共産主義者同盟(火花)

ユニオンと労働運動

流 広志
321号(2008年5月)所収


 全体的には元気のない日本の労働運動のなかで、比較的元気な労働運動として、ユニオンがある。
 世界的にみれば、アメリカ、韓国、フランス、ドイツ、インド、中国などでは、大きなストライキが行われており、日本ほど労働組合運動は停滞してはいない。もっとも、日本では、労使紛争は、労働組合を通さずに、労働者個人による訴訟の形を取るケースが増えているのであり、これを労働争議に入れるなら、それは増えている。このような労働争議の形は、訴訟社会アメリカでも増えている。労組組織率が2割を切って18%になっている日本の労働組合の現状からすれば、これは当然である。「連合」系大手民間労組のように、労使一体となって、リストラに協力しているようでは、労組に頼らず訴訟に訴えようという労働者が増えるのも無理もない。先日、「労働契約法」が施行された。これは、日本の場合、労働問題については、判例法による蓄積が厚くあって、法の不備を補ってきたというが、ようやく、法整備に乗り出したということなのだろう。もちろん、これには、合理的な理由があれば就業規則を変えて労働契約を変更できることになるなどの問題点を含んでいる。
 日本の戦後労働組合運動は、日本共産党系の産別会議(前稿の最後の方の全協は産別会議の誤りでした。ここで訂正しておきます)と戦前の総同盟系の総同盟の二大ナショナルセンターから始まり、産別会議の2・1ゼネストのGHQマッカーサーによって中止に追い込まれた後の民主化同盟(民同)の分裂と総評結成という経過をたどった。最大のナショナルセンターになった総評が高野路線を政治主義と否定し、岩井・太田路線という国民春闘に代表される経済主義へ転換した。1980年代に、資本主義擁護のイデオロギー主義的な自由と民主主義を掲げる「右翼的」労線統一による「連合」とそれに反対した全労協・全労連の三つのナショナルセンターが発足した。しかし、今日、労組組織率低下に歯止めがかからず、全体としては停滞状況にある。その中で、東京管理職ユニオン、「連合」系女性ユニオン、フリーター全般労組、首都圏青年ユニオン、などのユニオンが、若者や女性や外国人労働者などを組織して、組合員数をのばしている。先の5・3フリーター・メーデーは、前年の約4倍の約600人を集め、公安・機動隊の激しい挑発にあいつつ、デモを貫徹したという。
 われわれは、労働運動については、まず、共産主義と労働運動の結合という観点から見る必要がある。現在、われわれは、明確で具体的な共産主義像を描くことはできない。せいぜい、一般的な原理のいくつかをマルクスの『ゴータ綱領批判』などから言うか、共産主義的共同体についての歴史的文化人類学的研究から一般的なことをいくつか引き出してくるか、株式会社や協同組合企業などから批判的に学ぶぐらいのことである。結局は、『ドイツ・イデオロギー』における「共産主義とは、われわれにとって成就されるべき、なんらかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」(合同出版72頁)ということが、基本である。この現状とは、資本主義という現状であるから、つまり、共産主義は、資本主義を止揚する現実の運動ということになる。このことと、プロ独をかち取り過渡期入りして約60年で崩壊した旧ソ連などの総括はもちろん関連するが、資本主義から過渡期入りしたばかりのプロ独期にはそれに特有の領域の問題がある。
 そのことについて、レーニンは、1920年12月30日の第8回ソヴィエト大会、全ロシア労働組合中央評議会、モスクワ県労働組合評議会の各共産党グループの合同会議での演説「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」で、「プロレタリアートの独裁の実現全体のうえで、労働組合の役割がきわめて重要だということになる。だが、この役割はどういうものか? もっとも基本的な理論問題の一つであるこの問題の討議にうつると、私は、ここにはきわめて独特な役割があるという結論に達する。一方では、工業労働者をひとりのこらず、包含し、組織の隊伍にふくめる労働組合は、統治し、支配し、最高権力をもつ階級、独裁を実現する階級、国家的強制を実現する階級の組織である。しかし、労働組合は国家組織ではない。強制の組織ではない。それは教育組織であり、引きいれる組織、訓練する組織である。それは学校であり、管理の学校、経営の学校、共産主義の学校である。それはまったくなみはずれた型の学校である。というのは、ここでわれわれが取りあつかっているのは、教師と生徒ではなく、資本主義からのこったもの、のこらざるをえなかったものと、プロレタリアートの革命的先進部隊、いわばその革命的前衛が自分たちのあいだから推しているものとの、ある種の、きわめて独特な組合せだからである。そこで、これらの真理を考慮にいれずに、労働組合の役割をうんぬんすることは、かならず多くの誤りに陥ることを意味する」(レーニン全集第32巻大月書店 4頁)と述べている。レーニンはまた遠い将来に労働組合がどうなっているかはかわからないが、それについては孫が考えるだろうと述べている。
 プロ独過渡期における労働組合の特殊具体的な位置と内容については、それとして、具体的に検討する必要がある。それは、別稿とするとして、当面するプロレタリア革命とプロ独樹立(第2次ブントの議論から多くを取り入れているわれわれ火花派の綱領は、一国プロ独はあくまでも世界革命への過渡にすぎないとの観点から、臨時革命政府という規定の下に、日本におけるプロ独の具体的方策を綱領に掲げている)に向けた共産主義運動と労働運動の結合とプロレタリアートを支配階級に高めるための教育・訓練、そして政治闘争と経済闘争の結合という観点を基本に、現在の労働運動について具体的に学び、分析・判断する作業を続ける必要があると考える。こういう作業がこの領域についての決議へと結実するのが望ましい。
 そのために本稿では、最近元気な労働運動であるユニオンについて、それを代表する一つである東京管理職ユニオンが編集し2003年に出版された『転形期の日本労働運動 ネオ階級社会と勤勉革命』東京管理職ユニオン編 緑風出版)の設楽信嗣氏と平賀健一郎氏の二人の文章から、そのあらましを見たい。

