共産主義者同盟(火花)

9条改憲阻止を革命的スローガンとして掲げるために

流 広志
311号(2007年7月)所収


 現在、参議院選挙の最中である。選挙の最大の焦点は、年金記録漏れの発覚によって、人々の年金不安・不満・怒りが増大したために、年金問題になった。今年1月に、憲法問題を参議院選挙の争点にすると宣言した安倍総理であったが、その思惑は破綻した。それでも、選挙公約には、早期改憲の実現を載せており、安倍総理の改憲への強い執念がうかがえる。
 参議院選挙は、久間防衛大臣の「原爆投下はしょうがない」発言での辞任や赤木農相の事務諸費問題などで自民党が逆風を受け、内閣支持率低下するなど、与党が苦戦する展開になっている。とりわけ、久間発言は、大量無差別殺人を容認する発言で、許し難いものだ。本来なら、かかる非人道的行為に抗議すべきだが、日本政府はこれまで一度もアメリカ政府に抗議したことがない。安倍総理は当初、久間大臣をかばう発言を繰り返したが、批判世論が強いことから、参議院選挙への悪影響が強いと見て、辞任を容認した。安倍総理は、原爆投下を非難しつつも、アメリカに抗議することはせず、核廃絶を世界に訴えるとしている。ところが、参議院選挙に出ている自民党候補者の32%あまりが、『毎日新聞』のアンケートに、核武装を検討すべきだと答えて、安倍発言を真っ向から否定している。久間発言を糾弾する。
 「国民投票法」成立によって、3年後には、国会の憲法審査会での改憲議論が解禁となる。9条改憲を最大争点として、日帝政治が展開することは明らかである。そこで、共産主義と革命という観点から、憲法問題について、いくらか現時点での分析・検討をしてみたい。

「押しつけ憲法論」批判

 憲法問題をめぐって、様々な見方があることは周知のとおりである。
 まず、改憲の理由として、自民党・民主党は、日本国憲法がGHQによる占領統治下での勝者による「押しつけ憲法」であることを問題にする。しかし、「押しつけ憲法」論は、当時の日本の労働者人民の意志を無視したもので、人々を馬鹿にした話である。もし、政府案どうりの大日本帝国憲法と変わらないような天皇主権のままであったら、戦後革命が起きていただろうし、GHQに対するゲリラ戦的な闘いが起きていたかもしれない。GHQの占領統治の反共主義への転換後、日本共産党が展開した武装闘争に対して、少なからぬ民衆の協力があったことからすると、そういう可能性は大きかったと考えられる。当時、農村には、農地を求める多くの小作農・貧農が存在し、都市には、焼け野原の中で裸一貫で明日の食を求める失業者や都市細民の膨大な群れが存在していた。「食をよこせ」と叫ぶ人民大衆のデモ隊が皇居に突入する事件も起きていた。「血のメーデー事件」をはじめ、政府と労働者大衆の間の衝突が繰り返されたように、人々は政府を信用していなかった。それに、政府は、もともと、人々の意見を聞く気がなかった。戦前のまま、官僚・特権的議員、貴族院などの意見のみで、新憲法をつくるつもりで、それを上から下々の者に「押しつけ」ようとしただけであった。GHQが、政府案の撤回とGHQ案を「押しつけた」のは確かだが、その相手は、人民の意志を反映し代表していない日本政府であった。もちろん、それは普通選挙による第一回総選挙によって選ばれた議員による審議と採決をへたものであり、この過程で、民主派の議員による重要な修正(第25条生存権)などの項目が加えられるなどした。そして、身分と天皇の恩寵で議員となった者たちの貴族・特権階級議員の枢密院でも、手続きどおり採択されたのである。そして、それは天皇の御名御璽を押されて、正式に公布されたのである。
 GHQ憲法草案を「押しつけ」られたのは政府であり、人民に対してではないということをはっきりと確認しておかねばならない。

