共産主義者同盟(火花)

政府について(2)

齋藤隆雄
301号(2006年9月)所収


3.政府か国家か

 これまで、政府と言えば「プロレタリア独裁」という言葉が一人歩きして、革命後の残存するブルジョア勢力との格闘と外国からの干渉戦を遂行する軍事態勢の問題が先行して論議されてきた。主に、60年代までの政府論と言えば、これが中心である。
 70年代以降は、民主主義の問題が中南米の革命を巡って議論されるようになった。議会制や選挙制、多党制などいわゆるブルジョア民主主義への回帰と再論が新たな論議の中心であった。更に、これらの論戦に様々な潮流が参加するようになって、賑やかだが中心がはっきりしない様相を呈した。民主主義、政治、統治、自由、所有、コミュニケーション、性、多様性、マイノリティ等々の言葉が入り乱れて、意図するしないに関わらず、社会改革への道具立てが乱立した。
 実現すべき社会像を語るとき、現実の批判がそのまま根元的な改革構想につながる時代が過ぎて、国家や統治といった機能が政府や社会と入り混じり、相互の規定関係が混淆している時代になって、一つの現実批判が幾重にも重なった「構造」を問題にしなければならなくなった。そこで、我々が直面する課題は旧時代の革命観をその元々あったメッセージへと解体し、再構成することが必要となる。とりわけ、政治的と名付けられた批判とメッセージは今想像以上に多岐にわたる諸課題に絡め取られている。非常に困難な作業ではあるが、今最も求められているものであることは疑いがない。
 これから議論を進めていくために、いくつかの配慮すべき前提を最初に提示しておきたい。
 まず、シャンタル・ムフが次のように批判する矛先は我々に向けられたものであるということを確認する。
「たとえそうした(シュミット流の)民主主義への拒否が、たとえば60年代のニュー・レフトによって盛んに吹聴された『参加民主主義』の計画のように、まったく反全体主義的な立場に立つ場合であっても同様である。そのようなニュー・レフトの計画によれば、自由主義とは、たんに資本主義社会のもつ階級分裂を背後に隠蔽しただけの粉飾物にすぎない。彼らニュー・レフトにとっても、シュミットの場合と同様、諸党派と議会制システムは、真の民主主義的同質性を達成するうえでの障害物でしかない。同じような論調は、いわゆる『共同体論者』と呼ばれている論者たちが自由主義に向けて放った批判のなかにも見て取ることができよう。彼らもまた多元主義を峻拒することによって、有機体論的な共同体を夢想している。」(『政治的なるものの再興』p241)
 「民主主義」を巡る迷宮は、政府論や国家論と共にその現実のあるがままの姿で論じられようとする。民主主義が国家の権力構造を覆い隠すベールだとする一方で、真の民主主義こそが求められているとも言う。意思決定を巡る人類社会の経験の問題が、一つの言葉の中に詰め込まれていく。雑貨店の店先のような状況を我々はそのままで評論することが賢明とは思わない。
 今回、何故政府論に拘るのかはこれらの諸々の論議から一歩抜け出すためである。しかし、だからといって民主主義や国家の問題、あるいは政治一般の問題から解放される訳ではないことは自明である。論議の最後にはこれらの問題へと帰っていくことになるだろうが、国家と革命を実現すべき社会と同一線上で論議することからくる混迷を、整理できるだろうと考える。
 例えばここでつぎのように問題を考えてみる。
 労働者階級が主導権をもってブルジョア政権を打倒した、という想定である。当然膨大な数のブルジョア、小ブルジョア階級の抵抗に遭遇することは確実であり、それを押さえ込むためには暴力装置としての国家が必要となるという政治的流れは、現状から言えば自然である。そして、これは同時に革命が資本主義の不均等発展に規定されて、「国民国家」単位で起こると考えるのも自然であった訳で、ブルジョア国家群に包囲されている状況の中で、干渉戦も想定される。そのために、従来から民族主義が革命後に台頭するという矛盾と、それを利用しようとする誘惑に勝てないことも歴史的な事実であった。
 これらのことを一挙に解決しようとするのが、世界革命論である訳だが、この論の無理は世界革命の条件を明らかにしていないことである。国際労働者協会の歴史的歩みを考えれば、この条件を作り上げることの困難性は、一国の革命以上だと言えるかも知れない。
 そこで問題の枠組みを考えてみると、従来の「革命論」がある種の暫定的な条件を前提にして構成されていたということが分かるのである。国民国家という単位での政治的想定と世界資本主義社会という未知の政治的想定とが、いとも短絡的に結合していたということである。それは暫定条件とでも言えるものであって、おそらくは17、18世紀のブルジョア革命の進行過程を想定していたとしか考えられない。今日、この想定は無効であるということが明らかとなっているのではないだろうか。