 ユニオンは様々であるが、東京管理職ユニオンの設楽信嗣氏によれば、ユニオンに共通するのは、(1)ひとりひとりの労働者が個人で参加できる、(2)地域又は職種を基盤に組織されている、(3)会社から自立・独立している、(4)国籍・身分・性別などにこだわらず誰でも参加できる。外国人・女性労働者など差別されている人々を積極的に組織している、(5)組合組織に参加できていない未組織労働者に積極的にアピールし、電話・メールなどで相談活動を行っている、ということである(『転形期の日本労働運動 ネオ階級社会と勤勉革命』東京管理職ユニオン編 緑風出版 2003年 63〜4頁)。
 他方、1993年に結成された東京管理職ユニオンは、(A)個人加入の組織である、(B)企業・業種・地域を越えて横断的に組織されている、(C)組合員の自主的ボランティアによって相談活動、団体交渉活動が現れている、(D)組合員一人ひとりの自己決定権が優先されている、(E)「指導と救済」という組合員の組織依存主義を排して、組合員間の徹底したサポート、相互協力を重視している、という(同57頁)。
 また、設楽氏は、東京管理職ユニオンの弱点を6点あげている。すなわち、
(A) 個人加盟組織として組合員の自主性を尊重しているが故に、集団的活動への集中力はきわめて弱い。組合員一人ひとりのトラブル解決のための相互協力(団体交渉、抗議行動への参加)はそれなりに対応できるが、他団体・他労組への連帯・協力、および「労働法制」改悪反対闘争への参加などについては、極めて集中力が弱い。
(B) 組合員の意識として、リストラに対抗する組合員個人の利益が優先され、組合という組織の構成員の一人としての対抗関係、というあり方は理解されにくい。
(C) その結果、当ユニオンを弁護士と同様の役割に基づいた"リストラ被害者救済請負機関"と見なす傾向も発生している。
(D) 相談活動、団体交渉活動に習熟する努力を軽視して、経営者側に打撃力を行使することを重視する傾向もある。
(E) 組合員間の相互討論による意思一致を怠り、メールなどによって相互非難の応酬に至ったりする傾向もある。
(F)中高年の男性組合員の中には、セクシャルハラスメントに無自覚な人々もいる(同58〜9頁)。

 設楽氏は、管理職を労働者として、労組に組織する理由として、日本の管理職は、ヨーロッパとは異なり、社会階層としてのエリートとは言えず、大卒ホワイトカラー労働者か、又は企業内教育で形成された労働者であり、きわめて流動的に再編成される労働者階層である、と述べている。

