共産主義者同盟(火花)

唯物論戦線の構築のためのノート(2)

流 広志
313号(2007年9月)所収


主観的価値論(効用学派)批判

 リカードは、『経済学および課税の原理』「第1章 価値について 第1節」で、「ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の大小に依存するのではない」(岩波文庫17頁)と労働価値説を冒頭に掲げつつ、アダム・スミスの価値論を引用している。すなわち、「価値という言葉には、二つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値、他方を交換価値と呼ぶことができる」(同)。しかし、水や空気は大いに有用で、生存に必要不可欠だが、これは通常は交換価値を持たない。金は、水や空気に比べれば、有用性をもたないが、他の財貨の多量と交換される。したがって、「効用は交換価値の尺度ではない。だが、そうはいっても、効用は交換価値にとって絶対に不可欠である。もしある商品が少しも有用でないなら、―言いかえれば、もしそれがわれわれの欲望の充足に少しも寄与しえないなら、―それは、どれほど稀少であろうとあるいはどれほどの労働量がその獲得に必要であろうと、交換価値をもたないだろう」(同上18頁)。

 マルクスの『資本論』の冒頭(第1篇 商品と貨幣 第1章 商品 第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量))は、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の研究から始まる」(国民文庫71頁)という部分から始まる。ここで、注意すべきは、資本主義的生産様式における特殊歴史的具体的な「社会的富」(「物象的な富」―『ゴータ綱領批判』)が「巨大な商品の集まり」として現われるという点である。つづいて、「商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させるものである。この欲望の性質は、それがたとえば、胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない」(同上71〜2頁)という。様々な有用物は、量と質の両面から考察される。有用物は、様々な属性の全体であり、いろいろ面で有用でありうる。その使用方法は、歴史的に発見されてきたものだし、有用物の量を計るための社会的尺度を見いだすことも、歴史的行為である。「いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生じる」(同)。物の効用・有用性を計ることは、使用価値を計るということである。「ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする」(同上73頁)。この有用性は、商品体の諸属性に制約されていて、商品体そのものが使用価値なのである。「商品体のこのような性格は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない」(同)。
 「使用価値の考察にさいしては、つねに、一ダースの時計とか一エレのリンネルとか一トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される。いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの学科である商品学の材料を提供する。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態がどんなものかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に素材的な担い手になっている―交換価値の」(同)。

 ここで、マルクスは、具体的欲望の対象、使用価値という点から、商品体を論じている。この面においては、商品体は、富の社会的形態に無関係に、富の素材的内容をなし、商品の使用価値の面は、百科辞典的な多様な商品学の素材を提供する。商品体の使用価値の交換においては、商品尺度は、商品毎に違うし、慣習によっても違う。富は、使用価値と交換価値を持つ商品の集まりとして現われるが、それは、後に見る限界効用学派のボェーム・バウェルクの言うような人間の幸福の増進と結びついている財というものとは違う。富を多く所有しているからといって主観的な幸福感があるとは限らない。資本の人格化としての資本家は、富の増大・利潤の増大を使命として、それに努めるように駆り立てられるのであり、現存の社会諸関係に強いられて、職業としての資本家としての使命を果たすように駆り立てられるのである。もちろん、資本家は利潤を取得するが、それと引き換えに財を得ても、かれらの主観的幸福感を満たすとは限らない。富は、主観的幸福感を犠牲にしてでも、人にその増大を迫る価値=力だからである。
 現代の経済関係における価値は、抽象的人間労働から生まれてくる。価値は、商品に含まれる労働とその測定単位である労働時間の量を他と交換することで実現するように迫る社会的力である。それに対して、限界効用学派も功利主義者も、主観的価値が、習慣の中に受肉することによって、経験的に価値として通用するようになると考えている。しかし、「人間があらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉である自然にたいし、はじめから所有者として関係をむすび、それら労働手段と労働対象とを自分に属するものとしてとりあつかうばあいにのみ、労働は諸使用価値の源泉となり、かくしてまた富の源泉ともなるのである」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫26頁)。自然と労働が、富と使用価値の源泉である。労働は労働力の発現である。その労働は、資本制生産関係においては、発展した分業と協業の下の抽象的労働であり、それは、時間で計られている。だから、労働生産物としての商品の価値は、社会的な力として、通用できるのである。もちろん、資本制社会においては、それは労働の力としてではなく、資本の価値=力として、転倒して現われる。それ以外は、普遍的通用力が労働価値よりも弱く、部分的に通用するだけの価値しか持てないのである。例えば、主観的価値は、それを価値として認める人々の間でしか価値を持たない。例えば、みんなが自分で髪の毛を切るような社会では、理髪屋は価値労働を実現できない。そのサーヴィス価値は、偶然に左右され、価値の高さも偶然的である。金持ちが気まぐれにたまにチップをはずむこともあるかもしれない。しかし、社会的分業の発展によって、理髪業が専業化し独立して、このサーヴィス労働が市場価値を持つようになれば、その価値は偶然ではなくなる。そうなったら、その価値は社会的な力を持つようになる。客が個人的に値切ったりすることを難しくするなどの社会的拘束力を持つ価値=力となる(『剰余価値学説史』2分冊参照)。この価値=力を、主観的動機や心理や道徳などに基づく個人の行為の習慣の力と見るのか、労働という行為の社会的連関、歴史的生産関係に基づくものと見るのかという対立が、主観的価値説と労働価値説の間にある。

