共産主義者同盟(火花)

靖国・愛国心・小泉政治を貫くエゴイズム批判

流 広志
300号(2006年8月)所収


 「意識の改革は、世人をして彼ら自身の意識に気づかせること、世人を彼ら自身にかんする夢から目を醒まさせること、彼ら自身の行動を彼らに明らかにすることのうちにのみ存するのです。私たちの全目的の存するところは、フォイエルバッハの宗教批判の場合にもそうであるように、宗教的および政治的諸問題を自覚的な人間的形式へもち込むこと以外にはありえないのです。/それゆえ私たちのスローガンは次のようでなければなりません。すなわち教義によるのではなくて、神秘的な、それ自身にとって不明瞭な意識―たといこのものが宗教的な形において現れようと、政治的な形において現れようと―の分析による意識の改革ということです。そうする場合には、世人が久しくある事柄について夢をもっていること、しかしそれを現実にもつためには彼らはそれについてのただ意識をもたねばならないだけだということが明らかになるでしょう。問題は過去と未来のあいだの一本の大きなダッシュにあるのではなくて、過去の思想の成就にあるのだということが明らかになるでしょう。結局、人間はどんな新らしい仕事を始めるのでもなくて、意識をもってその古い仕事をやり遂げるのだということが明らかになるでしょう。/したがって私たちの雑誌の狙いを一言に約するならば、時代自身がその闘争と願望についてはっきり理解すること(批判的哲学)ということができます」(『独仏年誌』「1843年の交換書簡」の「マルクスからルーゲへの手紙」『ヘーゲル法哲学批判等』国民文庫271〜2頁)。