 そして氏は、今日の労働組合運動総体の弱体化と地盤沈下に対処するためとして、(1)正社員中心の組織であり、増大する非正規雇用(有期雇用・パートタイマー・派遣契約・委託契約・請負契約等々)労働者の組織化がほとんど前進していない(非正規雇用者の比率は厚労省の不充分な調査で三〇%である)、(2)企業別労働組合として、企業内の労働規律・賃金・待遇についてのみ重視していて、企業外の未組織・関連下請け労働者の問題に関心を持つことが希薄である、(3)企業内的労使癒着状況がシステム化されていて、企業経営に対するチェック機能(JOC、雪印、三菱自動車、東京電力等々)が弱くなっている、(4)企業外の、又は各企業の外側に派生している社会的諸課題(環境、安全衛生、消費者利益等々)も取り組む姿勢が希薄である(同62〜3頁)。
 最後に氏は、東京管理所ユニオンの課題として、メンタルヘルスケアーと労働者による事業活動ネットワークの形成をあげている。

 次に、平賀健一郎氏の「転形期労働運動の触媒に―東京管理職ユニオンをめぐって 合同労組の視点から」という文章を見てみる。
 1983〜4年頃に、「パート、派遣、有期などいわゆる「非正規」労働者を対象にして「労働110番」活動など労働相談を中心に、地域の生活圏での運動を軸にした組織化活動がはじまり、コミュニティ・ユニオンが誕生した」(127頁)。平賀氏は、「コミュニティ・ユニオンは、戦後の働き方の定型となっていた企業中心の労働・生活から地域・コミュニティ中心の生活圏での労働・生活圏での労働・生活へと活動の基盤を移動させた運動となっている」(128頁)と、ユニオン型労働運動を評価する。
 氏によれば、東京管理職ユニオンとコミュニティ・ユニオンとの違いは、主に組織対象の違いによって、地域・業種・企業横断的で自己責任・自己決定、「指導も救出もしない」を原則とするのに対して、コミュニティ依拠的で、生活圏での自立や文化を内包するコミュニティ活動という違いがあるという。
 しかし、共に「ピラミッド型の運動ではなく水平移動・ネットワーク型の運動、自発性やボランティアを重視するところは新しい運動として共通している」(128頁)という。
 ユニオンの源流として氏があげるのは、職能別組合と合同労組である。職能別組合の方は、19世紀にイギリスで生まれたギルドに起源をもつクラフトユニオンであり、クローズドショップ(組合員でなければ仕事に就けない)である。日本では、労組の行う労働者供給事業やワーカーズコレクティヴ型事業(新運転[ドライバー]、コンピューター、出版、日本音楽家ユニオンなど)がある。
 合同労組の源流は、イギリスの一般労組(ゼネラルユニオン)や職能別組合(トレードユニオン)で、アメリカの木材一般やイギリスの運輸一般などである。
 日本では、関東大震災時に8名の幹部が虐殺された南葛労組の総同盟左派の渡辺政之助らによって組織された東京東部合同労組の結成が最初だろうという。これは「渡り職人」の組合で、個人加盟で、工場・職場外の地域に事務所を構えていた。1945年12月にGHQによって、「労働組合法」が公布されると、翌年には、組合員は485万人、組織率約40%と労働組合は大発展を遂げる。そして、総同盟は、戦前の総同盟の活動家を中心にしたオルグによる中央産別組織が合同労組型を包摂する形を、そして、産別会議は、工場ごとに産業報国会を解体して労組化し、さらに工場代表者会議を組織して、企業内社員のみを対象として組合員とする企業内労働組合=企業連の原型を作った。これは、その後、産別会議から分かれた民主化同盟→総評に受け継がれる。
 合同労組には、1946年結成の「全繊同盟」「全国金属」、1947年結成の「全木産」「全日土建」があるという。全繊は、総同盟全国一般を経てUIゼンセン同盟になり、全金は、総同盟全国一般からJAMになり、全木産は総同盟全国一般になった。全日土建は、全日自労と全自運(後の運輸一般)の合同で、建交労となった。
 民同右派と左派は、総評結成をめぐって対立した。右派の松岡駒吉は、官公労中心の総評では、中小企業を守れないとして、総評合流に反対した。それに対して、左派の高野実は、官公労の支援で地域合同労組を発展させると主張した。
 1951年には、東京一般中小組合連合(東京一般中小労連)が結成される。東京一般中小労連は、i個人加盟原則、ii組織化は全国的、統一的に対処、iii各地区の実情を踏まえた地域合同労組の結成、iv官公労・民間大単産の協力、を掲げた。 また、東京一般中小労連は、(1)全国的に産業別に組織できない組合、産業の衰退や組織の維持困難な、たとえば木材など、(2)ほとんど産業別組織が組織されておらず産別整理ができないもの、たとえば商業サービス、(3)当該労組の内部事情で産別整理ができないところ、主として町工場的なところ、を合同労組に組織する組織方針を出した。
 1954年に春闘が始まるが、総評岩井事務局長は、出身の国労中心に10円カンパ運動を組織して、全国一般合同労組連絡協議会が結成される。58年には、全国一般は全国一般労連として単産として自立、60年には総評全国一般労組になる。

