共産主義者同盟(火花)

ケインズ主義と名付けられたもの

斎藤 隆雄
372号(2012年10月)所収


 リーマンショック以降の世界は、変革と革新、革命と「革命」、危機と内戦のせめぎ合いの中で混沌とした様相を呈しつつある。自己責任では収まりきらない3・11のリスクとソブリン危機、グローバルスタンダードを逸脱するイスラム政治と階級闘争、領土/資源/貿易の世界的な争奪戦と激化する国内階級闘争は、国際金融資本の世界ヘゲモニーの一定の後退に照応して、様々な権力候補が立ち現れる過渡的事態となっている。
 それに呼応して、共産主義者たちの立候補が始まったが、立ち遅れている現状は否めない。それは、社会民主主義的ケインズ主義かウォールストリート的新自由主義かという設定しか想定されていない閉塞した世界観から脱出できていないことにその一端がある。この第一のハードルをまずは乗り越える必要があるだろう。

1.「ケインズ主義」とは何だったか

 1936年に著されたケインズの『一般理論』が、今日イデオロギーとして表象しているそれと大きくずれているという意味では、その半世紀前に著されたマルクスの『資本』と今日のマルクス主義として表象しているものとがずれているということと同じであるのは、イデオロギーが持つ共通の姿である。1970年代に死亡通知が発行されたケインズ主義が今また全く姿を変えて現れているという現象は、かつてのマルクス主義への知識人たちの死亡宣告と新自由主義以降の復活と同様に、どちらも現在の政治経済危機が呼び戻したといえるかもしれない。
 ただ、マルクス主義の再発見は彼が思想的原点とした「資本主義批判と変革への主体」としての「共産主義」の再発見であり、原点へのある種の回帰であるが、ケインズ主義のそれは『一般理論』への原点回帰とはまったく違ったものである。なぜなら、『一般理論』の三つのテーマである、乗数理論、流動性選好利子論、有効需要理論は既にまったく過去のものとなっているからである。1970年以降、乗数効果は理論的には曖昧になりつつあり、利子率は彼の理想とした0%に限りなく近づき、需要は消費を管理する時代へと突入しつつある。様変わりした資本主義の姿に、ケインズの「自由放任は終わった」という彼のテーマには疑問符が付くようになった。
 では、なぜ彼は呼び戻されたのか、誰が呼び戻したのか、何のために呼び戻されたのか。そして、どんな姿で呼び戻されたのかが問われなければならない。
 実のところ、それはケインズ主義とは何であったのかという問いと密接に関わっている。1930年以降、彼が提唱した経済政策が実際上、そのまま実行されたのかという疑問がこれまでも何度も提出されてきた。米国の大恐慌とそれ以降の不況期を乗り越えたのは、実は財政政策ではなく第二次世界大戦期の軍事支出であったというのは、衆目の一致するところである。だから、我々がこの30年代以降の資本主義の変容を、帝国主義とりわけ国家独占資本主義と規定してきたのは故あることであった。ケインズがあたかも「国家が経済に介入して失業率を低下させる」という方法を編み出したかのごとく言うのは、後の時代の人々の名付けでしかない。既に彼以前に国家は十分に経済に介入していたし、それが産業政策であったり(今で言う開発主義)、社会福祉政策であったりしたのである。彼が『一般理論』の中で言おうとしたことは、利子だけで生活している英帝国主義の寄生的ブルジョアジーに対して、きちんと投資をしなさいと呼びかけただけである。そのためには利子率を低下させねばならず、それには市場の不完全性を、とりわけ労働市場の不完全性を証明しなければならなかったのである。彼の公共投資という市場への介入の正当化は、彼自身が設定した理論からは一種のトリックでしかない。名目賃金の上昇を物価のおだやかな騰貴によって解消するという目論見はイギリス人独特の功利主義であるといえる。
 では今日、このケインズの政策を実現するための条件があるというのだろうか。それは否である。問題はそういうケインズ理論の原点回帰ではない。問題は70年代からリーマンショックまでの新自由主義のブルジョアジーたちの経済政策と世界政治の方針に関わっている。つまり、新自由主義という経済社会政治政策の複合体が出現するための下ごしらえを果たしたのが「ケインズ主義」であり、このベースがなければ自由主義は新しい装いをすることができなかったのである。周知のように新自由主義は、「レッセフェール」とはまったく違うものであり、それは既に国家が社会に介入している時代にその介入手段を巧みに利用して新しい「自由主義」政策を組み立てたのである。その意味では、放任ではなく徹底的な介入であり、介入することで維持できる「自由主義」という語義矛盾のような複合政策なのである。
 だから、「ケインズ主義」と呼ばれる一連の時代がなければ、この新自由主義は生まれてこなかった、と言っていいだろう。いわば二つの政策は一つのものの二つの側面と言っていいのである。ケインズを呼び出したのは、新自由主義政策のとりあえずの頓挫であったリーマンショックであり、ブルジョアジーたちの一歩前進二歩後退であった訳である。もう一度の仕切り直しでしかないケインズ主義政策は単なる後退ではなく、国家による金融資本の立て直しという意味でのケインズ主義であり、ソブリン危機という副作用を伴いつつ、国家機能の再編という次なるステップへと進みつつある。