 これは、ドイツでの政治反動が強まり、言論・思想の自由への抑圧が強化されたために、より政治的自由のあるフランスのパリに脱出し、そこで、新たな雑誌『独仏年誌』の発行を計画する中で、フォイエルバッハ、ルーゲ、バクーニン、マルクスの間でやりとりされた手紙で、『独仏年誌』に掲載されたものである。1844年3月、『独仏年誌』は、ルーゲと共同生活をしながら、パリで、合併号として発行された。しかしマルクスとルーゲは思想的に対立して、『独仏年誌』はこれだけで終わる。その後、『独仏年誌』に「国民経済学批判大綱」を寄稿したエンゲルスとマルクスの共同作業が始まる。
 ここでマルクスは、「問題は・・過去の思想の成就にある・・。結局、人間はどんな新らしい仕事を始めるのでもなくて、意識をもってその古い仕事をやり遂げるのだ」という最後まで持ち続けた基本姿勢を明らかにしている。『資本論』は、経済学批判という副題を持ち、古典派経済学の仕事を最後まで「成就」し、意識的にその古い仕事を仕上げようとしたものである。ブルジョア経済学の「成就」は、この党派の消滅を意味していた。すなわち、ブルジョア社会の解剖学である近代経済学は、ブルジョア社会の「成就」と消滅の萌芽を理論的にはらんでいたのである。だから、近代経済学派の中から、リカード派の一部、J・S・ミル、ケインズ派の一部、パレート、シュンペーター、ガルブレイスなどの「社会主義的」な部分が出てきたのである。
 この頃マルクスは、市民社会と政治社会の分離を、私有・エゴイズム・個人主義などの共同体からの人間の分離(私人化)と精神的な公民の幻想的類的共同体としての政治社会・国家共同体の分離ととらえた。政治国家の方は、一見すると市民社会に対して、類的共同体というエゴイズムの反対物のような幻想形態を持っているが、実際には、それはエゴイズムの精神的形態にすぎず、私人のエゴイズムの物質的形態と支え合っている。すなわち政治国家は、エゴイズムの夢の類的共同体なのである。そこで、夢の類的共同体ではなく、意識の類的共同体が、市民社会の物質的形態として、実現されねばならないことになる。なぜなら、類的共同体が、政治社会・国家の幻想形態としてしかないならば、市民社会におけるエゴの闘争(万人に対する万人の闘争)は解消せず、ただ夢の類的共同体としての国家が、官僚制度として、エゴイズムを支えることで、逆に市民社会をエゴが衝突し続ける闘技場として強化するだけだからである。公民は、夢の類的共同体を精神的に獲得するだけである。それは、ユダヤ教が市民社会の原理としてのエゴイズムと商人の幻想形態へと転化するのと同時にキリスト教が精神的国家の原理へと転化して、お互いに補い合うようになったことを意味する。
しかし、それは、アメリカが典型であるように、国家が政治社会として特定の宗教から解放されると同時に市民社会も特定の宗教から解放されることによって、政治社会と市民社会との分離と結合が完成するところにまで進んでいく。
 「ユダヤ教は市民社会の完成とともにその頂点に達するが、しかし市民社会はキリスト教世界のなかではじめて完成する。あらゆる民族的、自然的、習俗的、理論的関係を人間にとって外的なものたらしめるキリスト教の支配のもとでのみ、市民社会は国家生活とすっかり切れ、人間の類的絆をずたずたに切り裂き、これらの絆に代えるにエゴイズム、利己的必要をもってし、人間世界を原子論的な、相互に敵対し合う個人たちの世界に解消することができたのである」(「ユダヤ人問題のために」同上323頁)。「キリスト教的な浄福エゴイズムは完璧に実践に移された場合には必然的にユダヤ人の肉体エゴイズムに豹変し、天国的必要は地上的必要に、主体主義は私利に豹変する。われわれはユダヤ人のしぶとさを彼の宗教から明らかにするのではなく、むしろ彼の宗教の人間的な土台、実践的必要、エゴイズムから解き明かすのである」(同上324頁)。
 問題は、市民社会のユダヤ人的狭隘さであり、エゴイズムであって、それが解消されるとユダヤ人はその対象を意識から失うので、ユダヤ人というものはありえなくなる。マルクスは、市民社会の解剖学である経済学批判の作業を通じて、市民社会の原理としてのエゴイズムが資本主義的生産関係という物質的関係の反映に他ならないことを解明していく。
 「公民の権利(droits du citoyen)と区別された人間の権利(droits de l'homme)、いわゆる人権なるものは市民社会の成員、換言すればエゴイスト的人間、人間からまた共同体から切り離された人間、の権利にほかならぬ」(同上304頁)のであり、「市民社会の成員であるような人間が本来的な人間とみなされ、公民(citoyen)と区別された人間(homme)とみなされる。なぜならそのような人間は感性的な、個体的な、もっとも卑近なあり方における人間だからであり、これにたいして、政治的人間は捨象された、作りものの人間であり、一個の比喩的な人格、精神的意味での人格としての人間だからである。現実的な人間はエゴイスト的個人の姿においてはじめてみとめられ、真の人間は抽象的な公民(citoyen)の姿においてはじめてみとめられる」(同上312頁)。したがって、「政治的解放は人間を、一面においては市民社会の成員、エゴイスト的な独立的諸個人へ、他面においては公民、精神的人格へと還元することである。/現実的な個体的人間が抽象的な公民を己がうちへ取り戻し、個体的人間として彼の経験的生活のなかで、彼の個人的労働のなかで、彼の個人的境遇のなかで類的存在者となったとき、人間が彼の「固有の力」(forces propres)を社会的な力とみとめてこれを組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の姿において己から分離することをしないとき、このときにこそはじめて人間的解放の成就があるのである」(同上313頁)。
市民社会と政治社会の分離が、エゴイスト的私人と精神的人格たる公民へと人間を引き裂いたのであり、それから解放されるには、これらを社会そのもののうちに統合することが必要なのである。人間の公民化は、精神的想像的なものであるから、宗教においても行われる。しかし政治的解放がなされたところでは、それは市民社会での私事として行われる。宗派は、いろいろな宗派のうちの一つにしかなれない。
 例えば、イスラエル人は、エゴを自制して、他民族と共生する民族共生国家を実現できなければ、パレスチナ人が滅ぶか自分たちが滅ぶかの「最終戦争」から解放されることはできない。ガザとレバノンでの非戦闘員の大量殺害は、明らかに、他民族抹殺(ジェノサイド)の思想を行為で表している。パレスチナの地において過去のイスラム教徒・パレスチナ人・アラブ人との共生の過去の歴史経験とそれを反映した過去の思想があるのだから、それを現代の諸条件に合わせて意識化して、成就することだ。ユダヤ教を国教的地位から追放し、国家を事実上の国教=ユダヤ教から解放し、完全な世俗国家として、すべての宗教の特権を廃し、ユダヤ教を他の宗派と対等な地位にすることである。イスラエルは、パレスチナ人への民族虐殺攻撃を止めろ!

靖国問題を貫くエゴイズム―首相の靖国参拝反対!