 この主観的価値説について、ベンサム・ジェームズ・ミルの功利主義を継承し、主観的価値説に基づく経済学を追求した限界効用学派のボェーム・バウェルクの説を確認して批判していく。ただし、ここでは、本稿のテーマである唯物論に関係すると思われるところを主に取り上げ、経済学については関連して扱うだけであることをおことわりしておく。
 「限界効用学派」の一人であるボェーム・バウェルクは、『経済的財価値の基礎理論(主観的価値と客観的交換価値)』の緒言で、価値を主観的価値と客観的価値に分け、「主観的意味における価値とは、主観の幸福の目的に対する一財、又は一複合財の重要性(Bedeutung)である。この意義に於て、ある財が私に取って価値を有すると言う時には、私の幸福がその財とある種の関係を有し、したがってそれを所有することによって、それが無ければ与えられず、乃至は我慢せねばならない筈の欲望充足、享楽、快楽等が与えられるか、あるいは苦痛が除かれるかを認めるものである。此の場合、其の財の存在は私に取って人生の幸福の利得を意味し、それの喪失は人生の幸福の欠如を意味し、随ってそれは私にとって重要であり、価値を有するのである」(岩波文庫15〜6頁 訳が古いのでところどころ適当に現代語に直した。以下同じ)。と、主観的価値について述べ、「これに反して、客観的意味に於ける価値とは、何らかの客観的効果をもたらすための財の力、もしくは能力である」(同)と客観的価値について述べている。この意味では、「人間が獲んと欲する外部的効果と同数の、多種の価値が存在する」(同)。それは、例えば、食物の栄養価値、材木や石炭の加熱価値、その他諸々、という具合に、それらの財の効用にしたがって、多種多様である。これらの客観的価値は、「経済的関係に関するものではなく、純技術的関係に関するものである」(同17頁)。これは、マルクスが、使用価値について述べたこととほぼ同じことを繰り返しているだけである。
 それに対して、彼は、経済的関係における客観的価値は、客観的交換価値であるという。「財の客観的交換価値とは、交換に於ける財の客観的効力、換言すれば、交換の際に他の経済財の一定量を其の代りに獲得し得る可能性であって、此の可能性が初めの財の力、若しくは特性と見倣されるのである」(同)。
こうして、主観的価値と客観的価値を区別した上で、彼は、前者から始める。
 彼は、同書の「第1部 主観的価値の理論 1 主観的価値の本質と起源」で、「一切の財は例外なしに―財の概念から考えただけで既に―人間の幸福に対してある種の関係を持っている。同時に幸福の関係には二つの本質的に異なった段階がある。下位の段階は財が一般に人間の幸福に役立つ能力を有する時に存在する。これに反して上位の段階は財が幸福をもたらす際の有用な原因たると共に、不可欠の条件でもある」(岩波文庫23頁)と述べている。彼は、後者を、価値と呼ぶ。こうして、彼は、価値論においても、功利主義を貫いてる。功利の低位と高位を区別し、後者を価値と名付けたのである。
 そして、「財に対して人間は利己主義者(エゴイスト)だと断言することが出来る。彼等が財を評価し、欲求し、獲得に努力するのは財そのものの為ではなく、財の中に自己の幸福を求めるが故である。それ故に何らかの幸福の関係の中に人間の経済行為の鍵もまた求められることは明らかである。財に効用があることは、勿論幸福に関係があることを意味するが、単にそれだけでは決定的な、重要な関係は生じない」(同26頁)と前置きしながら、「価値とはある主体の幸福目的に対する一財、または複合財の重要性である」(同29頁)と主観的価値を定義する。
 こういう主観的価値説の立て方は、マックス・ウェーバーのように科学的分析と価値論を分離するという科学主義的態度が広まっている現在においては、奇異に映るだろう。しかし、これらを分離するというのはあくまでも方法論としてであって、実際問題としては、マックス・ウェーバーにしても、彼のエートス論の中に、彼なりの価値論を込めている。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、新教的合理主義こそが、資本主義発展のエートスとして適合的だと書いているが、自身が、自由主義者・愛国主義者・フェミニスト(男女同権論者)にして、厳格なプロテスタントだった。その偏った精神から、儒教は資本主義のエートスとして不適合だとかいう実際とは違うことを結論したのである。また、彼は、唯物論と利己主義は違うのに、それらを結びつけている。