2.戦後の社会変容を、ケインズ主義になぞらえるのは正当か?

 事態を解明するためにも、我々は20世紀の前半期を席巻した「国家独占資本主義」たるケインズ主義が何をもたらしたのかを簡潔にまとめる必要がある。既に、本誌で私は「資本主義の変容と社会主義の実験」においてその全体像を描いたので、ここではケインズ主義と呼ばれるイデオロギーの果たした役割を中心にまとめておこう。
 先にも述べたように、ケインズ以前にケインズ主義は既に始まっていた。国家による社会生活への介入は 19世紀末から保険制度として開始され、自由放任経済は完全に過去のものとなっていた。それは欧州に於ける伝統的なギルド制度や救貧制度による下地があってこそという分析やコーポラティズムという視点も含めて、現在ではほとんど既成事実であったと言える。ポランニーが言うように、資本主義経済そのものが本来的にそのような姿をしていたということ、ロックの展開した独立生産者の競争社会という観念こそ作り上げた理念でしかなかったという指摘も含めて、我々の資本主義社会観の修正を迫っている。しかし、そのことの当否はさておくとしても、事実として既に個人のリスクを国家が保護するというシステムはできあがりつつあった訳である。
 ケインズのなした業績とは、このシステムの意味するところをブルジョア経済学的に導き出したということにある。とりわけ、失業問題に対して古典派経済学(マーシャル派)は労働賃金の下落をもって均衡するという労働市場観しか持ち合わせていなかった(現在の新自由主義もこのレベルである)ことに対して、自由放任経済においては労働市場は均衡しないということを証明したのである。だからこそ、そこに国家の介入を正当化する根拠が存在することになるのである。この指摘は、市場がすべてを解決すると考えていた大陸派の経済学者たちにはマルクスが指摘した労働者階級の貧困問題へのすり寄りとして映じたし、ロンドンの金融街のバンカーたちには驚異として感じられたであろう。
 20世紀前半期の資本主義にとって、実のところ、このブルジョア内部の論争は主要な矛盾点ではなかった。なぜなら、オーストリア学派(メンガー/ハイエク)にしてもローザンヌ学派(パレート/シュンペーター)にしても、彼らの危機感はドイツ革命やロシア革命という目の前の危機に対する闘争があり、共産主義に対する闘争が主たる源泉であったはずである。それは独占資本と資源争奪戦という、帝国主義国家体制に移行していた先進資本主義国家経済は自由主義的市場経済を実態的にも形式的にも完全に駆逐していたから、彼らの信念からすれば、自由主義的市場経済への回帰しか生き延びる道はないと考えていたはずである。つまり、ケインズ主義は彼らにとっては修正主義であったのである。とりわけ、英米資本主義(アングロサクソン系)が彼らの最後の牙城であるという認識が強ければ強いほど、それはある意味熾烈な闘争でもあっただろう。パレートのような徹底的に価値判断を脱色した均衡市場経済論を展開することで市場を擁護する一派と、ハイエクのようなブルジョア的文化を擁護する一派とが計画経済路線を批判したのは、迫り来るヨーロッパ革命への危機意識であり、同時にそれを現実的に可能にするための条件である資本主義の金融独占資本への移行という事態への間接的批判でもあった訳である。既に欧州に普遍化しつつあった、国家の経済への介入を正当化するケインズ主義は、だから、彼らにとってそれが社会主義計画経済への助走と映じたと言える。
 ただ、戦後的世界でのケインズとホワイトの IMF設立論争にも見られるように、米帝の圧倒的な生産力に規定されて、産軍複合経済とケインズ主義的色合いの国家政策が「新古典派総合」という名の下にフォーディズム的労使経済を形成していくことに市場主義派は抵抗することができなかった。またこの時、共産主義者たちも、世界戦争に規定されてスターリン主義的戦後政治を乗り越えることができなかったし、国家主導の計画経済路線に代わる方針を提示できなかった。つまり、ケインズ主義的国家主導型の管理された階級闘争を乗り越えるだけの方針を持ち合わせていなかったのである。これは、これまで戦後世界の資本主義の変容として述べてきたいくつかの事象と符合するだろう。先進資本主義国家内部で進む労働者中間層の急速な所得の倍増と福祉政策、大量生産と大量消費による大衆社会化現象に対し、恐慌/戦争型革命路線と自由主義市場路線はほとんどその歴史的意義を喪失したと言っていいだろう。