第1章天皇条項問題

 右翼から、護憲というなら、第1章第1条〜8条の天皇条項も守らねばならないという屁理屈的な批判がなされている。9条改憲阻止という立場は、現憲法の平和主義を守るという立場であって、天皇条項を別に問題にしているわけではないが、社共のように護憲という現憲法すべてを守るという立場に立つと、問題になる。日本国憲法は、人権主義であるとか平等主義も重要な理念としていて、天皇条項は明らかにそれらに抵触するのであり、これは現憲法に内在する矛盾である。9条改憲阻止の立場は、現憲法を金科玉条にして、一切変更はまかりならぬという立場ではなく、改憲を容認する立場を含む。だが、改憲は、人民の主権行使として行われねばならないことから、改憲を求める人民多数の強い意志がないのに、上から改憲を煽り立てて、人民を改憲に誘導するようなやり方は、容認するわけにはいかない。今、とくに人々の間から、改憲を急がねばならないという声はほとんど聞こえない。改憲を叫んでいるのは、財界や官僚や政治家であり、『産経』『読売』などの一部御用マスメディアでり、アメリカ政府である。一部若者の間で、現状突破という意味で、改憲を求める声が出ているが、この場合は、かれらが置かれている希望のない現状をなんでもいいから変えて欲しいという願望の一つの現れとして、そう言っているだけのようだ。かれらは、憲法どころではない状況に置かれているのだが、そういう状態にあることをアピールしたくて、刺激的なことを選んであえて言っているようだ。護憲というと、現状維持を意味するように聞こえるわけである。しかし、第25条の生存権は、かれらの窮状を救う根拠になるわけで、むしろ、25条を守り、政府がそれを完全実行するように求めることがかれらのためになる。
 第1章の問題は、平等・人権・政体の問題である。他の人々と異なる規定を与えられた身分が存在することは、人権の平等に反するということである。そして、第1章がある限り、民主主義の課題たる共和制の実現の要求がプロレタリアートの課題として続くということだ。天皇制の廃止・平等と共和制という政治的民主主義の実現が課題であり続けるわけである。第1章の廃止、共和制への移行という改憲案なら、プロレタリアートが支持するのは当然である。