 彼は、「価値は絶対に財に内在する客観的な特性でもなければ、又勿論単に人間の内心に現われる純粋に主観的な現象でもなくて、客体と主体との間の特殊な関係である。にも拘わらず私が今論究しつつある概念を常に(per eminentiam)主観的価値と呼ぶ所以は、云うまでもなくそれによって客観的要素の存在を否定するのではなく、主観的要素が強く、直接に加わっていること、随って我々の云う「主観的価値」を純粋に客観的な交換力、及びそれに類似の諸種の価値概念から分かつ本質的相違を明らかにする為に外ならない」(同30頁)と述べ、価値とは、主観的な幸福の尺度によって計られるものだという点を強調する。彼は、それと客観的価値を区別するのだが、その土台はあくまでも効用だという。価値自体は、客体と主体との間の特殊な関係であるという。しかし、この部分には、彼のいう主観的価値は、社会的に客体化されて、逆に、幸福の社会的尺度化して個人に対するということになるというデュルケム・広松渉の言う物象化的現象に転化するということはないのだろうかという疑問がわく。それはここではおく。
 次に、価値の大小という量規定を問題にする。彼の答えは、「財価値の大小は、財が幸福に役立つ重要度によって決定されるという原則」(60頁)である。しかし、空気や水は効用が高いのに、価値がないということがあり、リカードが希少性と呼ぶ上述の問題がある。価値と効用が逆になるという問題である。そこで、彼は、大量に存在するために、通常は価値が生じない財を自由財と名付ける。それに対して、その財の需要・欲望に対して、処分できる総量が乏しい財を、経済財と名付ける。後者のみが価値を有すると彼は言う。その上で、彼は、「最大の効用を有するものが同時に最小の価値しか持たないとは、何たる奇怪な矛盾であろうか?」と問い、それは効用と「使用価値」を混同したためだと答える。彼は、この問題に、スミスを含めて誰も答えられなかったと言う。すなわち、「スミスから今日まで、無数の理論家はついには財価値の本質と尺度とを人間の幸福に対する関係の中に見出すことを全然断念して、奇態な、往々にして冒険的な説明の根拠、即ち労働とか労働時間、生産費、人間と自然との矛盾、その他特殊な事象に拠るに至ったことは当然である。しかるに財価値は幸福には何らかの関係があるとの感じを棄て去ることが出来なかった為に、財の効用と価値との間の不調和は、珍しい、解き難い矛盾として、即ち「経済的矛盾」“contradiction 'economique ”として記録された」(71頁)とアダム・スミスやリカードなどの労働価値説を批判するのだ。その上で、彼は「限界効用」説を展開する。
 彼は、人々が財から得る幸福は、一つの財からどれだけ幸福が得られるかであり、それは、「一、数個の、又は多数の欲望の中のどれが一つの財の重要性を決定するか? 二、その財に懸る欲望、乃至はその満足の重要さはどの程度であるか?」(42〜3頁)であるという。そして、この欲望は、欲望の順位を持つが、それには、欲望の種類の順位と具体的欲望の順位の二種類がある。欲望の種類の順位は、その重要性から、第1位、食欲、第2位、住宅・衣服、煙草、酒類、音楽等に対する欲望は、低位であるという。しかし、現実には、こういう順位どおりにはなっていない場合が多々見られる。例えば、雨宮処凛さんは、ワーキング・プアと呼ばれる層には芸術や文化に対する欲求が強いと述べている。第1位と第2位の欲望については、必要ではあるが、個々人の感ずる幸福の順位とは必ずしも一致しない。肉体的な必要を満たすというのは、もちろん生きていく上で不可欠のことであり、その点で一定水準の欲望が満たされることは重要だし、それはある程度の幸福を表わすだろうが、こういう順位で幸福度があると言われると、幸福感が多様化している現代に生きる我々はそれだけで反発を感じる。それに、生活必需品とその他の財を区別せずに、ただ並べているのもおかしい。
 次に、彼は、人間の欲望の分類を典型的図表として示す。

