共産主義者同盟(火花)

安倍政権の教基法改悪・改憲策動をうち破ろう

流 広志
303号(2006年11月)所収


 安倍政権は、教育再生を最重要課題として掲げ、教育再生会議を発足させると共に、教育基本法「改正」案の成立を急いでいる。その与党の教育基本法「改正」案は、国家の教育への関与を強めることを狙った法案である。「愛国心」明記は、そのためのものである。自民党では、文教族のドン森元首相のような戦後教育からの脱却を狙う勢力が、国家主導の教育を求めてきたが、かれらは、教育委員会に指導・助言・援助するとされている現在の国家の教育行政権限のあり方に不満を持ち、日教組を排除して、教育現場の国家統制強化を狙っているのである。プロレタリア大衆は、安倍政権が最重要政策と位置づけて成立を急いでいる教育反動の総仕上げとしての、また改憲の道を掃き清めるための教育基本法改悪策動を、教育労働者と共同で粉砕しよう。そのために、まず、戦後教育史を簡単に振り返っておこう。

戦後民主主義教育

 敗戦後、GHQは、いわゆる「4大教育方針」を出した。それは、戦争責任を戦前の軍国主義と極端な国家主義イデオロギーに見て、その解体を主目的とするもので、天皇制温存のポツダム宣言に影響を与えたアメリカ国務省内の「日本派」の考えを反映したものであった。それは、(1)「軍国主義及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト・・・基本的人権ノ思想に合致スル諸概念ノ普及及実践の確立を奨励スルコト・・」、(2)に、軍国主義者と極端な国家主義者の教育界からの追放、(3)に、神道の国家の保護の廃止、教育の場からの追放、(4)「修身、日本歴史及ビ地理停止・・」であった。1946年、GHQは、第一次教育使節団を派遣を決定すると共に日本側でこれに協力する教育家委員会の組織を要求し、南原繁東大総長を委員長とする組織が2月7日に正式発足した。教育家委員会は、8月10日、教育刷新委員会に改組される。9月7日の第一回総会で、吉田総理大臣代理幣原国務大臣は、敗戦の責任を教育の誤りと述べ、形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式を否定し、「過去の誤った理念を一てきし、真理と人格と平和とを尊重すべき教育を、教育本然の面目を発揮しなければならない」と述べた。
 日本国憲法は、第26条で、「国民の教育を受ける権利」を規定し、1947年に憲法理念を実現するという目的を前文に掲げた現行教育基本法が、教育刷新委員会の草案をもとに成立する。この年、6・3・3・4制、教育の機会均等、男女差別の撤廃、教育行政の地方分権をうたった学校教育法が成立し、さらに教育委員会制度の設置と公選制を規定した教育委員会法が翌年に成立した。戦後教育の柱とされる教育三法が成立したのである。衆参両院で、教育勅語を否定する決議がなされ、ここに、戦前軍国教育の柱であった教育勅語が息の根を断たれた。