 自民党新憲法草案批判―どのような憲法が階級闘争発展にとってよいかがプロレタリアートの基本的観点である

 それから、日本国憲法は、ブルジョア憲法であって、それを擁護するというのは、共産主義者の任務にならないという意見がある。確かに、現行憲法は、ブルジョア憲法である。この憲法の下で、資本主義が発展してきたのである。それはそうなのだが、資本主義の発展は同時に階級闘争の発展でもある。プロレタリアートは、どのような憲法がより階級闘争を発展させるかということを基本にしなければならない。どのような憲法が、プロレタリアートの闘いの発展を促進するかが基本である。自民党新憲法草案よりも現行憲法の方がそういう憲法であることは明らかである。自民党新憲法草案は、帝国主義支配階級に被支配階級を押さえつけるための強力な棍棒=軍隊を授けるものだからである。
 今、議会政党が提出している改憲案で、現行憲法より、プロレタリアートの階級闘争をより発展させるものはない。第1章を廃止して、一つプロレタリアートの課題を片づけてくれようという改憲案は、どこからも出ていない。したがって、今後も、プロレタリアートは、第1章の問題として、共和制・平等を実現する闘いを続けなければならない。こういう仕事を取り除いてくれるような改憲なら、プロレタリアートは反対する理由はないし、資本が自由に労働者の首切りをする自由を制限する労働権の強化を盛り込むような改憲案なら、当然支持すべきだ。ところが、自民党憲法草案は、公的なもの、公共心、愛国心を強調し、それを人々に強要するもので、階級闘争の自由を実現するものではないのである。むしろそれを抑圧し、プロレタリアートを「国民」化して、ブルジョアジーにとって都合が良い狭い枠に押し込めようというものなのである。
 その中でも憲法の平和主義を単なる空念仏に変え、自衛隊の海外での軍事行動を可能にするための、そして日米共同軍事攻撃に踏み込むための9条改憲は、アメリカのイラク侵略戦争がはっきりと示したように、先制攻撃のための参戦国化を狙うものであり、侵略戦争への道に踏み入るためのものである。自衛の名目での侵略戦争に打って出るための、9条改憲なのである。自民党草案が、自衛のためとか平和のためとか言っているのは、誤魔化しである。
 自民党憲法草案は、先の戦争への反省と平和主義を強調している現行憲法の前文を大幅に縮小して書き直し、抽象的な理念を書き連ねるものに変えている。現憲法前文が、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と政府の戦争責任を明確にし、それを許さない「国民」の意志によって、戦争を阻止する決意表明を消している。
 その上で、自民党新憲法草案は、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」という文言を入れ、愛国心・公共心をもってこれらを支える責務を課している。現憲法の前文が、政府と「国民」を区別して書いているのに対して、「国民」が自分自身に課す責務という表現になっていて、自己責任論になっている。愛情・責任感・気概という感情が責務とされ、心に対する強制が、「国民」自身の責務と宣言されているわけである。政府の「国民」に対する責務についての言及は消されている。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という部分が消されている。過去の帝国主義侵略戦争に対する反省が消えているわけである。安倍総理の唱える「戦後レジューム」の清算とは、過去の戦争への反省を不要にするということであることが自民党新憲法草案に明示されているのである。そうして未来の戦争の準備に取りかかろうというのである。