X








10
IX







210
VIII






3210
VII





4 3210
VI




543210
V



6543210
IV


76543210
III

876543210
II
9876543210
I109876543210

 この図表で、ローマ数字IからXまでは、種々の種類の欲望と、それの逓増する順位を表わしている。Iは最も重要な欲望で、Xは最も重要ではない欲望を示している。アラビア数字は、その欲望種類中の具体的欲望、部分的欲望の順位を示している。例えば、Iは、欲望種類第一位とされている食欲で、その10はその中でも最も重要なパンを示す。この図表にしたがって、ある人は、まず重要度10のパンを獲得して食欲を満たし、次に、重要度9のIの食欲を満たすために肉を買うか、IIの例えば上着を手に入れるだろう、という具合になる。しかし、このような図表的な欲望と財の順位の照合は、それを可能にする知性の働きを前提にしている。それは、彼によれば、「合理的な経済人」の知性である。
 それは、「あらゆる合理的な経済人は、自己の利用を当然どうしても考慮せねばならない為に、その欲望の満足に一定の確定的の順位を立てざるを得ないのである。何人も彼の処分し得る財全部を下らない、無しでも済む欲望の満足に浪費し尽くすと共に、他面では必要な欲望を放置して置くような愚は犯さないであろう。寧ろ各人は自己の処分し得る手段によって、先ず最も重要な欲望を充足し、その次に第二に重要なものを充たし、然る後に第三位のものを充たすという風にして、結局高順位の欲望が悉く満たされて、なおかつ満足の手段が手元にある時に、初めて低順位の欲望を満足すべく思慮を廻らすであろう」(53頁)というものだ。
 結局、主観的価値は、限界効用によって計られるというのである。すなわち、「財の価値の大小は同一種類の財の、処分し得る総量によって充足された欲望の中で、最も重要でない具体的欲望、若しくは部分的欲望の重要度に応じて測定される」(54頁)。あるいは、「ある財の価値を決定する限界効用はその財自体が実際に与える効用と一致するものではなく(偶然は別として)、一般に他の効用即ち其の種の財を代表する最後の一財(乃至は最後の等しい部分量)の効用である」(68頁)。
 これで、われわれは、彼の限界効用説に到達した。次に、彼は、各種の反対論に答えて、まず次の原則を確認する。
 「我々は価値の本質を人間の幸福に対する財の重要性だと云った。我々は一つの財を所有するか、所有しないかに基づく幸福の相違、即ち快楽と苦痛との相違の大小によって価値の大小測定の手引きを与えた。それ故に我々の理論上評価すべきものは、畢竟感情の大小である」(81頁)。
 これに対して、感情の大小は評価できないし、してはならないという批判がある。感情の大小は不合理で、比較不能だし、計算不能だということだ。それに対して、彼は、われわれの欲望が比較不能であれば、一切の経済は存在の余地がないと反論する。経済の一般原則は、最小の犠牲で最大の効用を求めることにあるのに、効用が比較不能だとすれば、効用が小さいかどうかや効用と犠牲の均衡をはかろうにも、その判断ができないからだというのである。「事実において、我々は主観的感覚を二六時中比較計量しつつあるのである。よし、あらゆる種類の欲望満足が種類を異にする快楽を我々に与えるとしても、その為に此の快楽の程度に比較上の判断を加えることは少しも妨げられない」(83頁)。かくして、彼の描く合理的経済人は、一日中、効用計算をし続ける知性の持ち主であって、例えば、シンフォニーを耳で聴きながら、頭の中では、別の効用との比較計算をしている。これでは音楽を享楽できるわけがない。