 この過程で、「産別整理論」と「合同労組・全国結集論」の対立があったと平賀氏は述べている。「産別整理論」とは、「要するに、中小・零細企業を労働組合に組織したときは、それを産業別に整理し、産業別組織に引き渡し、労働組合組織の原則を産業別組織とするということ」(135頁)というものである。
 総評6回大会は、(1)労組の組織化原則は一企業一組合で同一産業・業種は全国的に単一の産業別労組に結集させるべきである。しかし中小企業の現状では機械的にこれを適用すると組織化は困難になる。(2)中小一般産業では上部組織を持たないまま中立・中小組合が業種を越えて地域で結集することが組織化運動を慎重させる。これらを地県評・地区労・民間大企業労組が指導と支援を行う。(3)これで同一産業が一定限地域で結集すれば当然、産別に整理・統合する、と「産別整理論」を打ち出した。
 この「産別整理論」に対して平賀氏は、自己批判を込めて、「「産業別労働組合の未形成こそが日本労働運動の欠陥」などと言い放って、この産別整理論を振り回し総評地評オルグのアイデンティティをふまえず、運動で前に出ようともしなかったオルグが多かったことは自身の反省を含めて残念なことだと思っている」(135頁)と述べている。

 1958年に発表された「総評綱領草案」は、「幹部闘争から大衆闘争へ」というスローガンを掲げ、職場闘争、職場点検闘争、反職制闘争、5人組、世話役活動、サークル活動などを重点に、「抵抗から職場の主人公へ」を目指したものだが、(1)労働組合運動は反体制運動の中核である、(2)自ら進んで国民的、政治的課題に取り組む、(3)活動家と組合機関を結びつける大衆闘争路線を行う、という方針を掲げた(140頁)。
 また、「産別整理論」の一定の軌道修正があった。1 単産の主流をなす中産別への整理には厳密にならず、2 その地方で現に活動力のある既存の差別が地方の産業・業種を担当する、3 また地方事情から地評(県評)に加盟するだけも認め、他産業の産別へつながることもあり得る、4 地方・ブロックに業種別中小労連や合同労組を組織する、5 産業別に整理しにくいもの、財政・オルグなどを自立しにくい場合は地域合同労組を組織する、6 個人加入の合同労組は地区・地区ブロック単位で組織する」(同)。

 合同労組をめぐる歴史を振り返りつつ平賀氏は、「地域の合同労組は地区労に出ている官公労や民間大手労組などの拠点組合の活動家が、この組織活動や運営になくてはならない働きを担う。とくに、先に組織され、労組として組織が安定した中小の拠点組合は、この合同労組の中軸を担い財政、動員などあらゆる活動をオルグと共に、地区労の活動と平行して担うこととなる」(142頁)。それが、「旦那組合」と「職場型組合」の成立の根拠だという。

 もともとゼネラルユニオンとは、「金属とその他」「運輸とその他」というように、「雑」産業労組という意味合いのものであることを氏は指摘する。また、氏は、東京の全国一般(全統一を含めて)運動を見ても、分裂や分岐、対立をおこし、離合集散の歴史であったという。これらのことは、ユニオンが、NPOや民衆運動と同列であり、社会的労働運動として民衆運動とのコラボレーションが必要な労働運動だという。それは、業種別では、建設、港湾、運輸、印刷、流通サービスなどであり、地域別では、東部一般、サンタ間一般、宮城合同、全国一般なんぶ、○○地域支部などであり、職業別では、新運輸、○○土建、看護婦派出婦(ママ)、日本音楽家ユニオンなど、である。