 第9条については、第1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」を維持した上で、第2項を、i我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。ii自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。iii自衛軍は、第1項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。iv前2項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。と変えている。このiiiは、軍の緊急治安出動を憲法条文化したもので、海外での日米同盟あるいは多国籍軍の戦争への参加という海外派兵と同時に治安出動の根拠とする条文である。これと関連して、自民党新憲法草案は、特別裁判所すなわち軍事裁判所の設置の規定を加えている。
 自民党安倍政権の改憲の狙いが、9条改憲によって、日米同盟強化し、共同軍事作戦への参加を可能にすることにあることは、同時に進められている集団的自衛権行使解禁に向けた賛成派ばかりの有識者懇談会の設置によっても明らかである。このような有識者懇談会の欺瞞的な議論もどきほど人を愚弄するものはない。反対派より賛成派が少し上回るようにするというこれまでの反対世論への配慮すらなく、初めに結論ありきのエセ議論で、世論を誘導しようというのだ。有識者懇談会が清算しようとしている集団的自衛権の行使が禁止されているという内閣法制局の解釈は、憲法9条を根拠にしている。9条を改憲せずに、国際法の適用として集団的自衛権行使が可能だということを安倍総理は主張して、改憲と切り離して、この問題を解決しようとしている。
 しかし、国連憲章は、国家主権の制限という観点を強く打ち出していて、集団的自衛権は、限定的な権利として認められているにすぎない。それと集団的安全保障の概念は異なるものであって、多国籍軍型の軍事行動は、こちらに入るのである。イラク侵略戦争で、米帝ブッシュ政権は、国際テロ攻撃に対する先制的自衛権行使であり、多国籍軍による軍事行動は集団的自衛権の行使というように正当化を図ろうとしたのだが、それは、安保理多数意見にはなれず、結局は、以前の国連決議に基づく、国連決議違反への制裁行為というところに軍事攻撃の正当性を求めざるを得なかったのである。今、国連安保理多数派は、米帝ブッシュの「先制的自衛論」を正当なものとして認めておらず、したがって、この理屈は、国連では通用しない。それは、日米同盟においてだけ、通用するだけなのである。第9条が、民主党の「憲法提言」が言うように、集団的安全保障の概念に対応していることは、「国連憲章」に明白である。結局、安倍自民党は、9条改憲と集団的自衛権を切り分けて、扱うことにしたわけで、二階建てに分けたのである。日米同盟の発動という事態と国連の集団的安全保障の発動という事態とを切り離したのである。その上で、自民党は、自衛権の発動というケースを重視し、民主党は、集団的安全保障の発動というケースを重視しているのであり、この点では両者は根本的に対立するというものではない。自民党新憲法草案でも、両方に対応するように条文が書かれているのである(i・iii)。
 また、「国民」の権利に関しては、第12条で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように」しろと、権利に対して義務を強調し、「公共の福祉」という表現が、「公益及び公の秩序」に変えられている。このような書き換えは、13条の個人の尊重の項目でも行われている。権利の限界が、「公益及び公の秩序」に変えられているのは、それらが、事実上、国益、国家秩序を意味するものであり、国家が権利・義務の内容と限界を定め、「国民」がそれに対して従うという「国=主」「国民=従」という関係にあることを表現しているものである。これで、国民の厳粛な委託によって行われるとされた国政の代理性が消えて、主権在民から、国家主権に移ることになる。自民党は、こういう変化を新しいとか時代の要請に応えているというのであるから、どうしようもないのだが、そうまでして、日米同盟の強化を、支配階級の自己防衛の手段としたいわけである。