 ここで、彼は、感情と効用を一緒くたにして、いつの間にか、経済が感情を規定するように、すり替えている。もちろん、主観的感覚を二六時中比較計量している者などいるわけがない。また、最小の犠牲で最大の効用を求めるのが経済だという彼の言うテーゼは、近代経済学・ブルジョア経済学の功利主義的テーゼにすぎない。このようなテーゼに基づかない経済は、人類学の研究によって存在することが確かめられているし、意図的にそうした経済を建設する実験が、オーウェンのアメリカでの実験村として存在したこともある。さらに、現代社会においても、こうしたテーゼに基づかない経済関係は存在する。地域通貨・フェア・トレードなどの意識的実践、等々。
 しかし、彼は、「我々が、ある快楽感が概して他の快楽感よりも弱いか、強いかを決定する能力を有することに付いては異議はないはずである。又我々はある快楽感が他の快楽感よりも非常に強いか、ほんの少しばかり強いかを判断する能力を有するかに付いても疑いは生じないはずである。しかしながら我々はその差異の大小をもつと正確に、即ち数字的に決定できるだろうか? 我々は快楽感Aが快楽感Bの、例えば三倍にあたるなどと判断できるだろうか?」(84頁)と述べ、最後の問いに快楽感の数量的比較は可能だと答える。しかし、現実には、彼の仮構する合理的経済人などは、実在しない。現実には、このような快苦の計算や判断で、人はしょっちゅうミスを犯す。完全な経済的合理人など空想の中でしかあり得ないのは自明なので、彼は、一つには、彼の主張を、すでにある資本主義社会の経験的事実の観察結果から正当化し、二つには、経済的合理人を人為的につくるための啓蒙(知性の開発)、経験による進歩・漸進的進化を提唱した。彼は、感覚は比較不能だから幸福の大小の計量は不可能だという反対論に対して、「正否はともかくとして、かかる計量が事実として常に行われている」(89頁)と、経験的事実をもって反論している。
 そして、彼は、この論点での自らの主張を4点にまとめている。すなわち、(1) 我々の欲望、願望、感覚は実際に比較可能なものであり、殊に我々の感ずる快、不快の強度の中に共通の比較点がある。(2) 我々は財によって与えられる快、不快の程度を比較的冷静に眺めて、絶対的にも相対的にも評価する能力を有し、且つ実際にも―評価上の過誤には無関係に―此の能力を発揮しつつある。(3) 我々は財によって与えられる快、不快の大小決定こそは、財に対する我々の態度、殊に財の我々の幸福に対する重要性の大小に関する知的判断、随って価値評価と、我々の実際的経済行為とに関する根拠を構成するものなのである。これらのことから、(4) 経済学は主観的な欲望、感覚、及びそれに基く主観的価値を観察外に置くべきではなく、直接にそれらの中に経済現象説明の根拠を求めねばならないということが帰結されるという。(89〜90頁)