 そして氏は、「いま日本の労働組合は社会的意味で存続の隘路にいるといってよいが、この打開策で現実に視野に入っているのは中小・零細・「非」正規労働者を仲間に迎える運動で、その主軸が一般労組やユニオンの活動である。この中心に位置している多くのオルグや活動家が、これまでの労働運動の要求課題や運動スタイルの繰り返しでは組合員の心もニーズも掴めないと限界を感じながら活動している。また、労働組合活動家としての多様な活動や、地域のほかの運動体との付き合いの中で、豊かな新しい運動スタイルを模索している。管理職ユニオンが活動のスタイルとして定着させようとして努力している「指導も救済もしない」を原則に自立・相互協力で問題解決を成し遂げるという試みもまた、この可能性のひとつといえる」(147頁)と主張する。現在は、「産別整理」か、「地域割拠」か、単産としての自立か、という三傾向が併存している状態にあるという。

 以上、設楽氏と平賀氏の文章から、ユニオン運動について見てみた。前稿で見た木下武男氏は、ユニオンが、合同労組段階から、労働市場を産別的業種別の統制に進むべき段階にきているとある本で述べている。それは、前稿で見たように、関生型労働運動として、産別統一賃金の実現を中小零細業者の事業組合への組織化と同時に進めるという形を取ることで、反独占統一戦線を強化することを意味する。関生の場合、生コンが固まりやすく長距離輸送ができないために、工事現場近くに、中小零細の生コン業者が立地せざるを得ないという業種の特殊な条件があるということを考慮しなければならず、それを無視して関生型労働運動をそのまま一般化するのは無理である。日本では、中小零細企業が圧倒的に多く、多くの労働者が中小零細企業労働者であり、多くが未組織で、大企業が中小零細企業を下請け孫請けとして系列化し、支配し、従属化している。この二重構造が両者の労働者の差別・分断・格差の基となっている。帝国主義的超過利潤による労働者上層の買収・育成が、それに加わる。それに対して、産別・業種別の事業協同組合化による下からの独占価格の形成による同一価値労働同一賃金の維持という関生型労働運動は、一定有効なやり方であろう。しかし、それにとどまらず、中小零細の労働運動の場合、地域が重要であり、地域労働市場や地域最低賃金などの地域的な労働統制という問題、そして、偽装倒産を含む企業倒産などに際しての企業の労働者統制や自主管理などの問題にも直面するということがある。これらの問題では、産業政策や行政との攻防であるとか、経営や管理や労働規律などの諸問題に直面し、苦闘してきた労働運動もある。例えば、ポーランドの自主管理労組の「連帯」労組が、スターリニズム体制打倒後、経営危機から大量解雇に追い込まれたということがある。
 ユニオンは、明らかに、この間のパート・アルバイト・派遣などの非正規雇用の拡大に対応する形で拡大している。「連合」では、UIゼンセン同盟が、商業・サービスなどの業種別的な形での非正規雇用労働者の組織化で大幅に組合員を増やした。また、「連合」系では、性別を基準とする女性ユニオンが組合員を増やし、委員長の鴨桃代氏は、「連合」会長選でかなりの票を獲得した。全統一労組は、外国人労働者を組織して組合員を増やしている。ユニオンは、このように、個人加盟という方式を生かして、産別・業種にあまりとらわれず、性別・国籍などの多様なアイデンティを持つプロレタリアートの運動体になっているのである。冒頭の三つの観点から見て、ユニオンは、資本主義の下での女性や民族差別などの差別に対する批判と闘いを含む現状を止揚する運動を含んでいること、それらのことを含めてプロレタリアートが学習・訓練される場になっていること、差別解放などの政治社会闘争を差別賃金の解消と結び付けるなど経済闘争と結び付けていること、がわかる。これらは、プロ独の支配階級が身につける必要のある資質を養うものである。これらの資質を身につけたプロレタリアートの積極的な部分を含んだ共産主義者の党をつくらなければならない。