民主党「憲法提言」と憲法観

 それに対して、民主党は、「憲法提言」で、i自立と共生を基礎とする国民が、みずから参画し責任を負う新たな国民主権社会を構築すること。ii世界人権宣言及び国際人権規約をはじめとする普遍的な人権保障を確立し、併せて、環境権、知る権利、生命倫理などの「新しい権利」を確立すること。iii日本からの世界に対するメッセージとしての「環境国家」への道を示すとともに、国際社会と協働する「平和創造国家」日本を再構築すること。iv活気に満ち主体性を持った国の統治機構の確立と、民の自立力と共同の力に基礎を置いた「分権国家」を創出すること。v日本の伝統と文化の尊重とその可能性を追求し、併せて個人、家族、コミュニティ、地方自治体、国家、国際社会の適切な関係の樹立、すなわち重層的な共同体的価値意識の形成を促進すること。の5点の基本目標を掲げている。
 その基礎にある憲法観は、「そもそも憲法とは、主権者である国民が、国家機構等に公権力を委ねるとともに、その限界を設け、これをみずからの監視下に置き、コントロールするための基本ルールのことである。同時に、これからの憲法を考えるに際しては、憲法のこうした固有の役割に加えて、憲法それ自体が国民統合の価値を体現するものであるとともに、国際社会と共存し、平和国家としてのメッセージを率先して発信するものでなくてはならない。未来志向の憲法は、国家権力の恣意的行使や一方的な暴力を抑制すること、あるいは国家権力からの自由を確保することにとどまらず、これに加えて、国民の意思を表明し、世界に対して国のあり方を示す一種の「宣言」としての意味合いを強く持つものである。そしてその構成は、日本国民の「精神」あるいは「意志」を謳った部分と、人間の自立を支え、社会の安全を確保する国(中央政府及び地方政府)の活動を律する「枠組み」あるいは「ルール」を謳った部分の二つから構成される」としている。
 憲法観が、自民党新憲法草案とまったく180°異なるものであることは誰が読んでも明らかである。しかし、民主党の憲法論も、ナショナリズムに立脚するものであり、そのために、国家の活気に満ちた主体性だの日本の伝統・文化の尊重だの重層的な共同体的価値意識の形成の促進だのという形で、自民党新憲法草案の憲法観を折衷したようなものになっている。
 そもそも、社会契約説的な立場から言えば、普遍的人権などの理念を持つ憲法は、普遍的価値の体現者としての国家という限定された主権としての国家の基本法であるにすぎないということになる。例えば、アメリカ合衆国憲法は、宗主国イギリスからの独立戦争をフランス革命の人権・自由・民主主義などの理念に影響されながら制定されたもので、革命的な憲法であった。ルソーは、「一般的意志」という普遍性に基づいてこそ、社会契約と国家の存在があると考えた。社会契約は、一般意志に対する宣誓なのである。したがって、people=人民としての精神と意志をうたった上で、その一部としての「国民」の「精神と意志」があるというふうにしないと、「国際社会」との平和共存ということが、しっかりと位置付かない。
 また、与党が強行成立させた改憲のための「国民投票法」については、「国民」の憲法制定権の行使がこれまで実現されなかったのに対して一歩前進であるという評価が一部で主張されているが、この場合、成立した「国民投票法」が、公務員・教師などの運動制限やマスコミ統制色が強いし、だいいち、それが在日外国人を排除したもので、人民投票ではないという問題があることを指摘しておかねばならない。この点では、改憲についての住民発議はどうかとか、いろいろと検討してみなければならない問題がある。「国民投票法」が、国会にのみ改憲の発議権を認めているのは、「国民主権」の在り方としては狭すぎる、等々。