 靖国神社は、戦前は、国教制度があったために、そのスタッフは公務員であり、国営神社だった。それが戦後GHQの政教分離策によって、一宗教法人となった。自民党は、1969年から数度にわたって、靖国神社国家護持を目的とする靖国神社法案を国会上程し、5度目の1974年には衆議院で強行採決しながら、参議院を通過させられず、ついに成立させられなかった。その原因は、遺族会と靖国神社が、靖国の宗教性が消されることに反対だったからだという。さも新しそうに麻生外務大臣が持ち出してきたのは、この靖国国家護持論で、何十年も前の自民党の靖国神社法案である。
 1978年10月、松平宮司が密かにA級戦犯合祀を行った。「富田メモ」から、1975年以来、昭和天皇が靖国参拝を取りやめた理由が、この合祀にあるとも言われている。『東京新聞』は、1944年7月15日付「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」で「戦役勤務に直接起因」して死亡した軍人・軍属に限るとするという東条英機名の靖国神社合祀基準が決定され通達されていたと報じた。「文書は、靖国への合祀は「戦役事変に際し国家の大事に斃(たお)れたる者に対する神聖無比の恩典」と位置付け、合祀の上申は「敬虔(けいけん)にして公明なる心情を以(もっ)て」当たるよう厳命。原則として戦地以外での死者は不可としている」。「文書は、戦死者、戦傷死者以外の靖国神社への「特別合祀上申」対象者として(1)戦地でマラリア、コレラなどの流行病で死亡した者(2)戦地で重大な過失によらず負傷、病気の末に死亡した者(3)戦地以外で戦役に関する特殊の勤務に従事し負傷、病気の末に死亡した者−の三つの要件に限定。「死没の原因が戦役(事変)勤務に直接起因の有無を仔細(しさい)に審査究明すること」を命じている」。この基準からすると、東条英機はもちろん他のA級戦犯も基準外である。A級戦犯合祀の際には、靖国神社は、新たに「昭和殉難者」という規定を設けて、そこに彼らを入れたのである。
 もともと、神道には決まった教義などなく、明治の神社統廃合の際には、祭神の廃止や統合、入れ替えが行われた。戦後の宗教法人法で宗教法人の要件として教義が必要とされたのである。また、かつて戦死者として合祀された小野田寛郎らを生還後に霊爾簿から除いた。A級戦犯合祀は、故松平宮司の「東京裁判史観を否定しない限り、日本の精神復興はできない」(8月9日『毎日新聞』「靖国」4「戦後からどこへ」)とする個人的信条から行われたものだが、かつての陸軍省官吏時代の国営靖国神社の合祀基準は、事実上廃止され変更されたのである。かつては、国教制度の下、神社神道は宗教にあらずとして、国家護持されていた。戦後は、他の宗教宗派と同格となり、宗教法人法上の宗教法人になった。
 仏教58宗派などで構成する「全日本仏教会」が「憲法に定める信教の自由、政教分離の原則に違反することは疑いの余地がない」「戦没者の追悼は国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきだ」として、靖国公式参拝に反対する要請書を1968年以来出し続けてきたが、今年も8月4日、「全日本仏教会」は、29回目の首相の靖国神社公式参拝をしないように求める要請書を鈴木政二官房副長官に手渡した。「真宗教団連合」も同日、首相あての靖国公式参拝中止の要請書を提出した。これらの仏教団体下の門信徒は数千万人。「全日本仏教会」は、仏教界のかつての戦争協力を反省し、このような行動を行っているのである。靖国神社が一宗教法人にすぎない以上、当然の訴えである。また、靖国思想は、霊に上下はないとしているが、これは、生きているうちは不平等で、あの世では平等というだけの欺瞞的思想である。
 小泉総理があくまでも自らのエゴを通そうとするなら、外交上問題があるばかりではなく、エゴイズムを政教分離などの公法の原理より優先することによる問題も生じる。靖国思想は、軍国主義思想であり、国のために戦死した者を霊の中でも特に優れた「英霊」として他の霊の上に置いて差別する思想である。それは、軍人を一般の人々より上に置いた戦前の軍国主義体制の現実を観念として反映したものだ。首相は靖国参拝すべきでない。

