共産主義者同盟(火花)

新自由主義と階級闘争(2)

齋藤 隆雄
329号(2009年1月)所収


 前回の第一節を補足します。現在進行している金融恐慌に関する二つの実態分析(榎原さんと矢沢さん)を取り上げて、舌足らずの分を補足したいと思います。お二人の分析はそれぞれ角度は違いますが、有意義な分析だと考えます。

《補足》

 最初に、榎原さんの信用資本主義規定を検討してみよう。
 「私が提案する信用資本主義とは、架空資本としての貨幣資本が投機によって蓄積する様式が支配的になっている今日の状況を解明する概念として、マルクスの信用資本概念をさらに拡張している。」(ASSB第16巻第5号p.5)
 そして、信用資本は現実資本に投下されず、金融市場で取引されて蓄積されるとしている。
 「信用資本は架空資本を投機的に取引することで蓄積していく。それはバブルを形成し、バブルがはじければ金融資産の時価総額は暴落するが、しかしこれは現実資本にとっては直接のかかわりがない。」(同)
 前回にも示したようにわずか一年あまりの期間に世界のGDPに匹敵する程の金融資産価値が消えたという現実は、常識的には理解しがたい事態である。だからこそ、「架空資本」という命名がなされているのだが、そこでは何が起こっているのか。
 銀行、証券、ファンドなどが世界中で取引していた架空資本とは何か。
 「架空資本は株券や国債や、各種の債務証書という紙券の形態をとり、これを売買する市場が資本市場であるが、架空資本の買い手は、貸し付け可能な貨幣資本である。貸し付け可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入が預金されることで銀行に集中される。また労働者の年金や保険も年金基金や保険会社に集められ、巨大な貸し付け可能な貨幣資本となる。」(同)
 架空資本の基礎となるのが貸し付け可能な貨幣資本である。銀行は企業と大衆から集めた預金、保険会社は保険掛け金、証券は企業のキャッシュ、ファンドは資産家と年金基金等から集めた資金、あらゆる所から集められた貸し付け可能な貨幣資本は従来、独占資本の新たな投資に投下され運用されていた。それが国独資段階の貨幣資本の蓄積形態であった。この段階に於いても貨幣の創造、信用創造は日常的に行われていた。管理通貨制度の下では銀行制度はこの信用創造という機能こそが求められる仕事であった。そこでは「過剰準備金」と呼ばれる架空資本が既に存在していたのである。
 しかし、これだけでは現段階の信用資本主義の実態を解明したことにはならない。問題はこれらの創造された架空資本が現実資本に投下されず、市場で株式や債券、土地や一次産品等の紙切れの売買に投下され続けたことにある。
 サブプライムローンのように、将来の労働所得を組み込んだ金融商品や企業価値を現実資本ではなく、架空資本を組み込んだ会計処理によって表し、それをまたリスク評価して証券化するといった二重三重の価格付けをすることで取引額が膨張するのである。それらは主に証券会社やファンドが担い、銀行や保険会社は貸し付け可能な貨幣資本の供給源となっていた。
 例えば、株式投資をとってみれば、小額の証拠金で信用取り引きをする場合は元金の数十倍の借財で株取引が行われる。取引された株式の価格は株価として反映するが、その貨幣資本は証券会社の債権でもある。その時点で二重に計算されていることになる。更にその株式を企業財務に取り込めば資産として計算されることとなる。そして株価は取引市場に集まる貨幣資本の流動性によってその時々の異時点間の値決めによって決まるので、架空資本で膨らんだ現実資本の評価額として流通し、更に次の膨張を準備する訳である。