グローバル化と憲法問題

 それに対して、日本共産党や民主党は、平和と民主主義を守れというスローガンを対置している。それが、既存の体制を守れ、現状を維持せよという保守的なスローガンにすぎないという批判が、保守「改革」派から浴びせられている。保守「改革」派は、社共は、労組などの支持団体の既得権益を守るために「改革」の足を引っ張っていると言う。それが、時代の変化に対応できなくなった古い憲法を擁護するという主張の背景にあるという。しかし、かれらのいう時代の変化なるものは、グローバル化ということであり、国際競争の激化に対して、労働条件の引き下げ、賃下げ、能力主義の徹底などの搾取強化の必要という大ブルジョアジーの新たな利害の登場ということである。かれらは、それに反対する者を、抵抗勢力とか既得権にあぐらをかいている者として批判しているのである。しかし、アメリカでもヨーロッパでも、新自由主義的なグローバル化に対する人々の闘いが発展していて、このような宣伝がそう簡単に浸透するような時代情況ではなくなってきている。フランス大統領に当選したサルコジ与党は、国民議会選挙で大幅に議席を減らし、社会党が躍進するという敗北を喫した。この選挙で、これまで、勢力を伸ばしてきた極右の国民戦線は議席を失った。
 保守「革命」は、既得権益の再配分のためのルール変更をするものである。それは、新たな利権の発生に帰結し、当然そこから排除されている人々の反発を引き起こす。
 例えば、それは、日本では、自民党農政への農民の不安・不満の拡大として表れている。そのことは、7月15日の『河北新法』の農民への世論調査結果に示されている。記事は、「参院選(29日投開票)で農業政策が主要争点に浮上する中、強固な保守地盤とされてきた東北の農村部で政党支持が流動化していることが、河北新報社が行った農業者アンケートで分かった。自民党への支持が5割強から3割に大幅に下がる一方、民主党は1割から2割に伸びた。農業の将来に、6割を超す農業者が悲観的な見方をしており、農政への不満が「自民離れ」に直結したとみられる」としている。サンプル数が少ないなどの問題があるが、「これまでの支持政党と、今回の参院選で支持する政党を尋ねたところ、自民党は55・6%から30・0%へと、25・6ポイントの大幅な低下。一方、民主党は10・6%から21・2%に上昇した。参院選での支持を与野党別で見ると、与党が30・9%、野党が24・5%だった」と、これまで強力な自民党の基盤だった農民の支持離れが進んでいる。自民党は、農業政策を公表して、農村票のつなぎ止めを狙っているが、今のところ、成功していないようだ。それは、すでに導入が進められている与党の農業政策の柱であった集落営農化が現場で混乱し、順調に進んでいないし、現場の農民に不安を与えているからである。自民党の農業政策では、集落営農が農業問題解決の切り札のように言われており、両者の意識の間に大きなギャップがあるのである。この集落営農化は、大規模農家が得をするようになっていることが明らかで、中小農家にとって魅力的な政策ではないし、かれらに離農を促すものである。それは誤魔化しようがないので、農民の自民党離れが進んでいるのである。新農政という新たなルールをつくって、利権を独占しようとしているのは、都市部であり、資本であり、グローバル化している大独占資本である。
 日本共産党は、「当面の民主的改革において、憲法の進歩的条項はもとより、その全条項を守るという立場をつらぬく」と主張している。第1章の天皇制の規定も守るということだ。それが民族民主革命と社会主義革命の二段階革命論に基づくものであることは言うまでもない。したがって日本共産党は、反改憲闘争でも、ナショナリズムの枠内に労働者大衆の闘いを押しとどめるもので、「労働者は祖国を持たない」と宣言した『共産党宣言』の言葉を空文句にしているのである。
 それに対して、中核派は、現憲法が、戦後革命の産物であるという正しい一面の認識を示しつつも、改憲阻止から革命へという道筋を描き、急進左派的な政策阻止革命論を対置している。改憲阻止闘争自体は、民主主義闘争であって、資本主義を打倒する革命運動ではない。もちろん、それは、階級闘争の一環として闘わねばならないものだが、そうするためには、共産主義革命の具体的中身を対置して、その下に労働者大衆を広範に組織し結集しなければならない。共産主義的意識性を持った労働者階級の形成と組織化が必要なのだ。それに対して、革命一般を対置するだけでは共産主義革命を発展させることはできないのである。
 9条のない資本主義国で資本主義が発展しているのであり、9条の有無が資本主義の運命を左右するというわけではない。9条は、階級闘争の具体的な条件の一つである。9条改憲が、治安部隊としての自衛隊の強化を意味することは、自民党新憲法草案が治安出動についての規定を新設していることで明らかであり、帝国主義戦争、侵略戦争への労働者大衆の動員や労働者階級の闘いに対する反革命攻勢、治安弾圧強化、労働者や被抑圧者への弾圧強化を意味することは明らかである。「海外で戦争をする国」にするためには、それにふさわしい国内体制―戦争に国民を動員する体制が必要」(日本共産党)であり、人々の権利制限と義務の強化が必要なわけで、そのことは、自民党新憲法草案にはっきりと表現されている。昨年12月に強行採決で成立した改悪教育基本法にもそれは記されている。
 イラク侵略戦争以来、アラブ系・イスラム系住民が、当局による不当拘束・不当取り調べ、監視などの人権侵害を受けたように、自由や民主主義は強く規制されるのである。厳しい手荷物検査や畿内手荷物持ち込み制限や指紋押捺などの規制をかけられたアメリカの人々は、テロ対策として仕方がないと答えることが多いのだが、それは、アフガニスタンやイラクという海外に軍隊を出して、攻撃しているから、それに対する報復があるのは当然だと考えているからである。相手をやれば、今度は自分たちがやられるという連鎖が続くということであり、米帝ブッシュは、「対テロ戦争」は終わりのない戦争だと述べている。そこに、日帝は、米帝側として参戦し、「応報」の連鎖に進んで入っていこうというのである。アメリカを直接攻撃するのが困難になると、今度は、同盟国イギリスがイスラム主義武装組織のターゲットになる。イギリスでの活動が難しくなれば、今度は、別の米帝の同盟国がターゲットにされることだろう。そのうち、米帝にすきが生じれば、今度は、米帝が攻撃されるだろう。イギリスは、この間、街に監視カメラが多数設置され、政府が密告を奨励する監視社会になっている。しかも、それは、移民などへの民族差別・抑圧を伴っているのであり、したがって、反戦運動は、民族抑圧・差別との闘いという国際主義的な闘いでもなければならないのである。それは、グローバル化の時代の帝国主義戦争ということからも、国際的な闘いとして、闘われねばならないのである。

