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資本主義はどのように描かれているか(1)

斎藤 隆雄
348号(2010年8月)所収


 資本主義世界の現在については、これまでも何度か分析を試みてその概要を描いてきたが、これらの姿を新しい段階と規定するのがいいのか、それとも必然的な流れの中にあると見るのがいいのか、あえて判断してこなかった。しかし、そのなかでも榎原氏の「信用資本主義」という規定については肯定的に評価し、国際金融資本の世界的な流動が現代資本主義の現在を規定していると見るのが妥当だと判断している。
 読者にすれば、それは経済ジャーナリストの判断と少しも変わらないではないかと思われるかもしれない(内容は当然異なるのだが)。もっともなことである。問題は、だからそこにはない(求めるものの中心ではない)ということでもある。本稿では、既に20年以上前から始まっていた欧州の社会学者たちの産業社会に対する分析を参照しながら、資本主義社会がこれから向かおうとする姿を彼らが描写する労働者階級の現状から浮き彫りにし、これまで様々な「言葉」で規定されていた資本主義の現在を検証していきたい。

1.脱伝統化-階級なき資本主義

 1986年出版のウルリヒ・ベック『危険(リスク)社会』という著書は80年代に始まった欧州の新自由主義政策の労働市場にもたらした結果を生き生きと描いているという意味で、出色の書物である。本書は三部構成となっており、とりわけ今回はその第二部にあたる、「社会的不平等の個人化-産業社会の生活形態の脱伝統化」と題した部分を取り上げてみる。
 当然のことであるが、80年代の社会学潮流はその最良の部分でさえ、それ以前のマルクス主義的社会学から如何に抜け出すかが課題であった。その最も中心的なテーマが「労働者階級の消滅」である。というより、階級という実体そのものの消滅を証明することが基本的な視点なのである。
 では、階級の消滅によって平等な社会が現出したのかと言えば、むしろ逆に不平等は拡大しているという現実にも直面する。そこで、ベックはこのような現代社会をどのように描き出すのか、以下見てみよう。(やや回り道ではあるが、急ぐ必要はないだろう)
 ベックの現代社会への視点は欧州の社会学全般に共通してみられる、ある地域的歴史的特殊性に拘束されている。その意味では、社会学そのものの出自を意識せざるをえないが、キリスト教圏での社会分析の限界はここでは保留する。彼は、第二部冒頭に次のような視点を展開する。
 「われわれは、近代の内部で生じている社会の変遷の目撃者であり、その変遷が進むにつれて、人間は産業社会の社会形態-階級、階層、家族、男女の性差状況-から解放されるという認識であり、その解放は、宗教改革の進展につれて人間が教会の世界支配から社会へと〈解放された〉のと同じであるという認識である。」(p138)
 意外なことに、ベックは階級を「産業社会の社会形態」と規定し、そこから解放されつつあるというのである。これはどういうことであろうか。階級から解放されたということは、産業社会がなくなったとでも言うのだろうか。それとも…。
 「福祉国家によって保護された労働市場の力学は、社会階級を資本主義のなかで弱体化させるかあるいは消滅させる。われわれは、-マルクス的に考えるなら-ますます階級のない資本主義という現象と対峙するようになる。」(p139)
 つまり、階級や家族は「福祉国家」以前の資本主義特有の社会形態であって、大戦以降の先進国で展開された福祉政策によって、資本主義が階級のない形態に変化したということを言いたいのである。階級という「社会形態」がもはや産業社会のものではなくなったのである。
 では、ベックの言わんとしている新しい産業社会、階級を社会形態として必要としていない産業社会というのはどのようにできてきたのか。「労働市場の力学」とは何なのかが問題となる。