 様々な金融商品が飛び交う現代の金融市場においては、従来の預金を根拠とした貨幣資本の創造とは異なる信用創造が行われていた可能性が高い。榎原さんの言うように、「今日の銀行券の発券システムからすれば、日銀券は日銀の一覧払いの債務証書であり、その本質は預金証である。」しかし、今回の金融危機を直接的に生み出したCDOなどの金融商品は 債務の証券化という実体のない商品であった。中下層労働者の未来の所得や評価のはっきりしない企業の倒産リスクを商品とするなど、詐欺まがいの商品が流通していたという現実から何が見えてくるのか。
 榎原さんによれば、「金融市場(資本市場)は将来の価値請求権の売買の場であり、リスクの交換である。」と規定している。それは、商品市場や労働市場とは異なるものではないか、と疑問を提起している。将来の価値と現在の価値を交換するということは、未来の不確定性と現在の確定性とを交換するということであるから、典型的には年金制度がそれにあたるだろう。すなわち、先進資本主義国家で一般的になっている福祉制度そのものが金融市場と深い関係があるという可能性がある。これはこれからの検討の課題となるだろう。
 次に、矢沢さんの分析を検討してみよう。
 『情況』12月号に掲載されている矢沢論文は、表題にもあるようにアメリカ帝国主義の崩壊に焦点が当てられている。戦後の世界経済を規定したブレトンウッズ体制についての歴史的分析をした後、1980年代以降の国際的な資本移動がアメリカに集中しているという事実を挙げ、次のようにまとめた。
 「規制撤廃(金融の自由化)、国際化、技術革新の三大革命の同時実現」
 「世界金融システムにとっての意味は、『アメリカによるマネー集中一括管理システムの誕生』と捉えることができる。」(p.20)
 このアメリカ帝国主義の管理システムは、アメリカが抱える財政と貿易の「双子の赤字」を世界中の余剰マネーを収奪することで清算し、その上更にそれをアメリカの海外投資にも振り向けて、収益を挙げていた。アメリカの過剰消費を中国をはじめとした新興国が商品輸出することで支え、その代金は国際金融市場でのマネーゲームで稼ぎだしていたという資金循環が、「持続不可能性を劇的につきつけた」のが今回の金融恐慌なのである。
 矢沢さんの分析は経済政治軍事の多面的な分析であるから、今後の世界経済動向は基本的には「ドル離れ」「基軸通貨ドルに代わる世界金融システムを模索する時代」としつつも、「直ちにドルに代わって基軸通貨の役割を果たせる通貨は、存在しない。」とし、「当面、基軸通貨の役割を果たしうるのは……『通貨バスケット制』しかない。だが、その運用は、世界の政治秩序にかかっている。」(p.35)とする。
 確かに、今回の危機の発祥の地はニューヨークの金融資本であった。これまで、アメリカの金融資本家たちは中南米やアジアでの収奪で生き延びてきたし、発展してきた。しかし、今回はアメリカ自身のバブルで決定的な痛手を負った。危機のたびにドル離れが言われるが、80年代のプラザ合意に見られるような再編は今回は起こりえないと言えるか。(80年代は欧州や日本の経済が今日ほど世界同時性を持っていなかったということから、今回の再編が劇的になる可能性が大きくなっていることは確かである)ドルの劇的な為替調整が起こるとしたら、最も痛手を被るのは日本だろう。そして、それを今の日本政府は受け入れざるを得ないだろう。その場合、別の次元での日本の政治流動が起こる可能性はある。しかし、世界資本主義のシステムそれ自体はアメリカが作ったこの仕組みそのものを変革する能力を持っていないことも確かである。ただ、アメリカに還流する資金の流れを止めることは可能である。各国はそれを目指すかもしれない。今ある先進資本主義諸国の過剰な生産力を新興国へ移転し、過剰な消費をまき散らすこと以外に生き残る手段はない。
 矢沢さんによれば、新興国の経済はアメリカほどは痛んでいないという分析であるから、世界経済の多極化が一層進むということになる。ただし、過剰な貸し付け可能な貨幣資本を一括管理するシステムそのものはアメリカ以外に構築できる国家があるのか、それともそのシステムが分散化できるのか、今後の世界経済動向から目を離すことができない。