9条改悪阻止闘争と共産主義運動の結合―9条改憲阻止を革命的スローガンとするために

 9条改憲を通じての日帝の参戦国化は、労働者大衆の自由・諸権利の剥奪・制限強化、「公」=国家のために命も捧げさせるという生存権の否定・軽視、抑圧・管理体制の強化、他民族への差別強化、恐怖支配への道である。9条改憲阻止の闘いは、戦争体制構築を阻止する闘いであり、国家権力のプロレタリア大衆の闘いや抵抗への弾圧強化との闘いであり、治安秩序強化との闘いである。それは、人々の自由と生存を守る闘いであり、グローバル化の中で、搾取・収奪を強化して、格差社会を固定し拡大する資本に対する国際的闘い、「ワーキング・プア」などの下層に追いやられ、周縁化され、差別化されている労働階層秩序を破壊する闘いと結びつける必要がある。それは、自民党新憲法草案通りに改憲されるとすれば、9条と25条との矛盾が深まることが明らかであることから、憲法改悪反対運動の課題として位置づける必要があるわけである。
 「9条改憲阻止の会」の闘いの中から、元全学連副委員長成島忠夫氏が、「9条ネット」から参議院選挙に出馬し、選挙戦を闘っている。それは上述したように、9条改憲が、日帝支配階級にとって、時代の要請として、自己の利害を図る上で、重要性が増しているからであり、グローバル化への対応として、必要とされていることに対して、議会政治の場において、これを阻止する闘いが必要になっているからである。それは、議会を神聖化し、議員特権の上にあぐらをかいて、与党と適当になれ合ってきた議会野党に対して、革命的議会主義による議会の利用という立場を意味するものでなければならない。国家装置としての議会(法措定暴力―ベンヤミン)を死滅させるには、大衆の統治機関をもって置き換える必要がある。それを代替するのは、グラムシの言うような工場・職場委員会と地域評議会という形、闘争委員会の連合評議会という形、イシュー毎の市民運動体の連合体という形、産別労組代表の全国評議会という形など様々な形やその複合という形が考えられるが、今の時点では、具体的なことはわからない。どの場合にも重要なのは、それへの住民の参加であり、住民による権力に対する監督の実行である。
 今9条改憲阻止の闘いで重要なのは、選挙も含めた運動の中で、大衆的闘争機関をどれだけ発展させられるかということである。できるだけ広範で持続的な闘争機関を作る必要があるということである。それは、当然、選挙の後援会組織だけを指すものではない。この動きの中で、ヘゲモニーを発揮するということだ。このようなヘゲモニーが階級闘争におけるプロレタリア・ヘゲモニーとなるためには、9条改憲阻止闘争とプロレタリアートの自己解放の闘いを結びつける必要がある。
 グローバル化への対応として、非正規労働者が全労働者の3分の1の約1700万人、「ワーキング・プア」の増加、格差社会化、失業者・半失業者、正社員労働者の間での階層分解、正社員の長時間労働、賃金低下、等々、生活悪化、生存の危機にまで追い込まれている労働者階級の状態からの解放ということと、9条改憲阻止=反戦を結び合わせることである。
 9条改憲阻止=反戦闘争は、米帝足下の反戦運動が、シーハンさんが「革命前夜」にあると評したように、帝国主義打倒の闘いへと発展してきていることへの国際連帯の闘いの一翼と自覚する必要がある。さらに共産主義運動は、日帝打倒の闘い、革命的反戦運動へと反戦運動を発展させていかねばならないのである。
 またそれは今日のグローバル化帝国主義と闘う国際戦線の一翼としての闘いとして取り組まれる必要がある。それは今日の民族国家に分断されているプロレタリアートの国際的結合を国境の廃止によって完全実現する闘いでもあり、世界統一共和制を経つつ、国家を死滅させ、そして諸自由で対等な共同体の連合体によって、その機能を置き換えていく闘いの一環でもある。国際反戦運動・国際的な労働運動の連帯運動、反グローバル化の国際共同行動等々における国際的な人々の結びつき、ネットワーク、共同行為等々は、その基盤となるものである。グローバル化は否応なく、世界の労働者大衆同士を混交させ、結合させる。ブルジョアジーは、一方では、経済的にはそうせざるを得ないのであるが、他方では、国民的生産力の総括体である国家の支配階級として、民族国家と民族主義の枠組みを完全に超えることはできず、労働者同士を競争させ、あるいは、分断支配するために、ナショナリズムを利用する。それは、ブルジョアジーが、国家暴力を自分たちの棍棒として、世界中で、プロレタリア大衆の階級闘争を鎮圧し、搾取・収奪秩序を実力で防衛する必要があるからである。そのためには、日帝ブルジョアジーは、米帝など他国の軍隊も利用して、自分たちの富の安全を守ろうとする。