 以上から明らかなように、功利主義者ボェーム・バウェルクは、エピクロス同様、快・不快の感覚・感情から出発しつつも、諸関係中から功利関係(利用関係)を人間一般の普遍的関係として取り出してイデオロギー化した。エピクロスには、快・苦の数量的計算という発想はない。功利主義は、エピクロスが言う「素面の思考」とはまったく違う。そこに、彼は、最小の犠牲によって、最大の効用を獲得するという効用主義を加えて、自分流の功利主義を作り上げているのである。効用は、「ブルジョアにとって問題になるのは、関係そのものではなくて特別な効用であり、そしてこの効用は一般に関係とはなんのかかわりもなく、社会的諸条件によってはじめて関係とむすびつけられる」(『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫211頁)にすぎない。
 ボェーム・バウェルクは、主観的価値説を擁護して、「限界効用を算出するには、財によって満足さるべき具体的欲望を常に心中で排列し、次には自由に処分し得る財を列べて、その列のどの部分までが満足されるかを見るのである」(124頁)と述べる。これは、ブルジョア経済社会の現実的関係の反映であり、そこから抽象された心理像にすぎない。彼は、こうした「限界効用」計算の日々の実行によって、それに熟達している「経験ある経済人」(同)は、こうした価値評価の計算をたちどころに成し遂げられるし、それに、価値評価についての判断記録が既に蓄積されているので、それを利用するだけでもよいし、それは、自分の経験から導き出す必要はなく、同じ経済的立場にある他人の判断を見て、習慣にしたがえばいいだけである、と言う。
 最後に、彼は、「国民経済学上研究の対象たる「社会法則」は個人の協同行為を土台とする。行動の協同は更に其の行動を促す協同的動機の結果である。それ故に、社会法則の説明は結局個人の行動を促す動機に帰せしめられ」(130頁)ると彼の個人主義的方法を明らかにしている。結局、社会法則は、個人の行動を促す動機という心理的要因に帰着させられる。個人間の協同行為についての具体的解明は置き去られ、分業と協業の具体的なあり方は捨象される。彼は、ただ、社会法則を発生させる基本的な動機として、個人の幸福の考量をあげるのみだ。
 エピクロスは、人生の目的を幸福に置くという考えを基本にしているが、それは、「心の平静と肉体の苦をなくすこと」で達成され、そして、他者との関係では友愛が大事だと言った。それは、効用関係(利用関係)とはまったく違う。エピクロスが言うのは、関係そのものへの欲求・社会への欲望というべきものである(『ドイツ・イデオロギー』同)。
 今では、ブルジョア的効用関係は、人々の多数の幸福を増大させるのではなく、多くの人に不幸を生みだしている。
 人々が幸福を求め、快・不快という感覚・感情をもって、それを計っているというのは確かだとしても、それが誰にとっても同じで、人が、それを数値化して、それを元に効用を計算して行動しているという功利主義者の思想は、一つのイデオロギーであって、同型的人間や個人を基礎とし、また、社会を観念にすぎないとする社会観(社会唯名論)を基礎にした想像物である。ベンサムの時代なら、それは、封建制からの解放の大きな武器になったし、現に、ベンサムは、フランス革命からいろいろな内容を取り入れているし、ミルになると私益と公益の一致という形でそれを完成し、功利主義をもってすれば、完全な社会調和が達成されブルジョアジーと労働者階級の対立が止揚され、両者の幸福が実現できると思い込むにいたった。それは、イギリスの新古典派経済学派のマーシャルや厚生経済学に継承される。マーシャルは、経済学が、労働者階級の窮乏や生活向上を実現する手段を与えることができると信じていた。それに対して、ケインズは、功利主義では、それは不可能だと考え、心理学(流動性選好説など)・倫理学(ムア倫理学)等の新たな道具立てを揃えた上で、新古典派経済学の革新を行う。
 ボェーム・バウェルクは、1880年代から20世紀初期のオーストリア学派の一員で、蔵相を三度つとめた実務家・政治家でもあった。この時期、オーストリアはまだ資本主義経済の発展の初期の段階にあって、したがって、この本でも、彼は、財が稀少であるケースを一般的と見ている。例えば、原始林の丸太小屋に住む植民者が、5袋の小麦を持って、次の収穫期までを、それで、生活していく場合とかである。この植民者は、食欲を最高の主観的価値として生きている経済的合理主義者として財の選択をするように描かれている(56〜59頁)。しかし、資本主義経済の発展は、豊かさの中の貧困という豊富・過剰な財が存在する中での貧困や困窮という現実を生みだしたのであり、それを、ヴェブレン、ガルブレイス、ケインズ、セン、スティグリッツなどの経済学者も指摘し批判してきた。現代になるとさらに人々の幸福感は多様化して彼の想定を遙かに超えてしまっており、彼の描く限界効用図表などで正確に表わすことなど不可能だ。そこで、こういう図表化を断念して、なすがままに任せておけばよいと主張する者が出てきたりするのである。
 他方で、限界効用学派の中からは、多様な財の交換を一般図表化して、その一般均衡条件を研究し、社会主義者になる者も出た(ワルラス、パレート)。もし資本制商品生産が、人類すべての幸福欲を満たす商品の生産を目的として行われ、それが実現するのであれば、それは社会主義の理想と一致する。しかし、実際には、資本制商品生産の目的は、基本的には、交換のための商品の生産であり、直接に消費を目的として行われるのではない。だから、財が豊富に生産されるし、その能力があるにもかかわらず、貧困や飢餓がなくならないのである。もし、彼の言う主観的価値(使用価値)が生産と消費を完全に規制するのであれば、それは一種の社会主義になることは明らかである。しかし、そうはならないことは、ここまでの検討で明らかであろう。ボェーム・バウェルクの考えは、効用の増進と幸福の増大とを無理に同一視するという非現実的な想定に基づいているにすぎないし、主観的幸福感の増減と財の効用の増減を同一視しているために、消費を犠牲にしても行われる交換のための資本制商品生産の実際とは一致しない。それに、彼は、作図されたにすぎない人類の欲望の図表なるものが、人々の心理や行為を縛るようになるという問題に無自覚だ。