II. 新自由主義経済は何故受け入れられたか?

 新自由主義のイデオロギー攻撃という側面は既にハーヴェイが指摘しているので、それを踏まえた上で指摘しておくべき点は、まず前々号で渋谷さんが指摘した政府行政組織の肥大化という現実に対する批判である。これらは帝国主義各国の歴史的背景によって事情が異なるが、概ね世界恐慌以降の帝国主義国が植民地支配を貫徹するために取られた国家と独占資本との一体となった経済体制であり、日本においては総動員体制という政府主導型の計画経済であり、戦時体制であった。
 これらは戦後においても長く維持され、とりわけ基幹産業労働者と政府、独占資本との労働協約体制として発展してきた。敗戦による戦時復興にとってはもっとも合理的で急速な経済再建が可能であったということは既に既知の事実である。傾斜生産方式やインフラ整理などの産業基盤を形成するためにこれらの体制は威力を発揮した。それは欧州の戦後復興に置いても、日本のそれも同様の経過を辿ったと言っていいだろう。この時期、様々な政府諸機関が生まれ、法体制が整備された。自由放任ではなく、管理された資本主義が過剰生産を防ぎ、貨幣流通を管理し、「ゆりかごから墓場まで」を国家による福祉政策で保障するという社会民主主義の政策が主流となった。
 1970年代以降、この隠れた労使協調路線を背景にした階級闘争の課題が根本的に変革を迫られた。それがハーヴェイの言うブルジョアジーの巻き返しであり、同時に戦後国家独占資本主義が限界に突き当たったという現実でもあったということである。基幹産業労働者と独占資本と政府の蜜月の時代が終わり、利益率の低下と行政組織の肥大化というブルジョアジーにとっての限界が新たな階級戦争の始まりであった訳である。ここに新たに登場した新自由主義イデオロギーはブルジョアジーが階級戦争に望むグランドデザインであり、経済/政治/社会領域にわたるトータルな武器であった。
 では、何故これらのイデオロギーが人々にやすやすと受け入れられたのか?
 それが先に指摘した政府行政組織の肥大化なのである。政府の幻想の公共性(超階級性)が労働者階級にとって主要なる敵対物を見失わせる結果となったと言える。ブルジョアジーの提供する「官僚組織の無駄」「小さな政府論」「市場の合理性」といった謳い文句に多くの労働者は共感したのである。とりわけ非基幹産業労働者はこれまでの利益配分において不利な立場にあったことで、政府の肥大化に対する批判は強められたと言える。それは他方で既に指摘したアメリカ経済においての高い労働分配率に対応する価格転嫁という現象、いわゆる不況下のインフレと重なり、中下層労働者の生活を圧迫し始めていたことと同時であった。この現実に対して労働者階級の利益を代表するプランは存在しなかったのである。
 欧州と日本においては、同じような事態が遅れて訪れた。英米が先行したのは明らかに第二次大戦の被害の程度によるものである。しかし、それだけでは今日の時代の説明には不十分である。もう一つ新自由主義に有利に展開したのが、世界経済の一体化の進行であった。元々、ケインズ理論を基礎に構築されていた国家独占資本主義は一国経済が前提であった。戦後のIMF-GATT体制は国際金融決済を固定相場制/ドル=金決済でなされており、ドルを金に固定する限りにおいて成り立っていたのである。すなわち、ドルの圧倒的な強さを背景にして、一国経済の完結性を保障していたのである。金がドルと結びついていたということは、限られた金資源に国際商品資本移動の決済が縛られていたということでもある。一国の経済は国際商品資本取引に対して独立していたと言えるのである。
 周知のように70年代に入って、ドル=金体制は崩壊し変動相場制へと移行したことで、一国経済は急速に世界経済に直結することとなり、もはや国内経済政策が独立で存在することができなくなったのである。これが、新自由主義イデオロギーとグローバル経済とを結びつける根拠であった。一国の貿易不均衡を金に縛られたドルで決済することで世界貿易と資本流通を自動調整するという、今では古典的な世界経済の外皮は脱ぎ捨てられたのである。
 このような時代転換の狭間にあって政府行政機構の衣替えは日米欧で様々な様相を呈した。最も素早かったのがアメリカだが、それは行政機構が大統領制であったことと、新自由主義イデオロギーの発祥の地であったことが大きい。それに反して、日本の場合は渋谷さんが指摘しているように、あまりにも不徹底であった。しかし、実際上の行政機構の衣替えが不徹底であったことと社会的意識が新自由主義的な変貌を遂げたこととは一致していない。むしろ、日本においては従来の国家独占資本主義時代の基幹産業労働者と独占資本との労使一体的労働慣行が市民社会レベルで解体していったことはその社会意識の変貌という意味において劇的であったとも言える。日本に於ける新自由主義イデオロギーの受容形態は戦後階級闘争の重要なポイントでもある。
 戦後の国独資による復興事業と石炭産業労働者への攻撃が「戦後民主主義期」における階級闘争の主要な焦点であったことと、1968年を前後する学生/青年労働者を中心とする政治闘争の高揚とは一つの時代の二つの側面であったが、80年代の中曽根内閣に於ける国労/電通攻撃と00年代の小泉内閣による郵政民営化攻撃は新自由主義時代の二つの側面であったと考えられる。そして前者の階級闘争において焦点となった政府像が社会民主主義/福祉国家像かプロレタリア独裁か、であったとすれば、後者のそれは小さな政府か大きな政府かでしかなかった。労働者階級はそこに対置する政府を提起できていないのである。だからこそ、肥大化した官僚組織の非効率的な組織に対する政権党自らの批判が、あたかも官僚組織が打倒対象であり、「小さな政府」こそが目指すべき労働階級の政府であるかのごとくに見えたということなのである。しかし、現実に進行した事態は二重の意味で深刻であった。つまり、国独資型官僚組織は整理されず温存され、公共的分野における行政組織は解体され、労働市場に於ける労働者保護規定は廃棄されていった。
 政府行政組織(官僚組織)は公共物ではなく、寄生的存在であるということ。それを支える「民主主義政治」は見せかけのお飾りであるということ。これらの世界観はいわゆる古典的自由主義の「小さな政府論」と親和的である。この古典的な自由主義思想がとりわけ日本に蔓延したのは、アメリカや欧州でのそれと機縁を異にしている。戦前の天皇制国家も戦後の国家独占資本主義においても、民衆の上に立った国家/政府に対して潜在していた反抗は、小さな政府と私企業世界に公共性を見ようとする錯視を生んだのである。特異な日本に於ける新自由主義の受容は現在の危機でまさに岐路に立っていると言える。我々がこれらの社会意識を如何に解体し新たな政治を構築していくか、如何なる政府を樹立していくか、問われている課題は根源的なものである。




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