 「生活時間、労働時間および労働収入-これらの三つの構成要素は、ドイツ連邦共和国の発展につれて、人生におけるさまざまなチャンスが増えたために、根本的に変化した。平均余命はかなり伸び、平均労働時間は四分の一以上短縮された。同時に実質賃金は何倍にもなった。…より多くの貨幣を得、また、より多くの職業労働からの自由な時間を有することは、階級と家族によって規定される生活の持つ伝統的なタブーと抵触する。貨幣は、社会集団を新たに混合させ、同時に大量消費のなかで社会集団を消滅させる。…ドイツ帝国やワイマール共和国では、労働時間外の生活が〈階級という世界〉のなかで階級ごとに分けられているのが認識できたし、その認識は、クラブと一杯飲み屋との間の境界や若者の集会所や養老院との間の境界から得ることができた。しかし、その境界も識別できなくなるか、あるいは廃棄されてしまった。その代わりにあらわれたのが、不平等な消費スタイルであった。しかし、その消費スタイルからは、-異質性をさまざまに実演しているものの-階級文化の特性が取り去られてしまった。」(p147-148)
 長々とした引用になってしまったが、要するに新しい産業社会とは大戦後の先進国における大量生産大量消費システムへの移行が労働者階級に与えた著しい生活形態の変容のことなのである。日本においては高度経済成長期という60年代における労働者階級の生活形態の変遷と同じであり、これまでも幾度となく語られてきたので、これ以上ここで説明を加える必要はないだろう。この変容は、ベックにとっては労働者階級を階級として成立させている生活形態を解体したと見る訳である。
 更に、より決定的なことは、第二部表題にある「脱伝統化」という言葉に込められた意味である。産業資本主義段階で形成された労働者階級という社会形態は、その家族形態を特殊な形で形成したと捉える。つまり、家父長的核家族形態という〈産業社会の伝統〉が労働者階級を支えていたというのである。
 「産業社会は過去においても現在においても、純粋な産業社会としては存在することはできず、常に半分は産業社会、半分は身分制社会として存在してきた。その身分制的な側面は、決して伝統的な遺制ではなく、産業社会が作り出したものであり、かつ産業社会の根幹をなすものである。産業社会が完全に広まり浸透するとともに、その範囲では、産業社会の家族道徳、性によって決まる運命、結婚、親であること、セクシュアリティに関するタブーの廃棄が進められた。」(p141)
 だから、この〈伝統〉は中世封建制的な意味での伝統ではない。日本においてもそうであるが、戦後の憲法において男女平等を規定しているが、実態は相変わらずの差別的状況が続いている。80年代後半に入ってやっと機会均等や別姓が法的に取り上げられるようになったが、同じようなことが西独においても70年代に進行した。
 「女性の法的平等は、ドイツ基本法のうちに法的根拠を有している。しかし法律上の地位における男女の不平等は、1977年の新しい婚姻・家族法によってようやく解消された。法律上は、もはや男性と女性とを別個に扱う規定はない。女性には、婚姻以前の名字を結婚後も使用する可能性が開かれた。それまでは、家事労働と家族の世話は妻の役割であると法的に定められていたが、これも廃止され、家のなかの仕事は誰がどのように執り行うかは、夫婦が定めることとされるようになった。同じく、夫婦とも家庭外の仕事をもつ権利を付与された。」(p202)
 驚いたことに、77年の法以前は妻が家庭外に仕事を持つには夫の許可がいったのだ。ベックのいう「半分は身分制」というのは、まさに家庭内における身分制であり、女性を家庭に閉じ込めておくための身分制である、ということである。このような社会形態が労働者階級という現実と照合すれば、言葉の上ではどうであれ、「労働者階級」という規定は明らかに男性中心の工場労働者と結びつくことは致し方ないだろう。
 従来、「男尊女卑」という考えは封建的な遺制であり、近代以前の名残であるという指摘が流布していたが、産業社会が労働者階級を家族形態の内部に身分制を必要としたという分析が今や主流となってきている。この現実は市民革命のスローガンと資本主義の発展という問題や労働者階級の農村からの供給という蓄積様式の問題が深く関わっているが、ここではこれ以上深入りはしないでおこう。 * 1 ただ言えることは、労働力の再生産という資本主義にとって最も基本的で最大の欠陥がこの問題だということである。
 ベックにとって、労働者階級の消滅というのはこの産業社会にとって必須の条件であった家族形態(身分制社会)が先進国の福祉政策によって解体させられ、同時に物質的な生活水準の上昇によって階級としての団結形態が失われていったと言いたいのである。そしてその代わりに現れたのが、「個人化」である。

