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緑の党は必要か?

斎藤 隆雄
359号(2011年8月)所収


 原発事故を受けて、様々な階級階層の利害が錯綜し始めた。あからさまに核兵器の保有を前面に提起する人々から、縮原発やら脱原発、反原発、自然エネルギー、スマートグリッド、発給配電分離、市場原理による完全自由化等々、原子力と電力を巡る諸提起が乱立している。その中でも、遅かれ早かれ提起されるだろうと思われたのが「緑の党」である。
 これまで環境保護派が何度も提起してきたにも関わらず、この日本では一度たりとも実現したことがなかった「緑の党」を今こそ立ち上げよう、今をおいてないだろう、今できなければこれから永遠にできないだろう、という声が起こってくるのは、それこそ自然な成り行きだと思う。では、この「緑の党」は本当に必要なのだろうか。

1. 今そこにある「緑の党」は?

 日本には存在しないと言ったが、詳細には小さな政治グループは現存する。先進国には何らかのグループは存在するし、それらの国際的な連帯組織もある。が、日本では地方議会に議員が点在する程度である。ドイツのように国の方針を左右する程の力はまだ持ち得ていない。
 では、既存の「緑の党」はどのような社会を目指しているのだろうか。
 公式サイト(http://www.greens.gr.jp/)によれば、六つの柱を中心とした憲章を掲げている。
  1) エコロジカルな知恵 ecological wisdom
  2) 社会正義 social justice
  3) 参加型民主主義 participatory democracy
  4) 非暴力 non-violence
  5) 持続可能性 sustainability
  6) 多様性の尊重 respect for diversity
 これらの六つの指標から何が見えてくるだろうか。どの項目も、取り立てて批判するようなものではないように見える。運動の内部や外部で、これまでにこれらの項目を巡ってどのような論議が行われてきたかは、筆者は残念ながら無知である。ただ、ここで言える事はこれらの項目が、現存のエコロジカルでない世界をどう見ているかによって、その具体的方向が大きく変わってくるだろうと言う事は想像がつく。
 日本にある「緑の党」をここであれこれ詮索するつもりはないが、彼等が上の六つの憲章をもって構成する世界観は理解しておく必要がある。そこで、サイトの解説文を簡単に拾い読みしていきたい。
 第一項の「エコロジカルな知恵」には「自然との共生」や「ゼロ成長」「定常型社会」「成長至上主義からの脱却」といった言葉が列記されている。知恵というよりもエコロジー思想そのものである。既に本誌で90年代にエコロジー思想についての分析をした際に明らかにしたように、既存のエコロジー思想の中には優生思想に根ざしたものから政府系の開発主義まで様々なものが存在するのであるから、「知恵」というあまりにも一般的な文言ではおそらく何も決められないだろうし、更に経済上の課題も含めた雑多なものが混在しているようでは、尚更である。
 第二、三、四項はエコロジーの問題ではないが、ここから想像するに、ラジカルエコロジストは排除されることになるだろう。かつてアメリカではラジカルエコロジストが樹木の伐採を防ぐ為に鉄鋲を打ち込んだことがあるが、これは第四項に抵触するし、グリーンピースもこの項目によって排除されるだろう。ところが、解説を読むと「セクハラ防止」と「ブレトン・ウッズ体制の解体」が併記されているので、暴力の意味をかなり拡大されたものとして捉えていることが分かるのだが、闘う上での暴力については一言も書かれていない。第二項も議論のある所で、今では功利主義的なルールを意味するのか、定言命題かと問われるかもしれないのだが、解説によれば「ベーシックインカム」や「同一価値労働・同一賃金」「セーフティネット」などの文言が並んでいて、どちらかと言うと、経済民主主義に近い概念として捉えているようだ。
 第五項は経済成長の問題と関わりがある。持続可能性を巡っては経済縮小を目指すべきだという議論も登場する時代であり、今盛んに成長を目指して驀進しているBRICsと先進資本主義国家の経済とをどう調整するのかという課題が立ちはだかっているのだが、「脱石油・脱原発」「低炭素社会」がここでは掲げられており、国内問題に限定されているようである。
 第六項も同様に国内政治に関わる諸課題が列記されている。「入管法・難民認定改正」「戸籍制度廃止」「ジェンダーフリー」等である。
 さてこれらの憲章から何が見えてくるだろうか。確かに難しい課題が列記されており、これまでの日本の左派が提起してきた課題も含めて、多くの社会運動が提起してきた諸課題を総まとめにした観がある。六つの柱が示す諸問題と解説で挙げられた政策が実現した社会とはどのような社会なのか?「空想的」と言うのは容易いのだが、全体としてこれらが何を志向しているのか、誰の利害を代表しているのか、そしてどのような変革過程を想定しているのだろうか。そして少なくともこれらの政策を快くは思わない勢力に対する言及がないことも気になるところである。生産手段の私的所有権については何も言及されていないので、既存の社会主義政策とは一線を画していると考えても良いだろうが、ゼロ成長と社会保障との両立はそれなりの根拠を示さないとほとんど妄想の域に近いと言えるだろう。
 これらの項目を全体として眺めると、個々の政策はこれまでの政府の時々の政策に対するアンチであり、それらを寄せ集めて接ぎ木したという観が拭えない。根底にある思想はリベラル左派に近く、第三項の解説に列記されている「当事者主権」「シティズンシップ教育」「対話とコンセンサス」といった政策を考え合わせてみると、先進国における中上層労働者の利害を一定反映していると考えていいだろう。ただ、これらの政策複合体が先進国の中上層労働者が全体として支持するかどうかは疑わしい。というのは、この層は少なくとも高等教育を受けこれらの政策複合体の矛盾をも容易く指摘するだろうからである。個々の政策では支持するものがあるとはいえ、おそらくは全体として自らの利害を代表しているとは考えないだろう。
 そして、他方今焦眉の課題となっている反原発運動に関わっては、政策体系全体が原発廃棄への足枷となる可能性があるだろう。来年四月に全ての原発の稼働を止める為には「財政の持続可能性」は危うくなるだろうし、「脱石油」は当面諦めなくてはならない。今ある「緑の党」が運動にとって緊急の求められる課題であると言えるか疑わしいと思える。

