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宮台氏の難点

斎藤 隆雄
344号(2010年4月)所収


 丁度一年ほど前に、宮台真司さんが『日本の難点』という著書を発表した。この書は現在日本が直面している様々な社会的政治的問題群に対して、社会学を生業としている彼が解答を示すという体裁をとった書物である。いわゆる、1980年代以降に流通し始めたポストモダン派の流れに属すると思われるイデオロギーの中では、彼はこういう言い方が許されるなら「最右派」に位置すると私は考えていた。しかし、本書を読むとこれが非常に捩じれた形ではあるが奇妙なイデオロギーであり、必ずしもそうとは言えないことが分かってきた。一筋縄では扱えないポストモダン派の中でも直接的な政策提案を掲げる彼の考えをここで取り上げるのは、時代にかなったものであるはずだ。

1. 「再帰性」という時代認識

 本書ばかりではなく、最近の社会学関連の書物の中で「再帰性」という言葉が頻繁に登場する。どうやら英国の社会学者ギデンズが最初に使い始めた言葉らしいが、宮台氏によれば、
 「『再帰性』概念は、『するも選択、せざるも選択』であることが、〈万人に気付かれた〉後期近代の状況を記述する概念です。」
ということらしい。彼の言葉遣いに従えば、「底が抜けた」という状況だという。正統性がなくなったり全体が見えなくなったり不安に捕われたりという感じを表現しているようだ。
 ここで社会学概念の詮索をする気はないので、この言葉は現代人の不安な心理状況を社会学的に見る概念ぐらいに捉えておくとするなら、これは一時期流行った「相対性云々」ということと似通った言葉遣いのように見える。これは、前世紀初頭に登場した量子力学分野での観測主体と被観測体との相互関係や相対性理論といった法則認識が絶対者(真理)を消失させたという物質観と無縁ではない。これらについては、我々も一時期分析を試みたこともある(80年代中期)が、問題はこれを社会分析に応用する事にどれだけの意義があるかを今は考えなくてはならない。
 宮台氏の「再帰性」概念は本書の各所で使用されているので代表的なものを一つ取り上げるなら、この「再帰性」というものに「気付く」ことが重要なポイントのようである。歴史的に見ると、最初にフーコーとサルトルの論争から始まり、1972年のニクソンショックと翌年の石油ショックによって広がったとしている。ここから「気付き」が始まったというのである。そして、それは何かというと「消費社会化」と「ポストフォード主義化」という耳慣れた言葉に翻訳されている。つまり、「再帰性への気付き」とは誰の目にも日本が資本主義の爛熟期を迎えたということが分かったということになる。
 では、それによって何が起こったと言うのだろうか。宮台氏によれば、この大量生産大量消費時代において消費者が自分を見失うということが言いたいようだ。「理想のワタシ」を求めて彷徨い始める消費者の「自分探し」とそれに対応する「自己啓発セミナー」のサービス業成立がそれを表しているというのである。このことをギデンズは「自己アイデンティティの再帰化」と呼んでいるそうである。
 社会学の難解な言葉遣いを駆使しているが、彼の言説は要するに現代社会の不安心理を時代認識の中心に持っていきたいのである。そのために、様々な社会問題を取り上げる。高い自殺率の問題や宗教問題、秋葉原での殺人事件やモンスターペアレント、クレーマー、いじめ、ケータイ小説、裁判員制度、健康保険制度、年金問題などマスコミを賑わしている問題を次から次へと取り上げている。そして、これらの事象の背景にある時代潮流がポストモダンであり、再帰性への気付きであるということへと繋がるのである。
 ただ、奇妙なことが起こってくる。というのは、これらの時代認識をもって彼が民主主義と資本主義の問題を取り上げることから生じてくる。これだけ多様な問題を取り上げる限り政治の問題と経済の問題を取り上げないという訳にはいかないのだが、その視点が現代特有のイデオロギー色を持っていると私には見える。