 しかし、ケインズ主義的資本主義経済の歴史的役割は単にその経済政策のあれこれではなく、先に述べたように社会総体を根底的に変革したことにある。それはケインズ理論がそれを企図したというのではない。既にそれはケインズ以前に進行していたし、戦後圧倒的なドル支配体制の中でいわゆるブレトンウッズ体制として先進資本主義国家が社会の隅々にまでそのヘゲモニーを確立していった過程でもあった訳である。20世紀初頭に台頭しつつあった労働者階級の政治的な登場(英労働党、独社民党)は、ロシア革命と二つの世界戦争の中で労働者階級の国民(擬制的市民)への取り込みという形でそれは進行し、国家と金融独占資本が一体となった総力戦国家・社会として平時にも機能し始めたと考えていいだろう。その意味で、戦後世界を「国家独占資本主義体制」と規定したことは正当であったと言える。ただし、共産主義者たちはこの体制の市民社会への圧倒的な支配力を見過ごしていたという点を除いては。
 1940年代から60年代にかけての30年間がフォーディズム全盛期であるという合意された定説は、他方でケインズ主義の時代という命名がなされている。しかし、この時期に生じた社会変容はケインズ理論から生まれるものではない。こういう言説が生まれる背景は、その後の新自由主義政策の席巻が全世界を覆い始めてから、それを主導したシカゴ学派との対比で浮かび上がってきたものである。フリードマンに代表されるような新自由主義派が目の敵にしていたケインズ理論との論戦は30年代のブルジョア内部の論争の再挑戦のような外観を呈しているものの、経済学上の目新しい革新がある訳ではない。国家が社会に介入する半世紀にわたる資本主義の変容から、制度化された階級闘争と膨らむ財政赤字を取り除く必要が彼らにはあったのである。これまでも何度か指摘したように、1970年代はその分岐点であった。利潤率の低下、国際決済貨幣であった金ドル体制の危機、東アジア民族解放闘争の勝利と中東資源戦争など、アメリカ帝国主義の世界体制が揺らぎ始めた時、国家の社会への介入路線の方向性を転換する必要が生まれたのである。金融独占資本の利潤率の回復と、ブレトンウッズ体制の再編、民族解放戦争と資源争奪戦の管理可能な秩序化が求められていた。これは新自由主義が、ケインズ主義が示していたイデオロギー的な家父長的自由主義(国家が社会生活を管理するという思想)が破綻したと見たのである。だから、シカゴ学派のとった路線は、南米チリでの反革命クーデタで示し、その後のIMFのワシントン合意が現すように徹底的な国内階級戦争であった訳である。つまり、金融独占資本の奪権闘争ということ以外にはあまり意味付与する必要がないだろう。
 新自由主義が何か新しい独自の経済理論を持っている訳ではないのは、まさにそのためであり、その後のグローバル経済の進展とその破綻は彼ら自身でさえ想像を超えた事態であったはずである。現在もまだポストケインズ派があれこれと政策提言し、またリーマン以降の財政破綻への処方箋にケインズ理論が呼び戻されるのは、ケインズ理論がシカゴ理論に取って代わられた訳ではないという一端の証明でもある。なぜなら、新自由主義は国家が社会に介入するというケインズ理論に与えた称号を剥奪した訳ではないからである。その意味では、国家の果たす役割を巡るブルジョア内部の党派闘争であった訳であり、その結果、国家そのものが破綻の危機に際会しているというのが今日の世界経済なのである。

(参照文献)

ケインズ理論についての理解は次の文献に基づいています。
(1) 伊藤光晴「ケインズ」講談社学術文庫
(2) 杉本栄一「近代経済学の解明」岩波文庫
(3) ジェフリー・ピリング「ケインズ経済学の危機」昭和堂
(4) J.ロビンソン「資本理論とケインズ経済学」日本経済評論社




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