前提があり、国民全体の公衆衛生維持は私的医療機関だけでは不可能であると考えられていたからである。更に、農村からの都市への大量の労働者移動は無産者階級の掌握という意味でも、保険制度と年金制度が国家の統制の下に発達することになる。これらの制度は市場の機能の外にあると考えられていた訳である。つまり、国家の再配分機能として捉えられていたのである。私的企業の集合的な生産性の向上を補填する意味でのインフラ整備においてもそうであるし、ブルジョア政府委員会の「共同」の事業としてそれは商品市場、労働市場、金融市場の各分野において既に 19世紀から潜在的に機能してきたものであった。これらの社会の変容と国独資期の大量生産大量消費時代の大衆社会状況が資本主義生産の拡大と共に自然発生的に成長してきたということを、市場主義派には「市民社会の解体」と映じたのである。(このことについては、拙稿「宮台氏の難点」を参照)
 問題はだから、ケインズ主義が分析したもの(帝国主義あるいは後期資本主義等、呼び名は様々である)が一方で経済的には組織労働者と利益を分け合う限界が露呈したということであり、他方で社会的には市場経済の「自由の領域」が、つまり市民社会の領域−収奪の領域が狭められたということにあったのである。市場経済派にとっては、それは国家が市場を占有しているという風に映じた訳である。70年代以降のネオリベラリズムが企図したことは、だから国家を取り戻すことであり、その占有していた領域を市場化することであった。だが、彼らにも問題があった。なぜなら、大衆社会状況の下で古典的収奪状況(自由放任)に回帰することは、大量消費を不可能にするからである。ケインズ主義とフォーディズムがもたらした社会変容から後戻りすることは彼ら自らを崩壊させる可能性をもっていた。そこには、二つの問題が用意されていたと考えられる。歴史的には、ネオリベラリズムを掲げる政府が国家予算を縮小できず、小さな政府は単なる呪文でしかなかったことが明らかになっているのは、問題がそこにはなかったということを現している。一見、ケインズ主義と相反するように見せかけた新自由主義は、ケインズ主義経済がもたらした社会変容をしっかりと受け継いだと考えるべきなのである。それは、大衆消費社会の二つの局面−第三次産業と架空資本の拡大である。この二つが、共産主義理論が見逃していた重大な資本主義経済の批判対象であったのである。

 4.資本主義批判の新しい動き

 最初に現れたブルジョアたちの反攻は、周知のようにドルの金との交換停止である。架空資本にとっての最後の重荷を解除したことで、飛躍的に拡大したのが金融市場である。確かにケインズ理論的に言うなら、絶滅したはずのロンドン金融街シティーの投資家階級がニューヨークのウォールストリートによみがえったかの如くであった。彼らが利用したのは、70年代にだぶついていた石油代金のユーロドルと先進資本主義国の年金基金であった。福祉国家の財政制度はこの時期に戦後的(第一次)IMF体制では、想定されたリターンを維持できなくなっていたが、それはドルが金と切り離せないという限界が原因であった。
 80年代以降、英米の金融資本家たちが政府の奪還と矢継ぎ早の国際的金融制度の再編を打ち出したのは、ケインズが戦後的な大英帝国維持のために構想した国際金融決済制度が、彼らにとって桎梏となっていたことの現れである。だからこそ、彼らにとってはケインズ理論は葬り去らねばならない理論であった訳である。サッチャーとレーガンの蜜月はだからその象徴であり、シティーとウォール街の共同利害であったことの証である。
 しかし、ここ30年間の市場主義政策の席巻と通信手段の飛躍的拡大によって生まれたグローバリズムという条件は金融資本にとって夢のようなバブルの日々を用意してくれた。リーマンショックまでは。このことについてはあれこれと繰り返し述べるまでもないだろう。問題は、架空の世界ではなく現実の世界である。この30年間の現実の世界は、言うまでもなく仕掛けられた階級闘争に労働者階級が徹底的に解体され敗北してきたということである。課題は当然に、何故と問わねばならない。事態はそれほど単純ではないが、80年代以降我々が目にしてきた自然発生的な階級間の紛争に目をやれば、そこにいくつかの注目すべきものがあるだろう。一つは、当時我々も注目していた「新しい社会運動」である。そして二つ目は欧州と中南米を結びつける変革運動である。これらはなにがしかの新しい萌芽を示していたが、今やそれを対象化する時期に来ている。組織労働者の運動が解体した後に生まれたこれらの社会運動は、戦後ケインズ体制の産み落とした自然発生的な抵抗運動であり、大衆社会化時代への(あるいはグローバリズム時代への)労働者階級の一つの回答であったわけであり、単なる個別課題への条件反射であったのではないということを踏まえなければならない。
 2000年を前後して、資本主義批判に新しい潮流が生まれてきているが、これらはこの30年間の運動のとりあえずの総括を示している。新しい社会運動が現代のリスク社会のシングルイシューをあるまとまった塊として表現するようになってきた証左である。これは、現在世界各地で巻き起こっている街頭占拠運動がそれを象徴している。北アフリカ諸国の武装闘争をその流れの中に入れるかは、今は保留しておきたいが、明らかにこれらの運動は単なるシングルイシューではなく、国家の統治形態と経済体制を問題としている限り、階級闘争であることには間違いないのである。とりわけ、先進資本主義国家内部で階級の力関係が変化しつつあることは明らかである。
 問題は、これらの運動の先を照らす共産主義思想の再構築である。現状が立ち遅れているという危機はこれまでも何度も繰り返し我々は述べてきたが、その課題に果敢に挑戦する試みが現れ始めている。その一つは、既に多くの社会運動家に共有されつつあるイタリアのいくつかの潮流である。ネグリやビフォといった思想家たちばかりではなく、これまでの共産主義思想を大胆に組み替えようとする試みもなされつつある。「認知資本主義論」という新しい資本主義批判の分析も数多く紹介されるようになってきた。これらの理論が現代の階級闘争に新しい展望を切り開いていくか否かは、まだ十分検討されていないが、しかし提起されている課題はきわめて先進的であり、十分に検討に値するものである。それは、国家独占資本主義論が見過ごしていた資本主義の新しい傾向を捉えようとしているという意味でも、またそのケインズ主義的幻想を払拭しようとしている意味においても、次回以降批判的に取り上げていきたい。


[ このページの先頭へ]