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資本主義はどのように描かれているか(2)

斎藤 隆雄
349号(2010年9月)所収


この七月に邦訳されたS.ジジェクの著書『ポストモダンの共産主義』(2009年)に今回私が話そうとしている論点が取り上げられているので、簡単に紹介しておこう。
「現代のありようをつかもうとして、〈ポストモダン社会〉〈リスク社会〉〈情報化社会〉〈脱工業化社会〉等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうの新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。」(p16)
確かにその通りと言うほかないのだが、今回の私のテーマは新語によって描かれた実態をまずは俎上に、更にこれを捕らえ直す作業として考えられた。何故そんなことが必要なのかは、まさにこのジジェクの著書の訳者が意図的か否かは分からないが、原題("First as tragedy, then as farce")からほど遠い、「ポストモダン」という新語を採用していることからも分かるように、あまりにも流布しすぎているこれらの言葉群を批判的に整理しておく必要性が増しているからである。(おそらく、この新語の方が売れると考えたのだろうが)
前回取り上げたベックの著書から、私たちは何を学べただろうか。ジジェクの言うように新しい事態が起こっていることは確かで、それをどう描くかは新しい言葉が必要だろうか。ベックの言う事態は確かに現代の日本の労働者階級の置かれている状況を見事に描いている。80年代に欧州で起こったことが、十年遅れで日本の労働市場に立ち現れた。(そして、既にそれは過去のことになって、更に新しい事態が起こりつつあるのだが)この新しい事態をこれまでの私たちの言語目録で描ききることは難しいのだろうか。実は、事態はそれ程単純ではないのである。ベックのような社会学者が描く労働者階級の状況は一面の真理を描きつつ、それが主体(労働者階級)を頭脳の中で欠如させているが故に決定的な結論へと向かわないのである。そして、更に悪いことに労働者階級の前衛を自称する人々もこの新しい事態を受け止めることが社会学者以上にできていないということなのである。

3.リキッド・モダン

ベックと同様、欧州の社会学者でポーランド人のジグムント・バウマンという人がいる。彼の著書にもベックの描いた労働者階級の現状が描かれているが、彼はこれを80年代以降の新自由主義政策の結果というよりも、もう少し広い時代としてとらえているようだ。そして、彼もまた労働者階級の「不在」を違う形で前提している。今回は、ここから始めてみよう。
「規制緩和、〈外部委託〉、〈権限委譲〉、〈管理責任放棄〉、〈フォーディズム工場〉の段階的縮小、新たな雇用パターンと作業ルーティンの〈フレキシビリティ〉、労働者保護措置の段階的で容赦ない撤廃と自助の時代にあって、プロレタリア主導による社会秩序の変革の可能性や社会悪の浄化を考えるには、忍耐の限度まで想像力を働かせなければならない。大半の工場の床や事務所の廊下は、かつてのような、よりよい社会に向けたプロレタリアの団結の場となる代わりに、上司の注目を引き認めてもらおうとする人々の死にものぐるいの過酷な競争の場となりました。」(『アイデンティティ』p66)
バウマンの描く世界も今日の日本の労働現場と同じ惨状を示している。このような現状はただ単に一時的な政策の結果ではなく、資本主義そのものが、あるいは時代そのものが変化しつつあるととらえるわけだ。
「未来というものは常に不確かなものですが、その気まぐれや蒸発しやすさが、〈フレキシブルな〉労働、脆弱な人間の絆、変わりやすい気分、浮遊する脅威、とどまることのないカメレオンのような危険の進展といった、このリキッド・モダンの世界で起こっている事柄ほど、手に負えないと感じられたことはこれまでありませんでした。」(p108)
何もかもが流動的だという程の意味でしょうが、これはバウマンによればかつてマルクスが描いた「搾取」ではなく、社会の外に追いやられる「排除」なのだというのです。「アンダークラス」と呼ばれる人々、おちこぼれ、シングルマザー、麻薬中毒者、ホームレス、乞食、そして難民は「冥界の地に追いやられた人々」であり、アイデンティティさえ否定されている。そして、政治的国家はこれらの人々を守る力がないし、社会的文化的中立を盾にそれらから手を引いている。今やグローバリズムの時代における政府の役割はまったく異なった姿を示している。
「資本主義経済の拡大が最終的に西洋の軍事的/政治的支配を超えてグローバルな規模にまで達してしまった結果、〈不要な人間〉の生産は地球規模に及ぶ現象となったのです。」(同p74)
ベックの言う〈個人化〉とバウマンの言う〈流動化(リキッド)〉を、共に「労働者階級」の不在と重ね合わせると、私たちの置かれている風景が見えてきます。孤立して行き場を失った人々の群れが、都市やスラムにお互いを認識することもなく、ただ消費することだけが存在証明であるかのごとくに日々を送っている。自分たちが何者かということさえ定かでない人々の群れは、政治国家が「国民神話」で囲い込んだ時代とは違い、グローバルな自由を享受することになるのです。近年の社会学者が「アイデンティティ」の問題を執拗に追いかけるのも、この流動化する近代の風景を反映していると言える。目に見える帰属集団を手掛かりに自らの浮遊する人生を係留しようとして必死にもがく人々の姿がそこにはあるだろう。
「プロレタリア主導の革命という幻想が後退し、霧散するにつれて、社会的な不満は引き取り手のない孤児となっています。」
バウマンがこのように嘆くのは、プロレタリア革命が幻想であったことが証明された訳ではなく、また労働者階級が革命を諦めたからというのでもない。確かに彼はプロレタリアがいないと言いつつも、消え去ったかつての英雄をいつまで追いかけようとする。そして、現状をその悲惨な現実とともに嘆いてみせる。
彼のいる場所とはどこなのかを私は次に考えて行きたい。