小泉的なエゴイズム=愛国心幻想の解体・共同体という代案

 小泉政治は、市民社会的原理であるエゴイズムをあからさまに国家の原理として宣言し導入した。小泉首相自身が、私人的でエゴイストであることをそのまま政治において表現した。彼は、靖国神社参拝は、自分の私的な心にしたがったエゴイスティックな行為であり、そういうエゴに干渉することを批判する。市民社会のエゴイズムに対しては、政治が制限を設けており、それと衝突すれば、私人のエゴイズムは無となる。国家の最高位にある公人である総理大臣が、政治社会において、公然と私人としてエゴイズムの原理に従うとなれば、国家の共同体的精神性は損なわれる。結局、小泉首相は、揺れ続ける他はなかった。
 小泉政治の5年間は、このエゴイズムをむき出しにする私人性が、市民社会のエゴイズム原理と合致したので、高い支持率を得てきたのだが、それによって、公私の区別は曖昧になった。その結果、政治社会と市民社会の分離が崩れ、私利追求の暴走に歯止めがかからなくなり、混乱と無政府状態に陥りつつある。市民社会でばらばらの個人が私利を追求してモラル崩壊を起こしているのと同じく政治社会・官界もそうなりつつある。私利を追求するエゴイストたちが、お互いにだまし合って相手をけ落とそうとし、出し抜こうとする競争に走り、手段を選ばぬモラル崩壊を蔓延させる。8月12日の『産経新聞』の「昇進のためなら友でも泣かす・・・・米国サラリーマン」という記事は、そのアメリカの例を示している。すなわち、「自分の昇進のためなら、親友の同僚さえクビにしたい−。米経済誌ビジネスウィークが11日までに発表した調査結果で、米国人サラリーマンの激しい競争意識が浮かび上がった。/昇進のためには親友でもつぶすと答えたのは回答者全体の22%、高所得者の中では3割に上った。 /高収入で若い男性ほど、競争に勝つために情け容赦のない考えを持っていることが分かった。/ 35歳以下の回答者の半分が、会社で能力が低い順に1割を毎年クビにすればいいと思っている。回答者の66%が、まあまあの能力があり、強い競争心を持つ人が昇進する、と考えている。 /米国では、人一倍努力して競争に勝てば「アメリカン・ドリーム」を実現し、豊かな生活が得られるという考え方が定着している。/ 同誌は2500人の会社員を対象に調査を実施した(ニューヨーク 共同)」。ハリウッド映画では、よく友情に高い価値を置いて描かれるが、それは精神的な理想型にすぎないわけだ。映画館の外では、親友をもけ落として自分だけが勝ち上がりたいと考える者が多いというのである。
 それに耐えられなくなり、自分を支配するエゴイズムに嫌気がさすようになった人の中には、精神的幻想的な抽象的な政治的人格である公人を目指すか、あるいは宗教に惹かれる者も出る。しかし、前者は、すでに、小泉政治によって、もう一つのエゴイズム原理の政治社会的人格に過ぎなくなっている。宗教カルトは、この間起こした諸事件によって、儲けあくどい宗教商売であることが暴露され、やはりエゴイズム原理の支配するところでしかないことが暴露されてきた。
 今、多くの人々は、様々な形で、エゴイズムからの解放、そして人間解放を求め、実現を望んでいるが、それを満たすものがない。
 現在の小泉構造改革政治は、その正反対である。その代替案は、「過去の思想の成就」であり、「意識をもってその古い仕事をやり遂げる」ということにある。つまり、共同体についての思想、共産主義の思想は、すでに過去の思想として存在し、それを意識を持って成就することが必要なのであって、生産力と物質的諸条件がすでに存在する先進資本主義社会においては、なおさらそうなのである。
 小泉政治によるエゴイズムの全面的解放は、人々の卑近で汚らしい社会的欲望をかきたてた。政治がそれをおおっぴらに奨励したので、「金儲けの何が悪い」とホリエモンは叫んだ。それは、貨幣が、手段ではなく、自己目的化するという価値転倒の表明、自己増殖する貨幣G―G’の物神崇拝の信条告白である。貨幣を増やさない者は、無能力者とされる。しかし、それは、貨幣(G−G’)に使われているだけだ。富者は、社会があって自分があるのではなく、自分のために社会があるのだと妄想する。しかし、分業と協業という形での結合労働、株式資本の形成による結合資本の形態の発展、交通の発展、等々の社会的結合関係の進展によって、市民社会のエゴイズムの原理は、幻想の領域へと追いやられつつある。人々の生活は、切り離しがたく相互依存し結びついているのに、頭にはそれを反映せずに、かえって、他者との疎遠な関係を表すエゴイズム精神・思想に支配されている。エゴイズムが完全成就するのは、夢の中でだけである。夢から覚めて、現実を現実として意識に反映してみれば、エゴイズム=市民の愛国心という空想の独立国家は蜃気楼のように消失する。現実的な共同体的関係こそが、真の人間的紐帯である。資本制社会以前に、共同体は長く存在してきたし、その思想も存在してきたのである。だからあとは、それを意識として形成し、共同体形成の仕事を実際に成し遂げることである。そして、「時代自身がその闘争と願望についてはっきり理解すること(批判的哲学)」であり、時代のイデオロギー諸形態における対立(法律的・政治的・芸術的・哲学的・宗教的等々)が、どのような闘争と願望の反映であるのかを意識化することである。




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