2.個人化

 「すべての豊かな西側産業社会において……第二次世界大戦後の福祉国家による近代化のなか、前代未聞の射程範囲と力学をもった社会の個人化が始まった(しかも、社会における不平等の関係は変わらないままで)。」(p138)
 ここでいう個人化とは、市民革命によって生まれた有産階級の個人主義とは異なったものである。ブルジョアジーの個人化は彼らが自らの私有財産を市場に投入し、自らの責任で富を蓄積していくという意味での個人化である。しかし、ベックの言う個人化とは「別の形態の個人化の過程」なのである。あえて言うなら、階級関係がまったく変わらないにもかかわらず進行する個人化である。
 「それは、…福祉国家の大衆民主主義という条件のもとでの労働市場過程の力学に特徴的な個人化の過程である。」(同)
 フォードが始めた新たな生産過程の革新は、自らの雇用する労働者に自らの生産物を購入させるという、大量生産大量消費のシステムを作り上げたことはこれまでも言い古されて来たことである。このシステムに福祉政策が加わることによって労働市場は大きく変化した。ベックは、この「歴史上革命的な所得の上昇」を様々なデータを駆使して描いている。
 「かつては、富裕な市民にしか手が届かなかった休暇旅行や慰安旅行が、今日ではともかく半数以上の労働者にとっても可能になった。それどころか、自分の財産を形成することもできるようになった。他の被雇用者大集団との隔たりは変わらないという状況下で、労働者は、《プロレタリア的無産者》という地位を捨てた。」(p146)
 「家族を越えて広がる共同体に強く指向した居住形態や集落形態」がかつての労働者階級を支えていたが、「(その)代わりに、社会構成が雑多であることや、近隣・知人関係がかなりゆるやかであることを特色としてもつ、近代的な大都市集落や小都市集落があらわれた。あらかじめ存在していた近隣関係は、そのようにして破壊され、新たに登場した社会関係や人と人との接触のネットワークを、個々人で選択し、作り、維持しなくてはならなくなった。」(p166)
 階級関係が変わらないままに、すなわち労働者階級という経済的な位置が変わらないままに、生活形態における変遷がその自らの団結形態を解体させられたという現実は否定しようがないだろう。都市に集められた労働者たちは、郊外のベッドタウンにその住居を構えることとなるのは、日本の60年代である。ベックはこの状況の中でドイツにおいて始まる新自由主義政策の80年代に拡大した大量失業という事態に注目して、それを詳細に描いている。高度成長期が終わり、フォーディズム的な労使一体型の蓄積形態が終焉を迎え、資本家階級の巻き返しが始まったのが、欧州においては80年代であった。労働形態の分解と非正規雇用の拡大、新たな企業の生産体制の再編が始まり、古い「産業社会」が新しい外皮を求め始めたのである。この変化の中でとりわけ重要な要因が二つある。それは「階級」を消滅させた生活形態の変遷がもう後戻りできない所まで来たにも関わらず、新たな資本主義の労働者階級への攻撃が始まったということが一つである。それは、変則的な過程で始まる大量失業という現実である。更に、もう一つは変容した社会形態が身分制社会として確立した家族形態を解体し始めたという現実である。これらの現象をベックは「個人化」という言葉で描いている。
 「大量失業は、個人化という条件の下では、個人的運命として人間に負わされる。人間は、もはや社会的に公然とした形ではなく、しかも集団的にでもなく、個々人の人生のある局面において、失業という運命に見舞われる。失業という運命に見舞われた者は、自分一人でそれに耐え忍ばなくてはならない。以前は貧しい階級に特有の生活連関が、そうした苦しい状況に耐えられるような解釈や防御・支援形態を提供し引き継いでいた。しかし、かつては集団で経験された運命は、階級関係が失われた個人化された生活状況においては、まずもって集団ではなく個人の運命となる。」(p174)
 労働者はその居住空間においても職場においても労働市場においても、もはや集団で行動することができなくなる。階級として行動する条件がなくなってきたのである。そしてすべてを個人として受け取り、耐え忍び、切り開いていかねばならなくなる。さらに、産業社会の最後の身分制が解体することで家族形態もが個人化する。
 「家族の脱伝統化とともにあらわれてきた男女対立は、主として二人の生活を破壊しぼろぼろにした。…これらの現象を、人は好きなように名付ける。〈男女の塹壕戦〉〈個人的なものへの退却〉〈ナルシズムの時代〉。これらの言葉はまさに、ある社会形態-産業社会の身分制的内部構造-が粉々に割れて私的な領域へと入る、その入り方を示している。」(p216)
 「身分に刻印された社会階級に対応した解放の上に、性差状況に対応した解放が新たに重なる。…すなわち、…離婚が女性にとって《新たな貧困》へと没落する入口となっている。」(p140)