 ベンサム・ミルらの功利主義を継承した限界効用学派の一人のボェーム・バウェルクの限界効用説をやや詳しく見たのは、このような限界概念と方法が、その後の近代経済学の基本になったので、この概念とその方法を知らないと近代経済学の発想を理解できないためでもある。
 かれらは、一見するとエピクロス的唯物論を継承しているようだが、それを効用関係という一面的な関係の下に包摂し、変形し、一つのイデオロギーに返還し、それを功利主義心理学・道徳学(倫理学)・法学・政治学などへと応用していったもので、エピクロスの唯物論とは違う。彼の主観的価値説は、マルクスが『資本論』冒頭で、社会的富の基本形態と呼んだ商品の「使用価値」、ただし、彼がブルジョア的効用関係から抽象した想像上の「合理的経済人」(実際には、ブルジョアジーのことだが、彼は、人間一般として、他の諸階級もそれに含めている)の主観的幸福追求と関係する限りでのそれの具体的展開である。商品の「使用価値」については、『資本論』では、一般的なことが簡潔に書かれているにすぎないが、『剰余価値学説史』「第4章 生産的労働と不生産的労働とに関する諸学説」2分冊)では、アダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区別についての考察の中で、それよりは詳しく具体的に検討されている。ボェーム・バウェルクは、目の前の資本主義的関係・経済的諸関係を所与の素材として、その功利主義にその内容を盛り込み、それを主観的立場から構成していったのである。
 しかし、その内容は、その後の独占資本の展開であるとか、心理学の分野でのフロイトの精神分析学の発展であるとか、デュルケムの物としての社会を自然科学的に分析する社会学の登場であるとか、価値論と科学的分析を峻別するマックス・ウェーバーの理解社会学であるとか、功利主義は私益と公益の対立を解決できないとして、それに、ムア倫理学の利害抜きの人間的交流と美的享受といった価値を対置したブルームズベリー・グループの一員であったケインズの経済学、ハイエクの功利主義批判、関係の束による構造決定を主張する構造主義であるとか、デュルケムの集合表象論を敷衍しつつ、倫理学の課題を、人間の意識と行為の本源的な共同主観性の構造を確定し、共同主観的な意識の全体的イデオロギー性とその存在被拘束性のメカニズム、共同主観的な意識性を依って在らしめる特殊的総合の動力学を、究明し、個性的な契機をも含む意識のobjection-obkectibantion を定義すること(『世界の共同主観的存在構造』)に設定する広松渉氏の共同主観論、等々を見れば、功利主義が、今日、そのまま素直に受け入れられる状況にないことは明らかである。
 ただ、現実の経済関係においては、功利的関係が一般的に存在するから、その力が社会的に強いのである。それに、それを反映した功利主義イデオロギーの宣伝も繰り返されているという事情もある。
 功利主義というイデオロギーを持ち、利用関係を軸に、主観的には、自らの効用の最大化を自己の幸福として追求するブルジョアジー(ただし、資本の人格化としての資本家は、社会諸関係によって、そうするように駆り立てられているのだが)と肉体の苦痛の除去(労働苦・生活苦の軽減など)、心の平静(安心など)と友愛と正義(相互の安全を保証し合う社会契約)の関係を自らの幸福として追求するプロレタリアートの間の階級闘争が存在する。
 「さまざまな国の労働者を結び合わせ、あらゆる解放闘争のなかで彼らをはげまして強固に連帯させるはずの友愛のきずな、これを軽んじるならばつねに、労働者たちのたがいに孤立した努力はともに挫折するというこらしめを受けることになる」(「国際労働者協会創立宣言」『ゴータ綱領批判』岩波文庫155頁)。(つづく)




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