では、「プロレタリア独裁政府」はどのような政府として構想することができるのだろうか。それはまず大前提として、先進資本主義国家群での革命がほぼ完了することが条件となって、実現すべき社会の構想が始まると考えるのが自然である。少なくとも、今日例えばOECD諸国の大半がプロ独政府となることで初めて社会主義経済の諸問題が論議の俎上に上ることになる、と考えるべきである。これを「革命の彼岸化」だと非難する人々もいるだろうが、確かにこれがかなりの長期の過程であることは自明であるとしても、それを言ったからといってそこへの過程を主観的願望で埋め合わせることの方が「彼岸化」だと反論しておこう。
 そしてこのことの確認の上で、プロ独の行政ルールを歴史的個別条件をある程度捨象した論議として始めるべきであろう。そして、それと同時に先ほど述べた「長い過程」の問題を別個に論議すべきである。これを混同すると、これまでのような実りのない議論が続かざるを得ないだろう。
 このことと関連して、先ほど出た『年誌』七号での伊藤一さんの『過渡期の社会性格について』は注目に値すると思われる。彼の論議は、革命直後の経済を資本主義経済として規定している。
 「政治革命によって踏み込む過渡期(労働者国家)を、質的な変革を終了した社会としてではなく、そのための条件を作った社会(資本主義の体制変革を推し進める課題をもった社会)として、すなわち、まだ資本主義を脱していない社会体制として、明確に捉えることが前提になります。」(『年誌』p.189)
 「労働者国家」として想定されている国家なり政府が、たとえば現代の中国やキューバを想定しているのか、あるいはもっと異なったものなのかは明らかではないが、少なくとも資本主義を変革しようと格闘する過渡的な時代として想定されていることには変わりない。
 しかし、ここまでの議論の中に於いてもおそらく山ほどの疑義が提起されるだろうと想像できる。特にその中で、本論のテーマである政府論に到っては、前提そのものを否定されるだろうと予想する。例えば、柄谷行人は最近の著書で次のように述べて、国家と政府とを区別している。
 「国家というものは何よりも、他の国家に対して存在しています。だからこそ、国家は内部から見たものとは違ってくるのです。市民革命以降に主流になった社会契約論の見方によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行されると考えられています。ところが、国家は政府とは別のものであり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべきです。」(『世界共和国へ』p113)
 国家と政府が異なる性質を持ったものであるということは、これまでも再三論じられてきたし、法理論上でも憲法と条約、戒厳令等の問題などでいわゆる社会契約論的な立論では矛盾する現実が存在してきた。そして、何よりも柄谷氏が言うように歴史的にも様々な分析がなされてきたことは周知である。しかし、この国家と呼ばれる存在こそが先に挙げた革命後の社会を語る上で常に立ちはだかっている存在でもある。
 では、国家が別物であるなら、政府は何かしら国民国家の内部から見た特殊な個別的な存在かと言えば、おそらくそうではない。なぜなら、国民国家としてある現状の世界が、国民国家相互の地域的個別性を払拭しようとしているからである。いわゆる、グローバリゼーションというものが、帝国としてのアメリカ政治経済の単一支配であると解しても、それが資本主義の拡張的な傾向の必然的な欲求であったとしても、政府間の相互の流通を促進し、阻害するものを除去しようとしているのは、何と何との間の闘争なのかと問われなくてはならないだろう。すなわち、人々が世界を我がものとして捉えようとする力は、たとえそれが政府間の個別の流通障害を取り払おうとする傾向であったとしても、また帝国的な利害を伴っているとしても、あるいは労働者階級が連帯を求めようとする動きであったとしても、押しとどめることができない。
 国家が果たしている上部構造としての独自の機構を、歴史的で地勢的な諸類型として分析することが革命理論にとって最優先の課題であるとすることの意味は、解体すべき対象物の正体を解明することにあるとするなら、政府問題はそれ以前の解体それ自体の手順の問題を含んでいることになるはずである。少なくとも、「社会主義国家」なるものが言葉の上でも存在する以上、如何なる政府を作るかを論議することはそれ程簡単なことではないとは言うものの、既に論議の俎上に乗っているはずである。国家が国家間の関係性の課題だとするなら、関係性の両極をないがしろにすることはできない。
 政府か国家かを巡る論議は、政府をどう作るかという問題なのか、国家をどう作るかという問題なのかと問えば、はっきりするのではないだろうか。我々にとって、国家は解体の対象ではあっても、実現すべき社会の中に組み入れる対象ではないはずである。国家を巡る論議は重要だが、今私が語ろうとしているのは、政府問題である。共産主義がまさに今ここで変革と実践の理論であるというなら、国家ではなく政府をこそまずは対象にしなければならない。




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