反動攻勢の始まり

 GHQの教育方針に対しては、文部省や政治家の間で、教育勅語を教育の淵源とする者からの抵抗があった。『読売新聞』は、GHQの新教育方針を歓迎し、戦前教育への復帰に強く反対する論調をはった。中国の国共内戦で、中共が優勢になり、アメリカが支援する蒋介石の国民党の敗勢が濃くなり、冷戦が本格化すると共に、アメリカで、レッドパージなどの反共主義の嵐が吹き荒れ、対日政策も、日本を反共防波堤とするものに変化し、教育政策も、反共的なものに変化した。日本でも、レッドパージが吹き荒れ、教員組合の活動への弾圧が強まった。そして、岸をはじめとするかつての軍国主義指導層との関係を強め、協力者とするようになった。息を吹き返した反動派は、アメリカの後ろ盾をえて、戦後民主教育体制への攻撃を開始した。
 1950年6月25日の朝鮮戦争開戦後の8月28日に、第二次米教育使節団が来日するが、その報告書は、教育投資論と人的資源開発論を提唱し、さらに日本を極東での最大の反共国家にするための日本人の啓発を教育の目的に掲げ、すでに多くの教員を組織していた日教組を無視して、独立した自発的教員組織が必要だと述べた。このようなアメリカの対日政策の変化に力を得た保守派が攻勢を強めた。自由党吉田茂首相は、再軍備の基礎を固めるべきだと述べた上で、「精神的には教育の面で万国に冠たる歴史、美しい国土などの地理、歴史の教育により軍備の根底たる愛国心を養わなければならない」と公然と語った。1952年には、「アジア同士を戦わせろ」と主張するアイゼンハワー大統領が誕生する。
 1956年、教育委員会は首長による任命制とになった。1958年には、小・中学校教育課程の大改訂が行われる。それは、道徳教育の徹底、基礎学力重視、科学技術教育の向上、地理・歴史教育の改善、情操教育、小・中の教育内容の整合化、教科内容の目標と内容の精選、基本に重点を置くこと、教育課程の最低基準を示し指導計画を研究・実施すること、等々を目的に掲げた。これらには、この間の中教審や文部科学省の教育改革案や保守派の主張との共通点が多くある。教育委員会の廃止論も出ていて、教育行政権を地方自治体が基本的に持つのか、文部科学省が持つのかという権力闘争があった。この時も、地方財政の悪化が深刻化していて、戦後の第一次町村大合併が行われた。もっとも、似ているといっても、この頃は福祉国家論に基づく国家教育権の強調であり、現在のような新自由主義的夜警国家論からのそれではないという違いがある。
 1958年の学習指導要領は、初めて10月1日付官報で公示された。それまでの学習指導要領は、著作物(著作権・出版権の対象)として扱われていたが、この公示によって、法的拘束力を持つ根拠とされるようになる。しかしそのことは、今度は、その内容について、憲法を頂点とする法体系の中で問われる対象となることをも意味した。旧教育委員会法では、「教科内容及びその取扱に関すること」を教育委員会が担当することになっていたが、教育委員会の発足後の日数が浅く、人的構成が不十分という理由で、当分の間、文部省が受け持つことにし、学習指導要領の作成を文部省が行うことは、あくまで臨時的措置にすぎないとされていた。ところが、この臨時的例外措置は、恒久化され、さらに、法的拘束力を持つとされたのである。
 この学習指導要領の法的拘束性についてのいくつかの判例が出ている。その一つが、伝習館高校事件の一審判決である。この判決は、学習指導要領の法的性格について、(1)すべての条項が法的規範のない指導・助言文書、(2)すべての条項が法的規範、(3)法的拘束力のある条項とそうでない指導・助言たる条項、という三つの解釈をあげ、(3)の解釈に立った。現在、学習指導要領に国歌・国旗の指導が明記されているが、それが法的拘束力を持つかどうかについて、明確な判例がなく、ただ『産経』などが、勝手に法的拘束力があるとする自説を主張しているにすぎないのである。その点で、先の東京都の「日の丸・君が代」強制・教職員処分に対して、違憲判決を出した東京地裁判決は、教育基本法の東京都の教職員処分を「不当な介入」に当たるとしたわけだが、学習指導要領の国歌・国旗指導規定の違法性、法的拘束力の事実上の無効性を宣告したという点でも、文部行政に強烈な打撃を与えるものとなった。

 このように、保守合同で自民党と左右社会党の合併で社会党が誕生したいわゆる55年体制以後、支配階級による戦後民主主義の転覆が進められてきた。その特徴は、一つには、福祉国家論からする国家・国民渾然一体化であり、福祉国家における国家の民主主義の役割を自由・人権を最大限に発揮するものだとして、教育への国家介入を正当化したことであった。その線で、文部省は、文部省→都道府県教委→市町村教委教委→校長→教職員という上意下達の体系をつくり、「特別権力関係論」で正当化した。「特別権力関係論」は、プロシャ(ドイツ)系の理論で、戦前日本で唱えられた理論であるが、それは、公務員の国や地方公共団体に対する勤務関係や国公立学校の学生生徒の在学関係などでは、法治主義が適用されない包括的な支配権の発動としての命令が可能とする理論である。また、国家を経営主体とし、教育委員会をその管理機関、学校長を経営の主体、学年主任や教科主任などを管理層ととらえる学校経営論が唱えられ、学校の企業経営化を求める声が強まった。文部省は、国家機能が警察国家から福祉国家に転化し、経済の自由競争から社会化への道が固められると、国家権力はいよいよ活動を旺盛にしなければらないと主張した。このような理論武装をした上で、文部省は、「職務命令」を奨励した。その結果、職員会議の形骸化と校長の「職務命令」が乱発されるようになったのである。