4.万国の株主よ、団結せよ

フランスの銀行家で某銀行のCEOでもあったジャン・ペイルルヴァッドが著した『世界を壊す金融資本主義』(2005年)という本は現代資本主義経済の実態を率直に描いてみせている。08年金融恐慌の以前に書かれた本としては、恐慌のある一面を予感させる分析でもある。この書物からベックたちが嘆く時代のある意外な真実を付け加えてみたい。
「マルクスの言葉を借りれば、資本家階級は有産企業家の中核をなしており、労働者階級の提供する労働力を直接に搾取してきた。また、資本家階級は、労働者階級が生み出した剰余価値を不当に手に入れてきたというとになる。マルクスが思い描いた19世紀後半の現実と呼応したこのモデルは、現在では過去のものになった。なぜならば、現在では株主と企業経営の機能が分離したからである。資本主義が社会全体に広がった場合、すべては分離されることになる。資本家を直接知覚しようとしても、マルクス革命の幻想を味わうだけである。」(p52)
と、とりあえず決まりきった現代資本主義の特徴を、これもお決まりのマルクスの幻想を添えながら描いてみせる 。 * 1 そして、彼はそこから株主とは何者かと論を進める。
彼の用いている数字を見てみよう。
03年現在で世界の株式時価総額は31兆ドルで、これは世界の総生産の86%だと言う。(ちなみに07年には以前紹介したことがあるが63兆ドルまでに膨れ上がった。リーマンショックで現在は40兆ドル前後ではないだろうか。)そして、それらの株(証券資産)を所有する人々は少数の国に偏在している。アメリカ、EU、日本、オーストラリア、カナダ、スイスである。アメリカでは世帯の半数が株を所有し、EUでは20?25%が株主である。その他の国の株主を合わせて、「このような計算を大雑把に行うと、世界には老若男女合わせて三億人の株主が存在する」(p60)そうだ。つまり、人類の5%が世界の株式資産のほとんどを所有しているということである。更にこの(不平等な)構造は株主全体にもあてはまる。つまり、三億人の中のおよそ一千万人ほどが世界の株式資産の半分を所有していると考えられているからである。
これらの数字は世界の所得格差をくっきりと表現している。彼の表現を借りれば、世界の労働者の半数が一日2ドル以下で生活している一方、たった七万余の世帯が3000万ドル以上の金融資産を保有しており、世界の富の15%を所有している。
では、株主とはどういう人たちなのであろうか。大きく見積もっても世界に三億人いる株主とは何者なのであろうか。
「株主というのも把握しにくい存在である。…株主であるという明らかな目印が存在するわけではない。彼らの国籍、宗教、政治的思考、品行などはさまざまである。株主たちの間には、上下関係、社会構造、指導者などが存在するわけではない。株主と呼ばれる世界的部族にはリーダーや魔法使いも存在せず、組織化された集団でもないのだ。彼らはいわば加入者のみの繁栄を目指す、これまでにない異質で曖昧な集団であり、一般社会に埋没している世俗的利益を追求するグループであり、…国境を越えて共通することは、ただ一つ。儲けることに対する欲望である。」(p68)
とはいうものの、彼によれば株主は今見たように先進資本主義国(帝国主義諸国)にその大多数が居住し、かつ「比較的年齢の高い、高学歴、高収入の個人」だというのである。これは何を意味するのか。
「株主というものは、しばしば、退職後の生活の備えに対する懸念から投資するものである。また、すでに退職した者も同様である。…ほとんどの先進国において株式を保有する年齢層とは、50歳以上がもっとも多い。またこの年齢層は、他の年齢層に比べ選挙に対して熱心でもある。こうした特徴を持つ50歳以上の年齢層は高齢化現象により社会において多数派になろうとしている。」
先進国の労働者の退職後の生活の糧に株式が利用されていることは周知の事実である。前回のベックの引用でも取り上げたように、先進国の労働者はその階級意識を手放す代わりにささやかな蓄えを手に入れることができた 。 * 2 その資金は今や巨大な年金基金となって金融市場に流通している。米国の年金基金は同国の株式の30%以上を保有している。04年の運用資産は6兆ドルでその半分が株式で運用されている。これらの資産は個々人が運用しているのではなく、基金や投資信託、生命保険会社などが間接的に代行しているが、これらの機関投資家は企業が何をしているかではなく、より高い配当とより高い株価を追求するだけである。
企業に高配当と高い株価を要求するという株主の行動はブルジョアジーたちの行動規範と一致する。とりわけ、それは近年注目されている金融ブルジョアジーたちとは何者かという疑問に答えるものでもある。企業の中には粉飾決算によって高配当を維持したり、詐欺まがいの手法で配当を維持したりするファンドが時折ニュース情報を賑わすが、これらはエピソードに過ぎない。持続可能な企業収益の還元の原資は剰余価値であり、収奪の成果であることは疑う余地がない。更に言うならば、持続不可能な収益を要求するファンドさえ存在するようになってきた。ペイルルヴァッドによれば、年間15%の収益率がファンドの一般的な目標だと記している 。 * 3 しかし、これは年間2?3%の経済成長率しかない資本主義経済にとっては詐欺的数字である。
「彼らはいずれ幻滅するであろう。なぜなら、このような資本収益性を長期的に維持することは不可能であるからだ。」(p106)
まさに、これは予想ではなく現実となったが、しかしこの幻滅(リーマンショック)から株主たちは何かを学び得るだろうか。それは、否である。なぜなら、彼らはグローバル経済の主体であるかもしれないが、何の責任も義務も負う者ではないし、経済の実体的な運営者でさえないからである。
では、誰がそこから学ぶのか。国家か。然り。金融市場の規制に乗り出しているのは、まさに国家である。だが、国家でさえ何ができるのだろうか。
「こうした収益性の追求の過程において、国家自体も大きく自治・統治権を失った。国家の統治する領土は、各国が移動する資本を誘導し合う場所と化した。」(p110)
規制をむやみに強化すれば、資本は逃避する。EUと米国との金融規制を巡る駆け引きはまさにこの資本誘導の国際政治である。誰もそこからは何も学ばない。先進国の退職者たち、その予備軍たちは自らの政府に自分たちの老後の生活を守れと要求するだろうし、政府は自国民と自国企業を防衛するために資本を誘導する政策をとらざるを得ない。先進国(帝国主義)企業は資本そのものの主人たちの要求通り、最大限の収奪を可能とするためにますます安い賃金を求めて世界を駆け巡るだろう。今や新興国の経済がこのグローバル経済の競争市場に参戦し、事態は一層複雑になってきている。