 日帝足下では富裕層が150万人に増える一方、明日の仕事も確実ではない派遣労働者や長時間労働によっても生活保護費以下の稼ぎしかない「ワーキング・プア」やパート・アルバイト・臨時・派遣などの雇用労働者の約3分の1を占める千数百万人の不安定雇用層や少ない年金から住民税や健康保険税などを引かれて生活苦に陥っている年金生活者であるとか自立促進として支援を削られて生活困難に陥っている障害者であるとか、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』で「共産主義革命において、自分の鎖のほかに失うものはなにもない。プロレタリアが得るべきものは世界である」(新日本文庫93頁)と述べたとおりのプロレタリア・失業者・生活困窮者が大量に生み出されている。
 プロレタリアートの自己解放のために「世界を獲得する」共産主義革命を実現することが必要だという自覚が必要な時代である。飢えのない世界、労働苦の少ない労働社会、資本の価値増殖のための生産ではなく生活を目的とした生産社会、階級がなく差別がない自由と平等の社会、多様な生の肯定、個性の尊重、階級対立および階級対立をもつ古いブルジョア的社会に代わりに、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件である連合体」(同上75頁)、平和・・・の世界を実現すること。そうした新しい社会の萌芽、そして新しい人民権力の可能性は、反グローバル運動、国際反戦運動その他の諸社会政治闘争の実践の中に生まれている。それが、90年代の困難な時期を経て、今や世界で大きな勢力、力として、階級闘争構造を大きく動かしていること、その中で、資本のない新たな経済・社会・政治・文化等々の姿が構想され、議論されていることから学びつつ、共産主義運動は、新たな共産主義社会建設に向けて、政治社会闘争を発展させる必要があることは言うまでもない。
 当面、共産主義運動は、9条改憲阻止・反戦・反貧困・反差別・国際連帯・反グローバルの闘いの発展を促進しつつ、これらを共産主義革命へと発展させることを追求することである。それには、活動家との交流や共同作業、情勢や経済状況や運動内容などを分析・検討し、そこから、必要で適切な綱領・戦術・組織のテーゼやスローガンの内容を獲得し、それを表現し、提起する必要がある。例えば、反憲法改悪阻止闘争において、第1章を含む護憲のスローガンは、大衆運動の中でも、受け入れられくなってきている。 それから、「9条を世界へ」というスローガンは、帝国主義を打倒することなく、世界平和が可能であるかのような平和思想を表しているが、例えば、米帝に対して、合衆国憲法に9条を採用しろとアメリカの反戦運動が掲げるとすれば、その実現は革命なしには不可能だという意味では、革命的な側面を持ちうる。その場合には、それは、プロレタリア革命の諸内容と結合して掲げなければ、小ブル平和主義の限界内に止まり、夢想に止まることになる。世界統一共和国の下でなら、他の国からの侵略に備えて、自衛する必要はなくなるし、国際的なプロレタリア大衆の相互の信頼・友愛・絆の発展は、国家間の戦争や争い事を不可能にするのである。武装が必要なのはただ反動勢力やブルジョアジーの復活を目論む反革命や犯罪に対するものだけになり、多くは、共同体の事務に任されることになろう。そのためには、階級の廃止が必要であることは言うまでもない。・・・・。
 特定のスローガンを、超時代的な真理と見なすことは、弁証法的唯物論者たる共産主義者の見方ではないことは、1917年2月革命から10月革命にいたる過程で、「全権力をソヴィエトへ!」というスローガンを無前提な真理として扱うことなく、短期間のうちに状況に合わなくなったとして、掲げるべきではないと態度変更したレーニンの態度に明らかである(『スローガンについて』)。それは、アイルランド問題では、アイルランドの民族主義運動を支持・支援したマルクス・エンゲルスが、当時のポーランドの民族主義運動を反動として批判したことでも明らかである。民族運動を無条件に支持すべき超時代的真理として扱うのではなく、時代情況・階級階層関係の中で、位置づけ、評価したのである。反戦・平和のスローガン、あるいは9条改憲阻止というスローガンについても同じことである。その点に注意して、帝国主義批判、資本主義批判、グローバル化批判、反貧困・反差別、平等、自由、共産主義等々の革命的要求と結びつけて、9条改憲阻止のスローガンを掲げることである。




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