1970年代・80年代の戦後教育清算の動き

 1970代は、60年代末に学園闘争の嵐が吹き荒れたことから、大学管理の徹底がはかられるようになり、また「詰め込み教育」などが問題となって、1977年の学習指導要領改訂では、はじめて「ゆとり」教育が唱えられ、また、「君が代」を国歌と明記した。1979年に、共通一次試験が実施される。1980年の自民党文教部会の文教制度調査会の五つの委員会のテーマには、その後の与党・政府の教育政策の多くが入っている。大学・大学院改革、私大の共通一次参加、私学助成の見直し、教員の資質向上、教員免許基準の引き上げ、ペーパー・ティーチャー増加への対応、教員研修制度の改革、教育委基本法の見直し、教育委員会制度の見直し、6・3・3制の学制の見直し、科学技術教育や英才教育、などである。こうした自民党の動きに合わせるように、新学習指導要領の「日の丸・君が代」強制が強まり、愛国心教育や「ゆとり」時間を利用した郷土愛育成のための奉仕活動が行われるようになった。また、自民党が衆参同時選挙で勝利した後の80年1月から、自民党機関誌『自由新法』で教科書偏向批判キャンペーンが始まると、マスコミや文化人などのそれに呼応する動きが活発になった。その動きは、中曽根政権の誕生によって加速され、戦後教育の総決算路線が臨時教育審議会(1984〜87年)を通じて練り上げられ、後に、現在の「ゆとり」教育、6・3・3学制のなし崩し解体、中高一貫校導入等々として実現していった。この一環にあるのが、教員免許制や大学院大学や教育基本法での国家教育権の確立、教育の中央集権制強化、愛国心の明記、などである。戦後教育の柱である「国民の教育を受ける権利」(国民教育権)、地方分権主義、平和主義、教育の機会均等などが転覆させられていくのである。