2. 今提起されている「緑の党」は?

 内田樹、中沢新一、平川克美の対談集が最近出版された。『大津波と原発』という表題で、その中に中沢新一が「新しいタイプの緑の党」を作りたいと発言している部分がある。引用してみよう。
 「ドイツの『緑の党』とは、思想的な地盤もずいぶんちがうところから出発するものだと思いますけれども、日本の自然思想に立脚した新しいタイプの『緑の党』のようなものをつくろうと思います。」(p.84)
 これ以上の事はほとんど述べられていないが、こういう動きは必然的に出てくる可能性はあるだろう。中沢が言っている日本の自然思想が何を意味するのか分からないが、彼が宗教家でもあるところから考えると、既存の緑の党の政策複合体とは根本的に異なるものだと想像される。
 彼が例として挙げたドイツの党も、実のところ歴史的には宗教的な背景が色濃く反映しているというのが実態である。アンドレ・ゴルツのような左派系の思想家の影響を強調する分析もあるが、むしろドイツがずば抜けて環境問題に敏感であるのは20世紀初頭からの農業改革や北ドイツの農業植民者たちへのシュタイナーの自然思想の影響が大きいと言われている。ナチスの左派には有機農業に熱心な活動家がいたことも事実であるし、この間のドイツにおける脱原発の動きはキリスト教系の政党の動きも見逃せない。原子力への対峙の仕方が、日本の広島・長崎における原爆攻撃への政治思想的なアンチではなく、宗教的でかつ存在論的なアンチである可能性があるだろう。つまり、中沢の言う自然思想からの発想はドイツと同じ地盤から出発しようとしているようにも見える。ただし問題はそこから先である。民衆の意識の底にある自然思想を掘り起こすと称して、社会運動を政治的に回収する活動は常に起こりうる現象である。それが「緑の党」的なものであったとしたら、それはどのようなものになるのだろうか。
 憶測を交えて語るのは危険ではあるが、例えばこのような宗教者の反原発運動が成立するとして、それは日本の自然を守れといった反近代思想や懐古的な右派思想と容易に結びつくことは想像に難くない。と言うよりも、既にこの間の反原発運動の中にも現れている。この時、我々は「緑の党」がゼロ成長や定常化社会といったあまり厳密な規定性もなく発信している言葉と、排外主義的な運動とが結びつかないという保障はないということも気に留めておく必要がある。「定常」とは生態学的に見ると閉鎖系の空間であり、宗教の持つ閉鎖性と親和的であるからだ。

3. 多様な運動を単一の運動に?