 労使一体型フォードシステムが解体していく過程と、新自由主義政策の導入という時系列に重なって進行してきたのが、女性の職場進出である。それは、従来の性別役割分業の解体と平行して進む。安価な労働力としてまず労働市場に招き入れられたのが女性労働者であった。それは、家族の解体過程と軌を一にしている。なぜなら、法的に認められた家事労働の分担は、男性のサボタージュによってますます女性の肩にのしかかってくるからである。更に、育児と教育という労働力再生産のシャドーワークが意識化され、結合される。
 ベックはこれらの男女間で起こる葛藤を巧みに描いてみせる。
 「伝統的な男性役割に従う形で、男性の〈成功〉は、本質的に経済的・職業的成功に依存している。確実な収入があってはじめて〈良い扶養者〉、〈思いやりのある夫・父親〉という男性性についての理想に応じることが可能となる。…〈男性の労働力〉のこのような構造は、一つには、賞罰という、経営側が彼らを訓練する戦略の前提条件である。妻と二人の子供を養わなければならない者は、言われたことは何でもする。他方、男性の労働力が十二分に投入されるためには、〈和気あいあいとした我が家〉-そしてそれを請け負っているのが妻である-が必要である。〈職業人〉であり続けようとすると、男性は特に情緒面に関して依存的にならざるをえない。…男性は、モクモクとわきあがる両性の間の紛争を認識しないでおくという、注目すべき能力を発達させる。…妻との関係がもはや和気あいあいとしたものでなくなり、けんかが絶えなくなった場合、彼らの傷つきやすさは倍増する。途方に暮れ、わけがわからなくなる。」(p212-3)
 男性性から見た家庭崩壊の過程を皮肉たっぷりに描いてみせているが、これは引用文中にも書かれているが、まさに経営側の、資本の側の要求なのである。確かに今日では、この男性性のイメージは随分と修正されて来た。しかし、問題は性にまつわる男女の捉え方の問題ではなく、外から加えられる力、労働市場という力による結果であって、原因ではない。そのことをはっきりと示しているケースとして経営側が要求する転勤の問題がある。日本では「単身赴任」という言葉で描かれている家庭崩壊は、主に男性側の事情が多いが、それは男女を問わず起こりえることである。
 「労働市場は、個人的事情を考慮することなく転勤を要求する。結婚と家族は、それとは全く反対のことを要求する。近代の市場の極限モデルにおいては、家族も結婚もない社会が仮定されている。個々人は、自分の経済的存在を保障するために、自立していなくてはならず、市場の要求に応じられるように自由でなくてはならない。市場の論理を究極まで徹底させるなら、市場における主体は、孤立した、パートナーシップも結婚も家族にも〈妨げられ〉ない個人である。したがって、貫徹された市場社会は、子供のいない社会でもある。」(p234)
 資本の論理が要求する社会がこれであることは、既に多くの者が気付いている。それは民主主義的な自由主義社会において必然的に到達する個人の姿であり、個人が独立して構成する社会という意味では、再生産不可能な死に至る社会であると言える。
 ベックはこの労働市場の変容をこのように結論しつつ、同時に第三部において、「科学技術がもたらす危機(リスク)」についても展開し、「技術改革」がもたらす現代社会の崩壊の恐怖を描くことで、先に言った労働力の再生産機能の不可能性が科学を遺伝子技術や再生技術へと導き、今日では子供の生産が家族ではなく、病院(工場)で可能となりつつあるという現実へと至っている。病院、保育所、教育施設という現代社会が持っている家族外機能が資本の要求する労働市場の力学に動かされて発達してきたという現実から我々は何を学ぶべきか、再度問い直してみる必要があるだろう。
 この問題は今日では様々な論争を巻き起こしている。家族の解体が私的領域における変革を引き起こしていることは確かであるが、産業社会という一見中立的な表現からは見えてこない資本主義の究極の姿が垣間見えて来た先に、我々が展望しなくてはならないもう一つの課題は無数にあると言える。
 しかし、ここでは一旦ベックから離れて、次回それらの現実がグローバリズム経済のなかで人類社会が経験しつつある歴史的経済的変遷過程に目を移してきたいと思う。

 追伸。ベックが第三部で描く「新たな社会運動」については、本稿の最後で取り上げる予定にしている。

脚注

* 1 この現実をリベラリズムとの関係で論議しているのが、 ウォーラースティンである。「技術の近代性と解放の近代性との間の混乱した共生の歴史」と表現している。(『アフターリベラリズム』p194)


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