90年代から現在

 1990年3月小渕政権下で組織された「教育改革国民会議」は、「教育を変える17の提案」を行った。その内容は、人間性豊かな日本人の養成、教育の責任を家庭に求めること、道徳教育、奉仕活動義務化、有害情報の規制、一律主義の脱却、個性重視の教育システム、創造性の強調、暗記力偏重の是正、大学入試の多様化、大学・大学院の教育目的をリーダー養成とすること、職業観・勤労観の教育、教師の信賞必罰の評価システム、地域との連携、学校・教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れること、コミュニティー・スクールの導入、私学設立の簡単化、教育振興基本計画の策定、教育基本法改「正」議論の活性化、等々である。「教育改革国民会議」は、なによりも改革のスピード・アップ、早期実現が必要だと主張した。世論対策という意味合いが強いことを当人たちが自覚していたのである。
 その後、小泉政権では、構造改革路線が教育分野でも貫かれ、「構造改革特区」での教育実験や競争原理の導入、多様化などが行われた。それが、社会格差を拡大したことは言うまでもない。その多くは、学力テストの結果を基準として学校間競争を促進するなどのサッチャー教育改革をまねしたものである。中教審は、その線に沿って、教員の待遇を成果で差別する給与制度、教員免許更新制、全国学力テスト実施、バウチャー制度導入などを打ち出した。そして、現在、安倍政権は、教育問題を最優先課題に掲げ、「教育再生会議」を発足させると共に、教育基本法改悪を急いでいる。それは、早期改憲に向けた露払いの狙いがある。
 現在の与党の教育基本法改「正」は、数十年にわたる戦後教育の転覆過程の総仕上げの意味を持っている。それは政治的で、自民党結党50周年に合わせて、法案化が進められたのである。それは、中曽根政治の実現であるわけだが、小泉前総理は、その純粋な実現を妨害した。そのために、民主党案と大した違いのないものとなってしまい、安倍総理も前文の書き直し発言をするなど、党内保守派すら満足できないような中途半端な法案になってしまった。そんなできの悪い法案に、民主党は、あわてて対案を出したが、それも、いい加減な法案だ。
 90年代長期不況下で、財界は、教育への能力主義の強化を求め、差別・選別の競争の導入を求めてきた。それが、経済界の言う教育多様化の本当の意味である。同時に、文部科学省は、学習指導要領での「日の丸・君が代」に関する表現を義務的な表現に改めて、愛国主義の強制を着々と進め、それに合わせて、「新しい歴史教科書をつくる会」をはじめとする右派・保守派文化人の「戦後民主主義」教育否定のキャンペーンが、90年代後期に本格化する。そして、右派の期待を受けた霊友会信者石原東京都知事下の東京都が、モラル破綻者米長邦雄ら札付きの右派を教育委員会に集めて「日の丸・君が代」の卒入学式での強制・処分を強行した。
 自民党の政治的都合で急いでいる教育基本法改「正」論議にうつつを抜かしている間に、中学生・高校生の「いじめ」自殺事件が相次ぎ、学校や教育委員会による隠蔽が明らかになり、さらには、高校必修科目未履修が発覚するなどの諸問題が起きた。これまで文部科学省は、「いじめ」自殺がここ数年ゼロであり、「いじめ」が減少してきたという統計を公表していた。このようなデータはまったく信用できない代物であった。そればかりか、教育改革タウンミーティングでは、教育基本法改「正」に賛成する「やらせ質問」を住民に依頼していたことが発覚し、文部科学省が情報操作を行っていたことが明らかになった。さらに、高校必修未履修問題についても、文科省が、4年前には大学生への調査でそれを把握していたにも関わらずなんら対応を取っていなかったことが発覚した。こんな規範破壊の文部科学省の権限を強化する教育基本法改悪は、「百害あって一利なし」。11・11教育基本法反対大阪集会3500人、11・12東京集会8000人の成功に現れたように、人々は、そのことに気づきはじめている。さらに、反対運動を盛り上げて、廃案に追い込もう。
 90年代以降の、教育改革論は、福祉国家論ではなく、新自由主義的な警察国家論と自由競争主義に基づいている。そのさきがけは、すでに1980年代の教育臨調路線に現れていたが、現在の、学校間競争の促進、成果主義・能力主義による学校評価や教員評価と信賞必罰制導入、公立学校の私学化、等々は、治安・防衛などの機能に特化した警察国家化とそれ以外の民間化という基調での教育改革論に基づいている。いうまでもなく、その模範となっているのは、今破綻しつつあるサッチャー教育改革である。90年代イギリスで、残虐な少年犯罪が多発して衝撃を与えたことは、記憶に新しい。学力主義・能力主義・成果主義のサッチャー教育改革は、地域間格差・階級階層間格差を拡大し、落ちこぼれ問題の深刻化やサッチャー自身は道徳を強調していたにも関わらずモラル低下を引き起こしたのである。すでに、日本でも、新保守主義的な教育改革策が実行された。その結果が、小学生の教師への暴力急増であり、「いじめ」の深刻化であり、都市部の中高一貫校との競争激化に対応しようとした高校必修科目未履修問題である。私立の中高一貫校は、「生きる力」「考える力」「ゆとり教育」をうたった現行学習指導要領を無視して、エリート主義教育を行っているのだ。文部科学省は、能力主義の線に沿って、1960年代に、不正が横行した全国学力テストを復活させようとしている。しかし、それは、福祉国家路線の下のそれではなく、新自由主義路線の下でのそれであって、イギリスで破綻したように、後追いの日本でも惨めな破産が避けられない。
 なお、バウチャー制度導入論者に典型的な教育の市場化路線は、たんなる夢想である。自由市場主義者の過去の有名な論客たち、例えば、ハイエクも、経済財の市場以外の自由市場化を唱えたことはなく、経済的市場の外では、市場とは別の原理が必要だと言っている。

教育基本法改悪阻止! 社会性を基本とする教育を!