 関生は共産主義と党建設を目指してコミュニスト同志会を組織しているし、社会運動の一部もいわゆる「緑」系の党や民主党や社民党などと結びついているなど、党を求めている。問題は、党の中身であり、私は、党=機能論、意識的な協業・分業の実践的関係体ということを提起した。プロレタリアートは、プロ独国家の半国家性半社会性・労組などの社会諸団体の半社会性半国家性という複雑な関係などを具体的に理解して、きちんと扱わねばならず、それには、それに必要な文化をも創造しなければならない。労働運動における積極的な要素と結びつき、それを階級闘争として発展させること、それを党建設につないでゆくことが必要である。そうしないと個別的な運動の貴重な経験・教訓・総括などが蓄積されにくい。というのは、どんな個別的な闘争であっても、社会諸関係を「つくる」のであり、そのことを明確にし、はっきりと意識することが、共産主義運動の発展に必要だからである。支配階級は、現状の社会関係を永遠に続く変わらない真実として描いて宣伝しており、支配体制を保守する党を使って、プロレタリアートの党の発展を妨害する党派闘争を行っている。プロレタリアートは、この党派闘争にうちかつ力を蓄積しなければならないが、それには具体的にプロレタリアートの闘争が、社会関係を変化させてきたという階級闘争の歴史の真実を事実によって明らかにすることが必要なのである。東京管理職ユニオンの闘いは、日本における管理職が、社会階層としてのエリート層ではないという具体的な事実から、バブル崩壊後のリストラの対象とされた中高年の管理職を労働組合に組織した。ここには、職制論その他、いろいろと分析・判断すべきことがあるが、とにかく、それまで、経営側が、管理職を経営側の一員として扱ってきたのに対して、それが特定の条件の下での話にすぎず、多くは擬制にすぎないという事実を暴露したことは大きい。その後、先のマクドナルドでの管理職の実態のない店長による残業代請求訴訟の勝訴判決など、名ばかりの管理職の実態が暴露されている。東京管理職ユニオンの闘いは、このように、事実を暴露することで、社会の認識を変え、それから、社会関係を変えたのである。しかし、平賀氏が指摘するように、それは部分的変化にとどまらず、他の労働運動や差別解放などの社会運動等と連帯、交流、「コラボレート」、等しつつ、全般的で根本的な変革への志向を自然発生的に持っているが、それを意識的に発展させることが必要であり、それを推進する党を必要としているのである。東京管理職ユニオンの「指導も救済もしない」相互扶助という原則は、ある程度のレベルの自己規律を身につけている中高年管理職ならではの特殊性もあってのものだろう。しかし、企業の労働者管理という点からは、労働規律の問題は、規律違反への制裁の問題をも含む実務的能力の育成などの観点を必要としており、指導の問題を抜きにできない。無政府主義者のプルードンでも、制裁の問題を提起している。また、差別の問題は、「救済」の観点を必要とする。この問題では、平等な相互扶助は空論である。
 帝国主義世界は、大金持ち・ブルジョアジーという少数の帝国主義エリート・支配階級と搾取・収奪される貧しいプロレタリアート・後進国民衆という圧倒的多数者に分裂し、その対立が鋭くなっている。日本の「連合」は、最近、19世紀フランスのプロレタリアートとが掲げた「労働の共和国」というスローガンを取り上げた。「労働の共和国」の主体は、言うまでもなく、プロレタリアートである。それは今そのままの労働者ではなく、「労働の共和国」の主体として教育・訓練された革命的プロレタリアートへと転化した者のことである。「連合」は、それを福祉社会の主体へと切り縮めている。そのような狭い枠に押し込められるのことなく、根本的な変革主体へとプロレタリアートを高めあげるために、共産主義者の党を建設し、プロレタリアの諸運動と結びつかなければならない。そして、そこで、具体的な運動の逢着する諸問題を解決する根本的な諸方策や思想を討論や分析・検討・判断して見出して、それを定式化し、テーゼや決議などの文書に表現することも必要である。われわれは、それを促進する宣伝を強化しなければならない。それには、まずは、事実から学ぶことが必要であり、またそれを唯物論的共産主義的に評価・判断することを学ばねばならない。
 洞爺湖サミットG8に集う帝国主義の巨頭たちは、資本の「帝国」の利害、世界のプロレタリア大衆からの搾取・収奪を強化しようと企んでいる。それに対して、プロレタリアートは、「労働の共和国」「労働の世界共和国」「世界単一プロ独」を対置して、サミットと闘う反グローバル運動を革命的に支持する必要がある。これと労働運動を結びつけることが必要だが、それには、労働組合が歴史的に作られてきた結社の一種であって、超歴史的な存在ではないということを踏まえる必要がある。そのことを、ユニオンの実際が示していることは、上述のとおりである。「労働の共和国」を!




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