 自壊した原子炉からの大量の放射性物質拡散が巻き起こした人々の恐怖は、今一挙に脱原発の声として沸き起こっている。そして今後これが一過性のものとして過ぎ去って行く可能性はほとんどない。なぜなら、自壊した原子炉がそこにあり続けるからである。
 しかし、反原発運動がここかしこから立ち上がってきている時に運動を支える理念は未だ確定されていない。その理由は、脱原発という選択肢に抵抗する勢力が何なのかが確定されていないからである。原発に反対する人々はこれまでも存在してきたし、反原発運動も既にあったが、それが目に見えて成果を挙げてこなかったという事実から、彼等の前に立ちはだかっていた力とは何だったのかが今見えてこなければならないはずである。
 そこで一部の知識人達は日本の「特殊な」文化社会論へと目を向けている。つまり、日本は70年前の戦争時代から何一つ変わっていない、福島の原発は戦艦大和と同じだという議論である。明治以降の官僚制国家という巨大な壁がそこに立ちはだかっているという、官僚主義への批判がそこにある。これは小泉政権時代に聞き慣れた新自由主義的な響きがあって心地よく思う人々もいるだろう。更に、もう一方には自然エネルギーを産業構造の柱にしようとする人々から、日本のイデオロギー構造の壁から脱出したいという動きがでてくる。これも一種の日本文化論の亜種だと思われる。
 環境エネルギー政策研究所の飯田哲也氏が宮台真司氏との対談で次のような発言をしている。
 「…98年から福島瑞穂さんたちと自然エネルギー促進法の運動を立ち上げたときの戦略のひとつは、『イデオロギー色を塗り替える』でした。/当時、自然エネルギーは、政治の中で『反原発』『左翼』『環境派』というトリプルマイノリティ。これではどんな法案も通るわけがない。そこで自然エネルギーは、『経済』『イデオロギーフリー』『脱原発フリー』というレッテル貼りかえをして、自然エネルギー促進運動を立ち上げました。それが最初の、一番重要な戦略だった。」(『原発社会からの離脱』p.126)
 飯田氏の念頭にあるのは、トリプルマイノリティと呼ばれる三つの悪者を何とか遠ざけて、既成事実として自然エネルギーを日本に定着させたい、定着してしまえば経済合理性があるから受け入れられるはずだ、というのである。そこには、合理性をも意に介さない日本独特の弱い者いじめがあるという前提の下で、多数派に乗り換える為の政治が見えてくる。
 では、その日本「独特」の官僚制なり非合理的な心性なりはどうなるのか。それらはとりあえず横目で眺めながら、急には何も変わらないので、回り道の「戦略」とやらを考えよう、というのが一つの方法のようだ。このような設定にすると、打倒すべき対象をあいまいにすることができ、実務的な「離脱」方法を提起することができるのである。「脱原発」という政治プロセスを現実のものにするためには、多数派の獲得ではなく、「心の習慣」を変えていく「空気」を醸成する必要があるというわけである。
 このような発想は、今ある反原発運動の現状をある種見事に捉えているのではないだろうか。反原発のスローガンを国民的なものにするには、このスタイルが有効であるように見える。種々雑多な現状の動きを、嫌原発や縮原発も含めて流れを作るためには「小異を捨てて大同に就く」ことが重要だと。
 多様性を保障しながら単一性を求めて行く限り、電気を作る方法の転換というありふれた選択肢に限定するべきであるということがここから見えてくる。

4. 原発後の世界とは?

 「緑の党」が提起する政策複合体の社会、自然思想に根ざした日本独自の社会、自然エネルギーで充足する社会、これらから見えてくる原発後の社会構想には明らかに欠けているものが存在する。第一には日本という社会に限定された、あるいは広く見積もっても先進資本主義国家に限定された世界しか視野に入っていないということであり、お得意の「グローバル」はどこへ行ってしまったのか、あるいは「国際性」と言い換えても良いが、国際的な問題であるにも関わらずそのことが抜け落ちている。第二には原子力という科学技術に対する正面戦ではないということ、核分裂をエネルギー源とすることの多種な応用技術についての包括的な分析が抜け落ちていることである。第三に商品としての電気に対する批判、基幹産業としてのエネルギー産業への対峙がなく、大量の被爆者を出しても電気は必要だと言う生活感性(慣性)を生み出している我々の日常生活に対する根源的な問いがそこにはない。
 少なくともこの三つの問いに応えなければ、日本に原発がなくなったとしても同じ悲劇が繰り返されることは確実である。反原発運動は長い時代を超えた時間をかけた闘いになることは明らかである。福島の廃炉と後遺症への対策、現存する原発の最終処理とその廃棄物の保存を含めた時間は、事故を予想さえしていなかった政府機関(資源エネルギー庁)が2003年に小委員会で検討し、結論として出した最終処理の想定年限である70年というプロセス(16年1月23日総合資源エネルギー調査会 電気事業分科会コスト等検討小委員会「バックエンド事業全般にわたりコスト構造、原子力発電全体の収益性等の分析評価」参照)を数倍する年月がかかることは明らかである。であれば、これらの根源的な問いを正面から応えうる運動として構築することが必要であり、かつ求められているはずである。
 今ある運動が当面の発電停止を求めていくために多様な、相反する可能性のある理念を含めて糾合することは必要ではあるだろうが、他方でより根源的な解答を求める運動も同時に必要である。それは環境という名の下に「開発か環境か」「成長か定常か」といった単線的な軸で考えられるようなものではないし、百年前にレーニンが言ったとされる電化=文明といった価値観でもないだろう。


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