 こうして戦後の教育政策をめぐる歴史を見てみると、現在の教育体系が、根本的な限界を迎えていることがわかる。おそらく、それは、サッチャー政権の直面したものと同根なのだろう。しかし、サッチャー政権では、教育の中央集権化の余地が残されていただけ、まだましだと言えるかもしれない。すでに、教育の中央集権化を実質的に進めきってきた日本の場合には、中央集権化の方向での改革の余地はかなり小さい。そういう状況の下で、「いじめ」自殺の多発や高校必修未履修問題が発生しているわけで、それだけ事態は深刻といえよう。上意下達の教育行政の中間官僚化されている校長が、この間の諸事件の発覚する中で、自殺するケースが相次いでいるのも、このシステムが生んだ悲劇という面があろう。それは、イギリスの場合は、権限と責任が拡大された校長のなり手がないという形で現れている。教育委員会は、積極的に動きたくとも、権限が、文部省や地方自治体に取られている。文部科学省は、都合が悪いときは、自分たちは、教育現場に対して、指導・助言・援助する立場でしかないと逃げる。また、文部科学省と地方自治体は、教育委員会から教育行政権を取り合う権力闘争にうつつを抜かしている有様だ。
 現場に近いところに権限を置かなければならないのは、教育が、教育主体に合わせて行われる必要があるからだ。教育の基本的な目的は、社会性の発展でなければならない。現在の資本主義体制では、能力を基準として、就業や収入のレベルが左右されるから、能力主義が基本とされている。資本制社会では、能力主義と社会性・共同性は相反するので、前者は、物質的生活の基準、後者は、精神的基準、と分けるしかなくなる。言うまでもなく、後者は、たんなるごまかしになる。それは、教育改革国民会議の以下の部分に明らかである。
 教育改革国民会議は、「豊かな時代における教育の在り方が問われている」として、「子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている。また、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている。/また、人間社会に希望を持ちつつ、社会や人間には良い面と悪い面が同居するという事実を踏まえて、それぞれが状況を判断し適切に行動するというバランス感覚を失っている」と、単純な正義感、現実と虚構の区別の喪失、社会には良い面と悪い面があるのに状況判断を誤るというバランス感覚を失う、という問題点を指摘している。全体に具体性がなく、よくわからない文章だが、最後の人間社会に希望を持つというのは、現存社会に希望を持つという意味だろう。これは、90年代の「失われた十年」の長期不況で、現存社会への希望を失うこと、つまり資本主義社会に絶望しないように呼びかけたものであろう。これは、この時期に、日本の支配階級が自信を失い、体制崩壊の危機感を強く抱いていたことを反映している。しかし、この時期に、単純な正義感に燃え、社会や人間の「悪い面」をなくすために、大勢の人々が立ち上がることはなかった。支配階級が、弱気になり、虚勢を張りながら、どうか、単純な正義感に燃えたり、現存社会の悪を追求せずに、希望を持ってくれと哀願している時に、共産主義運動は力不足だった。共産主義運動の主体再建を急がねばならない。
 現行教育体制が、デッド・ロックに突き当たっていることは、この間の事態で明らかである。教育改革国民会議は、2000年に、いじめ、校内暴力、不登校、などの諸問題が深刻化しているという認識を示していた。その後、文部科学省に報告されたのは、それらの諸問題が解決しつつあるかの如き虚偽のデータであった。これらの矛盾は、地下化、不可視化される中で、続いていたのである。それらは、現行教育体制では解決できなかったのだ。それを無視して、財界から強く求められている能力開発が、教育の中心課題とされようとしている。
 それに対して、プロレタリアートは、能力主義を粉砕し、精神的・幻想的ではなく物質的な社会性・共同性の発展という教育の基本目的を対置する必要がある。教育労働者の闘いが、政治的に規定された特殊な職分としての公務員という支配階級から与えられた規定を超えて、労働者階級として、他の領域の労働者との共通性・同質性に基づく連帯の基盤をつくり、階級としての労働運動の一環となることが、そのような教育目的実現のためにも必要である。
 人民の教育権の支配階級=国家による奪取、愛国心教育による幻想レベルでの精神的共同体への幻想的統合策動、実際には、搾取のごまかし、階級階層分裂隠し、支配階級の利害のために生命を捧げさせようという戦争動員策動、等々の狙いを持つ教育基本法改悪そして憲法改悪策動を粉砕しなければならない。世界の反戦運動、沖縄、岩国、神奈川等の反基地闘争など米軍再編成・日米同盟強化を粉砕する反戦闘争と結びついて、戦争動員を狙う教育基本法改悪・改憲策動を粉砕しよう。




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