2. 宮台氏の社会観

 宮台氏は米国を論じた章で、次のように言う。
 「集合的決定とは、政治共同体の構成メンバー全員を『拘束』する決定です。ちなみに、そうした決定を生み出す装置を『政治』と呼びます。」とした上で、「選挙や議決が多数決という手続きを経由するのは、『奪人称化機能』を実現するためです。」と述べている。つまり、人がすることは受け入れられないが、物がすることは受け入れるというのが人間だという意味である。「人は、人間が創った『世界』や仲間が創った『社会』を受け入れられないのです。」と政治について規定している。
 つまり、彼の政治についての規定は典型的なリベラリズムであることが分かる。本人自身も自ら「新自由主義者」であると述べているが、不思議なことに「ネオリベ」とは違うとも言うのである。彼の規定によると、「新自由主義はもともと"『小さな政府』で行くぶん『大きな社会』で包摂せよ"という枠組みだった」として、「ネオリベ=市場原理主義は、『小さな政府』&『小さな社会』の枠組み」だから、両者は全く違うものであるというのである。政府と社会とを二項設定するところは自由主義らしからぬ発想だが、確かサッチャーが「社会などない」と言った有名な発言を思い出せば、自由主義にも色々あるということにしておこう。
 そこで問題は「社会」ということになる。社会学者なんだから当然と言えば当然だが、彼の言う「大きな社会」とは何かが知りたくなる。説明はこうだ。
 「社会から『大きな国家』に移転されてしまった便益供与のメカニズムを、社会に差し戻す必要があります。それが大きな社会の含意です。」
 社会が元々持っていたメカニズムが国家=政府に吸い上げられていたから、それを元に戻せばいいと言いたいようである。何だか民営化=規制緩和論のような色合いが見え隠れするがそれはさておいて、彼の説明をもう少し追いかけてみる。まず、大きな政府が何故できてきたのか、そして小さな政府に戻すのは何故かという問いに次のように述べている。
 「〈生活世界〉を生きる『我々』が便利だと思うから〈システム〉を利用するのだと素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。〈システム〉が全域化した結果、〈生活世界〉も『我々』も所詮は〈システム〉の生成物に過ぎないという疑惑が拡がるのがポストモダン(近代成熟期)です。」
 つまりこれは生活世界が社会のことで、システムが政府のことだと読み替えると分かり易い。再帰性がポストモダンの特徴だとする最初の説明がここで生きてくる。正統性や権威がなくなると、政府が持っていた正統性や権威もなくなるから、大きな政府への批判が始まる。すると、政治的機能が衰えていく。復権すべきは「社会」だということになる。
 では、この「社会」というのは何を指しているのだろうか。ここで彼の微妙な言い換えが介在している。つまり、人間は集合的決定ができないという自由主義独特の論理から出発すれば、人間社会は個人の単なる集まりでしかなく、多数決や市場を通じた利益配分機能に頼るしか集団を形成できないということになり、いわゆる「ブルジョア市民社会」そのものという規定でしかなくなる。ところが、彼はそういう規定はしていないのである。ポストモダンの時代になると、生活世界が弱体化するというのである。
 「かつて『生活世界』の中で解決できたことが、解決できなくなって、『システム』を頼るしかなくなる結果、ますます『生活世界』が脆弱になっていく」と言い、「『生活世界』の再構築に向けた活動をすべきだ」と市民社会の論理を否定するのである。どうやら、彼の言う「大きな社会」=「生活世界」というのは独特の構造を持っているものとしか捉える事ができない。いわば彼にとっての「実現すべき社会」ということになる。
 なるほど彼の社会観がネオリベとは違うと言うのもある意味合点がいく。それは資本主義への捉え方においても伺える。
 「資本主義とは未来の成長を先食いして儲けるネズミ講です。成長への期待とそれを支えるフロンティアの発見がなければ資本主義は回りません」というのが彼の資本主義観である。また、「パレート最適は必ずしも社会性を意味しません」とも述べている。なるほど社会学から見ると資本主義はそのように見えるのかとも思うが、これでは資本主義の本質を全く見誤っているとしか言いようがないし、それでは資本主義が起こす生活世界の破壊を防ぐ事はできない。逆に彼の展望も牧歌的なものに見えてしまう。
 「『いい人たちが営む資本主義』に移行できるかどうかにかかっている」という訳である。モラルエコノミーという展望は、つぎのように描かれる。
 「金融資本をほどほどに制御する『共同体的自己決定』は、各人のソーシャルコミットメントを前提とします。すなわち、各人の利得概念に社会的便益が書き込まれている必要があります。いわば『他者の痛み』『社会の痛み』を『自分の痛み』と看做す選好構造です」
 何故これほど牧歌的な規定が生まれるかというと、彼の依拠するパーソンズ理論からの影響のようである。つまり、「ゲバルトによる(社会主義)よりも、内発性(資本主義)の方がよい。」と考えているのである。資本主義が内発的だという意味は、どうやら社会設計によって変えることができるというぐらいのことのようで、「社会成員が利他性を自然感情だと看做すように刷り込むには、どのような社会を設計すれば良いか。」ということが最終的な立場だと言明している。
 このように見てくると宮台氏の難点もある程度解明できて来ただろう。フェアトレードやエコエコノミーなどの提唱もされているが、それは市場経済の規制を社会的に埋め込むという発想から来ており、「良いことをしないと儲からない市場環境」を作ると言う設計思想も、何故資本主義が暴走するのかと言う分析がないので説得性がない。結局は所詮設計という近代特有の手法からは抜け出せていないが故に、それが再帰的に疑われるという疑問が生じてくる。そこで彼の民主主義観はそのことを考慮に入れて、「卓越主義的リベラリズム」という構想を提起している。
 「リベラリズムを民主制ないし民主的決定と直結する通念を却け、法生活の専門家や科学生活の専門家のようなエリートによる最終判断-判断材料の提示ではなく?を重視しない限り、安定した共生の作法は実現しがたい。」
 ということになる。エリートによる小さな政府の賢い制度設計によって、寛容な大きな社会を作ることで山積する諸問題が解決するという彼の構想はどこが間違っているのだろうか。一見正しいように見えるが彼自身も危惧しているように「俗情に媚びたポピュリズム」に対してエリート政治が有効に機能するのかという疑問が残る。更に言うなら、法や科学の専門家達が判断する政策決定が彼の言う信頼社会の形成に繋がるのかという疑問も当然発生する。専門家達の判断が脱人称的で脱イデオロギーであるという、民主主義に常に問われる中立規定がどうやら前提されているとしか思えないからである。