最後に今回紹介したジジェクの著書よりの引用で終わろう。
「…現代の先進国に〈三つの主な階級〉が出現している。正確には三つの階級ではなく労働者階級が三分割されたものだ。知的労働者、昔ながらの手工労働者、社会からの追放者である。/労働者階級から三つに分かれた各部分は、独自の〈生活様式〉とイデオロギーをもつ。知的階級は、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義。古くからの労働者は、ポピュリズム的原理主義。追放者は、より過激で特異なイデオロギー。/三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の結集する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。」(p242)
社会学者たちが描く現代社会と実業家が不安視するグローバル経済とを重ね合わせてみると21世紀初頭の資本主義世界の輪郭がほの見えてくる。しかし、そこに共通する知識人たちの不安は事態を解決するための主体を見いだす作業が欠落していることで一層増幅されている。ここで問われているのは政策ではなく、革命の主体が描く理念であるのかもしれない。でなければ、ここで述べた出口なき悪夢のような循環構造を破壊することはできないだろう。

脚注

* 1 資本主義における所有と経営の分離については、資本論第三巻にその予兆が示唆されているが、20世紀以降様々なマルクス批判者たちが取り上げた。その代表例がM.ウェーバーであろう。

* 2 日本における65歳以上の世帯の平均金融資産は2500万円(約80万ドル)である。これを「ささやか」というか否か、大いに疑問ではある。

* 3 この数字はリーマンショック以前の数字である。現在では、どんな強気のファンドでもこの数字を掲げる所は少ないであろう。


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