3. 何故奇妙か

 宮台氏が提唱する「新しい市民社会」像は、そこそこの「社会的包摂」を伴ったそこそこの「棲み分け」ができている信頼社会だそうだが、政治的には憲法九条改正と重武装/対米中立、アジアへの謝罪という一般的には過激な提案がなされている。確かに戦後の日本が対米従属によって文化的社会的に変遷したことで人々の公共意識も希薄になっているが、だからと言って対米中立という選択肢が新しい市民社会を作るということには当然ならない。むしろこれは日本共産党が提案する革命観に近いのではないか、と思われる。
 彼は言う、
 「僕は『国土保全』をキーワードにして、農業政策、環境政策、道路政策、分権化政策、内需化政策を横断的に連携させることが、可能かつ必要だと考え、活動している。」
 と。
 また、次のようにも言う、
 「統治権力はむしろステアリングのグリップを手放した方が、自発的服従契機としての正統性の維持に都合が良いのです。」
 と。
 このような相矛盾した言説が共存するのも近代社会を資本主義との関連で見ることができないことで、無前提な市民社会への信頼が密かに前提されているからである。市場経済の暴走を専門家の賢い政策で押さえ込めると牧歌的に思い込んでしまうのはそのためである。本書の随所に現れる鋭い気付きが結局最終的に台無しになってしまうのは残念だと言うしかないが、それにしても現代の「新しい思想」が資本主義への根本的な批判を欠落させてしまうという典型的な小ブルジョアジーの潮流を再確認して結論せざるを得ない。


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